堕落
男は退屈に身を任せ、ベットに体を預けながら虚無の目の中にスマートフォンをとらえていた。彼は、大学入学後に所謂燃え尽き症候群に陥り、学問にもかつての慰み事にも関心が持てず、只々インターネットの海に湧き上がる動画を鑑賞する日々を送っていた。彼自身もそのような非生産的な日々をよく思っていなかった。受験勉強に励み最高峰の大学の一角に見事合格を果たした彼は、家族や親戚といった周囲からの期待をのべつ幕なく感じていた。しかし、その期待に応えたいという想いの一方で、では何をすればいいのか、いつまで期待という名の重圧に苦しまなければならないのか、そういった鬱屈した想いが併存していた。この背反した2つの感情に板挟みにされ、彼は何事もやろうと思えなかった。将来のことを真面目に考える気にもなれず、かと言って一般的な大学生のように群れて刹那的快楽を得ることも好まなかった。彼は自分が何をやりたいのか分からなくなり、能動的に行動しなくなっていった。そして彼は、次第に専ら動画を見続けるという究極的な受動趣味に時間を費やすようになっていた。
彼の鑑賞する動画は、決して為になるようなものであってはならなかった。彼にとって動画鑑賞とは、閉塞した現世から解き放たれる救済の時間なのであり、そこに介入する現世での生活の知恵や雑学、果ては雑談の種となるようものでさえも好まなかった。このような偏食家である彼のお眼鏡に適う動画はそう多くはなかったが、確かにあった。その中で、彼はVtuberの動画を嗜好していた。Vtuberとは、3Dモデルで作られた人物の動作に合わせて実在の声優等が声を当て、さもその人物が電脳空間に実在しているかのように見せかける動画の主役を指す語である。一般的にVtuberの動画は、主にゲーム実況や雑談等といった見るものに何も残さない非生産性の象徴であり、その3Dモデルの愛らしさや滑稽さで視聴者を集めていた。彼自身、Vtuber等というものが実際に存在せず実物の人物が声を当てている偶像に過ぎないと自覚していたが、その非実在性が動画鑑賞の桃源郷的性質を高めるように感じ、見貪っていた。
その日も、彼は大学の授業が終わるなり即座に帰宅し、部屋着に着替えスマートフォンを充電器に接続し、床に寝転がった。今日も大学の講義は難解で、勉強しなくてはならなかったが、到底机に向かおうとは思えなかった。段々と専門性を増し、理解に時間がかかるようになっていく講義に対し焦燥感に駆られながらも、勉強しない自分に失望していた。憂鬱な気を晴らそうとお気に入りのVtuberの動画の再生ボタンをタップする。喧しいBGMと共に、白髪ショートヘアでフリルのついた可愛らしい服をまとった女の子が画面内に登場する。今回は雑談回のようだ。少女の愛らしい動作を呆けたように眺めながら、とめどなく湧き出る思考に埋もれる。なぜ俺はやる気が出ないんだ?なぜ俺は前に進んでいないんだ?なにを俺はやりたいんだ?親に金を払ってもらって俺は今何をしているんだ?なぜ俺は大学に進んだんだ?俺の人生とはなんだ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ・・・————朧朧たる心肝の中、彼は眠りに落ちた。
男が目を覚ますと、そこは見慣れない真っ白な空間だった。未だしっかりと働かない脳で彼は考えた。さっきまでは確かに動画をみながら下宿の床で寝転がっていた。しかし、今は立体的配置が分からないほどの純白さで埋め尽くされた空間にいる。そもそもこんな空間は現実にありうるのか?ははあ、分かったぞ、これは所謂明晰夢というやつだな。どれ、せっかくだし動いてみるか。睡眠をとったからなのか、彼の先程までの鬱々とした想いは薄まり、彼の心はこの特異な状況への好奇心で占められていた。
寝転がっていた体の上半身を起き上がらせると、彼はいくつかの違和感に気づいた。まず、頭が重く動かす度いつも以上に空気抵抗を感じる。これは髪が伸びているのか?彼は元来外見を気にしない性格であったため、過ごしやすいスポーツ刈りが通常であった。しかし、今では頭を動かすと後ろ髪が首筋に触れくすぐったくなるほどである。また、上体を起こして目に入るのは、フリルのついた可愛らしい服を着、さらにはスカートまで履いている自身である。これではまるで先程まで見ていた動画の少女ではないか・・・。いや、待てよ。明晰夢ではその人の願望が再現されると聞く。つまり俺はひそかにVtuberの少女に憧れ、こうなりたいと願っていたのか・・・?彼は複雑な感情を抱きながらも自分の頭髪を数本抜いてみると、それはあの紛れもない白髪だった。抜く際に痛みが生じたが、明晰夢ではそういったこともあるだろうと気に留めなかった。
彼はしばらく呆然としてから変化した自分の体をひとしきり探ってみた。鏡がないため顔はどうなっているのか分からなかったが、どうやら体と声はまさにあの動画のVtuberの少女そのものであるようだった。しかし、どういうわけか服は脱げない。いくら自分の力を込めて脱ごうとしても、動作の途中で体が動かなくなりそれ以上は元に戻すしかできなくなる。少女の純潔を守ろうという俺の潜在意識なのだろうか?一通り自身の体を探り終えると、彼は途端に退屈になった。その空間には彼以外何も存在せず、完璧な白さから歩けど歩けど景色は変わらず、そもそも前に進んでいるのかさえ怪しく感じた。また、外的な娯楽がないならば内に求めようと考え、興味があった女性器を刺激しようと試みたが、これも脱衣同様しようという寸前のところで体が動かなくなってしまった。どうやら所謂アダルトな行為が禁止されているようだった。彼は完全に手持無沙汰となり、その場に横になり早く眼が覚めないかと願った。
