雨音
傘を差しながら、街中を歩く度に、肌にじっとりとした、嫌なべたつきが増していく。
六月に入り、梅雨の真っただ中でもある季節。雨が止む気配は一向に見られない。気温の上昇に伴い、傘の取っ手を握る右手にも、しっとりとした感触がある。
(そろそろ、梅雨明けないかな)
社会人二年目となる弓削紗耶は、何度も重い溜息をつきながら、脳内で同じ言葉を反芻する。
梅雨の時期は毎年苦手だ。只でさえ、乾きにくい洗濯物が室内干しの為、余計に乾きにくくなる。外に出るにも傘が必要となる。お気に入りの靴は、歩道の至る所に存在する
水たまりの飛沫を受け、濡れそぼってゆく。
「もう嫌だな。早く家に帰ろう」
たなびく黒髪が雨に濡れてしまわないように、差している傘の位置を調整する。
手に下げていたバッグは、もう降り続ける雨の水滴が滲み、触るのも億劫な程である。
「早く晴れてよね。洗濯物乾かないじゃない」
ぶつぶつと文句を言いながら、足早にアパートへと足を運んだ。
アパートに到着し、リビングを素通りした後、寝室のベッドへ疲れた身体を投げ出した。びしょびしょになった靴は、玄関で脱いでそのままだ。乾かそうとする気力も無い。
室内に干されている洗濯物から、生乾きの匂いがする。その匂いに顔をしかめた。これから行う事を考えると、身体が金縛りにあったかのように動けなくなる。
しかし、行わなければならない。疲れた身体に鞭打ち、ベッドから起き上がり、寝室から出て行った。
一仕事を終え、寝室に戻ると、頭痛と吐き気が同時に襲ってきた。せっかく外出先で、友人とランチを楽しんだ後だが、今にも全て吐き出してしまいそうだ。
「何で?食べたレストランで何かあたったとか?」
一人疑問に首を傾げながら、先程のランチの内容を思い出す。確か、フランス料理専門店で、様々な料理を食べた記憶がある。魚介類がふんだんに使われていた。どの料理も長い名称がつけられていた。
沙耶自身、記憶力にはあまり自信が無い。
料理名もしっかりと暗記はしていなかった。どんな食材がどの位出されていたのかも、ほとんど覚えていない。
どの料理も、舌がとろける程の味わいのある代物であった。とてもそれらの料理が、今の体調不良に繋がるとは思えなかった。
「横になれば治るでしょ」
体調が悪い時は、横になる。昔から、沙耶はその感覚が身についていた。痛み止めも服用せず、ゆったりとした部屋着に着替えると
ベッドに倒れこみ、すぐに寝息を立てた。
数時間後
ピピピ……
横になる前に、予めセットしておいた、スマートフォンのアラームが室内に響き渡る。
沙耶はまだ、完全に目が開いていない状態であった。手探りでアラームをスヌーズに切り替える。もう少しだけ寝ていたい。まどろみの中で、ずっとそう考え続けていた。
五分後
ピピピ……
再度、同じ音量、同じリズムでアラームが鳴り響く。流石に起きなければ。そう思い立ち、まだ眠気の残る身体を、ベッドから引き?がすかのように、上半身だけ起こした。
上半身を起こす事は出来たが、なかなかベッドから抜け出す気力が湧かない。まるで、ベッドそのものに下半身だけ縛り付けられているような感覚だ。吐き気は無いが、頭痛がまだ治まらない。
「嘘でしょ。もういい加減にしてよ」
頭痛が激しくなる度に、湧き上がってくる苛立ちを何とかして抑えないといけない。これでは、明日からの仕事にまで、支障をきたす事は誰が見ても想像に容易い。
(どうしようかな、そうだ!)
