過去の者
「部長退職届です、4年間大変お世話になりました」
俺は小さい封筒を差し出しながら頭を下げた、部長には本当に世話になった。入社してからたいして覚えがいいわけではない自分に、何回も丁寧に同じ説明をしてくれた。いや、して下さった。この会社の唯一の恩人だ。
「速川、本当に辞めるのか?休暇という形でも構わんのだぞ」
部長はため息を漏らしながら俺の肩に手を置いた、申し訳なさが何よりも大きく未だに顔をあげられない。
「お前がほんの少し身体が弱く、遅刻や半休を取りがちなのは仕方のないことじゃないか。他の者には理解出来ないことでも私は理解してやっているつもりだが」
「だからです、部長にこれ以上の迷惑と責任を取っていただきたくないのも」
ハッと顔をあげたときの部長の顔はいつもよりしわが顔中に広がっていた。
違うそんなことじゃない、もう無理なんだ。俺自身決めた事なんだ、部長は関係ないだろ。
俺はしっかり部長の前に立ち直り、もう一度頭を下げた。
「申し訳ありません、もう決めた事なんです。これ以上は自分の身体が持たないと判断したための退職届です、部長のお気持ちはありがたいですが申し訳ありません」
そう言って部長の目をしっかり見た。ここでまた頭を下げたり、目を背ける様な事をするのが一番失礼だと感じたからだ。
「ふぅ、ならば仕方ないのか。寂しくなるが何か困った事があれば、いつでも連絡して構わないからな。私にはそれくらいの力にしかなれない」
そう言って部長は背中を丸めて会議室から出ていった。俺は何も言わずに頭を下げた。
「辞めるって本当?」
昼休みの時間に自分の荷物の整理をしていると、急に腕を引っ張られた。ふと引っ張られた方を向くと、村田咲が目尻をあげて睨んでいた。一応彼女とは社内恋愛という関係になっている。年齢では同い年だが、入社した時期は彼女のほうが半年遅く、仕事の愚痴などよく飲みに行く機会があり何度か身体を重ねることで世間で言う『恋人』になっていた。しかし、俺にはそこまで特別な感情を抱いた事はなかった。
「あぁ、本当だよ。さっき部長に退職届渡してきたし今日で辞める」
「だけどそんなこと一言も言ってなかったじゃない、相談もされてないし」
彼女の腕を握る力が強くなった。
「そりゃ誰にも言ってなかったからな、2ヶ月前にはもう部長には話してあったけど」
俺は彼女の手を振りほどいてファイルやら書類やらの整理を続けた。
「2ヶ月前って、何で私には教えてくれなかったのよ」
「何でわざわざ言わなきゃいけないんだ、自分で決めた事だし誰かに相談することでもないからな」
「でも私たち付き合ってるのよね?なら少しぐらい話してくれたっても」
咲が俺の裾をギュッと握った、俺は漏れそうなため息をグッと堪えて咲の手を優しくほどいた。
「付き合ってるからって何でも言わなきゃいけないとかそれは咲の思い込みだろ?それに咲に話した所で何も変わらなかったよ」
「変わらないって、何か解決できる道があったかもしれないのに」
イラっとした、話した所でどうになる。俺が決めた事を何故こいつに否定されなきゃならない、まして俺の何が分かるんだ。
「咲、俺そういうの面倒なんだ。これでやっとわかったろ?俺なんかと付き合ってても何にもないって」
「何でそんなこと急に言うの、私は清司のことが」
「俺はお前に特別な気持ちなんてないんだよ」
そう言って俺は整理したファイルやら書類の束を、部長のデスクの横に置き、自分の荷物を持って部屋を出ていった。
背中で咲の声にならない声を感じたが、それも今日で終わりだろう。
とりあえず家に帰って休みたい。