出発と応援
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「おい授業始まったぞ、席につけ、出席を取る」
「じゃあまたね、陽子」
「う、うん……」
現代文の男性教師が、タブレットを肩にぽんぽんと当てながらクラス中を見渡す。
時計を見ると、もう8時30分。
一時限目の時間だ。
別のクラスで仲のいい友達が、先生を確認すると逃げるようにその場を立ち去った。
先生はその様子を確認して「はぁ」とため息を1つ吐くと、タブレットのロックを解除し出席を取り始める。
「天野」
「はい」
「伊藤」
「はい」
出席番号順で、次々と名前が呼ばれ始める。
優希という珍しい苗字の私は、出席番号は大体1番後ろ。
だから呼ばれるまでの時間はとても退屈。
「……」
いつもなら私は、待っている間は夕飯の献立を考えてる。
両親が共働きで一人っ子の私は、大体の家事は一人でこなさなければならない。
だから夕飯は時間がある時にパッと考えて、学校が終わった後に必要な食材を買いに行く……のだけれど。
「好輝……」
昨日の事があってからは、夕飯の献立なんて考えつきやしない。
『今は1人にして欲しい』
好輝の言葉が、私の頭から離れない。
……初めての拒絶だった。
好輝は優しいから、どんなに喧嘩をしても必ず好輝から謝ってくれる。
どんなに私が頼っても、突き放したりなんかしない。
そんな好輝が昨日、初めて私を拒絶した。
……でもその拒絶は、当たり前だ。
私は昨日、酷い事を言ってしまった。
お父さんと比べられる事。
お父さんと一緒にされる事。
普段は何にも言わないけれど、好輝はそれらを1番嫌っていたのに……。
そして、私もその事を知っていたのに……。
「浜辺」
「はい」
「日陰」
「はい」
日陰努。
好輝を追い詰めた犯人。
本当なら罪滅ぼしもかねて、こいつをなんとかしてやりたい。
でも好輝の言う通り、彼は何もしていない。
もどかしいけれど、今はただ睨みつけるくらいしか私には反抗ができない……。
「優希……優希陽子!」
「は、はい!」
いけない、睨むのに注力しすぎだのかもしれない。
もう私の番まで出席確認が来たというのに、先生の声が一切耳に届かなかった。
「大丈夫か? 昨日は風邪で休んだみたいだが……体調が悪いなら言いなさい」
「は、はい……ありがとうございます」
そういえば昨日、欠席理由を風邪にしたんだった。
本当は好輝に拒絶されたショックで泣いていたのだけれど……。
「風邪といえば日向も今日はお休みだな、皆も体調管理気をつけるように。季節の変わり目だからな」
先生はそう言うと、軽い雑談の後に授業を始めた。
ただでさえ苦手な現代文。
しっかりと集中して授業を受けないと。
でも、今の私は授業どころではない……。
好輝が今日も学校を休んでる。
大丈夫……なのだろうか……。
「……優希、君はもう保健室に行きなさい」
「え?」
「集中力が散漫だ、それでは皆の迷惑にもなる」
「……はい」
先生は私にやる気がない事を見抜いたのか、そう言って授業を中断させた。
皆の迷惑……か。
……確かにその通りだ。
「あーまて優希、1人では辛かろう。私が送ってやる。皆は暫く自習をするように! 何をしていても構わんが他のクラスには迷惑はかけるなよ!」
先生は皆にそう言うと、私のところまで来て立つように促した。
本当は風邪なんてひいてはいないのだけれど……。
でも、せっかくのお気遣いだ。
ここは素直に甘えよう。
私は先生の言う通りに立ち上がり、保健室に向かった。
「……すまなかったな」
「……何がですか?」
保健室に行く途中、先生が急に謝った。
別に謝られるような事はされてない。
それに謝るのは私の方な気がするのだけれど……。
「さっきは生徒の手前、つい厳しい言葉を吐いてしまった」
