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赤い薔薇

作者: 東創一

僕は街のはずれの大きな家に生まれた。父と母は子宝に恵まれなかったらしく、ようやく生まれてきたのが僕だった。


父は仕事で世界を飛び回り、家には滅多にいない人だった。僕も母も寂しかった。しかし、仕事が片付いた時には、たくさんのお土産を持って帰って来てくれた。僕は、家族みんなで食卓を囲みながら父の話を聞くことが大好きだった。


また、僕には屋敷の中に兄のような存在がいた。その男は、まだ若く体格の良い庭師だった。男は敷地に広がる薔薇の花を毎年見事に咲かせていた。

僕は男によくいたずらをした。茂みから飛び出して驚かせたり、帽子を盗んで被って見せたりして楽しんだ。男はそのたび大きな声を出して笑い、分厚くごつごつした手で僕の頭をかき撫でてくれた。


ある日のことだった。薔薇園の中央には、白色の華やかなドームがある。僕はその薔薇園の茂みに隠れていた。男が仕事を終わらせたあとによくそこで薔薇を眺めていたのを知っていたから、驚かせようと思っていたのだ。

僕は体を縮ませ、男がやってくるのを待った。すると、遠くから足音が聞こえてきた。しかし、その音は一つではない。どうやら男の他に誰かいるようだった。

僕は興ざめしてしまった。かといってすぐ茂みから出ることもなんだか躊躇って、そのまま体を縮こめていることにした。

足音がドームに近づいた頃、急に足音が乱れた。何かがぶつかる音と、花が揺れる音がした。

その時、あっ、と女の高い声が聞こえた。女は続けて、か細い調子でだめよ、と言った。

母の声だった。どうやら男と歩いていたのは、僕の母であったらしい。


僕は茂みの隙間から、薔薇の茂るドームを覗き見た。そこにはやはり、母と庭師の男がいた。男はまるで何かに焦れるように母の腰を引き寄せて、母の口に何度も噛み付いていた。母は男を押し返していたが、やがてその手は男の背中に巻き付いた。

まるで、普段の二人とは別の人間を見ているようだった。あの男もあの女も、薔薇園に迷い込んだ別の誰かなのではないかと思った。

二人が薔薇園を出て行くまで、僕は何故かずっと動かずにいた。




久しぶりに父が帰ってきた。その日はみんなでレストランに行って食事をした。帰りには、街で有名な劇場に足を運んだ。

劇の山場、街で一番の美女と怪盗の男が口をくっつけた。「私たちは結ばれてはいけない運命なのよ」「運命であろうと構わない。たとえ誰に邪魔をされたとしても、絶対に君を連れ去ってみせる」二人はまた口をくっつけた。男の腕はぐっと女を引き寄せ、女は男に縋り付いていた。

僕はこの光景を、どこかで見たことがあった。



劇場を後にし、僕たちは屋敷に帰ってきた。父と母は、暖かくて香りの良い紅茶を飲んでいた。僕も飲みたいと言うと、夜中にトイレに行きたくなってしまうわよ、とカップを遠ざけられてしまった。

僕はふと、劇場でみた男と女を思い出した。

ねえお父様お母様、あの二人はどうして口をくっつけたの?僕は聞いた。

父と母は少し驚き、顔を見合わせた。そしてお互いに微笑むと、父がこちらに向き直った。あれはね、大好きだと言う気持ちを表しているんだよ。あなたを愛していると言う気持ちが言葉で伝えきれなくなった時、ああやって口付けをするんだ。

父はそう言った。愛していると言う気持ちを表す。そういえば父が帰ってくるときには、母と父が必ず口付けをしているなと思った。そして父はそのあと、必ず僕の頬にも口付けをしてくれるのだった。

僕は嬉しくなった。口付けは愛の証拠なのだ。父にも母にも僕にも、愛が存在するのだ。愛、口付け。そして思い出したのは、あの日の薔薇園だった。そこで僕は、こう言った。

僕知ってる!前にお母様と庭師が口付けしてるところを見たもの!あれって、愛してるっていう意味だったんだ!



