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付き合ってはいない関係

 彼氏に会いに行く。

 そう連絡を残して、彼女は図書館での勉強をすっぽかした。

 四年の秋。卒業論文はまとめ作業に入っている。

 彼女は三年の段階で大部分を仕上げていた。それでも学部の最優秀論文賞を狙っているのだから、今は大事な時期のはずだ。

 就職活動も継続していて逃げたくなるのは痛いほどわかる。家を出るのさえ辛いことも知ってる。

 それでも、こんな理由で来なかったことは初めてだった。

 奏多が交際相手と別れてから、もう半年は経っていた。

「……なんででないの!」

 何回も電話をかけているのに、コール音のみで繋がらない。

 新しい彼氏なんているはずがないのに。

 別れた翌日にまた誰かを捕まえていたりとか、ヨリが戻ったとか、そういうのは絶対にない。

 何も手につかず、講義に出ていても心ここに非ずで。

 奏多は持ち直してはいなかった。

 図書館を飛び出して、駅までの下り坂を駆け降りながら考える。

 元交際相手の家か?いや、僕は住所を知らないし、奏多はそこへは行かない気がする。

 なら付き合っていたとき、二人で行ったことのある場所か?

 寺社仏閣、博物館、プラネタリウムに水族館。山のほうのハイキングコース。

 奏多から聞いた場所は多過ぎて、絞りこむには決め手に欠ける。

 せめて、連絡がとれたなら。

 のろのろとホームに入ってきた電車に飛び乗って、今か今かと出発を待った。




「八城」

 夜の部屋で零れた名前は、名前の持ち主にも届いたようだった。

「……どしたん?眠れへん?それともお水?」

「……いや、ちょっと話したいんやけど」

「うん、聞くよ」

 寝たふりをしてくれてもよかったのだけれど。

 もう腹をくくるしかない。

「八城は、今好きな人、おるん?」

「……………」

 背中越しの沈黙はやや長い。

「……好きかは分からんけど、気になる人はおるよ」

「そっか」

「ただ、多分無理やとは思う」

「なんで?」

 寝返りを打つ気配を感じる。ベットが少し沈みこんで、元に戻った。

「一回あかんかったから」

 一度告白して、振られて。それでもまだ気持ちが残っているから彼女はいまだフリーなのだろうか。

「それって、元交際相手?」

「……ううん、違う」

 僕たちは、コイバナもそこそこした関係だ。

 だからこそ、奏多が好意を寄せた相手は、申告していない場合を除き、僕は知っている。

 心臓が早鐘を打った。

 彼女が恋愛でだめだったというケースは、学部生時代の元交際相手を除くと3つしかない。

 高校時代、自然消滅した初めての彼氏。

 大学に入学してからいいなと思った先輩に彼女がいて諦めたこと。

 そして、同級生に告白して、「ごめん」という返事をもらったときだ。



「奏多!」

 肌寒い夕方、暗くなってきた砂浜で、僕は彼女を見つけた。

 階段に座り込む体は、見るたびに小さくなっている。

「……何ヵ所、探したと」

 渇いた涙のあとか両頬に残っている。

 髪の毛についた砂の量が、どれだけの時間いたかを物語っていた。

「ごめん広瀬」

 近づくと発せられた言葉は、謝罪というよりは、懇願に近かった。

「もう少し、距離をとってもらってもいいかな。一人分くらい」

 怖がっているようなニュアンスには従うほかはない。

 手を伸ばしても触れられない距離に腰をおろし、彼女の言葉を待った。

 黒くなっていく海を見ながら、冷えていく風を感じて、一緒の時間を過ごしていた。

「あのさ」

「うん」

「広瀬だから言うよ」

「誰にも言わないよ」

「…………ありがとう」

 膝に顔をうずめ、奏多は息を吸い込んだ。

「身体の関係を持とうっていった」

 一息に言われた言葉に、脳が少しだけ追い付かない。

「それでもいいと思った。どんな形でも接点が欲しかった。でも、怖くなって、それで」

 わからない。どうしてそんなことになってしまったのか。

「怖くなって、無理だって思って、逃げた」

 強い風が吹き付ける。砂が舞い、目をつぶる。

 塩の匂いがつんとした。

「それでも、なんでか、なんでそんなことしちゃったんだろうって思う、こんな私はどうかしてるし、これでよかったと思う反面それじゃ意味ないじゃんって思う私もいるし」

 もうわかんないよ。涙混じりの声が、僕の鼓膜に突き刺さる。

「…………奏多は、自分から望んだの?」

 隣の人物は、答えない。

「……相手は、応じたの」

 やはり答えはない。

「…………奏多は、嫌がる奏多もいるかもしれないけれど、僕はそれでよかったと思う」

