第四戦 齊天后マフ
シャルロッテに抱擁される齊天后マフは、自らの術が破れたことを知った。
得難い忠臣であるカリラの敗北。
この結末を予想していた。
何か理があった訳ではない。
リリーという怪物。
ただの脇役であるはずの女が、ここまで来た。物語を破壊し、自らの同胞を打ち破り、強大な妖精ですら退けた異端者にして最大の敵である。
『シャルロッテ、行かねばならん』
甘い温もりから身を離し、いまや寵姫となったシャルロッテと瞳を合わせる。
「マフ様、勝って」
薄暗い部屋は、齊天后と寵姫のためだけにあつらえた睦言の部屋だ。
豪奢な寝台があるだけの部屋。
齊天后マフは、幼子のようにシャルロッテにすがりつく。言葉も無く抱擁を交わすだけの睦言であったが、使用人や侍女は魔女の褥を噂していた。
齊天后マフは扉の外で控えていた使用人から、王冠を受け取った。
かつて、帝国成立以前にあった旧王国から禅譲された際に受け継がれた王冠である。
金銀がふんだんに使われた下品なそれは、権威付けだといってアメントリルがでっちあげて作らせたものだ。
あれから長い時間が過ぎたというのに、まだ、こんなものが残っている。
我ら魔人の生きた足跡は、この世界に残されている。
シャルロッテという名前、アヤメという名前、歴史的な意味合いを持たず、魔人たちが残した名前は、この世界でも一般的な名として残った。
『心配はいらぬ。シャルロッテ、……行ってくる』
「いってらっしゃい。無事で帰ってきて、マフ様」
この残酷な大地に堕ちて数百年が経つ。
骨の貴婦人は、ようやく世界を受け入れた。
マフを受け入れてくれたのは、シャルロッテだけだ。
齊天后マフは自嘲した。
違う。
全てを拒絶したのはマフ自身だ。シャルロッテを通してようやく世界を受け入れた。
アメントリルという狂人は確かに仲間だった。しかし、マフはアメントリルの狂熱から距離を置いた。
この世界の全てが作り物であるならば、アメントリルですら偽物かもしれない。そして、自分自身も。
輝かしい時間というものは確かにあった。
悲嘆にくれる我らを導いたのはアメントリルである。
人が人を喰らう野卑な世界で、アメントリルだけはその野卑を否定した。自らが、故郷と同じかそれ以上の世界を造るのだと言い放った。
その狂気は真夏の太陽のよう。
マフは太陽を見られなかった。
いつ頃からか思い出せないほど遠い昔から、自らは幸せになれないと感じていた。この地に堕ちて、それが必然だと思ってしまうほどに。
シャルロッテだけが、そうではないと言ってくれる。
どこにも行かない、と。
かつての仲間、カグツチ、ナツ、シャザム、アメントリル、名前すら思い出せない者たち。彼らもマフから去った。
皆、この世界を受け入れて、ここで得た大切なものと共に、戦いをやめてマフから去った。
帰るという目標は逃避であり、世界の否定である。それを続けることは現実を受け入れないこと。
そう悟っているというのに、マフは死ぬことも狂うこともできず、眠りにつき、科学技術が発展するのを待った。
黒騎士ジーン・バニアスに眠りを解かれた後、落胆した。
この世界は少しも進んでいない。
ようやく魔法などという邪魔な技術が衰退してくれたに止まっている。
この目覚めでは、技術の発展のために、戦争か疫病でも撒いて人を間引くつもりだった。
緩い絶望に包まれたまま、無為な行いを続けるはずであったのだ。
シャルロッテがマフを変えるまでは。
言葉が人を動かすことがある。
「なんでもそうだけど、人を叩く時は思いっきりしないとね、後で自分が痛くなるし敵ばっかりになっちゃうでしょ。だから、グッとね、ゴワーンって感じで力いっぱい全力で、頑張らないとね。わたしは役に立てないけど、応援するよ」
寵姫となる以前の言葉である。
シャルロッテの優しさに惹かれたのではない。優しいものなど沢山あり、いる。
シャルロッテだけが、マフの怪物性を受け入れた。
骨の貴婦人となる以前から持っていた孤独と、歪な人間性を受け入れた。
誰かに、理由が無くとも傍にいてほしかった。
それら一切を口に出さずとも、理解されたかった。
シャルロッテは人を見捨てない。理由など無い。ただそこに、孤独な影があれば寄り添い見捨てない。
ただその一点において、シャルロッテは狂っていた。
黒騎士ジーン・バニアスが見たという幾つもの未来で、シャルロッテは帝国を斜陽に導く妖婦であったという。
妖婦の選んだ男は大業を為す。その様は、シャルロッテに操られているように見えただろう。
