小さな島にて
森を抜けると私の体は潮の香りに包まれた。もうあと10歩ほど足を進めればそこに地面はなくなってしまう。その先には今も轟々と音を立てながらしぶきを上げている海があるだけだ。激しく岩にぶつかり、散り散りになりながら、潮のかおりを辺りに爆発させている。その音に合わせるかのように海の方からは冷たい風が私の横を駆け抜けていく。長い黒髪が暴れるのを右手で押さえながら私は歩を進める。一歩一歩、着実に。もちろんそんなことをすればどうなるのかは明白だ。地面から海までは20メートルはあるだろう。打ち所が悪ければ即死だろうし、たとえ生き残ったとしてもあの海に落ちれば生きて帰ることはできないだろう。死を目前としているというのに私の心は驚くほど凪いでいてなにも感じなかった。いや、それは違う。かすかな希望を抱いていたのだ。海ならば、彼ならば私を受け入れてくれるのではないかという希望が。
思えば私の人生は海から切り離せるものではない。生まれた時から私は文字通り海に囲まれていた。本州から船で1時間ほど、太平洋に浮かぶ小さな離島。自転車があれば3時間ほどで一周を回り終えることができる小さな島で住民も50人程度。そんな小さな島の小さな診療所で私は生まれたそうだ。
「お前が生まれた日の前日はなすんごい嵐だったんだ。崖くずれは起こるし、川はあふれるしかあさんは母さんで産まれる!って言ってるしで大変だったんだぞ。でもな、いざお前が生まれるって時になると風も雨も止んでよ。あたりが静かになったんだ。母さんの声だけが聞こえてな、少し怖くなったよ。そんでお前が生まれた時になさあーと朝日が差し込んできて病室を照らしたんだ。」
父はお酒が入るとよくしみじみと語った。何度もおなじことを語るからもう覚えてしまった。それでも父はお酒が入ると懐かしむようにかたるのだった。嵐がやんだ日に生まれた私につけられた名前は渚。安直だとい痛くなるくらい平凡で、生まれた時から海とともにあったのだ、
深く深呼吸をする。吸い慣れた潮を含んだ風が肺の中まで入ってくる。少ししょっぱくて切ない味がした気がした。くだらないことを思い出したなと思う。これから死のうとしている人が何をしているのだろう。未練があるのだろうか?
いや、未練はない。これまでなんども確認したことを死を前にもう一度確認する。
未練はないけど希望している。救いに。正直バカバカしくて自分が嫌になる。
ああ、海はこんなにも大きくて広いのに、私の世界はこんなにも小さくて狭かった。私は目を瞑ると最後の一歩を踏み出した。もちろん地面のないところに足を踏み出せばバランスを崩して落下する。奇跡など決して起きない。重力に逆らうことなどできないのだ。私は重力に捉えられバランスを崩して飛び込み台からプールに飛び込むように(実際にしたことはないが)落下していく。
ふと、遠い日の記憶が頭をよぎった。セミの大合唱が一段と大きくなったある夏の日のことを。
「日陰がない……」
私は海沿いの道をひとりとぼとぼと帰途についていた。左手には少し段になった防波堤があり、右手には山がドンと構えている。典型的な田舎道だ。その日は確か夏休みの登校日だったはずだ。私1人しかいない中学校で登校日に意味があるのかは甚だ疑問だが来いと言われれば行くしかない。少なくともその時の私には拒否する権利などなかったし、逆らうのも面倒だった。朝早くから学校に行かせてバカみたいに暑い昼頃に解放するというのはどうにかならないかと愚痴をこぼし、大量にだされた追加の宿題の重みを感じながらの帰り道だ。熱されたコンクリートは熱したフライパンのように熱く、そこのすり減ったボロボロのスニーカーではその熱を防ぐことはできなかった。
視界に広がるのは青々とした山の木々と大きな入道雲、眩しい太陽、そして輝く海だった。そのとき、ふと、とうとつに海に飛び込みたい衝動に駆られた。よくドラマなどでみる制服とかで海に飛び込むあれである。実際にやると制服が塩くさくなるし、家までの道のりを濡れ濡れのスケスケで帰らなければならないという悲劇が待っている。さらに離島のような隔離された空間では噂というものはすぐに広まってしまう。そんな醜態をさらした日には翌日中に島中に広まってしまうだろう。と、冷静になってから私はそう思う。ただそのときは暑さとか別の何かで頭がどうかしていたのだろう。私は持っていた荷物を放り出すと防波堤に飛び乗った。そしてそのまま立ち幅跳びの要領で海へと飛び込んだ。先ほどまでいろいろな色で満たされていた視界は青一色へと変化していく。私の体は綺麗な放物線を描きながら落下していき、大きな水しぶきを上げて沈んでいった。冷たい水が火照った体を急激に冷やしていく。水を吸い始めた服が絡みつき体が少し重くなる。体はどこまでもどこまでも沈んで行こうとする。水の中ではあれほどうるさかったセミの大合唱はやみ優しくそして私は海に優しく包まれていた。もしかしたらずっとここにいれるかな。そんな気持ちがよぎる。でも人間は、いや普通の女子中学生にそんなことはできない。限界はすぐにやってきた。息が続かなくなる。私がたまらず顔を出そうとしたその時だった。静寂は破られて突然目の前に人が降ってきた。正確には飛び込んできたが正しいだろう。その人は私の手を引くとすぐに引っ張りあげてくれた。ザバンという音とともにセミの大合唱が帰ってくる。波の打ち付ける音や、私が息を吸う音。そして目の前のタンクトップの少年の呼吸する音。せき止められていた水が流れ出すようにたくさんのものが私に流れ込んできた。
