夏の始まり
「あちぃー」
やっとのこと家に帰って来た。いつもは長く感じた会社からの帰り道も、今日はいつもと違ってのんびり歩いてみた。よくよく見渡すと、何度も通った道並みや駅も初めて会社に出勤したときと比べると少しだが変わっていたことに気付いた。
小さな公園に一つだけ不具合にもピカピカな遊具が建っていたり、ホームのアナウンスが昔の誰かの曲だったりと普段気にも止めないことが目や耳に自然と流れてきた。
「もうあの道を通うことはないんだな」
そう部屋でポツリと呟き靴を脱ごうとしたとき何かに躓いた。
女性用のスニーカーだった、咲は基本的には自分の物を俺の家には置いて帰らない主義だから違うのは分かっていた。女の泥棒かと少し不信に思い足音を立てない様にゆっくりとリビングを覗きこむと、そこにはソファーで横になり小さな寝息をたてている少女の姿があった。いや、少女というのは間違えだった。
「はぁ」
小さなため息がこぼれた。独り暮らしの男の家で、まして無防備に寝てるやつのことは少女なんて呼べもしない。
俺は何も見てない事にして鞄を無造作にソファーに落とした。
「グヘェッ」
彼女は変な声と共にお腹を押さえ飛び起きた。
「ちょっと何するのよ」
「ん?何だ来てたのか、全然気付かなかった」
ムッとした顔で彼女は睨んできた。
「絶対嘘だ!私が勝手に寝てたから意地悪したんでしょ」
「そんなまさか!可愛い妹がいるなんて知ってたら起こす様な真似俺には到底出来ないな」
ニッコリ微笑みながら彼女の頭に手をのせた。
速川秋、19歳と少し年の離れた俺の妹だ。秋の通っている大学からそう遠くない俺の家に、たまに泊まりに来るので合鍵は渡してあったがこんな平日に兄の部屋に来るなんてよっぽど暇なやつなんだなと少し呆れてしまった。
「そぉやっていつも馬鹿にして、女性に対する配慮が無さすぎ、だからいつまでたっても彼女も出来ないんでしょ」
「妹に配慮なんてしてたら今頃お前はお嬢様になってるな、残念ながら他の女性には配慮を怠ってはいませんよ」
俺はニヤニヤしながら秋が投げつけてきた鞄を受け取った。
「実際に一昨日も彼女と一夜を共にしたばかりだしな」
「えぇ?彼女いるの?ってかこんな部屋に彼女を連れてくるなんて神経疑うわ」
「大事なのはどこで、じゃなくて誰とだからな。まぁそれが分からないうちはまだまだ秋もお子様ってことだ」
「くっさぁー、ナルシスト並のセリフ」
秋は鼻をつまみながら眉間にしわを寄せていた。
後ろ向きに笑いながらネクタイをほどき、ハンガーにスーツを掛けた。
「そう言えば今日は泊まってくのか?」
「んー、そうしてくれたらありがたいかな。明日朝一から講義があるから。お兄ちゃんもどうせ明日早いんでしょ?」
少しギクッとなった。仕事を辞めた事については家族の誰にも話してなかったからだ、黙っておこうかと一瞬頭によぎったが別に秘密にしておくことも無いかと思った。
「いや、実は今日会社辞めて来たんだ」
何となく目を見て話せなかったので、ゆっくり着替えて背中を向けた。
「え!?どうして?何でそんな急に辞めるなんて」
「別に急でもないさ、この頃体調も不安定で会社に迷惑ばかりかけてきたからな。ちょうど頃合いだったのかもな」
「・・・・、まぁ私にはそんなに関係無いことだからいいけどね」
鏡越しにチラッと見た秋の顔は、何か言いたそうだかすぐに口を閉じてボスッと乱暴にソファーに座っていた。
俺は昔から肺が通常の人より少しだけだか機能しづらいみたいで、そこにストレス性の過呼吸症候群が加わってあまり健康的とは言いづらかった。
家族も会社の知っている上司達も、腫れ物になるべく触れないようにと距離を然り気無く置いていたのが俺には気にくわなかった。しかしそんな中でも秋と部長だけは他者と変わらず接してくれていた。
「ただお兄ちゃんも悪い所はあるんだからね、ストレスが溜まってたりイライラしたら少しは」
「はいはい、いつもの説教は聞き飽きた。少しは自分の気持ちを伝えた方が楽になるとか、自分を大事にしないからだとかだろ?今回は自分の事を第一に考えたんだからいいだろ、お前説教の仕方だけは一人前だな」
「そりゃ不甲斐ない兄を持ったものですから」
ヘヘンと、得意気に鼻を高くした秋に軽くデコピンをかましてやった。
「痛いっ、何するの!?」
「少し褒めたと思えばすぐ得意気になるからだ、それより晩飯はどうする?外にでも食いに行くか?」
「あっ、それなら大丈夫」
「何が?」
「疲れて帰ってくるお兄様に、私が手料理を振る舞います」
ニカッと満面の笑みを見せたが色々不安があった。まず一つは秋は俺より料理が得意ではない、そりゃ人並みには出来るかもしれないがレパートリーが少なすぎる。もう一つは・・・・
