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「あのねあのね、ママ、今日ね―」
身を乗り出して楽しそうに話す妹の言葉を、母はにこにこしながら聞いていた。
妹のミツキは、僕の二つ下で、今小学校の二年生だった。
勉強も運動も友達もできない僕とは違って、ミツキはとても要領がよかった。
テストは百点、マラソン大会では表彰台に立ち、明るく社交的。
そんなミツキは、よく学校であったことを母に話した。それはもう、嬉しそうに、楽しそうに。
そんなミツキの話を聞く母は、とても嬉しそうだった。笑顔だった。
「そう、よかったわね。―それで、マサキは、どうだったの?」
母はその表情のままに、ミツキの対面に座る僕の方へと顔を向けてきた。
その目を見た瞬間に、息が詰まる。
喉の奥に詰め込んだ白米が、逆流しそうな気分になる。
それをぐっと飲み下して、僕は口を開いた。
「えっとね、僕は今日は―」
そうして僕の口からつづられるのは、いつもただの妄想だった。
クラスメイトの誰かがしていたことを、主人公を僕自身に置き換えて語る、虚しい空言。一言話すたびに、母に嘘をつく罪悪感と、自分の行為の惨めさに、心臓が絞られるような感覚に襲われる。
それでも僕は、毎日のようにこの意味もない逃避行を続けているのだ。楽しそうな母の表情を、曇らせないために。きっと、僕は今日も一人ぼっちで本を読んで過ごしていた、なんて話したら、母は悲しそうな顔をするだろう。僕を心配するだろう。もしかしたら、ミツキと比較して、ダメな人間だ、というレッテルを貼られてしまうかもしれない。
それは、耐えられない。
だから僕は、妄言を来る日も来る日も積み重ねるのだ。
罪悪感と、虚しさを、来る日も来る日も積み上げる。
「ごちそうさま」
箸をおいて手を合わせて、食器を流しへ運ぶ。
食卓で楽しそうに話す妹と母を尻目に、階段をのぼり、自室へ向かう。
部屋の中には、いつも通り、真っ黒な影が一つ。
―おいおい、いいのか?家族団欒の時間は大切にしとけよ。親と金はなくして初めてその大切さに気付くっていうぜ?
ベッドの上にちょんと腰かけたクロは、少し心配そうに、悟ったようなことを言った。
「不謹慎なこと言わないでよ…。」
僕もクロの横に体を投げ出す。ぼすん、という鈍い音とともに、体がベッドへと沈んでいく。
「―いいんだよ。」
少し間をおいて、僕はクロに答える。―それはクロの問いへの回答だというには、あまりにも僕自身に語り掛けるような口調になっていた。構わず、続ける。
「別に、いいんだ。あのまま僕が食卓に残っていたって、誰も幸せにならないもの。ミツキは自分の話をできる方が楽しいし、母さんも多分、ミツキが楽しそうに話しているのを見てる方が楽しいよ。僕があの場に残ったって、僕の胸が罪悪感で締め付けられるだけなんだ。」
―ふうん…。まあ、お前がいいって言うなら、別にいいけどよ。
クロは、なんだかつまらなさそうにそう言った。
「うん、いいんだ。これで、いい。」
僕ももう一度そう言って、この話を終わらせる。
と、階下からだんだん足音が近づいてくるのが聞こえた。
「母さんだ」
僕が言うより早く、クロは足音を立てずに窓際へと駆け寄る。
僕はそのあとを追って、窓を開ける。
―んじゃ、またな。
クロは窓枠に飛びのって、こちらを振り返り、手を小さく振った。
「うん、また。」
僕も、それに手を振り返す。
そうしてクロは振り返り、窓枠から隣の家との境にある塀に飛び移って、そのまま闇夜に消えていった。
僕の背後で、ドアのあく音がする。
振り返ると、そこには母さんがいつも通りの表情で立っていた。
「マサキ、あんた、出し忘れてるプリントとかないよね?」
そう言う母さんの口調には、つい先ほどまでそこにクロがいたことを知っているような気配は全くない。
「いや、無いと思うけど…」
僕はそれとなく窓から離れ、ランドセルの中を引っ掻き回すそぶりを見せる。
母さんはクロのことを知らない。
どころか、僕以外の誰もクロのことを知らない。
秘密の友達。
その響きに、なんとなく頬が緩んだ。
「なに、何笑ってんのよ」
そんな僕の様子を目ざとく見つけた母さんが突っ込んでくる。
「いや、なんでもないよ」
僕は慌ててごまかして、ランドセルの中をより深く覗き込み、口元を隠した。
翌日のことだった。
僕は、いつも通りの下校ルートを歩いていた。
周囲には、ちらほらと僕と同い年くらいの少年少女の姿が見える。
彼らは皆、お友達と示し合わせの上、自宅への帰路を歩いている。
クロと出会う以前の僕だったら、きっと劣等感にさいなまれて、心の内で彼らを貶しながら、そのもっと内側で自分の寂しさを嘆きながら、一番外側では黙って、うつむいて、とぼとぼと歩いていたことだろう。
でも、今の僕は違った。
僕には、一緒に道を歩く友だちがいる。
その事実だけで、少し背筋が伸びるような気がした。