「え、あーそんな、気にしてないです」
皆の迷惑、という所だろうか。
確かに少しは傷ついたけれど、でも先生の言葉は事実だ。
だって今こうして、私は先生と皆の時間を奪っているのだし……。
「それでもだ。例え優希が気にしてなくても私は謝る必要がある。言葉はナイフ以上の凶器だからな」
「言葉はナイフ以上の凶器……」
先生の言葉に私の足はピタリと止まる。
言葉はナイフ以上の凶器。
だとしたら私の放った言葉は、好輝をどれだけ傷つけてしまったのだろう。
……もしかしたら、もう昔みたいな関係に戻れないのかもしれない。
そう考えた瞬間、私の目からポロポロと涙が流れて止まらない。
「ごめん……なさい、ごめん……なさい……」
好輝はもうずっと私を拒絶するのかもしれない。
私は好輝ともう、話す事すら許されないのかもしれない。
私の考えは悪い方に、悪い方にと進んでいく。
でもそんなの絶対に嫌で、だから届きっこないはずなのに私はここにいない好輝に向かって謝罪を続ける。
けれどやっぱり私の謝罪は空に消えて、その虚しさでまた私の目から涙が落ちる。
「……優希、こっちに来なさい」
どう頑張っても涙が止まらない私をみて、先生はそっとハンカチを私の顔に当てた。
そして、私は半ば強引に先生に連れられる。
滲む視界で、どこに連れて行かれたか分からない。
けれどもうそんな事どうでもよくて、私は制御できない心に身を任せて、ただただ涙を流し続けた。
「ぐすっ……ぐすっ……」
「落ち着いたか?」
顔を上げると、目の前には優しい顔をした先生が座っていた。
どうやら私は、近くにあった多目的室に連れられたようだ。
きっと私が泣いている姿を、誰かに見られないようにするためだろう。
皆が私の事を色々噂しないように。
私は先生の心遣いに感謝した。
「先生、ありがとうございます……」
「ああ」
「……それと、ごめんなさい」
「……ああ」
先生は私の感謝と謝罪に、そっけなく答える。
けれどその言葉のどれもに、まるでお母さんのような優しさと、お父さんのような大きな背中が見えた気がした。
「……日向と、何かあったのか?」
先生の言葉に、私はドキッと肩を上げる。
好輝の事しか考えてなかった私や、好輝の事で泣いていた私。
その全てが先生にはバレていた。
そう察した瞬間、突然泣いたことも合わさって恥ずかしさと情けなさで心の中がどうにかなってしまいそうだった。
「〜〜〜〜〜ッ!!」
体温が上がる。
顔が火照ってくる。
きっと私の顔は、耳やら鼻やら全て真っ赤だろう。
だから咄嗟に顔を隠し、俯いてしまう。
「……その、バレてるでしょうか?」
「えっと、何がだ? あーよく分からんな、主語と術語はしっかり使わないとな」
先生はなるべく素っ気なく私の質問にそう答える。
けれど……どうやら先生は嘘が下手なようだ。
耳に入ってくる言葉には、動揺や震えがよく伝わる。
それに、あまりも素っ気なさすぎる。
きっと好輝への気持ちはバレバレなのだろう。
だからあえてあの時、私を送るなんて言ったんだ。
相談に乗るために……。
私はその答えに辿り着いた瞬間、顔を隠すのをやめて真っ直ぐと先生を見つめた。
こんなに優しい先生とは、真っ直ぐに目を見て話したい。
例えどれだけ恥ずかしくても、私の全てを聞いてほしい。
そう思って、私は口を開いた。
「……そうか」
口を開いてからはあっという間だった。
心の中に重くのしかかってた重りの全てを吐き出し、そしてその全てを先生にぶつけた。
文法はめちゃくちゃで、現代文の先生であれば聞くに耐えない言葉の数々だっただろう。
それでも先生は、うん、うん、と一言一句全てを真剣に聴いてくれた。
「それで私、その、どうしたらいいか……」
これから好輝とどんな顔で会えばいいのか。
どんな事を話せばいいのか。
……ううん、何より、どうしたら好輝と元の関係に戻れるのか。
