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神殺しさまの謀略  作者: 百華あお
第二章《魔王の花嫁》
17/19

 → 氷の深窓令嬢

お久しぶりです。

……覚えているでしょうか。白邪です。

受験を終え、ようやくの復活です。


パソコンの方は残念ながらまだ復活していないので更新速度はあまり速くはないですが、改めてよろしくお願いします。

五月七日(ツユリ)ちゃん、っていうんだ!」


 歌うように跳ねる声音。

 今までこの城で過ごしてきた間聞いたことがないほど、神名が声を弾ませる。


「めずらしい名前だね。いいな、かわいいなあ」

「ありがとう。でも、別にだからって五月生まれってわけでもないんだよ? なんだか変な名前でしょ」


 はぜる暖炉の火を前に、心地よい暖気のせいか、部屋の中はいつも以上に賑わっていた。

 ――いや、理由は多分、この暖気のせいなんかじゃないんスけどね……。

 ちらりと暖炉の真ん前を陣取った二つの影をソファーから一瞥し、神名が喜ぶのも当然のことだろう、と甘楽は一人頷く。

 現在、既に団欒の間となりつつある大きな居間では、自分を含むいつもの四人に加えて、もう一人見慣れない少女が暖炉の火を囲んでいた。


「でもよかった、女の子が来てくれて。……って、ちょっと不謹慎かもしれないけど」

「あたしもよかった。あんなむさ苦しいオヤジばっかりのところから抜け出せて」

「え、……でも五月七日ちゃん……こんなこと言うのってどうかと思うんだけど、マーくん――いちおう、三十過ぎてる、みたいだよ?」

「いいの。男は見た目でしょ」


 ……しかし、それにしたって今度の来客はかなりしたたからしい。兵童の存在は最早最初から頭数に入れられていないのか。

 肩で揃えられたゆるやかに広がるプラチナブロンド。空色に近い色素の薄い碧眼。それに健康的とは言えないが真珠のように透ける白い肌は、黙っていれば誰の目にも病弱な深窓の令嬢とでも映ったことだろう。

 けれど。


「……彼女、帝国貴族の娘さんですよね? あの髪の色からして」

「そうだな。つっても子爵だった父親はもう亡くなってるらしいが」

「……それにしては……何ていうか、……したたかすぎやしませんか。彼女」

「あん? いいだろ! 何か問題か!? いいだろ強気な女の子!」

「解釈ちょっと違う! 何であんたは女の子のことになるとそんなに適当なんスか!」

「適当じゃない! 俺はいつだって本気だ!」

「身の上をまるで気にしてないってことです!」


 魔王城の新たな客分――水城(ミズキ)五月七日、というらしい――である少女は、花よ蝶よと育てられるはずの貴族令嬢とは思えないほどにしたたかだった。

 狡猾だという意味ではそこらの貴族令嬢たちも多分にしたたかかもしれないが、彼女の強さはそれとは明らかに類が違う。

 こんな見も知らぬ怪しい男に誘拐(本人否定)されて事情も説明されずこんな怪しい城に軟禁(本人否定)され、そんな笑えない状況にも関わらずその城の他の食客と臆することなく会話する。自分ならばそんなことは絶対にやらない。逃げ出す。逃げ出せなければ部屋の隅っこで丸くなって思い付く限りの現世への呪詛を小声で撒き散らす。だというのに、この少女は……。

 そもそも、そんな名高い御家から家出してきたというのが、甘楽にはいまいち信じられないことだった。


「――大体、ですね。彼女の家出の理由は?」

「そんなもん俺が知るか」

「そろそろ蹴りますよ!」


 ……いや、一番非常識なのはむしろこの城の主なのだが。

 行き場のない女の子ならば誰でも匿うというのか、と思わず甘楽は叫び出しそうになったが、それを言うとあっさりと肯定されそうな気がしたので何とか抑えた。もし何でもない顔で首肯されたら自分は今度こそ何も信じられなくなる。それだけは避けたい。


