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後編・もう恋なんてしない

 思えばそれは、「初恋」という恋の経験値の無さから来る臆病な心以外、何物でもなかった。


 そう、それは「初恋」。

 淡く、甘酸っぱい感情。


 ずっと。

 その想いは続くと思っていた。

 私は先輩だけを想い続けると。


 そう。

 例え想いは告げずとも。

 この想いは続いていく。

 想いは告げない。

 この胸に秘める。


 私の生ある限り、ずっと……。


 そう、信じていた。

 幼かったあの日々。



 ◇◆◇



「そう、その感じでそっと茶筅(ちゃせん)を持って」


 静かな礼法室内。

 私のすぐ右隣の場所に朝賀先輩が座っている。


 息が届きそうな程、近い……。

 私はその近さに(くら)みそうになりながら、そのよく通る低いハスキーボイスを聴いている。


 朝賀先輩。

 ルックスだけじゃなくて、声も抜群にいい。

 耳元で囁く先輩の声にぞくぞくする。

 そんなことにも恍惚(ウットリ)としている自分(わたし)


「そこで、柄杓(ひしゃく)をこう持ちかえて」


 その時。

 朝賀先輩の右手が私の右手に重なった。

 ビクリと体が大きく震え、私は心臓が止まるかと思った。

 男の人の手なんて恭平以外、触れたことのない私には、それは充分刺激的な出来事だった。


 でも。

 そんなことおくびにも出さない。

 先輩にこの想いを悟られてはいけない。

 それは、心の奥底にそっと秘めた想いだった。



 けれど春夏秋冬。時は巡り。

 二度目の春────── 



 その春一番の東南東の風が吹く頃。

 どうして。

 告白しようなんて思ってしまったのだろう……。


 それが全ての過ちだった。



 ◇◆◇



 頬を撫でる風が冷たい、春未だ浅い卒業式の夕暮れ。

 北校舎のまだ芽吹かない大きな桜の樹の下で、私は朝賀先輩と対峙している。


「朝賀先輩。……好きです。ずっと、好きでした」


 そうはっきりと告げた私の目を、先輩はじっと見つめている。

 でも、その優しいまなじりは、私の瞳を通り越して何を見ているのか……。


 私はその沈黙にただ震えた。


「ありがとう」


 ややあって、先輩はいつものように柔らかく微笑み、いつものように静かな口調で低く呟いた。

 それはバスバリトンの低いハスキーボイス。

 その類稀なルックスよりも何よりも、私の一番好きな先輩の声……。


 でも、その声が紡ぎ出す次の言葉は残酷だった。


「君の気持ちはとても嬉しいよ。だけど。僕は卒業して東京に行く。佐々木(ささき)さん。茶道部の活動、頑張って」

 先輩は、柔らかな茶色い前髪を節太く長い指で払い、私を穏やかに見つめながら、

「春から入ってくる後輩たちの指導を頼むよ」

 と、やはり静かに呟いた。


「じゃあ、僕は行くよ」

「先輩……」


 行かないで。

 行かないで。


 心は叫ぶ。

 行かないで下さい……。

 ずっと私の瞳を見つめていて。

 お願いですから……先輩……!


 私のその悲痛な心の叫びは、果たして先輩には届かなかった。


「元気で」


 そう言い残して、先輩は私の前からフェイドアウトしていく。

 それは出逢いの時と同じように、やはりスローモーションの緩やかな動きだった。


 私の前を通り過ぎていく長い、長い影。

 その影を私は、ずっと、ずっと見送っていた。

 その蕾さえまだつかない大きな桜の樹の下で。


 いつまでも。

 いつまでも。



 ◇◆◇



「杏! 杏!」


 黄昏時(たそがれどき)もとうに過ぎ、その夜も更けてきて。

 桜の樹の下にうずくまっている私の背後から足早に近づいてくる。

 その声を、私は無視して尚、虚ろに宙を見つめている。


「おい、探したんだぜ」

 恭平は、私の右肩を掴んだ。

「帰ってこない、LINEも繋がらないてお袋さん、心配してるぞ」

 携帯(スマホ)はとっくにオフっていた。

 家に帰る気にはなれなかった。

 私は、二度と戻らない先輩の(すがた)だけを独り夕闇の中、探し続けていた。


「お前……」

 泣いてるのか……という恭平の声は遠く、私の耳には、先輩の最後の声だけがリフレインしている。

「杏」

 恭平は、私をその広い胸にそっと引き寄せた。

「う……」


 私の口から嗚咽が漏れる。

 それまで(こら)えていた全ての感情が溢れ出す。


「杏……泣くな」

 そう言う恭平の口調は優しい。

 ただ私を抱き締め、髪を梳いてくれる。

 私は恭平の胸に縋りつき、涙を零した。


「先輩……先輩……」

 そう言葉にしながら泣きじゃくるだけの私を、どういう気持ちで恭平は抱き締めているのか。

 私には思い遣るゆとりが全くなかった。


 幼馴染のやさしい関係。

 その距離感に甘えてた。

 春は未だ浅く、東南東の風は肌に冷たくて。

 黄昏の後の夕闇の色はやけに目に染みて。

 こんなに辛い想いをするのなら、もう誰も好きにならない。

 もう恋なんてしない。

 この胸の痛みはきっと……。

 

 私は。でも、私は……。

 私を胸に抱いたまま髪に優しく手を当ててくれている恭平が、小さく溜め息をついたのも知らないで……。


「初恋」は成就しなかった。

 私の想いは、泡と消えた。


 けれど。

 その時は思いもかけなかった。


 恭平との間に「本物の恋」が実るのは、まだ更にこれから一年後の春の(こと)だってこと────── 



  了




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