僕は周りの人々より少し早足になりながら、みかん畑までの道筋を歩いて行った。
みかんの木々がぼんやりと見えてきた、その時。
「いつも通り」とは、明らかに違うことに気づいた。
クロがいつも待っている曲がり角の向こう側へ歩いていった子が、曲がり角のところで立ち止まり、引き返してくるのだ。
何かおかしなものでも落ちているのだろうか。それか、蛇でもいるのだろうか。蛇だったらいやだなあ、などと考えながら、それでも僕はいつも通りの通学路を通ろうとした。
そこに、クロが待っているだろうから。
蛇がいたって、身軽なクロのことだ、きっと金網の上に避難したりして、うまくやり過ごしているだろう、なんて、考えながら。
考えが甘かった。
曲がり角の向こうにいたのは、予想通り、クロだった。
そして、予想とは違い、クロだけではなかった。
クロが、上級生であろう大きな図体の男子三人に囲まれていた。
彼らは僕よりも二回りほど身長が高く、金網の上端と頭のてっぺんの高さがほとんど同じくらいだった。そんな彼らは、上級生の中でもかなりの長身の部類に含まれるだろうと思われた。その姿を見ているうちに、思い出した。彼らはおそらく、問題児が多いと言われる六年生の中でも、とりわけ先生たちからマークされている、残虐な三人組だ。体が大きく、威張りがちで、下級生や動物を虐めてたびたび問題になっていた。友達がいないため噂話に疎い僕でも聞いたことがあるほど、彼らの悪名は僕らの小学校では有名だった。
対するクロは、クラスで一番身長の低い僕よりも、さらに小さな体をしているのだ。大柄な少年たちに囲まれては、体の陰になって、顔までは見えない。でもあんなに真っ黒なのだから、あれはクロだ。間違いなかった。疑いようがなかった。目を疑う光景は、しかし何度疑えども現実のままだった。
予想外の事態に、僕の体は、曲がり角を曲がったところで、すっかり固まってしまった。
どういうことだろう、これは。
クロが、いじめられている、ように見えた。
僕の頭の中はぼうっとしてしまって、どうしていいのかわからなかった。あまりに予想外で、何かが嘘なのではないかと思った。何が嘘なのかはわからなかったし、事実として、何一つとして嘘であってはくれなかった。僕の友だちが、上級生のいじめっ子にいじめられている。これは、まぎれもない現実だった。
ふと、三人のうち一人が右手に持っているものが目に入った。
それは、どこにでもある木の枝だった。ただし、少年野球のバットより少し短いくらいの長さと、僕の指二本分くらいの太さがあり、しかも先っぽは何かで削ったように尖っていた。五年生になると図工の授業で使う彫刻刀で削ったのかな、なんて、どうでもいいことを少しだけ考えた。
しかし、少年のうち一人がクロの体を蹴るようにして足で強く小突いたことで、僕の思考は中断された。
クロは小さく悲鳴を上げる。
木の枝を持った少年が言った。
「この槍、誰かで試したいと思ってたけど、ちょうどいい実験体がいたな」
隣の少年が同調する。
「そうだね、キヨサダ。こいつならケガしたって誰も気にしないし、不吉なやつだし、ちょうどいいね」
先ほどクロを蹴った少年が、またクロの背中を足で小突きながらせかす。
「早く刺しちゃえよ。ちょっとのケガくらい―」
そこから先、彼が何と言ったのか、僕は知らない。
気づいたら、僕はクロを蹴っている少年に向かって、体当たりをしていた。二人分の体が、硬いアスファルトの上に転がる。
何が起こったかわからない、という顔をしていた。
クロも、少年たちも。
それから、僕も。
わけがわからないまま、勝手に口が動いた。
「やめろよぉ…」
きっと、大声で、吠えるように言いたかったその言葉は、震えた声で、泣きそうな表情で、少年たちにぎりぎり届くかどうかくらいの、弱々しい言葉だった。
「なんだよ、おまえ」
木の枝を持った少年が、僕に対して、すごむように言った。
怖くて、怖くて、怖くて、顔が上げられなかった。
立って何か言おうとした。
膝が震えて、立てなかった。
それでも僕は、這ってクロの前に立ちふさがった―立ててはいなかったので、傍から見たら「へたりこんだ」と言った方が、しっくりくるかもしれない。
「ぼっ」
声が裏返った。
上級生たちの僕をあざ笑う表情が、僕たちを見下している。見なくたってわかる。
「ぼくはっ」
それでも、僕は声を上げた。精一杯強い声を出した。
友だちのために。
「クロのっ、友だちだ」
それを聞いた少年たちは、嘲笑を通り越して、どこか白けたような表情を浮かべていた。
「そうかよ」
さっきクロを蹴った少年が、吐き捨てるように言った。
「オトモダチのために俺らのやることに水を差しやがって、ヒーロー気取りかあ?俺はな、そういうのが―いっちばん、嫌いなんだよ」
木の枝を持った少年が、僕に向かってそれを振り上げた。
視界の隅っこでは、他の少年たちの足が振りかぶられるのが見えた。
気が付いたら、地面に転がっていた。
―おい、おい!大丈夫かよ!?