「お前、何してんだよ!」
少年は息も切れ切れに大声で叫んだ。
「何って………飛び込み?」
「飛び込みってはあ?自殺じゃないのかよ。」
「どうして私が自殺しないとだめなの?」
さっきまで抱いていた充足感は隠したまま私は答えた。
「え、えっとだな、自殺じゃない?」
「自殺じゃない。」
「………」
「………」
少年は気まずそうに背中を向けた。
「早とちりしたんだね。私がニュースとかでよく見る人生に失望した若者に見えたんだね。」
「いや、ちがっ、ちがわねえけど!?」
「ふーんそうなんだ。」
「す、すみませんでした。」
少年はこそこそと顔を見せることなく防波堤をよじ登り始めた。顔は見えていないがきっと真っ赤になっているに違いない。その証拠に耳まで赤くなっている。
「ねえ、名前は?」
「は?なに?」
ごまかすようにぶっきらぼうに答える。わざとらしくて面白い。
「名前だよ。名前。」
「あー名前か。湊也だよ。湊也。」
少年、湊也は面倒くさそうに答えるとその場を後にした。
私は1人ぷかぷかと海に浮かんでいた。
ああ、これが走馬灯ってやつなのだろうか。
落下しながらあの時の気持ちがありありと蘇ってくる。あの時の気持ちも。すべて鮮明な記憶を、一枚の絵画の中に私の気持ちを塗りたくっていく。忘れたくない気持ちを、あの時感じたかすかな恋心を。私の目の前に広がるのは明るい未来でも、輝く海でもなく、荒々しく削られた岩盤で、それは私という人間が最後に見た景色だった。
少女が命を絶ってから数時間後、彼女がいなくなったことに気がついた近所の住人が捜索隊を結成、夜通しで探したが彼女の遺体は見つかることはなかった。
岩盤の上にべったりとついた血の跡からそこでなにが起こったのかは明白だった。島の住人はそこで全てを察したのだ。少女は自殺したのだと。少女の不幸が始まったのは彼女が中学に入った秋の頃からだった。季節外れの台風がやってきて土砂崩れが起こったのだ。少女の家は土砂崩れが起こった場所に建っていたのだ。家にいたのは出産を控えた彼女の母と父。つまり彼女を除くすべての家族だった。そしてその後、島の住人に変化が起こった。
「あの子、いもしない子の名前を言うの。湊也君が助けてくれるって、湊也君ならみんなを助けてくれるって。湊也なんて子この島にもいないし、みんなの親戚にもいないのよね。いもしない子の名前を呼ぶなんてショックで頭ががおかしくなっちゃったに違いないわ」
噂はすぐに島中に広まった。彼女はその日から悲劇のヒロインではなく、ただの頭のおかしい子どもとして扱われるようになったのだ。
彼女が命を絶って島の住民がどのように考えたのかは知る由もない。しかし住人は形式に習いささやかな葬儀を行った。彼女の遺体はないため空っぽの棺を前に形式通りに涙を流した。しかし誰1人として彼女のことを語ろうとするものはなかった。
次の日、島は突然沈んだ。
くだらない。くだらない、本当にくだらないよ。人間は本当にくだらない。
ぼくにはできないことだったんだ。ぼくにはなにもできない。たった一度だけ彼女に言葉をかけることができただけだ。あのときどういうわけか奇跡なのかぼくは彼女に言葉を伝えることができた。でもそれだけだ!そのひにそのときに救えただけで肝心なときになにもできなかった。あまつさえ、ぼくは彼女を殺してさしまったのだ。大切な彼女を、この手で。この無力がわかるか?なんでもできるのになにもしなかった人間にこの無力がわかるか?自然には人間は勝てないだと!?なにを見てそう語る。人間は話せて、思いを伝えられて、守れて、救えるじゃないか。ぼくにはないものを持っているじゃないか。なのになんでそれができないんだ。くだらない。くだらない、本当にくだらないよ。
轟々と音を立てながら海は島を沈めた。
轟々と荒れ狂う海に人々は恐怖しながらただ島が沈んでいくのを見ているしかなかった。そして人々の心にはまた刻み込まれたのだ、人は自然には勝てないと。
お読みいただきありがとうございました。
群青色です。
久しぶりに書いてみたくなり書きなぐったら海に愛された少女という謎のストーリーに仕上がってしまいました。