すると途端に二人の動きが止まった。石になってしまったかのように、ぴしりと顔を強張らせていた。

やあね、きっと見間違いよ。だって私はそんなことしておりませんもの。思い違いよ。していないわ。

母は、なぜか少し声を震わせて答えた。顔は微笑んでいたけれど、その目がこちらを向くことはなかった。僕は思い違いだと言われたことに腹を立てた。あの日の記憶は、決して見間違いではなかった。

嘘じゃないよ、だって僕は見てたもの。あのドームだよ、あの薔薇園の!僕は嘘なんかついてない!

僕はどなった。すると、母は急に大きな声で、黙りなさい!と僕を叱った。僕はむかむかして、更に大きな声で叫ぼうとした。しかし、その声は父が机を叩いた大きな音でかき消された。


もうやめなさい。今夜はもう寝よう。ほらはやく、さあ、部屋に戻るんだ。

父は僕の手を引き、廊下へと押し出した。顔を向けようとすると押し返され、父の表情は見えなかった。抵抗したが、父が何度も背中を押すため仕方なく歩き出した。なんとか後ろを振り返ったとき、扉の隙間からは手で顔を覆った母の姿が見えた。




しばらくして、父はずっと家にいるようになった。その代わりに、母が部屋から出てこないようになった。僕は何度も母の部屋の扉を叩こうとしたけれど、母の世話係が、奥様は調子がお悪いですから、といつも僕を追い返した。


父は僕と顔を合わせる度に、何故か僕を抱きしめて大丈夫だ、大丈夫だと頭を撫でた。僕には、それが何に対しての「大丈夫」なのかがわからなかった。

いつしか、庭の花が枯れていった。そういえば庭師の男の姿を見なくなった。僕は父に問うた。すると父は目を逸らして、さあ、どうしてだろう、と言ったきり何も喋らなくなった。

あの夜僕が口にしたことが二人に悪いことを与えたのではないか。僕はもう薄々と気が付いていた。そして父はもう、僕の頬に口付けをしなくなった。




それからまたしばらく時が経った。母が危篤になったと世話係が伝えに来た。重い扉を開けて久しぶりに見た母は、随分と痩せ細っていた。僕は病床に近付き、お母様、と声をかけた。母はゆっくりとこちらに顔を向けたが、その目はどこか遠くを見つめているようだった。お母様、僕はもう一度彼女を呼び、その手を握った。落ち窪んだ目は、ようやく僕のことを見つめた。

痩せ細った手が僕の頬に触れた。そこからしばらく、二人とも見つめあってじっとしていた。もしかしたら何秒かの出来事だったのかもしれない。しかし僕には、随分と長い間そうしていたように思えた。母は僕の顔をじっくりと見つめたあと、乾いた唇を動かして口を開けた。


ああ、あなたが、


母はゆっくりと、掠れた声でそう言った。そのまま母はまた眠ってしまった。乾いた手の感触が、やけに頬に残っていた。

ああ、あなたが。その後何と言おうとしたのだろうか。



ああ、あなたが、私を殺したのよ。



何故だかそう言われた気がした。

その日の夜、母は息を引き取った。




母が死んでから、いくつか年が過ぎた。

僕は今年18になった。父は部屋に籠りきりになって、食卓で僕と顔を合わせると飲み物だけをぐいと飲んですぐ部屋に帰るようになった。食卓には、母も父も、たくさんのお土産もなくなってしまった。食卓にあるのは、暗い静寂と味気のない僕だけだった。

薄暗い部屋の中で、ナイフとフォークを手に取る。ナイフに写った僕の顔は、父にも母にも、どちらの顔にも似ていなかった。




ある日、屋敷に新しい使用人が入ってきた。

顔にそばかすが散らばった、田舎っぽくて粗い女だった。僕と年がそう変わらないらしく、その女は僕の世話係になった。


女は無愛想だった。無駄話はせず、ただ与えられた仕事だけをこなしていた。僕は特に不満もなく、ただ女が仕事をする様子を眺めていた。

しかしある時、その女が部屋に薔薇を飾ったことがあった。甘くてきつい薔薇の匂いが、僕の頭をぐらぐらさせた。

おい、その花を片付けてくれ。そう言うと、女は珍しく表情を動かした。

薔薇はお嫌いですか。そう言いながら、花瓶から一本薔薇を引き抜いた。今が薔薇の見頃で、この花は特に綺麗に咲いたのだ。女はそういうようなことを言って、僕の方へそれを差し出した。


