義家と卯の花姫
若武者が、書状を届けるため出羽国置賜郡を治めている小松(今の山形県川西町)の郡衙を訪れ、その帰路に長井郷(今の山形県長井市)に立ち寄ったのは、康平五年(1062)春の雪解けで松川(最上川)の水嵩が増している季節であった。何も彼が小松へ行く必要も無かったのだが、ふと同じ置賜郡にある長井郷を訪れる気になり、その使いを買って出た。理由は、朝廷に反逆し、奥六郡(今の岩手県奥州市から盛岡市周辺)を支配している安部貞任の娘がこの地を治めているという噂を耳にしたからである。その娘は卯の花姫と呼ばれている。
若武者の名は源義家。陸奥守兼鎮守府将軍源頼義の嫡男であり、阿部貞任とは敵同士という事になる。いや、敵どころか、六年前の天喜五年(1057)には、父と共に戦った黄海の戦で散々に打ち破られている。この時義家十九歳、「神業と称されるような射芸を発揮して死地を脱した」と後年語り継がれるが、命からがら国府多賀城へ逃げ帰った屈辱を晴らすべき相手でもある。その娘の噂は、出羽国で、千北を支配する清原一族から聞き及んだ。
黄海の敗戦で源氏の戦力は壊滅したが、再起の切り札として、義家が直接出羽に出向き、清原一族に源氏への加担を申し入れ、この冬ついに清原一族は源氏に加勢することに決した。戦は夏頃になるであろう。
「一度その姫に会って見たいものだ」と義家は思った。清原の加勢を得て心にも余裕が出てきた証であろう。清原では、安部と戦になるからには、長井郷は清原の手で始末をつけると聞き及ぶにつけ、その姫を不憫に思ったせいかも知れない。しかし会える当てがある訳では無い。
義家が長井郷の町中に入ったのは、陽も西に傾く頃合であった。田舎の集落程度と想っていたが、大道りを挟んで民家が軒を連ねる様は、小松の郡衙にも引けを取らない程の町並みである。暫らく逗留するつもりで宿を定めたが、今日は歌垣が催されていると聞き、行くことにした。祭りと聞くと血が騒ぐ性質なのである。
郎党を残して道案内として従者一人を雇い、振る舞い酒と肴を馬の荷として歌垣の場に向かう。その途次、従者が「卯の花姫館でございます」と指差したのは白い築地塀に囲まれた立派な館である。姫が出てこぬものかと門を眺め進んでいると、突如、血相を変えた様子の老武士を先頭に、七八人の武者が走り出てきたのは何事かあったのであろうか。
この郷は、北を野川に、南を白川が東に向かって流れて松川に合流し、西は険しい山塊(朝日山系)が迫って天然の要害となっている。貞任がこの土地に目を付けた理由を慮りながら、野川口と呼ばれる山の麓に取り付いた頃にはすでに夕暮れ時を迎えていた。ここに築かれている井出(堰)を見遣りながら、野川の上流三渕渓谷を目指して登る。歌垣は、この渓谷を俯瞰する奥の宮明神で催されている。
一刻ばかり登ったであろうか、見上げると、夜空には星が瞬き手を差し伸べれば届きそうである。ふと振り返ると、治安の良さを物語るような篝火のせいで、そこが長井郷であると見分けることが出来る。ここでは盗賊の跋扈とも無縁の様子である。やがて、人々の歓声が耳に入って来た。笛の音も混じる。
「もうじき奥の宮にございます」と、従者が松明をかざしながら振り返る。そして「歌垣の宴も、たけなわの様子ですぞ」と、暗がりで睦んでいる男女を指差しながら進んでゆく。
歌垣は、古代群集婚の名残で、神前にて集った男女が一日中舞踏と歌を競い合う。この日ばかりは世俗から離れ、お互いの心が解け合い日頃の苦労や心配事から解放される楽しいひと時でもある。今年の豊作を祈ると共に、心通い合った男女は縁を結ぶ自由な妻問いの場でもあった。
やがて、神前にて篝火に照らされた人々が輪を作り謡い踊っている様子が見えた。義家は入り口の木立に馬を繋げ、従者に荷解きをさせて輪に近づき声を上げる。
「皆の衆、わしは他国者ではござるが、ほれ、こうして酒と肴を持って参った。歌垣に加えて下され。さあ」と、義家は酒を振舞うよう従者に促す。
「お~」と歓声が上がる。
「ここは神域。お武家様も、農民も、今日ばかりはお咎めなしで、皆一緒じゃ」と、男が叫ぶと、「そうじゃ、そうじゃ」と、周りから声が上がる。皆程よく酒が廻っている。
