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神殺しさまの謀略  作者: 百華あお
第二章《魔王の花嫁》
19/19

 ← 愛憎の記憶


 ――随分と、昔の夢を見ていた。




「神威、あたくしの、かわいい神威」


 そう言った女の赤い唇が幼子の輪郭をなぞる。

 毛布にくるまった幼子は、女の腕に抱き締められ、幸せそうにすやすやと寝息を立てていた。


「貴方のことだけは、何があっても、あたくしが――」


 女の細腕に込められた力が強くなる。まるで、《母親》という生き物の本能を示さんとばかりに。

 ただただ強く、抱き締めていた。

 腕の中で眠る、愛しい息子を守るために――



 それが《僕》の、この世での最初の断片的な記憶。







 ◇◆◇◆◇◆◇







「あれ、マーくん、こんなところで寝ちゃってる」


 神名は呟いて、空っぽの洗濯籠を床に下ろした。洗濯物をかけ終えて団欒の場となった居室に戻れば、そこにはソファーの上に横たわったこの城の主が一人。他には人もなく、規則正しい寝息だけが部屋に響いていた。

 洗濯物を干しに行く前までは起きていたのに……。少し横になるつもりで、そのまま眠ってしまったのだろうか。何も掛けずに寝ているものだから、風邪でも引いてしまいそうだ。

 これからすぐに部屋の掃除に取り掛かる予定だったが、このままではきっと寒いだろう。神名はすぐに部屋の奥のタンスから大きめの毛布を引っ張り出して、神威のところまで持ってきた。そしてそれを神威に掛けようとして、


(あれ……?)


 すぐ脇のテーブルに、何かこの場にそぐわないものが置かれていることに気が付いた。

 見れば、それは本――しかも開きっぱなしの絵本であることが分かった。子供向けの絵本。淡いパステルカラー中心の彩色は、こんなに綺麗な装丁ではないが神名も何度か見たことがある。


(これ、マーくんが読んでたのかな……?)


 神名は首を傾げた。彼が、これを? いや、もしかすると《彼》の方ではないかもしれない。数十分前に神名が会話していたのはたしかに赤い瞳の青年だったが、そのあともう一人の方が出てきたのかもしれないと思った。……どちらにしたって似合わないような気もするが。

 開いたままの絵本には、左側のページにオレンジがかった赤の夕焼けが描かれ、右側のページには夜に落ちかけた群青に近い青の空が描かれていた。

 まるで彼の瞳の色みたい、と神名はその絵を人差し指でなぞりながら思う。

 綺麗な色だ。一体何の絵本なんだろう、どうしてこんなものを彼が? そう思ったところで、ふと、そのページの真ん中に記されたひとつの文章に目が落ちた。



【そうして悪魔は、空に帰っていきました。】



 紙の上を滑っていた指がぴたりと止まる。神名の目は、その一文に釘付けになった。

 ――悪魔……?

 絵本などあまり馴染みのない神名だが、しかし、それは異様なもののように思えた。本来子供に読み聞かせるための物語、それに悪魔だなんて。

 ……いや。もしかしたらこれは悪魔をやっつける話なのかもしれないし、神名はいい鬼が出てくる話をどこかで読んだことがある。そういう類の話なのかもしれない。

 かぶりを振って、神名は絵本から目を離した。それよりも傍らで眠る青年がかすかに身じろぎをしたのを感じて、慌てて毛布をかけてやる。


 安らかな寝顔だ。


 こうして見ると、本当に弟みたい――神名はそんなことを考える。

 眠っているのは、一体“どっち”なんだろう? 瞼を閉ざし、口を閉ざしたままならば、神名にそれを知る術はなかった。それとも、寝ている時は、彼の中の二つの人格に区別などないのか。


(――でも、どっちにしたって)


 神名の恩人であることには変わりない。恨むべきかもしれない、けれど、むしろ感謝をしたい人。今は、風邪を引かないでくれれば、それでいい。

 神名は一人そんなことを考え、微笑んで毛布から手を離し立ち上がった。


 ――いや。正確には、立ち上がろうとした、だ。


 しかしその瞬間、前方から加えられた強い力に引き寄せられるようにして、神名は毛布の上に倒れ込んでいた。


「えっ……!」


 柔らかい毛布の感触を頬に感じて、ようやく神名は気付く。――腕を引っ張られたのだ。

 慌てて身体を起こそうとするも、神名の腕を引っ張った大きな手は既に神名の背中に回されていて、起き上がろうにも起き上がれない。


「ま、マーくん……?」


 ――それとも、カーくん?

 もしや、彼は最初から起きていたのだろうか。起きていて、わざと神名に悪戯しようと寝ているふりをしていたのだろうか?

 赤瞳の青年が無邪気な声で「引っ掛かった」なんて笑うのを待っていたが、しかし頭上からは一向にその声は降ってこない。……では、寝呆けているのだろうか。

 神威が避けてくれないことにはどうしようもなく、神名はただその状態のまま身体を強張らせていると、しばらくの沈黙のあとに、聞き慣れた声で一言だけ降ってきた。


「……母さん……」


(えっ――?)


 それは、どちらの声だったのだろうか。赤瞳の青年のものにも、碧眼の青年のものにも聞こえる。つまり、どちらの声なのか、神名には判別することはできなかった。唯一分かったのは自分が余計に混乱しているということだけ。

 神名を抱き締めた腕の力は弱まることなく、神名は相変わらず神威の胸の上に突っ伏した状態で、ただ彼の鼓動を聴いていた。


(夢を……見てる、のかな……?)