 辺りはすでに暗い。遠くの漁業船さえ見えない。星明かりが少しだけ。

 少し距離を詰めると、伸ばせば届く距離で息を飲む音。

「リハビリ、しようよ」

「……リハビリ?」

「うん、リハビリ」

「………………そうだね」

 心なしか、少しだけ、彼女の感情が凪いだ気がした。



 奏多のリハビリは、男性恐怖の克服と生活リズムの回復、社会生活への復帰が主だった。

 元交際相手との一件で、彼女は男と一定の距離をとらないと体が震えるようになった。体格の似ていない僕で、慣れるようにしてもらった。

 生活リズムの回復は、大学図書館での勉強を一緒にすることで少しずつ上向いた。

 そして、院に進学することで、奏多はどん底を脱したのだと思う。

「ねえヒロ」

「ん」

「ヒロにはすごく感謝してる」

 僕の就職が決まったとき、彼女はお祝いをブックカフェで開いてくれた。

 誰もいない平日の夕方、本に囲まれた店内で奏多はゆっくりと言った。

「一番しんどいとき、支えてくれてありがとう」

「元気になってよかったよ」

 本心からだった。

 院生として過ごした奏多は、研究に打ち込んで論文を何本も発表した。

 心のそこから楽しそうだった。

「ヒロのおかげで、就職に失敗しても死なないし、失恋しても世界は続くし、生きていたらいいことあるって思えた」

「そっか」

「……………広瀬」

「うん」

「好きです」

 もう恋なんてしない。

 そうやって泣いた海辺を覚えている。

「ごめんなさい」

 僕は一息に答えると、彼女はすっきりしたような顔をしていた。

「うん、わかった」

 残っていた水を飲み干すと、目線で合図を送られる。

 奏多はさっさと二人分の会計を済ませてしまった。

「いくら?」

「いいよ、お祝いだから」

「でも」

「いいのー」

 奏多は明るく振る舞っていた。

「広瀬、配属わかんないんだっけ?」

「うん、多分関西やけど、もしかしたら出るかもだって」

「そっか」

「八城は?」

「博士に進むよ。もしかしたら他校に行くかもしれん。研究室探す」

「八城ならどこでも受け入れてくれるやろ」

「買い被りすぎ」

 歩いているうちに、駅へと着いた。

「それじゃ、元気で」

「八城も」

 僕たちは別々の電車に乗り、そして別れた。

 関係が変わってしまったから、もう、会うことはないと思う。

 物理的な距離もできてしまうのだから。



 寝返りを打ったら密着しすぎてしまうだろう。

 そう考えたら体がいたくなってくる。

「八代からは、そいつにアプローチはせんの?」

「んー、怖くてね」

「怖い?」

「自分の気持ちがやっぱりわからんから。恋なんてしないしもうしようと思わないからね。心が上下左右に動いたのは元交際相手が最初で最後」

「気になる人は、一緒にいたいとか、話したいとか、触れたいとかは思わないの?」

「……たまに思うよ」

「それは、シンプルに考えたら好きって事なんじゃないんかな」

「そうかな」

 そうだ、考えたらわかる。

 わざわざ休日に会うのも、会いたいからだ。

 会いたい理由はことばにできない。

 言葉にするとしたらおのずとかぎられる。

「八城」

「……ん?」

「月が綺麗だよ」

「ここからだとよく見えないよ」

「夏目漱石の訳」

「私はまだ死にたくない」

「……そっか」

 答えた瞬間、背中に暖かいものが触れた。

 一気に身動きが取れなくなる。

「私は、広瀬と、これからも、同じような関係でいたいと思う」

「……うん」

 それは、イエスとは、少し違う意味合い。

「よくわからないよ、自分の気持ちなんて」

「……そうやね」

「星も綺麗だよ」

 ーー私の想いをあなたは知らないでしょう。

「付き合うのは、まだ、怖いんだ」

「うん」

「あと、月が綺麗は反則だと思う」

「………うん」

「恋愛で死ぬような思いは、もう嫌だから、死んでもいいとは言わないよ。むしろ私は、一緒に生きたい」

「誰とかを、聞いてもいい?」

「広瀬がちゃんと言葉にするのが先じゃないの?」

 僕は苦笑いをする。

 ちゃんと向き合わないと。

 自分にも、奏多にも。



 ーー僕たちは、一ヶ月に一度遊びに行って、半月に一回は電話する。

 気が向いたらメッセージを送り、次の日休みであればどちらかの家で一日過ごすこともある。

 世間一般の認識では、友達の枠から出ているかもしれない。

 ただ付きあう、または結婚という取り決めはしていないし、身体の関係はもっとない。

 こんな関係につける名前は、そのときまで、なくていいんだろう。



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