薔薇は露に濡れていた。何層にもなった花弁が、押し迫るようにその赤い色をぎらつかせた。目の眩む赤と絡みつく匂いに、僕はたまらなくなってそれを押しのけた。

すると、女はあっと声をあげた。

その手を見ると、女の指に一筋の赤い線が出来ていた。棘が当たったらしく、少し時間をおいてからぷつりと血が滲み出した。

すまない、僕は慌てて謝罪した。女の指をハンカチで包もうとすると、今度は女の方が慌てて声をあげた。いけません、そんなに綺麗なハンカチで拭いては。血で汚れてしまいます。女はそう言ってなおも抵抗しようとしたが、僕は構わず彼女の指を包み込んだ。指から流れる赤色が、ハンカチの白を染めた。

ああ、と女は困惑した。けれども僕がじっと黙っていたので、女も喋るのをやめたようだった。


しばらくして、僕は口を開いた。君は、薔薇が好きなのか。そう問うと、女は下を向いたまままばたきをした。好き、と申しますか、大切な花なのでございます。そう応えた。

大切な花?そう聞き返すと、ええ、と言い、女は喋り出した。


私の母は大の花好きで、仕事の合間に花屋に行っては、季節の花を買って帰って来ました。白い花、黄色い花、紫の花…。その中でも特に母が好んでいたのは、真っ赤な薔薇でございました。

この花は、愛と情熱を表している。私はこの花のように情熱を持って仕事をし、この花のように深くお前を愛しているのだ。薔薇を買ってくる度に母はこの言葉を繰り返し、私を抱きしめてくれました。


そう母について語る世話係の女は、どこか遠くを見つめていた。僕はひとつまばたきをして、そうだったのか。それはいい母君だ。それで、母君は今どちらに?と聞いた。


すると、急に女の顔に陰が差した。今はどこで何をしているのか、全く知りませんわ。ただそれだけを言うと、するりとハンカチから手を引き抜いた。女の顔は、いつもの無愛想に戻っていた。

聞かないほうがいいかもしれない。それは目に見えてわかることだった。しかし僕は、その無愛想な女の内情を、どうしてか、どうしても知りたくなった。女をじっと見つめて、心臓よりもっと内にあるものを見たいと思った。


だから聞いた。どうして知らないの。じっと女を見つめながら聞いた。女はやはり踏み込まれたくなかったらしい。眉間のしわを増やして床を睨んでいたが、息をひとつ吐き出すと、勢いに任せて喋り出した。



…出て行きましたの。私が12のときに。

もう耐えられないと言って、大きなカバンを持って行きましたわ。ごめんね、ごめんねと言って泣いていました。母が耐えられなくなったのは、私の顔を見ることです。というのも、私のこのそばかすが散らばった顔が、母の友人にそっくりだったからなのです。

私の父はどうしようもない男だったそうで、酒を飲んでは暴れていたようです。母は夫婦という繋がりがある以上、彼を放っておけなかったようですが、私に言わせてみればそんなものは捨て置くべき存在だったのです。

両親とその友人は学生時代からの知り合いで、両親が結婚してからも付き合いは続いていたそうです。

しかしある日、父とその友人が交通事故を起こしました。母が病院に着いたとき、すでに二人は死んでいたそうです。原因は父の飲酒運転でした。母が立ちすくんでいると、医者がつかつかとやってきて、女性は妊娠しており、なんとか赤子だけは助かったのだと言いました。その腕には、小さな赤子が抱かれていました。


母はそのとき、私が父と友人の不貞の末に生まれた子だと悟ったようです。それでも、この世に残された者として、この子を育てていかねばならぬと私を引き取りました。良くも悪くも、正義感の強い女だったのです。


私が小さいときは、先程申し上げました通り、母は私を愛してくれました。しかし、私が成長するにつれ、愛することが困難になったのです。私の顔は、どんどんその友人の顔に似て行きました。ふとした横顔、笑ったときの目の形、そして何よりこのそばかすが、私を友人の子たらしめる証拠となっていったのです。

私を愛すれば愛すほど、顔を見つめれば見つめるほど、虚しさと腹の底に眠った怒りが母を苦しめました。友人の裏切りと夫の不誠実という事実は、いつまで経っても消えないのです。