その全てがうまく纏められずに出た、どうしたらいいいか。
けれど先生はその全てを汲み取って、優しい声で私の質問に答えてくれる。
「そうだな……確かに優希の言葉は日向を傷つけた。これは紛れもない事実だ」
「……はい」
「でも、優希は決して傷つけたくて日向にそんな事を言ったのではないのだろう?」
「はい、もちろんです」
先生の言葉に、私は真っ直ぐ目を見て答える。
突きつけられた現実に歯を食いしばりながら。
絶対に伝えたい気持ちは、貫く程に視線を向けて。
そうして私が先生の言葉に答えると、先生はある1つの結論を口にした。
「ならその時出した優希の言葉が、優希の本心なんじゃないか?」
「私の……本心……?」
「ああ、人間というのは案外皆正直なんだ。だから咄嗟に出た言葉ほど、その人間の本心に近い」
その言葉に、私の心はギュッと握り締められたかのように痛くなる。
私は本心で好輝に、父親が世界大会準優勝者だから勝てる、と言ってしまったのか……。
だとしたら、私は好輝の事を何も分かってなくて……。
「優希、顔を上げなさい」
「……」
私は今にも泣きそうな顔を、先生に向けた。
自分への失望と怒り。
そして何より、誰よりも好輝を分かっていると思っていた自分の驕りが情けなくて、どうにかなりそうになる。
「先生……私……」
「早合点は良くないな、優希」
「でもさっき、先生が本心って……」
「ああ、しかしその時の言葉が本当に優希の本心なのか、と言ったらそんな事はないはずだ」
「……?」
先生の言っている意味が分からなくて、私は首を傾げる。
けれどどんなに考えても、イマイチよく分からない。
私がうんうんと考えていると、先生は優しい顔で話を続けた。
「ふむ、例えば……そうだな、仲のいい人と些細な喧嘩してしまった時、咄嗟にバカ、とか、嫌いだ、とか言ってしまわないか?」
「はい……」
何度好輝に言ったか、何度好輝に言われたか分からない言葉。
けれど、本当はそんな事思ってもなくて……はっ!
「気づいたか? そう、その時咄嗟に出た言葉もまた本心だ。どんなに好きでも一度喧嘩をしてしまえば好意的な感情は消え失せ、悪意的な感情が押し寄せる」
「……なるほど」
言われてみれば正しくその通りだ。
思い当たる節がいくつもある。
昔好輝と公園で楽しく一緒に遊んだ後、ほんの些細な事で大喧嘩をした。
その時は確か……当時やってたヒーローアニメでどのキャラが1番強いか……て話だったかな。
そんな話、本当にどうでもいい事。
けれどお互いに盛り上がりすぎちゃってさっきまで一緒に楽しく遊んでいたのに、好輝が嫌いになって「もう遊ばない!」なんて言っちゃった気がする。
「うまく伝わったかな?」
「あ、は、はい」
「伝わったなら良かった。でだ、今回のケースはその例とは少し違う。今回優希が咄嗟に口に出したのは励ましの言葉。日向のお父さんが世界大会でいい成績を出したから、日向も出せるという言葉だな」
「……はい」
私は先生の言葉に、妙に素直に返せなかった。
確かにあの時の私の発言を纏めると、そんな言葉ではある。
けれどその言葉が私の本心なのかと考えると……。
うん、違うと言い切れる。
好輝と話していた時、私の本心はもっと違うものだった。
でも全く違うものかと言われると、そんな事はない。
本心と遠いようで近い。
なんだろう、この妙な感覚は……。
「その時でた君の言葉は本心なのだろう。そしてその本心は先程の例とは違って好意的な本心だろう。日向を守りたいというな」
「……」
「さて、どうやら答えに近づいてきたようだな、であれば後は自分で考えなさい」
「へ……? せ、先生?」
先生はここまで親身になって相談に乗ってくれたのに、急に答えの一歩手前で私から急に距離をとった。
後もう少しで答えなのに、後ちょっとでたどり着けるのに……!