「そんなご機嫌取るみたいな言い方して、何が目的だ?小遣いならやらないからな」
「そんなんじゃないってば」
「じゃあ何だ?どうせいつものように『お兄様今生の頼みです』とか言い出すんだろ」
「へ、バレたか」
ったくいったいこいつはどれだけの今生の頼みを持っているのやら。
「実は、明日学校の友達を家に泊めて欲しいの」
「はぁ?お前がついさっき馬鹿にしたこの部屋にか?」
「それはごめんなさい。でもその子凄く悩んでる事があるらしくて、どうしても相談にのってあげたいんだけど明日講義最後まであるし。夜遅くなったらほら、お父さんうるさいじゃない?だからお兄ちゃんのとこ泊まっているって言ったら大丈夫だと思って」
秋は顔の目の前で両手を合わせ、瞑った両目のうち時々片目だけチラチラ覗かせていた。
「で、明日1日俺は満喫に行ってでもして夜を明かせと?」
「えぇっと、出来れば一緒に相談にのってあげて欲しいの」
「はぁ?いやいやそれこそ無理だから、泊めるのは許可するけどいきなり流石に赤の他人の相談なんてのれるかよ」
「お願い!社会経験もあるし、何よりお兄ちゃん人の相談聞くの昔から得意じゃない」
「別に得意じゃない、勝手に周りがどんどん愚痴とか話してくるだけだ」
「その場にいるだけでもいいの」
今度は俺の顔色を伺うような事はせず、じっと目を瞑っていた。ここまで、本気な頼み方も珍しい。流石に妹にここまで頼まれたら断ることも出来ない。
「わかった、ただ助言とかじゃなく話すとしても俺の考え方ってことだからな」
ため息を堪えて優しく秋の頭にポンと手をのせた。
「ありがとう!お兄ちゃん大好き!」
バッと秋は抱き付いてきた。
「はいはい、お兄ちゃんも大好きだよ」
そう言って秋の頭を撫でようとしたら。
「いや、それはひくわ」
と、突き放された。
いやいやそこはノッてこいよ。と心の中でツッコミを入れながら笑ってしまった。
「じゃあ晩飯の支度するね」
秋は冷蔵庫の中をあさりだした。
「ちなみに何を作るんだ?」
「熱中症、夏バテにはこれ!ゴーヤチャンプル」
見事な太さと両端まで綺麗な緑のゴーヤが冷蔵庫から飛び出てきた。食材選びには正直ビックリした。そこまで自信満々なら少しは期待してもいいかなと思った。
「じゃあ期待して待ってるな、俺はゆっくり先に風呂でも入ってくるわ」
「任せといて、秋シェフによるスペシャルディナーをご馳走いたします」
「メインディシュだけのディナーってのもな」
「じゃあお風呂入る前にアイスでも買ってきてよ、冷凍庫見たら何にも無かったよ」
「太っても知らねえぞ」
「なっ、馬鹿アニキ!」
飽きたゴーヤを切ろうとして持っていた包丁を振り上げた。
「危ねえって」
「レディにそんなこと言うからよ」
「お前にはまだレディは早いよ」
「もぉ、いいからさっさと買ってきて」
今度はフライパンに手を伸ばしたので、叩かれる前に財布と携帯をパッと掴み家を飛び出た。
「ったく、いつまでたっても子供だな」
ふっと笑いながら近くのコンビニに向かった。ポケットに入れた携帯が、ブブッ、ブブッと震えた。
パッとメールを開くと。
「カップのイチゴアイス宜しく\(^o^)/一番高いやつだからね!それ以外買ってきたらもう1往復だからね」
たかだかアイス一つにしても注文の多いこと、コンビニに入って秋のご要望の一番高いイチゴのアイスと自分用の抹茶のアイスを手にレジに向かった。
「すいません、あと11番一つ」
タバコも一箱買って帰ることこした。もちろん医者からは禁止されている。大袈裟に言えば命の危険を侵すのも分かっていたが、もお会社に行かなくていいかと思うと、久しぶりに吸いたくなった。秋にはバレないように、コンビニの外で1本だけ吸った。
「ゲホッ、ゲホッ」
大学時代に一時期吸って以来だったので、咳き込むのも当然だ。まぁこれも生きてるってことだ、と自分で満足しタバコとライターをポケットに隠し臭いが出来るだけ薄くなるようにとゆっくり歩いた。
「あぁ、だけど何にも考えて無かったな。辞める事は決めてたけど辞めた後のことなんて、まぁしばらくはのんびりするかな」
薄暗くなった空を見上げながらポツリと無意識に呟いた。家のすぐ近くまで来て何だか騒がしい事に気が付いた。
何だ?どっかの夫婦かカップルが喧嘩でもしてるのか?と思っていると、その騒がしさは自分の部屋に近く成る程大きくなってきた。奇妙な胸騒ぎがした。駆け足で家の前までいき、鍵をかけ忘れた事にも気付かず玄関の扉を開くと床に尻餅をついている秋と仁王立ちの姿の咲が目の前にいた。