クロが焦ったように、僕の額をたたいていた。
「そういうときはさ、頬を叩くものだよ」
僕はそういいながら、体を起こそうとしたが、
「痛っ」
背中にひびが入ったような痛みが走って、思わず再度倒れこむ。
―大丈夫か?どっか、折れたりしてんのか?
「いや…大丈夫、だと思うよ。」
全く根拠はなかったが、クロに余計な心配をかけることもないので、そう答える。
「それより、クロは…?あと、あの人たちは、どこに行ったの?見当たらないけれど…」
そう訊くと、クロはあきれたように
―それよりって…。俺はおかげさんで傷一つねえよ。…あいつらは、しこたまお前を蹴っ飛ばして、そのあと満足したのか、学校の方へ戻っていったよ。もしかしたら、学校で憂さ晴らししてたりするのかもな。
と答えた。その答えは、おおむね僕を満足させるものだった。
「そっか。それなら、いいや」
僕は体をそっとひねり、一番楽な体勢を探す。しかし、アスファルトはごつごつしていて、傷と相まってどう転んでも痛かった。
―あのさ、何やってんだよ、お前…なんで、俺なんかを、庇ったんだよ。
少し間をおいて、クロはそう訊いてきた。いつもの余裕ありそうなクロの口調とは違う、何か切迫した調子だった。
「さぁ…。正義のヒーロー、みたいじゃ、なかった?」
僕はなんだか気恥ずかしくて、茶化すようなセリフを言った。ついでににっと笑おうとしたのだが、口の中の切れているところが痛くてやめた。
―ぬかせ。正義のヒーローはな、あんな弱々しい声で、叫び損ねたり、抵抗することもなく蹴られっぱなしだったりはしねえんだよ。
「ひ、ひどいなあ。」
思いのほか散々な言われように、思わず情けない声が出る。
―それになぁ。
クロは続ける。
―ヒーローは、学校で憂さ晴らししているのかもな、なんて台詞に対して、「それならいいや」なんて返さねえよ。
「あー、たしかに。」
はは、と笑ってみる。腹筋と背骨に響いた。思わず顔をしかめる。
「―だってさ、べつに、いいじゃないか。」
僕の言葉を、クロは黙って聞いている。
「別に、僕は正義の心とかを動機にして動いたわけじゃないんだしさ。僕が何とかしたかったのは、友だちだけだし。その友達を助けられたのなら、もう、それでいいじゃないか。―それで、ミッション・コンプリートだよ。」
そう言って、首をひねって、クロの方を向く。
クロは、困ったような顔で
―でもまあ、よくあんなことができたよな。こんな風にぼこぼこに殴られるのなんて、わかりきってたじゃないか。あそこで動けるのは、よっぽどの勇者か大馬鹿者だけだと思うぜ。
と言った。
「そうかな」
僕は異議を唱える。
「僕は、ただ単に、友だちらしい振る舞いをしただけのつもりだけれど。
―友だちって、そういうものでしょ?」
クロは、一瞬言葉を失って、それから首をくいっと傾げた。
―ったく、なんでこんなに友だち一人のために頑張れる「いいやつ」に、友だちがいねえのかね。人間ってのは、難しい。
「いやいや、クロ、それだってそんなに難しい話じゃないさ。」
どうも、今日はクロと意見が合わない日のようだった。
「だって、ひとはみんな、表向きは仲良くしておいて、本人のいないところで陰口や愚痴ばかり言い合っているじゃないか。僕に友だちがいないのは、彼らが信用できないからだよ。」
だから。
僕はどんなに惨めでも、学校で友だちを作りたくない。
大声で騒ぎ散らして仲がいいことを外に向かってアピールし、誰か一人を省いて悪口を言いあい、互いの腹を探りあうようなのを、僕は「友だち」なんて呼びたくない。
一人であることに惨めさは感じても、彼らのような付き合い方をする惨めったらしさに比べたら、きっと数百倍ましだろう。
「さすがにね、一人がいいことだなんて、僕だって思ってないさ。「友達付き合い」よりは、幾分かましなように思えるってだけ。」
―あれ、じゃあ、なんで俺とは友だちやってるんだ?
クロは、僕に簡潔に訊いた。
僕も、簡潔に答えた。
「そりゃ、クロが猫だからだよ。」
だからクロは、陰で僕の悪口を言ったりしない。
クロだけは、信じられる。
クロは、僕の友だちだ。
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