「ここから先は優希、君の問題だ。先生はヒントは出すが答えは出さない。ゆっくりと考え、そして自分なりの答えを出してみなさい」
「そんな……」
「1つ目のヒントは言葉に出た本心と心の本心はイコールてはない、そして……そうだな、大ヒントをもう一つ」
「そ、その大ヒントとは……?」
「優希は、現代文が苦手という事だな、特に文法、それも纏め方が」
「そ、そんなのは知ってますし、ヒントなんかじゃ……」
「いいや、これは大ヒントだ、むしろ答えに近いかな。とにかく今日は帰ってゆっくり考えなさい、後の事は先生がやっておく」
先生はそれだけ言うと、変なヒントだけ残して多目的室から出て行こうとする。
よく分からない……。
言葉に出た本心と心の本心はイコールではないというのは何と無く分かったけど、私の纏め力が低い事がどう関係するのだろうか……。
分からない。
分からないけれど……。
「あの、先生!」
「……どうした?」
「ありがとうございました! 先生のヒントはよく分からなかったけれど――」
私は先生に思いっきり頭を下げる。
喉がはち切れそうな程に声を出して、精一杯の感謝を伝える。
こんな事で私の感謝が全て伝わるか分からないけれど、不器用な私は全力でやるくらいしか考えつかない。
だから……!
「全力で考えて、私なりの答えを出したいと思います!」
私は先生にそう誓う。
もうウジウジするのはやめだ!
全然私らしくない!
考えるのが苦手なんだから、悩むより動けば良かったんだ。
「ああ、答えを期待しているよ」
先生は私の誓いに優しく笑って答えると、多目的室を後にする。
私は1人、静まり返った部屋の中でもう一度気合のために頬を叩き、急いで帰宅した。
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「……もう、朝か」
僕は寝起きには辛い、刺すような日差しを目に浴びながら、気怠げな体を無理やり起こしベッドから降りる。
目的はお風呂場。
今日は試合当日だ。
母さんと話してから僕は必死に特訓を繰り返した。
何度もオンラインに潜り経験を積んだ。
そのせいで1日中ゲーム三昧な3日間を過ごしたけれど、お陰で大分腕前が上がった気がする。
母さんが言っていた悩んだ先の答え。
僕の答えは、逃げない、だった。
このまま逃げるのは簡単だ。
でもそれじゃあ一生バカにされたままだし、何よりなんの解決にもなっていない。
それに、僕はフューチャーが好きだ。
だから父さんのあの言葉にも反する事になる。
『好きな事には全力で突き進め』
せめてこの言葉くらいは守らないと、景色云々の前に父さんに顔向け出来ない。
「……」
僕は気怠い気分をシャワーで洗い流す。
1日の最初を告げるシャワーは、気持ちいい気分にしてくれるのと同時に気合を入れてくれる。
今日はそこにほんのちょっとの緊張感。
大丈夫、今日まで僕は散々特訓を繰り返した。
前よりかは確実に上手くなっているはずだ。
その成果を試合で出せば、きっと皆も僕と父さんをバカにしないはず。
それにもしこの試合で何も解決しなくても、その時はその時だ。
また新しい答えを見つければいい。
僕は自分にそう言い聞かせ、キュッキュッとシャワーのハンドルを回し、お湯の勢いを止める。
