→ とある冬の日の昼下がり
逃げなきゃ。
逃げなくちゃ。
ただひたすらに石畳の上を駆ける。
逃げなくちゃ。
兄さんの言葉を胸中で何度も反芻する。
逃げなくちゃ。
冷えた空気が足を刺した。でも痛みに蹲ってる暇なんてない。
逃げなくちゃ。
でも一体、何処へ? 心の中で反駁する。
それでも逃げなくちゃ。
でも一体――何から? 後ろをちらりと振り返っても、追いかけてくる影なんか見当たらない。
広がるのは黎明の街。寂寥の色が滲んで下りた、朝露の冷たい帳の街。
兄さんと一緒に来たときは、笛の音が弾む愉快な街並みが迎えてくれたのに。まるで、街そのものに帰れと言われているみたいだ。
でも帰れない。もう帰れない。浮浪者の骸が街の片隅に転がる冬の夜明け。
――逃げなくちゃ。
走る。走る。石畳の上を。
影も足音もなく朝の街に降りた、暗く冷たい闇から逃げるために――。
◇◆◇◆◇◆◇
「はーっ、本格的に寒くなってきましたねえ」
ばさりと白いテーブルクロスを広げて、甘楽が見事に晴れ渡った空を仰ぐ。
とある冬の日の晴れた昼下がり。冬もそろそろ半ばに差し掛かり、朝の厳しい寒気はだいぶ緩和されたものの、それでも十分すぎるほどに蔓延する冷気は容赦なく露出した肌を掠めていく。
「最近朝晩がぐっと冷え込みましたもんね。……こんな寒いのに手伝わせてごめんなさい、甘楽さん」
「あーいえいえ、そういう意味ではないですこちらこそごめんなさい。元はと言えば洗濯の担当である神威さんがいないのが悪いんスから」
浮かべる息は白く、冷えた空気が微かに笑った神名の喉を鋭く刺した。最近は、本当に寒さが厳しくなってきたと思う。というか、どちらかというと身体が温度についていけていない気がした。気候のずれた土地に来たせいか、それか例年よりも気温の下降が急なのかもしれない。
しかし、もういちいち気にして騒ぐほどの寒さでもない。帝国領地内の街角で細々と暮らしていた頃には多少の隙間風にも困らされたもので、外は凍えるほど寒くとも室内に入ればちゃんとした暖房が完備されているだけ有難かった。恵まれたものだと思いながら、神名は洗濯籠から白いシーツを引き上げて張り巡らされた洗濯紐に手早く掛ける。
「それにしたって、こんな寒い中でちゃんと乾くんスかね? てか、乾く前に凍っちゃいません?」
隣で元来細い目を一層糸のように細めた甘楽が、ふと不安げに零した。何だかんだ恵まれていると言えど確かに外の冷気は酷く、一枚限りの薄いケットなど掛けた途端にでも凍り付いてしまいそうだ。しかしその心配はないと、神名は僅かに表情を明るくしてみせる。
「その点については、心配しないで下さい。一応此処には冷気を遮断する魔法障壁が設置されてるんです。さっき作動させたばかりなので、まだ中に冷気が残ってますけど」
「障壁? へえ。便利なものもあったもんですねえ」
「魔法障壁って魔力を結構消費しちゃうんですけどね。それでもほら、そこの隅に魔力循環器も取り付けられていますし、すごく画期的な設計になっていると思います」
「ま、魔力……じゅんかん、き? ですか?」
「はい。仕組みはともかく、魔力を使えるところだけリサイクルしているものと考えて頂ければいいかなと。高価なもので一般家庭には普及されていないんですけれど」
広いスペースの隅に存在感なく鎮座する、古ぼけた四角い箱のような不恰好な機械を指差し説明すると、甘楽はへえーと感嘆の声を上げた。実際、神名もこの間黎に教えてもらったばかりで、実物を見たのはまだ二度目だ。
帝国城内でも一台だけ見た。玉座の間で、しかしまるで目立たない場所に設置してあったが。城で働いていた甘楽が知らないところを見ると、もしかしたら一般兵には知らされていないものなのかもしれない。どういう風に使われているのかまでは神名にも分からなかったが、それこそ帝国城内の、しかも玉座の間に設置されているくらいだ。何か重要な事柄に関係していてもおかしくはないだろう。
「そんなものを持ってるなんて、神威さんって随分なお金持ちなんですねえ。一体何処から稼いでくるんスか、あの人は」
「あ、いえ、此処にあるのはそういうのじゃないんです。普通に売り出されているようなものじゃなくて、十五年以上前に作られた……発明品、というか」