「いいだろ。俺を必要としてる女の子がいるなら事情なんて関係な」

「いなんてことはないですし大体神威さんが必要とされてるわけじゃありません。いい大人なんスからそろそろ現実を見据えて下さい」

「俺はいつでも現実を見てる」

「四十五度捻じ曲げた現実ですけどね。それを世間一般では明後日の方向というんです」


 どうでもいいことだが、最近は何だか神威への突っ込みが対等というか、様になってきたように思う――全然嬉しくないが。

 大体、まあ、神名の時のような事情ならばまだ許せる。あの件に関して民意を問えば誘拐としか答えが返ってこないのは明らかだが、しかし帝国側のやり口が汚かったのは事実だ。やむを得ない状況だったと甘楽は思っているし、元帝国の人間としてせめて自分だけはそれを罪として問わないだけの心は決めている。それに加担したことに関して後悔もしていない。

 だが。

 今回は、果たしてあの時のように“やむを得ない”事情だろうか?


「でも、五月七日ちゃん、御家族の方は? 帝国には御家族がいるんでしょ?」

「うーん……大丈夫じゃない? 放っておけないような家族がいたら家出なんてしないし……大体、家出しろなんて言ったのうちの兄貴だし」

「え、そうなの?」


 暖炉前で会話する二人の話が自分の関心の核心に近付いているような気がし、思わず聞き耳を立てる。

 ……そこまで気になるのなら自分で直接訊けばいいものとは分かっているが、しかし甘楽はとてもそんな気にはなれなかった。

 まだまだあどけない少女とはいえ、相手は一応帝国貴族なのだ。反面こっちは怖いもの知らずの神殺しさまでも国一番の勇者でもなければ、いっそ帝国に反逆の旗を掲げた極悪人でもない。ただ、元帝国兵だというだけだ。一体それが何になろうか。むしろ貴族の権力を笠にこてんぱんに打ちのめされて終わりである。


「異父兄妹なんだけどね。でも一応、その手腕を買われて帝国官吏になった、……らしいから」

「か、官吏!? ――らしい、って」

「仕事のサボりよう見たらあんまり信用ないけど」

「……すごい人なんだねえ」


 何でもないような少女の声音に神名の寝惚けたような声で述べられる感想は、どこかズレている気がしないでもない。

 反対に、二人の会話を盗み聞きしていた甘楽は思わず息を呑んだ。官吏は官吏でも帝国官吏といえば、その立場はなかなかのものになるはずだ。しかも、貴族が牛耳っている帝国社会では実力を買われて官吏に就く例なんて滅多にない。とすると、彼女の兄は相当の切れ者なのだろう。

 だとすると……。それでは少女が家出した理由がますます分からなくなってしまう。兄に家出しろと言われた? 支離滅裂だ。一体何故? 収入もあり、彼女が幼いうちは安定しないかもしれないが立場もある。あえて家を出るような理由がまるで思い付かない。しかも、こんな寒い冬に、性急に。――そんなことを言うと馬鹿が調子に乗るので口には出さないが、神威が彼女を見つけなければ、最悪行き場を失くして凍え死んでしまっていたかもしれないのだ。大事に育てられてきた箱入り娘は、そんなことなど思い付きもしないかもしれないが。毎冬――特に寒さが厳しい夜の翌日は――浮浪者の骸が街の片隅に転がっているのを思い出し、甘楽は無意識のうちに顔をしかめる。……そんな死体など、彼女は見たこともないのかもしれない。


「でも、そんな人がどうして、五月七日ちゃんに家を出ろなんて言ったの?」

「家を出ろっていうかね……逃げろってさ。あたしに言ったのはその一言だけで、説明を求めても首を振るばっかりだよ。笑っちゃう」

「……説明もされてないのに、五月七日ちゃんは家を出てきたの?」


 今度は神名も本気で驚いている様子だった。大きな丸い目を殊更丸くしている。

 逃げろ? ――何から。

 ともすれば、思わず笑い飛ばしてしまいそうな話だ。

 切れ者……と言ったが、もしかすると法螺吹きか、夢想家か、それか相当深くに何か一物を持っている人物なのかもしれない。そうじゃないと逃げろなんてただ一言を実の妹に言い放つことはできないだろう。

 ――その兄に妹に対する情があれば、の話だが。

 しかし、彼女の話を聞いている限り、軽口は叩くものの兄を忌み嫌っている様子は見られない。むしろそんな状況下で兄の言葉に従ったところを見ると、絶対の信頼さえ抱いているように見える。兄妹仲は決して悪くないはずだ。