そしてお風呂場から出て用意した服を着て、リビングに向かった時、僕は母さんと目があった。
「あら早いわね」
「……うん、ねぇ母さん」
「なに?」
朝ごはんを準備してる母さんに、僕は椅子に座りながら話しかける。
母さんはこちらを振り向かず、フライパンで目玉焼きを作っているけれど、しっかりと返事を返してくれた。
「明日から、僕学校に行くよ」
「……そう、分かったわ」
僕の言葉に、サラダの準備をする母さんの手が一瞬止まった気がしたけれど、すぐに何事もなかったかのように料理を続けた。
動揺……したのだろうか。
そりゃあ今まで不登校の息子が、突然学校に行きだすと話したんだ。
……うん、しっかりと謝ろう。
「それと母さん……ごめんなさい。色々迷惑をかけちゃって」
でもいざ謝るとなると、結構恥ずかしいものだ。
僕はテーブルに目を向けながら、なんとか母さんを見ないようにして謝る。
不誠実な気がするけれど、でもこうしないと恥ずかしくてしっかりと謝れる気がしない。
情けないけど、これが今僕のできる精一杯の謝罪だ。
「はぁ、何言ってるの」
僕が下を向いて謝ると、コトンッというお皿が置かれる音と同時に、母さんの声が聞こえた。
「子供はね、親に迷惑をかけてなんぼなのよ、分かったらさっさと食べなさい。行くところがあるんでしょ?」
「母さん……」
目の前に置かれた目玉焼きは、母さんにしては珍しく黄身が潰れて不恰好で、少し焦げていた。
けれど……。
「うん、美味しい……」
その目玉焼きは、今まで食べた中で1番美味しくて、とても暖かった。
「それじゃあ行ってきます」
僕は見送る母さんにそう言って、玄関から一歩外に出る。
久々の外は思った以上の熱気で、日差しが痛いほど僕の皮膚を刺していた。
けれど、僕はめげずにまた一歩と歩みを進める。
こんな日差し、なんて事はない。
僕は逃げないと決めたんだ。
「……好輝」
それから何歩か歩みを進めた時、僕は家から出る陽子とばったりあった。
そういえばあの時から陽子とは連絡すら取っていない。
あの時は完全に僕が悪かったのに、特訓ばっかりで一言も謝罪を言えてなかった。
「よ、陽子……その……ごめ――」
「ごめんなさい!」
だから僕が謝ろうとした瞬間、陽子が僕よりも早く頭を下げて謝った。
「よ、陽子……?」
「私、その、酷い事を好輝に言って……」
「う、ううん! 僕の方こそ急に怒鳴ったり酷い事を言った……ごめんなさい」
お互い頭を下げて謝る。
もう陽子とは長い付き合いだけれど、こんなに頭を下げたのは初めてだし、こんなに頭を下げられたのも初めてだ。
なんだか妙な気分と違和感に僕は顔を上げる。
「じゃ、じゃあ僕はこれで……試合があるから」
だから僕は、気不味い雰囲気から逃げるようにその場から立ち去ろうとする。
逃げないと決めたのに、もうこの様だ。
でも逃げないと……なんだがまるで、今までの気遣いなんてしない関係から一歩下がってしまうような気がして……。
「……まって!!」
「――!?」
けれど立ち去ってからしばらくした後、陽子は僕を引き止めた。
背中に抱きついて。
「好輝……あのね」
……ふわふわだ。
いや違うそうじゃない!
大事なのは成長だ!
昔、陽子が胸のマッサージをしている所を見てしまった事がある。
ああ、努力が身を結んだんだな……。
てそうじゃなくて!!