 神名は思う。だとしたら、その夢は一体どのようなものなのだろう。少なくとも神名が知っている彼の一面ではない、それ。彼の口から初めて聞いた言葉……。

 ――触れたい、と神名はふいにそう思った。

 けっして触れることのできなかったこの人の記憶に、弱さに、触れたいと。それは半ば、抗いがたい衝動であるかのように。

 少しだけ顎を持ち上げ、神名は神威の頬に触れようとおそるおそる手を伸ばす。

 ――もう少し。もう少しで届く。慈しむように、いとおしむように……。


「あーっ!!! 何してるんスか、神威さん!!」


 しかしそこでいきなり飛び込んできた大音量に、神名は思わず手を引っ込めた。

 ――甘楽……、さん?

 わずかに顔の向きを変えて入り口の方を見やれば、予想通りの人物がそこに立ち尽くしている。相変わらず見えているか見えていないのかも分からない糸のような細い目だが、ばっちり見られてしまったのだろう。

 見られた。この、状況を。


「えっ、あの、これは……!」

「何やってんですかセクハラですよ神威さんとっとと神名さんを離してあげてください!」


 しかし神名が弁解するより前に、というか弁解をまるで聞かずに、甘楽はずかずかと大股で部屋を横切ってこちらへとやってくる。その言葉は、どう控えめに解釈しても神威が悪いことを前提にしていた。

 違うのに、と思う神名の声は彼に届くことなく、甘楽は神威の耳元で叫び出す。


「か、む、い、さん!」

「あー……?」


 神名の下で、もぞりと動き出すその人。夢の世界から意識が浮上したらしい。起こしちゃった、と少々見当違いな感想を抱く神名のことも気にせずに、見慣れた赤い瞳がゆっくりと開かれた。


「うるせえ甘楽、俺の睡眠を邪魔すんじゃ――」


 そして刹那、その瞳と神名の瞳が交差する。


「っ……!? い、う、あ、あ、か、神名!?」

「え……と、おはよう? マーくん。起こしちゃってごめ――」

「うわああああああっ! すまん! 悪かった神名!」


 神名がすべて言い終える前に、神威は絶叫して神名を離した。ようやく解放され、ほっとしたのと複雑な気持ちになりながら、神名は起き上がる。――そんなに重かったかな。

 しかしそんな神名の気持ちなどやはりつゆほども知らず、神威は不審な様子でソファーから跳び退くと、傍にいた甘楽の肩を揺さぶり始めた。


「甘楽! お前、いいところに!」

「はっ?」

「俺を殴ってくれ!」

「え、神威さん、何言って――」

「じゃなきゃ俺の気が収まらん! 頼む、殴れ!」

「えっと……じゃあ、遠慮なく」


 響く派手な打音。明らかにおかしなやりとりが目の前で繰り広げられているにもかかわらず、神名は咎めることも笑い飛ばすこともせず、ただそれをぼんやりと眺めていた。


「いてえな! 何すんだ甘楽!」

「えええええ!? 殴れって言ったのあんたでしょ!? なんて理不尽な!」

「それはそれ! これはこれだ!」


 放心状態、とでも言えばいいのだろうか。ぼんやりした世界の中で、心臓ばかりがうるさく音を立てて、現実から離れていきそうな意識を引き留めている。

 うるさいほどの鼓動。

 しかしそれは、けっして異性に抱き締められたからなんて甘い理由からではない。もっと違う、もっと異質な心臓の高鳴りだと神名は自覚していた。なぜなら。



『……母さん……』



 ――あの時触れた温もりは、まるで、家族のもののようだった。


(どうして……)


 自分の胸に手を当て、神名は静かに息をつく。

 瞼を下ろせば、黒髪と赤瞳を持ったまるで知らない少年が見えた、ような気がした。

 ……どうして。全然、知らないのに。

 小さなその子を抱き締めた感触が、温もりが今も腕に残っている。その全てを愛した気持ちが、心に傾れ込んでくる――。

 知らない記憶。覚えのない感情。

 騒いでいる二人をぼんやりと眺めるともなしに眺めながら、神名は神威に“呼ばれた”瞬間に思いを馳せてきた。

 母さん、と呼ばれたあの時、わたしは――


『神威』


 慈しむように、いとおしむように抱き締めてあげたい。

 誰よりも愛したあの子を二度と離れられないほど強く抱き締めてあげたい、と、そう思ったのだ。



「……さん、神名さん?」

「――え?」

「大丈夫っスか? そんなに神威さんに抱き締められたのがショックで……」


 ふと気が付けば、甘楽が心配そうに神名の顔を覗き込んでいた。

 心配されている。それを理解した神名は慌てて笑顔を作ると、それを甘楽と後ろでおかしな踊りを踊っている神威に向けた。


「わたしは大丈夫、です。あの、ちょっとぼーっとしちゃって」

「え、それはまさか、恋」

「神威さんは黙っててください!」


 そうしてまた額を突き合わせてケンカし出す二人を見て、神名は思わず本当の笑みをこぼした。――ああ、いつも通りの光景だ。

 それを見ると何故かほっとして、胸のあたりが温かくなるのを感じる。


(……うん。わたしは、大丈夫)


 先程までの奇妙な感覚はもうなく、神名はかぶりを振って立ち上がった。

 まだ部屋の掃除も残っているし、こんなところでへたり込んでいる場合ではない。

 ……大丈夫。神名は自分にそう言い聞かせる。神威を見ても、もう平気だ。神名にはもう、先程までの強い感情は蘇らなかった。



『あたくしの、神威――』



 あの、執着によく似た愛情も、心臓が凍るほどの憎悪(・・)も、もう――





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