「しかし男前じゃ。この郷の女を寝取られたらかなわんぞ」と、別の男が拒むように言う。「それは、お前には何も関係の無い事じゃ」と、返す言葉は女の声である。どっと笑い声に包まれる。義家を肴に掛け合いが始まる。どうやら義家は受け入れられたらしい。
昼解けば、解けない紐の我が夫 なに、相寄るとかも、夜解けやする。
(昼とこうとすると解けなかった上套の紐が、今ふと解けた。いとしい方によりそえというのか、
それとも今夜とけるというのだろうか)
「面白きかな」と義家も輪に入り、時に歌を掛け合い、笛の音に調子を合わせ、飲み食らう。神前で郷人と溶け合い、自分もふとここで伴侶が見つかるのかという想いに駆られ、幻想的な世界に浸る。その時、入り口の辺りがざわつく。見ると、卯の花館で見かけたあの老武士が紛れ込んでいた。弓を持った武者を一人従え、誰かを探している様子である。ふと背中にふくよかな胸が押し付けられる。娘が、その顔を隠すように義家の背後に抱きついていた。
「お願いです、お武家様。私を何処かへ連れて行ってください」
娘は、義家の背中越しに言う。
「どうなされたのじゃ?」
驚きつつ、義家は問い返す。
「あの方たちが……怖いのです」
何か訳がありそうである。義家は振り返り、娘の顔を見る。歳は十五六であろうか、姿は周りの郷人と変わらないが、その美しさに思わずはっとする。これも神の引き合わせというものであろうか、これぞ求めていた伴侶ではないかと、その気になった。娘と抱き合うようにして、宴の輪から抜け出し、彼等から離れるよう暗がりに身を寄せ座る。そしていきなり娘に唇を重ねる。娘は驚いた様子であったが、やがて身を義家に委ねた。
回りでは、睦み合う男女が何組も出来上がっている。歌垣で結ばれた者達である。暫くすればやがて引揚げてゆくものと思い、義家は娘を抱きながら、振り向き、遠巻きに老武士達を眺めるが、まだ辺りを見回している。娘は義家の腕の中で、その顔に見惚れていた。
「いま少し、このままで」
義家は、やさしく娘に話す。娘は、小さく頷く。その瞳は潤み、涙が零れ落ちている。
「どうなされたのじゃ?」と、今度は涙の訳を問う。
「寂しくて……。でも今は嬉しいから」
「寂しい?そして嬉しい?」と、反芻するように義家が問い帰す。
「私は、これまで身内の肌の温もりを忘れておりました。でも、神様のご加護でしょうか、こうしてお武家様の腕の中で……。嗚呼、何と温かくて心地良いのでしょう」
「そうか。では、縁者の方が育てたのか?」
「……。申し訳なきことですが、今はお話したくありませぬ」
「さようか。ならば問うまい」
義家は答えながら、娘への愛しさが沸きあがって来るのを感じる。何か訳あってこの郷を出たいのであろうか。この娘を我が手で守って見せようと思い定める。
「お武家様は、想い定めたお女がどこぞに居るのですか?」ふと、娘が顔を上げて尋ねる。
「今、目の前に居る」
娘の顔は紅く染まる。
「嬉しい。嘘であっても、嬉しゅうございます」
「嘘では無い。先ほど何処かへ連れてゆけと申したが、それがそなたの望みならば、わしはそうするつもりじゃ」
その時、明かりが照らされ、娘の顔が浮かび上がる。弓を持った武者が、義家の背後で松明をかざして娘の顔を覗いている。
「無礼であろう!」と義家は、振り返り怒鳴りつける。二人は立ち上がる。
その武者は娘の顔を見て驚き「源蔵様!」と手招きするように叫ぶ。
源蔵と呼ばれた老武士は、づんづんと力強い足取りで近づいて来る。やがて驚き「姫、探しましたぞ。なぜかような所に、そのような姿で!」と叫び声をあげる。
義家は、娘を後ろに隠して庇うように身構えながら、「姫?」と反芻する。
その時、「ぎゃー」という悲鳴が遠くから聞こえてくる。悲鳴の先には、見たことも無いような大きな猪が暴れ狂い、郷人の輪の中へ突っ込んで来た。四十貫(150キロ)はあるであろう。肴の匂いにでもつられたものか、このように人の集まるようなところに現れることは無いはずだが、人を恐れぬ様は、この山の主のようでもある。皆、逃げ惑うばかりであるが、逃げ切れ無い。すでに何人かが宙に舞い、地面に叩きつけられている。
「爺、退治しやれ!郷人を守るのじゃ」
いつの間にか、姫と呼ばれたその娘は義家の前に体を迫出し叫ぶ。爺と呼ばれた源蔵は、蝦夷刀を抜き放ち、猪に向かって走る。その殺気を察したものか、追いつき刀を突こうとした瞬間、駆ける方向を転じ、娘の方にまっしぐらに向かって来た。源蔵は踏みとどまり、後を追おうとしたが、足を滑らせ倒れ込んでしまう。