「私これから、酷いことを言うと思う」
「……え?」
僕がドキドキで心臓がどうにかなりそうになっていると、耳元で陽子の、少し悲しそうで、けれど何か覚悟を決めたような声が聞こえた。
「先生曰く、私言葉をまとめる力がないみたいだから……でもね」
「……」
「今からいう言葉は、全部好輝のための言葉だから。全部好輝を思っての言葉だから……」
陽子はそういうと、吐息が聞こえるほど近くでしばらく無言のまま動かなくなった。
けれど心の準備ができたのか、小さく深呼吸する。
そして陽子の息が僕の耳をくすぐると同時に、陽子のある言葉が僕の耳を貫いた。
「好輝は、好輝である前に日向好輝だから……」
その言葉と同時に、僕を抱きしめる力がギュッと強くなる。
そして陽子は震える声をそのままに、言葉を続けた。
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どうしよう、抱きついちゃった。
心臓の鼓動、聞こえてるかな……。
でも仕方ないよ。
だって好輝が逃げるんだもん。
ああ、でもなんだが落ち着くなぁ。
そういえば好輝とこんなにくっついたの、何年ぶりだっけ。
背中、こんなに大きくなったんだ……。
普段ひょろひょろとしてるけれど、案外逞しいんだなぁ。
「好輝……あのね」
気づいたら私は、口から言葉が溢れていた。
多分落ち着いたからだろう。
伝えるなら今しかない。
結局あの時私がどんな本心だったのか、まだよく分かってないけれど……ああ、そうか。
「私これから、酷いことを言うと思う」
「……え?」
なんとなく先生のヒントが分かった気がした。
私は言葉を纏める力がない。
纏める力がないから、好輝をあの時傷つけてしまった。
でも、好輝はそんな事分かってるはずだ。
今までだって私の言葉を、好輝は全部うまく汲み取って会話をしてくれた。
けれどあの時はお互いに余裕がなかったから喧嘩になったんだ。
なら、今だったら大丈夫なはず。
「先生曰く、私言葉をまとめる力がないみたいだから……でもね」
「……」
「今からいう言葉は、全部好輝のための言葉だから。全部好輝を思っての言葉だから……」
でもあと少しって所で、また喧嘩をしてしまうのではないか、という不安が私の声を詰まらせた。
もうあんな辛い気持ちは味わいたくない。
せっかく仲直りできたのに、また離れ離れなんてやだ。
不安で不安で仕方ない。
けれど……。
ここで伝えなかったら私はきっと後悔する。
好輝はきっとこれから日陰と戦いに行くんだ。
だから、だから私の言葉は絶対に伝えたい!
私はほんの少しの勇気と共に、好輝のちょっと逞しい体に体を預けて、小さく深呼吸をする。
大丈夫、今の好輝なら分かってくれるはず。
私の……私の好きな好輝を信じる。
「好輝は、好輝である前に日向好輝だから……」
そして私は、その言葉を好輝に伝えた。
一瞬好輝の体がピクッと跳ねた。
でも、好輝は何も言わない。
ただ次の言葉を待っている。
ああ、これならきっと、大丈夫だ。
「えっとね、好輝は日向進さんと、日向愛さんの元に生まれて、幸せに育った好輝なの」
「……」
「だから、それだけは忘れちゃダメ」
「……」
「好輝は、日向好輝。その事に誇りを持って」
「陽子……」
心臓のバクバクが止まらない。
どうしよう、好輝にも伝わっちゃってるかな……。
でも、お願い。
私の事は嫌っても……いいから、この言葉だけは伝わって!
「……ありがとう」
好輝は私にそういうと、そっと私の手に触れた。
ああ、ここまでか……。
私は名残惜しい好輝の温もりから離れる。
どうしよう、もう直視できない。
「じゃあ、いってくるよ」
「うんいってらっしゃい、私も応援しに行くね」
好輝も私もその後は結局お互いの事を見ずに、好輝は真っ直ぐ進み、私はその背中を見送った。
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「ここが大会会場……」
僕の家から電車で約1時間。
東京都心にある球状のドームが大会の会場だ。
名前はニュートウキョウドーム。
普段は野球やイベントで使われるこの場所には、フューチャーのゲーム機は置かれていない。
けれど大会用に改造されたのか、普段芝生の会場はコンクリートの床がしかれ、その床の中央部にはアーケード版のフューチャーと、最先端且つ見た事も無いくらい大きなバーチャルビジョンフィールドが置かれていた。