 だとしたら何故? 逃げるとは、一体何から? ますます分からなくなる。


「勿論、完全に納得はしてないけど。でも説明されないなら自分で推測するしかないし、あたしには兄さんしか家族がいないし……それに、兄さんは残念なことにアホだけど頭はいいから」


 ただ一つ分かるのは、この少女が、普通にはないほど強靭な精神を持っているということ。

 兄も異端だったのだろうが、そんな兄を持った妹も妹だ。……第一にまず言葉遣いが悪い。平民育ちのはずの神名の方が丁寧なくらいだ。アホとかサボるとか、家の長子である兄に対する態度さえ一般貴族の言葉とはとても思えない。

 ――勿論、甘楽にとっては、少し口が悪いくらいの方が親しみやすかったが。

 本当に神威は何の疑問も持っていないんだろうか。一抹の不安さえ? ……そんなことはないと、信じたい、が。


「……なるほど。なかなか頭の切れる義兄らしい」


 今まで奇妙なくらいに静まっていた傍らの男が、ぼそりと零した。

 どうやら聞き耳を立てていた甘楽を咎める者はここにはいないらしい――神威もまた、二人の会話を聞いていたようだから。

 ただ、彼は少し堂々としすぎている。まるで悪行を悪行とも思わないような態度だ。

 だがその点を突っ込む前にとりあえず、


「……今義理の兄って書いて兄って読みましたか神威さん」

「あん? …………気のせいだろ」

「だったら今の間は一体何スか」


 一体会ったばかりの少女に何をするつもりなのか本当に常に法に抵触しているような人だそろそろ帝国に突き出すべきかもしれない。

 意味もなく胸中でひと息にそう吐き出し、それから甘楽はふと考え直す。

 ……別に、義理の兄弟になる方法は一つではないっスよね。

 大体神威にはもう神名がいるだろう。と神名を勝手に生贄もとい犠牲に差し出し、甘楽は自分を無理矢理納得させた。


「で、それで、何ですって?」

「だから、頭のいい兄貴らしいって。なかなか言えたもんじゃねえぞ、実の妹に」

「まあ……そうでしょうけど」


 だから何だと言うのだ。

 またもや深い思考の海に沈みそうになって、甘楽ははたと気付く。


「……もしかして神威さん、彼女のお兄さんが逃げろって言った理由が分かってるんですか?」

「……大体な」


 片眉を吊り上げ、神威は珍しく低い声で答えた。

 いつもなら、そんな些細なことでさえ自慢の種にする神威なのに。――あまり嬉しい理由ではないらしいと、甘楽は直感した。

 しかし、だからといってその理由を話してもらえないこととは訳が違う。


「まあ、でも……そんなことはどうでもいいだろ。とりあえず」

「え、ちょっ、神威さんっ?」


 早速追撃から逃れるかのように神威がソファーから立ち上がった。逃げられては堪らないと甘楽は慌てて腰を浮かせたが、神威はそんな甘楽を視線だけでとどめる。


「そうだ。甘楽、お前に頼みたいことがあったんだ。珍しく」

「は?」


 珍しくってわざわざ言わなくたってこっちだって分かってるのにきっとただの嫌味に過ぎないのだろう本当に最低な男だとそんな長々とした文句を一瞬のうちに考えながら、結局、半開きの口から出たのは意味を成さないそんな音だった。

 頼みたいこと。……神威が自分に一体、何を。

 嫌になるほどいつもいつも、その言葉は命令でしかないのに。


「明日も俺出掛けてくるから、留守よろしく。――今日より遅くなる」


 ……しかし甘楽に拒否権というものが存在しないことは、火を見るよりも明らかだった。






 ◇◆◇◆◇◆◇






 ――ひとつだけ、嘘を吐いた。





「こっちがお風呂場で、もう一つ向こうが娯楽室。わたしもあんまり使ったことないけど、色んなものがあるみたい」


 夕暮れ時、五月七日は神名に城の中を案内してもらっていた。

 神名は五月七日よりも三つ年上、つまり十六歳の少女だ。教会史に謳われる聖女のような、きれいな銀髪と緑眼の持ち主――というのが、彼女に対する五月七日の最初の感想。彼女も一応はこの城の食客らしく、驚くほどに親切で、初対面であまり素性の知れない五月七日にも疑いや嫌悪をかけらも抱くことなく接してくれるという奇跡的な優しさを持ち合わせている。帝国には、というか五月七日の身辺には、まずそんな人はいなかった。