眠気も来ずにぼうっとしていた彼の目前に、ふと気が付くとノートパソコンが出現していた。それはずっと前からそこにあったかのように感じるほど自然に存在していた。彼は驚きながらも、ノートパソコンを開き電源を入れてみた。Windowsの起動画面を見ているうちに、彼には沸々とゲーム実況をしなくてはならないという義務感に似た感情が生じていた。そして彼は、さもそのVtuberが実況しているように自分が代わりに実況できるのではないかという謎の自信に満ち溢れていた。どうせ、明晰夢だしやってみるか。そう思い、彼はノートパソコンに向き合った。
ノートパソコンには、分かりやすく「実況用」と書かれたフォルダが一つだけ入っており、他にはシステム関連のもの以外に目ぼしいものは見当たらなかった。「実況用」と書かれたフォルダを開くと中にはゲームの実行プログラムらしきものとテキストファイルの2つだけが入っていた。まずテキストファイルを開けてみると、ゲーム実況に関する説明が書かれていた。それによると、ゲームの実行プログラムを開始すると自動で録画が始まり、ゲームを閉じると自動で保存され編集されアップロードされるとのことであった。男は、便利なものだなと思いながらもどうせ夢のことだと思い、深く気に留めなかった。読み終わると、早速ゲーム実況してみようという気になり、テキストファイルを閉じゲームの実行プログラムを走らせてみた。ゲームの画面がノートパソコンの画面いっぱいに広がり、OPムービーが流れ始めた時、彼は自身の異変に気付いた。突然意識だけが浮き上がり眼下に少女の姿となった自分の体が俯瞰的にとらえられ、自分の体がラジコンになったように感じたのである。彼は狼狽した。このプログラムは実行してはいけないものだったのだろうか?しかし、そんな不安も自分の体が動いているのを見ると薄まった。その体の動きは、彼が動かそうとしたものと似た動きであったが、男のそれを少女の動作風にしたものだった。つまり、体は彼の望む動きを少女の動作に変換した動きをしていた。なるほど、俺の動きがそのままだと男性的動作になっちまうから、女の子らしい振る舞いに変えてくれてるんだな。なかなか気が利くじゃないか。ずっとこのままだったら気味が悪いがどうしようもねえし、とりあえず実況撮ってみるか。ゲームを終了したら元に戻ってくれよ…。しかし、どうせ夢から覚めたら全部元に戻るから気にしなくていいか。こう考え、男はゲーム実況を始めた。
ゲーム実況を撮り終わりゲームのプログラムを終了させると、男の意識と体は元通りになっていた。少しほっとし一息ついているうちに、動画の編集・アップロードが終わったらしく、ノートパソコンの画面には彼がたった今撮ったばかりの動画が載ったページが開かれていた。ページを覗いてみると、投稿されてそれほど時間が経っていないにも関わらず、そこにはたくさんのコメントがついていた。少女の外見を褒めるものからリアクションの愛らしさを讃えるもの、ゲームのプレイングを称賛するもの等、様々なものだったが概ね全て動画に対する肯定的なものだった。彼はそれほど多数の人間から認められたのが初めての経験であり、言いしれない幸福感に浸っていた。彼自身が褒められているわけでないのは百も承知であったが、そのリアクションやプレイングは紛れもなく彼自身によるものだった。彼は恍惚とした表情を浮かべたままごろごろと寝転がり、ここしばらく得られていなかった満足感を享受していた。
しばらくすると、とめどなく増加していた再生数やコメントも落ち着いてきた。男は少し残念に思いながらも、肯定された喜びを噛み締めていた。ゲーム実況は間違いなく俺のしたいことだ!やっとやりたいこと、うちこめることがみつかった!これで俺の人生も輝き始めるに違いない!この夢から覚めても現実でも実況しよう!こんなに再生数は伸びないと思うけど自己満足で楽しむんだ!楽しみができてうれしいなぁ。彼の心は希望で満ち溢れていた。
その後しばらく待っても夢から覚めるように思えず、男は再びゲーム実況を撮っていた。撮り終えるとまたすぐにアップロードされ、評価される。気持ちよくなりながら動画の画面を見ていると、また再生数等が落ち着いたので再び撮る。アップロードされ評価される。・・・熱中し何度も男はこのループを繰り返した。もう何度目か分からない実況収録が終わった直後に、男に抗えない眠気が襲ってきた。ああ、多分これで目を覚ますと現実なんだろうな。たのしかったなぁ。現実に戻っても撮るぞ。そう思いながら男の意識は落ちていった。
男が目を覚ますと、そこは変わらず白い空間だった。男は不思議に思いながらも再び実況動画を撮った。そしてアップロードされ評価されるのをわくわくしながら待っていた。動画がアップロードされ、画面に動画のページが開かれる―――あれ?おかしいぞ。あんまり再生数が伸びないぞ?コメントも全然増えないし・・・。お、やっとひとつコメントがついた。えーなになに、「もうちょっと投稿頻度あげてほしい」?昨日いくつも上げたじゃねえか!もしや、この再生数が伸びずコメントが少ないのもこれが原因か?おいおい、どれだけ上げ続ければいいんだよ・・・。これから継続的に動画を上げつづけなくちゃいけないってことだよな?なんだか、動画を撮ろうっていう気も湧かなくなってきたなぁ。そうだ、俺は講義の勉強をしなくちゃならないんだった。こんな短絡的な娯楽に興じている場合じゃない。おうい!はやく夢から覚めてくれい!
気が付くと男は元の下宿の床でVtuberの動画を再生しているスマートフォンを手にし寝転がっていた。男は少し目を見開き勉強机の方へと視線をやった。その後、男は視線をスマートフォンに戻し、次の動画を再生した。