「すごい……」
僕は2階の観客席から試合会場を眺め、改めて自分が出場する大会の大きさを知る。
まず驚いたのは大会の会場に選ばれた施設だ。
このニュートウキョウドームは、増設に増設を繰り返した結果、最大約10万人もの観客を入れる事ができるようになった場所。
その結果、国民的なイベントは勿論、世界的ミュージシャンのライブや、過去にオリンピックの会場も開かれるようになった程だ。
つまり僕が出場する大会は、それらのイベントと規模が同じという事になる。
けれど驚くところはこれだけじゃない。
普段この会場を貸し切る理由はスポーツがメインのため、通常は床一面に人工芝生が生えている。
しかし今回はスポーツはスポーツでも、eスポーツであるために床一面にあった緑鮮やかな芝生は鳴りを潜め、代わりに無機質なグレーの鉄プレートが敷き詰められていた。
一体この工事にいくらかけたのだろう……。
恐らく芝生とコンクリートを入れ替える何かしらの仕組みがあるのだろうけれど、それでもあまりにも強い力の入れように、自然と僕の体は強張ってしまう。
「おや、誰かと思えば日向クンじゃないか」
大会の規模にゴクリと固唾を飲み込んでいると、隣から人を見下したような喋り方の声が聞こえる。
そのあまりにも特徴的な喋り方は、視線を向けなくても誰が喋っているのか分かるほどだ。
「日陰くんか」
僕は日陰の言葉にそう返して、視線をゆっくりと向ける。
そこには余裕そうに、そしてニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべながらウェーブがかった前髪を上にたくし上げる日陰がいた。
「いやぁ、まさか来てくれるとはね。予選一回戦唯一の心配が今消えたよ」
日陰は前髪をたくし上げた手を、観客席の手すりにつけると試合会場を見ながら言葉を続ける。
「あれからキミが学校に来なくて心配だったんだよ? フフフッ、何をしていたんだい?」
「……」
誰のせいでこうなったと思っているんだ。
僕は精一杯の恨み辛みを込めて日陰を睨む。
がしかし、日陰は僕の視線を見ると軽く鼻で笑った。
「ハッ、どうしてそんな睨むんだい? ボクはただキミの評価を元に戻してやっただけなのにねぇ」
「……」
「フフッまあいいよ、また同じように処刑して、今度こそ世界中にキミとキミの父親の無能さを伝える。そうしてボクは過去の呪縛から皆を解き放つんだ!」
「……過去の呪縛?」
日陰のその言葉に、僕は引っかかった。
つい反射的に僕がその言葉を聞き返すと、日陰はもの凄く不機嫌に、そして震えるほど冷たい視線を僕に向けた。
「……よりにもよってキミがそれを聞くのかい?」
日陰は怒りで震える声を整えようともせず、感情をむき出しに言葉を放つ。
「ボクはね、過去の栄光に縋り付く人間が大嫌いなんだよ」
一歩、また一歩と日陰は僕に近づく。
「ボクの周りはみんなそうだ、何が東大だ、何が彗星突だ」
日陰の、そのあまりにもむき出しな感情に僕は、日陰が一歩進むたびに後ろに下がってしまう。
そして等々、僕の背中は壁についてしまった。
「ボクはね、キミが嫌いだ、けれどそれと同じくらい……いやそれよりももっとキミの父親が嫌いで、周りの愚民が嫌いだ」
「……」
「……殺してやりたいくらいにね」
日陰は最後にそうボソッと呟くと、僕に背を向ける。
そして一切振り返らずに試合会場へと向かう。
けれど数歩進んだ所で、突然日陰は歩みを止めた。
「日向クン」
「……なに?」
日陰は僕の名前を呼ぶ。
その声にはもう、怒りの表情は見えない。
けれど代わりに、凍えてしまいそうな程の殺気が声に乗っていた。
僕は勇気を持ってその声に答える。
すると日陰はぐるりと顔だけこちらに向けた。
いつものようにニヤリとした気持ち悪い笑顔を向けて。
「覚悟しなよ、今度こそキミを社会的に抹消してやる。親共々ね」
そういうと日陰は、その後一切振り返る事なく真っ直ぐ大会会場へと向かった。
声が震えるほど怒りを表していた直後にあの笑顔。
僕はあの笑顔に恐怖と気持ち悪さを感じたけれど、でもほんの少し日陰という人間に同情を覚えてしまった。
「日陰は、心の底から笑った事があるのかな……」
一瞬そんな考えが浮かんだけれど、すぐに僕は振り払って大会会場に向かう。
日陰は倒すべき敵だ。
この大会で僕は全力を出し、そして父さんの評価を取り戻して見せる。