 しかしそんな彼女の優しさに反するように、神名に案内された城内は、まるで迷宮のような造りをしていた。

 帝国のお城もなかなか迷いそうだとは思っていたが、この城は造りがさらに複雑で、どこもかしこも似通っている。その上、道を覚える上で特徴になりそうな調度品さえない。

 何だか、この城は敵に攻め込まれることを想定して作られているみたい――五月七日は廊下の様子を一度見回してみて思った。それにしては娯楽室、なんて、この城の主はなかなかユーモアに富んでいるようだけど。


「えーっと……お風呂場の入口は一つしかないけど、もしかして混浴なの?」

「あ、ううん。違うの。大浴場は女子専用――つまり、野郎は部屋の備え付けで済ませとけって。マーくん曰く」

「なるほどね」


 まだ会ってたったの数時間にしかならないが、彼の人柄を考えれば頷けた。――というよりは、彼の特殊な人格というべきか。無理が通れば道理が引っ込む。それをそのまんま体で表したような人だ。まあ、だからこそ五月七日は今ここでこうやって庇護してもらえているわけだが(大体お風呂は部屋ごとに備え付けられている時点で十分すぎると思う)。

 大体、この城の住人はみんな、接してみる限り驚くほどお人好しだ。

 そもそもこんな広大な城なのに、住んでいるのはたったの四人なのだという。その事情は色々と複雑であるらしく、そのほとんどはまだ話してもらっていない。

 しかし、五月七日にも何となくは察することができた。何もない広大な荒野に建てられた古城。《神隠し》も《神殺し》も、まだ十三歳の五月七日が経験したことではないが。……彼らが一体何者かというのは、帝国の近況がよく物語っている。

 五月七日の兄が突然逃げろと彼女に告げたのも、そのことが深く関わっているのだろう。

 強がりだというのは分かっているが、それでも五月七日は気丈に振る舞おうとする。誰さまのためでもない。自分のためだ。こんなところでなど弱っていられるだろうか? 多分、兄はもっと辛い思いをしているだろうに。……思うと胸が痛むほど。


「あ。そうだ、あとほら、向こうには図書室が――」

「え、図書室? 図書室があるのっ?」

「え? あ、うん。わたしは一度しか入ったことないけど……」


 止め処なく溢れてくる思考を強引に打ち切り、五月七日はぱっと顔を上げる。その突然の反応に驚いたように、神名はぱちくりと大きな目を瞬かせた。

 図書室。それだけが――と、いうわけでもないが――五月七日がここで居候させてもらうことに対して抱いていた不安だった。

 彼女の生家は元々帝国城に近く、同時に国立図書館にも近い。城には国の歴史や政治に関する文献が多く収められていたし、国立図書館は城の半分ほどにも値する敷地を持ち、世界有数の蔵書数を誇っていた。加えて亡父が読書好きだったこともあり、家にも父が遺した書物が彼の書斎に所狭しと並んでいる。

 そんな恵まれた環境の中で育った五月七日は、自然と文字漬けの生活を送るようになっていたのだ。

 したがって、本のない生活など、五月七日にはそれがどんなものなのか想像するのが難しいほどに縁遠く、そして耐えられないことだった。


「ど、どれくらい広いの? 入ってみてもいい?」

「あ、うん、いいと思うよ――結構広いから」


 兄のように頭はよくなくとも、元来勉学は好きな性分だ。

 父が死んでからは家庭教師を雇うような余裕はなかったために随分と独学が増えたが、その際には本が役に立つ。小説、歴史書、伝記、図鑑、童話、自己啓発本、雑誌、教科書、新聞、哲学書、辞書――あるもの全てを読み漁った。時には偏った見聞も入りがちだが、そういう時には兄が偏りを抑制するような良書を薦めてくれた。本を読んでいる間は、時間を忘れられた。