「姫、お逃げを!」と、源蔵は立ち上がりながら叫ぶ。猪と娘との間合いが見る間に詰まる。刹那、娘を庇うように義家が弓を番えて立ち塞がる。弓は武者から奪い取ったものである。あっという間に矢を引き絞り解き放つ。矢は猪の右目を寸部違わず射抜く。猪はたまらず義家の左足を薙ぐようにどっと倒れこみ、その屍を晒した。
「お武家様!」娘は倒れた義家に寄り添う。
「姫、大事ござらぬか?」息せき切って源蔵は駆け寄って来たが、「私は大事無い。それよりあの郷人達を……」と、娘は猪に吹き飛ばされて蹲っている者達を指差す。そして、義家の体に触れる。
「わしも大事無い」と娘に気遣うように義家はゆっくりと立ち上がる。が、「痛っ!」と思わず顔をしかめた。骨がどうかしたものか、痛みは左足の脛から来た。
「咄嗟の事ゆえ、断りもなく借りてしもうた。先ほどの無礼な振る舞いはこれで帳消しじゃ」と、武者に弓を返す。
「姫、と呼ばれておりましたな。そなたはいったい?」と、娘に向き直り問い帰す。予感めいたものはあったが、間違いであってほしいいと念じながら・・・。
弓を受け取り代わりに答えようとする武者を手で制して娘は答える。
「私は卯の花と申します。この長井郷を父より預かり此処に暮らしております」
「さようであったか。そなたが……。ならば、何処へも連れては行けぬな」
「いえ……。あなた様に申した事は嘘ではございませぬ。あなた様であれば……」そして、ふと気付いたように「まだ名も伺っておりませぬ」と、問う。
「名……。いや、名乗る程の者でも無い」
「それでは、私の気持ちが治まりませぬ」と、卯の花は義家を睨むように言う。
その時、「姫、若者一人が腹を牙で突かれて血が止まりませぬ」と源蔵が叫ぶ。若い娘がそれに取り付き泣き叫んでいる。その周りにも幾人かが倒れて苦悶している。
「お武家様。お礼もしとうございます。是非私と共に館へおいでくださいませ。しばらくお待ちを。きっと」と、卯の花は言い残し、源蔵のところへ駆け寄って行く。
歌垣の宴は、猪のせいで台無しである。卯の花は源蔵や郷人とともに怪我人の介抱に追われた。やがて甲斐も無くその若者は命を落とし、悲しみが辺りを覆う。黒い瞳に涙を堪え、卯の花は義家をその目で追い求めた。が、すでにその姿は馬とともに無かった。
一夜が明け、宿では郎党が聞き込んで来た卯の花姫の話を義家に報告していた。義家は痛みから左膝を立てて座っている。その表情は郎党には惚けているようにも見えた。
「若、安部貞任が若き頃、この辺りの土豪と誼を通じるため訪れた際、逗留先の長の娘を見初め、生まれたのが卯の花姫のようでございます。母親は程なく病を得て亡くなったようですが、貞任はことのほかこの姫を可愛がり、毎年のように繰り返す野川の洪水で荒れ果てたこの地を安部の手で懇(土木工事)を施し、この郷を作り上げたとの事でございます」
「野川口の井出も、そうであろうの。あれで、洪水から郷は守られておる」
「しかし、何ゆえ安部がこの出羽の地に」
「ふむ。置賜郡は元は陸奥国であったせいか、この辺りの者は未だに陸奥との繋がりが強いようじゃ。小松の郡衙も安部を贔屓にしておるのであろう。父上の書状は、徴兵を嫌って出羽に逃げた者どもを捕らえて送り返すように申し入れたものだが、ただ聞き流しておるだけであったわ」
「そう言えば、昨日郡衙の役人が卯の花館へ入るのを見かけましたな」
「さようか。ならば我らの事も伝わっておるであろうな。明朝には出立としよう。ところで、貞任は今でも此処に来ておるのか?」
「貞任が、時の陸奥守藤原登任と戦となり、衣川の関を閉ざして国府と対峙してからからはとてものこと」
「永承五年(一○五○)であるから、もうかれこれ十年を越すか。姫は幾つになる?」
「十七とか」
母親はすでに無く、幼少の頃、微かに父親の面影を記憶に留めながら、この地で健気に貞任の娘としての責を果たして来たことを想うと、「寂しい」とふと卯の花姫が漏らした言葉が義家の耳元で蘇る。義家の腕に抱かれ、「嬉しい」と話したのは義家に心を許した証でもあったろう。歌垣の場で二人は確かに結ばれていたのである。