窓に打ち付けている雨粒の音にさえも、苛立ちを感じながら、脳内で閃く。冷蔵庫に先週買っておいたビールがあるはずだ。それを飲めば、少しはこの頭痛から解放されるかもしれない。
ベッドから抜け出し、冷蔵庫へと向かう。
しかし、冷蔵庫が開かない。開けれない。
「あれ?どうして?」
引っ越しの際に、中古で安く買ったせいかと考えながら、何度も取っ手に手をかけて、力の限り思いっ切り引っ張る。
びくともしない。
「えーーー!」
頭痛と苛立ちでごちゃ混ぜになる脳内を、頭をかきむしる事で何とか誤魔化す。諦めるしかない。明日にでも、業者に来てもらうべきかと考え込む。
「ビールが駄目なら、シャワーかな」
シャワーでも浴びて、汗ばんでいる身体を洗い流せたら、さぞ気持ちが良いだろう。そう思い付くが、冷蔵庫の前から、なかなか離れる事が出来ない。
何故か、シャワー室へと足を向ける事が出来ないでいる。理由は分からない。だんだんと視界までぼやけてきた。耳鳴りまで起こりだす。断続的な音が脳内に響く度に、何度目かも分からない吐き気が伴う。
アルコールを摂取していない筈なのにと疑問を頭に浮かべながら、ふらつく足取りで室内の窓際へと身を寄せ、床に座り込む。
パタパタパタ……
雨音が消えない。まだ雨は止みそうにも無い。今、どの位雨が降っているのか気になり、
何気無く窓の向こうへと視線を移した。
外は嫌になるぐらいの土砂降りだ。雨のせいで視界が悪い。今は、沙耶自身の視界がぼやけている為、余計に外の景色が歪んで見える。
窓から目線を外す。
ゴロゴロ……ドーン!
突然の大音量に身がすくむ。どうやら、近くに雷が落ちたようだ。音が鳴る前に、窓から、一瞬白い光が入り込んだ。光は暗くなっていた室内を一気に照らし出した。
すぐに、室内はまた真っ暗になったが、照らし出された室内の光景が眼に焼き付いて離れない。
白い壁紙に飛び散った血飛沫。テーブルの上に乗っている、包丁とのこぎり。両方に、真新しい血がびっしりとついている。まだ、血が乾ききっていない為、テーブルから血が、雫のように滴り落ちている。
雷の音により、意識が鮮明になる。視界も開けてきた。鼻腔に鉄に似た匂いが充満する。
あまりの匂いにむせ返りそうになり、両手を
鼻に当てようとする。
両手は、血で真っ赤に染まっていた。
痛みはどこからも感じていない為、自分の血で無い事は明らかである。赤黒く染まった手を見つめながら、今日の朝の事を思い出す。
今日は、数年ぶりに会う友人と室内でお互いの彼氏について、愚痴を言い合っていた。
その時、友人がふと、うなだれる素振りを見せた後、実は今まで沙耶の彼氏に好意を抱いていた事、先週告白して、了承を得られた事まで聞いた。
衝撃的だった。裏切られた。その思いが脳内を支配する前に、目の前には包丁で滅多刺しになり、息絶えた友人がいた。
激しく動揺した。殺した。殺してしまった。
お昼には他の友人とランチがあるのに。どうしよう。そんな事を不安に感じながら、ひとまず遺体をシャワー室に運び入れた。自身にかかっていた返り血を拭う事も忘れていない。
何食わぬ顔で外出。ランチの後は、すぐに帰宅し、帰り際に購入しておいたのこぎりで遺体を切断。非常に根気の必要な作業であった。
作業を終えた後、冷蔵庫に遺体を詰め込み、開けられないように頑丈なビニール紐で縛った。その後は、疲れが募り、ベッドに横になった。
全てを思い出した沙耶は、今も窓に打ち付ける雨音に身を委ねながら、これからどうしようかと思案に更けていった。
どうせなら、雨が排水溝に流されていくかのように、私のこの行いも、全部流れていけばいいのにと、言葉にならない声を上げながら、立ち上がる事も出来ず、途方に暮れた。
遠くからサイレンの音が聞こえる。当然であろう。室内にたちこめる鉄の臭いは、近所にまで届いている筈。気付かないほうがおかしい。
徐々に近づいてくるサイレンの音に、意識を委ねる。その音を聞くと、何故か安心感に包まれ、涙が溢れ出し、止まらなくなる自分がいた。