 躍り出す胸を抑えようともせず、五月七日は他の部屋――件の娯楽室や居間――よりも一回り大きな両開きのドアを押す。一瞬遅れてがこりと重々しい音を響かせ、ドアはゆっくりと開けていった。


「……うわあ」


 吹き出してくる風を感じ、五月七日は思わず吐息する。

 古い紙と木の匂い。時間が止まる感覚。静寂が占める白いページの隙間――

 思い切り息を吸い込み、一歩中へと踏み出した。

 国立図書館の一室とほとんど違わない広さ。背の高い本棚が一定の間を空けて整然と並び、大きく空いたスペースの真ん中には簡易な木製のテーブルと椅子も用意されている。いくつもの――何十にも亘る――本棚が鎮座しているせいもあるのだろうが、縦長の部屋は向こうの壁までまず見渡せないほどに広い。本格的な『図書室』だ。


「すごい……」

「五月七日ちゃんは、本、読むの好きなの?」

「うん。すっごく」


 後ろからの問いかけに、五月七日は振り返らずに頷いた。

 一体どれほどの蔵書があるのだろう。読んだことがないものどころか、聞き覚えのない題名の本だってたくさんあるに違いない。本棚には一見何の統一性もない背表紙が所狭しと並び、再び開いてもらえる日を待っている。一番上の段にしまわれた本なんか、きっと五月七日の背丈では届かないだろう。


「いつでも使っていいと思うよ。……なんて、わたしが言うことじゃないんだけど……マーくんは多分喜んで開けておいてくれるから」

「ありがとう」


 今度は振り返って微笑む。――これで、当分の心配はいらないだろう。

 全く不安がない、と言えばそれは嘘になるが。

 しかしそれでも勇気は出た。こんなことで元気づけられるなど、変な話と胸中では笑い飛ばすが。けれど、目を閉じればよくよく兄と訪れた国立図書館を思い出す。


「ごめんね、神名さん。それじゃあ他のところも案内してもらえる?」

「いいの? 本、読んでてもいいんだよ?」

「ううん。それよりまず部屋に案内してもらわなきゃ、あたし多分図書室から帰る途中で迷子になっちゃう」


 それは笑えないでしょ、と言うと頷きながらも神名は笑った。


「うん、それじゃ行こっか。五月七日ちゃんの部屋、わたしの隣だから」


 五月七日は頷く。頷いて、神名の後に続き図書室を出る。

 それにしたって何故もう既に部屋が用意されているのだろうと五月七日はふと思い、――考えるのをやめた。

 世の中には考え過ぎない方がいいこともあるような気がした。


「あ、ごめんね、別に部屋の配置とか内装とかはマーくんの趣味とかそういうわけじゃないからっ」

「……神威さんの趣味なのね?」


 しかし同時に世の中には考えないようにしていても相手から知らされることもあるようだった。


「う、うう……ごめんね、マーくんも悪い人じゃないんだけど……」


 別に神名が貶されているわけでも何でもないのに何故か神名が頬を両手で覆いながら弁解し、それに五月七日は少しだけ笑う。

 彼女は本当に優しい人なんだろう。心から。まっすぐすぎて、少し眩しいくらい。――そして、五月七日を拾ってくれたこの城の主も。


「……うん。神威さんって、ちょっと兄さんに似てる」


 だだっ広い廊下を歩きながら、目を閉じて二人の面影を縫い合わせる。

 ――五月七日はひとつだけ、嘘を吐いた。

 彼らには言わなかったけれど、兄はただ単に逃げろと一言だけ言ったんじゃない。

 もう一言だけ、逃げるなんてどうしてと駄々をこねて嫌がる五月七日に向けて、彼は優しく囁いた。





 ――“風邪、引くなよ”。





 声を呑んで飛び出した街の片隅で、凍えかける五月七日に手を差し伸べてくれたこの城の主がどことなくその時の兄に似ていた気がしたから、五月七日は覚えず差し伸べられたその手を取ってしまったのだ。

 不安なんて全くないと言えばそれは嘘になるけど、でも兄さんと同じ笑顔を向けてくれたこの人なら大丈夫だってそんな気がした。


 だからここにいることを、決めた。

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