夕暮れの頃、卯の花姫の乳母と名乗るの女が義家を訪ねて来た。従者を探し出し、やっと此処に行き当たったと云い、嬉しそうであった。座敷に通して話を聞くには、姫が是非とも二人きりで会いたいという。歌垣に卯の花を密かに館から抜け出すよう手引きしたのもどうやらこの乳母のようである。
義家は迷った。が、会う事にした。
朝餉を済ませ、宿を出る頃陽が昇って来た。郎党には後で追いつくからと先に立たせ、義家は案内された場所に馬で向かった。そこは里神を祭る宮の明神で、昨日の乳母が出迎え、社殿の一室に案内される。戸口で乳母は控え、義家が戸を開け中に入ると、そこには着物に身を包んだ卯の花が待っていた。武門の娘らしく胸元には懐剣を差し込んでいる。
窓から陽射しを受け、佇むその姿はまた一段と美しさを増し、より大人びて見える。触れ合う程に近づくと、甘い匂いが義家を包み込んだ。義家は座って胡坐をかこうとするが、左膝は立てたままである。その足を気遣いながら卯の花姫が話し始める。
「ここは奥の宮と同じ神前。二人で歌垣の続きをしとうございます。義家様」
「わしを、義家と承知でここに呼ばれたのか。何ゆえ?」
「歌垣の神前は、俗世とは無縁の場。あなた様と、縁を結びとうございます」
「しかし、わしとそなたの父とは刃を交える敵同士。例え神が許そうとも出来ぬ話じゃ」
「でも、義家様は、私を守って下さいました。荒れ狂う猪を退治し、郷人を守ってくださったのです。父には……、父貞任には私よりこの受けた恩を伝えます。そして、義家様との戦を止めるようお願いしてまいります。戦はもう嫌です。その証に、私は義家様の元に参りとう存じます。あの歌垣の夜、貴方様を一目見て好きになってしまいました。嘘ではございませぬ。貴方を導いてくれた神に感謝し、気づいた時にはその背中に吸い込まれておりました」
「姫よ、わしもそうじゃ。そなたを初めて見たとき、すでに惚れてしまっておったのじゃ。そなたを抱き寄せた心に偽りは無い。そなたを守って見せると心に誓いもした」
「では、戦を止め、私を受け入れて下さるのですね」
「出来ぬ」
「何故、何故でございます」
「それが、そなたとわしとの間にあるどうしようもない運命だからじゃ」
「運命?こうして出会う事が運命ならば、その縁を自ら断ち切る事など……」
「そう、天が定めし事なれば身を委ねることも出来たかも知れぬ。しかし、わしはその運命を自らの手で作ってしまったのだ」
「自らの手で?」
「先ほど、そなたはわしが郷人を猪から救ったと申した。しかしそれは違う。わしは、そなたの父を討つために、出羽の清原に源氏への加勢を約束させた。この夏には再び戦となろう。安部とは同盟関係にあったものを、安部を乗っ取り、滅ぼしてしまえとけしかけたのもこのわしじゃ。わしは、運命をこの手で汚したどうしようもない男なのじゃ。そう、郷人を救ったのはわしでは無い。わしは、郷人に害をなす猪そのものなのじゃ」
「……」卯の花は言葉を失い、その胸元に手を当てる。
「武士がこのように汚辱にまみれ、穢れたものであるとは、これまで気付きもせなんだ。しかし、わしは心を定めた。此処でじゃ。そういった穢れも飲み込んでわしは、源義家は生きてゆく。そう決めたのじゃ」
「義家様、私とともに死んで下さいませ!」と卯の花は懐剣を抜き放ち、その刃を義家に向けた。
只ならぬ物音と声を聞き、乳母が戸を開けると、卯の花姫が義家の膝元に倒れていた。乳母は驚き卯の花に駆け寄る。
「心配は無い。当身で気を失っておるだけじゃ」と、刀身を鞘に納め、それを乳母に渡しながら義家は話す。そして、着ていた綾の表着を脱いで卯の花にそれをそっと掛け、その頬に手を触れながら語りかける。
「姫よ、わしはそなたに出会った事を神に感謝しておる。そなたの事は忘れぬ。しかし、わしの前だけじゃ、この義家だけなのじゃ、そなたが卯の花姫から離れられぬのは。ゆるせ、わしが義家であった事を」
そう言い残して義家は宮を後にし、多賀城へ去って行った。
この年の秋、後の世に「前九年の役」として語り継がれる戦は、貞任の討ち死ににより終結する。やがて、長井郷は国府軍に攻め込まれ、卯の花姫は奥の宮に逃れる。しかし、そこで炎に包まれる長井郷を見届け、「もはやこれまで」と、綾の表着で頭を覆い、三渕峡谷に身を投じたと伝わっている。
それは、「最後まで卯の花姫として生きました」と義家へ伝える想いの証であったのかも知れない。