「発明品?」
興味深げに甘楽が覗き込んでくる。
言ってしまってから、自分がむやみに話していいものかどうかと神名は逡巡したが、甘楽の痛いほどの視線を感じて結局は口を開いた。
「昔、マーくんが此処で王として魔物を統治していた頃、此処に以前存在していた国――今はなき亡国リンドグラッセに、とても気の合うお友達がいたんだそうです。発想力が豊かで、魔法にも精通していた方だったと」
楽しげに語ってくれた神威の顔を思い出し、神名はそっと目を伏せる。
その口振りからは彼の人柄や高いその能力、それに神威とどれだけ仲が良かったのかは痛いほどに伝わってきた。本当に気の合う友人だったのだろうと思う。
「その方は、自らを発明家と名乗っていたそうです。それでよくおかしな発明品を作っては、マーくんのところに持ち込んできたみたいで」
そこまで語れば、甘楽も神名が何を言わんとしているか察したらしい。
二人は再び、暗がりにぽつんと置かれた箱のような機械に目を移した。
「あの機械は、その方が作った発明品の一つだと言ってました。十五年以上も前のことですから、当時、魔力循環器なんてものは存在しません。ですから、あの機械はつまり……魔力循環器の“始祖”になります」
「へえ……すっごい方だったんスねえ」
「すごいことですよね。魔力の流れや性質を正確に把握していなきゃ出来ないことですから。そもそもの仕組みを一から全て作ったんですもん」
すごい人が友達だったんだ、と甘楽はからかうように笑う。神威がこの場にいたらどういう意味だよとまた怒り出すだろうと想像して、神名も笑った。
「……それで。マーくんは今朝、亡国の話を聞いて、『あいつがそんなに簡単に消える訳ない』――ってそう言って、その御友人を探しに行っちゃいました。確か、一番機械系の事業が発展している帝国に行くって言ってましたけど……あんまり、望みがあるとは言えませんけどね」
「あー、それで朝からいないんスか。……ま、味方が多ければ“これから”も楽でしょうけどねえ。でも、それにしたってまさか単身で帝国に乗り込むとは、随分な自信というか緊張感がないというか……」
「頼もしい限りです」
神名はくすりと笑う。
それから洗濯籠に手を伸ばすと、染み一つない真っ白のタオルを拾い上げた。洗いたての冷たい布の感触もそれほど辛さを感じない。寒気が段々と和らいできたらしい。
「……でも、どうしてリンドグラッセという国は、一夜にして消えてしまったんでしょう? それも、この城だけをそのまま残して」
広がる荒野を眺めながら、ぽつりと疑問を零した。
此処にあったという国――消えてしまった国。
神名のような素人が考えたところで、まさか分かるはずもない。今まで十数年間、どんな頭脳を持った学者だって解決できなかった問題なのだ。大規模にわたる空間移動魔法。真夜中に国全体を襲った大地震。当時リンドグラッセといがみ合っていた帝国元老院の陰謀。強大を誇った呪術師たちの共謀。魔女の集会跡。現実的なものからおよそ突飛なものまで、さまざまな推測が人々の間で交わされたのだという。しかし結局どれも噂の域を出ず、今や定説となっているのは現実味の欠片もない『神隠し』説。
「建物も住人たちも一緒に消えたと言いますからねえ。その発明家の方みたく、神威さんのお友達も沢山消えてしまったんでしょう? 残ったのは城だけ――というか、むしろ神威さんだけみたいな」
「……マーくんだけ、取り残された……?」
甘楽の言葉を、神名も思わず口にする。それは、馬鹿な妄想と笑い飛ばせるほど大仰すぎる表現でもない気がした。
城。残った城は、他の誰のものでもない神威の城だ。そして更には、神威本人も確かに残っている。紛れもないリンドグラッセの住人であったにも拘らず。
「……ま、俺の考えすぎかもしれませんけどね。それより神名さん、早く洗濯物を掛けてしまいましょう」
「……そうですね。変なこと言ってごめんなさい」
「あ、頭を下げる必要ないですって! 前から思ってたんですが神名さん腰が低すぎです、もっと堂々としてていいんですってば!」
「え、あ、ごめんなさい」
だから謝らなくていいと諭されるが、そんなことを言われると余計頭を下げたくなる。腰が低いだなんて、初めて言われた。帝国にいた頃は頭が高いだの礼儀がなっていないだの散々に言われたために、神名には余計にそんなことを言われる理由が分からない。
