3話 進歩と後悔
「羽月くん」
「んー?」
俺は朝比奈の部屋で、彼女のペットであるハムスターこと「ハムちゃ」のケースに指を突っ込んで遊んでいた。このハム吉は彼女同様に俺が認識できるようで、しきりに鼻を持ち上げてくんくんとやっている。
「どうしよう」
彼女が焦ったふうに差し出すスマートフォンには、幾つかのメッセージが届いていた。
「なんだよ、どうしようって。行ったらいいじゃんか。やったな!」
目を通した俺は、賛辞の言葉を贈る。クラスメイトから遊びに誘われるなんて、幽霊少女にとっては願ってもない大進歩だ。
「……って、小倉と行くの?」
「う、うん。あと渡辺さんと井上さんもいるみたいだけど。……どうして?」
彼女を誘った三人組の中心人物、小倉春香。間違いなく、俺が生前惹かれていた女の子だ。正直に、好きだった子だ。
「いや、別に……」
うっと俺は息を呑んだ。彼女が目の前で、不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。真っ黒な瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚える。このハム助みたいにまっすぐ俺を見つめてくる。
「もしかして、好きだった、とか」
「なっ、なんでわかったんだよ!」
朝比奈はぽかんとした後、くすくすと笑いだした。「羽月くんは、わかりやすいから」そんなことを言いやがる。
当日、俺はいつでも朝比奈のフォローをできるように常にスタンバっている必要があった。あくまで彼女が手にした明るさは、俺が乗り移って口を動かしているケースが殆どだ。それを小倉たちが望んでいるのなら、それに応える責任は俺にもある。
おはようと向こうが言ってきたので、俺もおはようと返事をする。声を出せば本来より高い女の子の声が出ることは、いつまで経っても違和感抜群で面白い。
あくまで俺は落ち着いていないといけない。朝比奈はまだまだ、会話の経験値が足りない。だから俺が、テンパらずになんとかしないといけないのだ。
「どしたの。なにかついてる?」
「えっ、いや、何でもないよ」
だが、俺は慌てて朝比奈の身体から抜け出した。考えてもみてほしい。好きな女の子が手の触れそうなほど近くを歩いているんだ。いくら三大欲求がないといっても、目を奪われるくらいは当然だ。
俺が迷っているうちに、彼女たちはどんどん歩いて行ってしまう。
つきっきりにならなければと思っていたが、意外にも、朝比奈は普通に相手と接することができるようだった。三人に誘われてクレープを食べながら美味しいと笑っている。なんだ、俺が入ってなくても笑えるんじゃん。
よかったなあと脳天気に思いながら、ぼんやりと考えるのは、告白しとけばよかったなんていう後悔。確かに小倉春香は、俺の周りでも競争率の高い子だった。だから臆してしまったんだ。馬鹿だったなあ、俺。死ぬってわかってればさっさと言ってたのに。
カフェに行ったり雑貨屋を巡ったりと、女の子は忙しい。カラオケのフリータイムで八時間粘っていた俺のアホな友人とはえらい違いだ。
「そういえば、かすかちゃんって、幽霊視えるって本当?」
公園の水場のベンチで、アイスティーのカップから伸びるストローを咥えた小倉が言う。
「幽霊なんて、視えるわけないよ」
朝比奈と重なった俺は「何を言ってるの」って顔で、本人が下手を打たないうちに言い切った。「だよねー」と顔を見合わせる彼女たちを見て安堵する。
「視えてたらさ、ほら、あいつとかいるんじゃない?」
「ああ、羽月のこと?」
渡辺と井上が言うのに、俺はぎくりとして朝比奈から抜け出した。
「あの三バカでしょ」
正面でつまらなさそうに言い放った小倉に、朝比奈がオウム返しに問いかけた。
「三バカって……?」
「羽月たちのこと。私らそう呼んでたんだ。だって馬鹿そーじゃん、なんの悩みもなさそうで」
井上の台詞に、小倉もそうそうと頷く。
「死んじゃったのは可哀想だけどさ。それも歩道橋から足滑らして落ちたんでしょ。カッコつかないよね、ホント」
もう動かない心臓が、どくどくと脈を打っている気がする。聞くな、聞くなって、幽霊の俺に耳元で誰かが囁いている。
カップを軽く揺らしながら、小倉は畳み掛けた。
「私らもさ、それで集会開かれたりとか、いい迷惑だよ。だってただの勝手な事故じゃん。誰が困るってわけでもないし」
「そんなわけないよ!」
突然、朝比奈が声を荒げた。こんなに大きな声が出せるなんて、聞いてない。
「羽月くんだって、まだまだ生きたかったんだよ。生きてやりたいこと、たくさんあったんだよ! それなのに、そんな言い方……!」
「馬鹿、何やってんだよ」と言えなかった。まさか朝比奈の口からそんな台詞が出てくるなんて思いもしなかった。
それに、彼女の瞳が濡れていたから、俺は手出しができなかった。
驚きながらも、小倉たちも言いすぎたと思ったんだろう。「ごめん」と彼女たちは口にした。それでも空気が悪くなってしまったことは否めないまま、その日はそのまま解散となってしまった。
ひとり公園のブランコに腰掛ける朝比奈の隣に、俺も腰を下ろした。といっても形だけで、足先は相変わらず宙に消えて見えないんだけど。
「ごめん、朝比奈。俺がいなかったら」
「悔しいよね」
俺が視えているから、彼女はあんな態度をとったんだ。俺がいなければ、小倉たちとの仲に亀裂を入れる真似をしなくて済んだはずだ。
そう思って謝ったのに、彼女はぽつりとそう呟いた。
「死んじゃったからって、あんなに好き勝手言われるなんて。あんまりだよね」
俺は黙ったまま下を向いた。彼女の声がとても辛そうだったから、それにその通りだったから、俺は一度だけ頷いた。
幸い、小倉たちは根に持つような女子ではなかったらしい。休みが明けても彼女たちの態度は変わることなく、普段通り朝比奈と接してくれた。それに安堵する俺がこの世に残っている時間は、刻一刻と短くなっていた。