母はこれを告げて出て行ったあと、二度と私に連絡をよこしません。それから私はずっと、会ったこともない女の顔をここに掲げたまま生きているのです。


女はここまで言い終わると、さくりと花瓶に薔薇を差した。指の血はもう止まっていた。





それからまたしばらく時が過ぎたある日、親しくしていた商家から縁談が持ち込まれた。あれよあれよと過ごすうち、僕にはいつのまにか許嫁ができていた。写真でしか見たことのない妻は、行儀良く椅子に座ってこちらを見つめていた。


僕はどさりと椅子にすわり、天井を眺めた。この女と結婚式をあげる姿、共に家に住む姿、子供を育てる姿。それらは全て、自分の未来として頭に映し出すことができなかった。僕はこれからどうなるのか。いくら考えてみても、頭の中はぼんやりと霞んだままだった。


すると、部屋の扉を叩く音がした。世話係の女だった。女はテーブルにティーポットを置くと、こちらを見て口を開いた。

顔色が悪いようですが、ご気分が優れませんか。そう言いながら紅茶を注いだ。ふわりと部屋に紅茶の香りが立ち込めた。

気分が優れないわけじゃない。考え事をしていただけだ。僕がそう答えると、女は無愛想な顔のまま、そうですかと答えた。


テーブルのそばの花瓶には、名前の知らない白い花が置いてある。女が世話をしている花だ。女は様子を見るように花に触れ、花の向きを揃えた。僕はその様子を眺めていた。

あれから女は薔薇を飾ることはなくなった。しかし花瓶の中の花が変わるたびに、僕はあの赤い薔薇を思い出さずにはいられなかった。

もう、薔薇は飾らないのか。二度と薔薇など見たくないのに、口からそんな言葉が出た。女は怪訝そうにこちらを見ると、薔薇はお嫌いだと仰っていたので、と答えた。女の手はまだ白い花に触れたままでいる。僕の目には、何故か女の指の怪我が思い出された。手にできた赤い筋からぷくりとあふれた血の玉が、ぎらりと僕を責めたように見えた。


思わず眉間にしわを寄せると、女は花から手を離してこちらに近づいてきた。やはり気分が悪いのではないですか、と僕の顔を覗き込んだ。

実際僕は気分が悪かった。何かに頭をぎゅうぎゅうと圧迫されて、じんわりとべとついた汗をかいていた。

女は僕の顔を見るなり、やっぱりそうだわ、すぐにお医者様を、と部屋を出て行こうとした。


しかし、僕は女の手を取った。女は驚いて振り返った。なぜ手を取った?何を言おうとしている?僕はこれから何をしようとしている?考えようにも、圧迫された頭のなかでは、すべてが他人事のように滑り落ちていった。

僕は圧迫された頭の外から、僕自身がどうするのかをぼんやりと見つめていた。




似てないんだ。

僕はそれだけを言った。頭はまだ圧迫されている。女はまた怪訝な顔をして、何に?と問うた。汗が鬱陶しい。何を答える?頭はまだまだに圧迫されている。が、僕はそのまま問いに答えた。




似てないんだ、僕の顔は。父にも、母にも。どちらにも、似ていないんだ。だけど、

昔家にいた庭師の男に、よく似てる。




女は何も言わなかった。何も言わないまま、僕の顔をただ見つめていた。

ぎしりと力を込めた手が、女の腕に食い込んでいる。僕の指は、もう感覚がなかった。

僕も女の顔を見た。僕はようやく圧迫された頭の中に入り込んで、ピントが合った瞳にこう言った。




君には、僕が誰に見える?





額からとろりと嫌な汗が流れた。自分は一体何なのか?僕は本当は、ずっとこれが知りたかった。女の頬に広がるそばかすが、まるで星空のようにちかちかと僕の目を眩ませた。小さくて細かいきらめきの中で、女の目はじっと僕の顔を見つめていた。すると、掴んでいた白い手が僕の頬に伸びてきた。




あなたは、あなたよ。




目前に迫った星空の中、彼女は確かにそう言った。あのまとわりつく赤はもうそこにはなかった。女は自分の顔を、会ったこともない女の顔だと言った。しかし僕には、白くて、ぎこちなくて、他の誰でもない、とても美しい女の顔に見えた。僕は僕のまま、彼女の顔を、ずっと見ていたいと思った。





そうして僕らは、かつての「父」と「母」のように口付けた。

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