「もう……沢山の候補者の中から選ばれた“勇者さま”なんだから、もっと胸を張ってもいいのに。――って言っても、神名さんは多分そのまんまなんでしょうけどねえ」
「う……すみません。で、でもそんな、黎の方が帝国貴族の方に頭下げてましたよ? わたしなんか、公爵さまのお屋敷で暴れ回ったりしたこともありましたし」
「あー、その噂は聞いたことあります。お酒を勧められたのを神名さんが断ったからって、公爵さまがケンカを吹っ掛けたとか」
「う……その、子供扱いされたのにわたしが勝手に逆上しちゃっただけなんですけど。お恥ずかしい限りです」
恥ずかしさで火照る頬を両手で押さえ、神名は目を閉じる。あれは確かに軽率な行動だったと思う。今同じことをされても抑え切れる自信はないが。
その時事を収めてくれたのも黎だった。いつも何処か足りない神名のサポートをしてくれていたのだ。その度に毎回自分は子供だったと後悔する、のだが。
「わたしって本当子供で、何ていうか……此処の方たちはそんなことないって言ってくれますけど、すっごくわがままなんです。数日の間でも勇者でいられたのは、全部黎のお陰で」
「俺たち下っ端の間では結構人気あったんですけどねえ。お姿はほとんど拝見したことなかったですけど、平民の出の優しそうな勇者さまだって」
「あ、ありがとうございます……」
俯いて小さな声でぼそぼそと告げる。
そんなことは全然知らなかった。右も左も気取った貴族たちの皮肉ばかりだったので、恥ずかしいが純粋に嬉しい。
「それに、今普通に接していても思うんですけど神名さんって全然いい子じゃないスか。ほら、さっきの話とか、頭もいいんだし。帝国のお偉いさん方なんて気にすることないっスよ」
「……ありがとうございます。甘楽さんは、優しいんですね」
「正直なだけっスよ。神威さんほどじゃないですけどね」
子供っぽく無邪気に笑う甘楽。しかし神名は、それが嬉しかった。
長い間の念願だった勇者にようやくなれた神名にとって、此処に来ることになったのは当初は望まぬ事故だと言えた。けれど今では、それさえよかったと思う。あの中ではまるで虚構で、自分の声など届きはしなかっただろう。今いるのが皮肉なことに討伐すべき魔王の城であったとしても、それを不本意だと神名はもう思わない。
此処でこうやって家事に勤しむ生活も、悪くはないのだ。
「それじゃあ、そろそろ中に入りますか。神威さんも帰ってきてるかもしれませんしねえ」
「そうですね。お洗濯も終わったし、やっぱり暖房が恋しいです」
空になった洗濯籠を抱えて、笑いながら神名はドアの方へと足を向ける。
神威はもう、帰ってきているだろうか。
――本当に発明家の友人の見つけられるとは思っていないが、それでも、見つかればいいと願った。
今や亡き国の滅亡の真相のためではない。事件の解決を望んでいる訳ではない。ただ、思ったのだ。今のこの幸せを、できることなら沢山の人で分かち合いたいと。
だから、発明家だという神威の友人も、一緒になって騒いだり笑ったりできればと思った。他にも、黎なんかも連れて。そうすればもっと楽しいだろう。帝国や何やらのしがらみに囚われたりせず。
(――あと、もう一つだけ望むなら、女の子のお友達が欲しいなあ……)
――しかし実際に叶ったのは、胸中でのみふと望んだ、最後のささやかな願いのみだった。
「あー、この子な、家出してきたらしい。――っつーわけでしばらくうちで預かることになるからよろしくな。あ、甘楽と兵童のおっさんは指一本たりとも触れんじゃねーぞ」
とある冬の日の昼下がり。
昼過ぎにひょっこり帰ってきた神威が連れていたのは、すっかり年を取った気の合う発明家の友人などではなく、神名よりも更に一回り小柄な、さながら人形のように愛くるしい少女だった。
まさかの主人公不在パート2。あ、いや、でも最後出てたか。
警告タグ付くほど放置していてごめんなさい(;´Д`)でもこれからも間が空いてしまうと思います、けど来年には絶対戻ってきますので!
それに月末にはできるだけ更新したいと思います><
こんな作者ですが、よろしければこれからもお付き合い下さいませ!