そうではない。
力を振るうことを肯定し、認めてくれるシャルロッテがいたから歯止めを失ったのだ。
大いなる力に責任が伴ったことなど、歴史上に一度も無い。
英雄の資質とは、大いなる力を一切のためらいもなく振るえることにある。
マフはそれができなかった。だからこそ、今まで暗躍するという方法を選んでいた。かつての仲間たちも、それを行えるアメントリルに惹かれ、付き従った。
得難い臣であったカリラもまた、マフの背負う弱さを教えてくれた。
「我が君、王であるならば呑みなされませ。世に覇を唱える強者であるならば、星を落とすなど弱き考えにございます」
星を落とすことを否定したカリラは、リリーに敗れた。
闘技場への通路を歩みながら、虚空より二振りの杖を呼び寄せる。
虚空の道具入れは、クァ・キンの神具であり、魔人だけが使えるものだ。
マフの道具入れは限界まで拡張されており、収められた神具は大地を貫き海をも割るものが多数ある。
二振りの杖は、この地に堕ちてから使い続けたものだ。
右手の杖は冥界炎を宿し、あらゆるものを焼き焦がす。
左手の杖は常世水を吐き出し、あらゆる傷を癒す。
銘はあった気がするが、もう忘れてしまった。
『アメントリル、お前と、我々の悲願は果たされた。決まった物語など、もう無い。復讐は終わりじゃ。今からは、妾の物語を紡ぐ』
マフは、骨の口元をカタカタと鳴らした。どうやら笑っていたらしい。
この芝居はもう染み付いて、昔の話し方など忘れてしまった。
闘技場に出て、胸を張って歩んだ。
王冠をかぶった骨の貴婦人の登場に、闘技場は静まり返った。
進行役の芸人までもが言葉を失っている。
『齊天后マフである』
大声の魔法を行使したことで響き渡ったマフの声に、静まり返っていた観客たちは徐々に声を取り戻す。悲鳴、歓声、祈り、様々な声だ。
『この戦いに勝利し、帝国に千年の栄光をもたらさん』
観客席には亜人の姿もあった。
ラファリア皇帝に心酔していた亜人たちだったが、皇帝が解放軍と合流してからはマフを崇めている。
亜人たちはそれぞれの様式で神とマフに祈った。
齊天后マフは、炎の宿る眼窩でそれを見た。
これが自分以外を背負うということだ。
自分の殻に閉じこもるだけの怪物ではいられない。シャルロッテもそれを望むだろう。
齊天后マフは杖を掲げて帝国臣民にその偉容を見せつける。
見世物としては、これで良い。
覚悟はすでにきまっており、ついに、齊天后マフはリリーを見た。
貴族用の椅子に、前かがみに腰かけている。
あの大声にも反応せず、リリーは目を閉じていた。
薄汚れた旅姿は返り血でさらに汚れ、腰には虎の毛皮。死神にもっていかれた片目には眼帯がある。
魔人だけが行使できる術で構成情報を確認するが、そこには表示が無い。
かつて、水晶宮での戦いでは、まだ見えた。
術を消すということは知っていたが、ここまでのバケモノとは。
シャルロッテと出会う前の齊天后マフであれば、星を降らせて焼き尽くしていただろう。
戦いにおいては、一方的な勝利こそが絶対的に正しい。
今は、それを選べない。
自分自身が帝位につき、この地を進化させるのだ。魔人の国かそれ以上の科学があれば、帰れるかもしれない。いや、そんなことはどうでもいい。
今となっては、帰れなくともよい。
シャルロッテのいるここで生きると決めた。大切なことはそれだけだ。 そうであるならば、正面から勝たねばならない。
理屈では無い。
シャルロッテとカリラが教えてくれたことだ。
リリーは残る一つの目を開いた。
椅子から立ち上がる様は、連戦の疲れからか幽鬼のようである。
身体は限界が近かった。
相手を待つ短い時間、休めるようにも思うが半端に頭が冷えて身体は緩む。
疲れている。
剣を振り上げる力は残っているのだろうか。リリーは自分でも疑問に思った。
水晶宮での戦いははっきりと覚えている。あの時は確かに恐ろしい怪物と感じたが、怖くはなかった。だというのに、今はどうだ。
随分と怖くなった。
手負いの獣のような気配を怪物が放つとは。何があったかは知らんが、やり難い相手になったものだ。
心は落ち着いていた。
リリー自身が奇異に思うほどに冷静だった。全ての戦いに忸怩たるものを感じたが、それだけである。
考えるのは後でいいと、身体が言っているのだろう。
「齊天后殿、久しいな」
リリーは口を突いて出た言葉に苦笑した。
こうなる原因であった相手のような気はするが、今となってはそれも判然としない。
様々なものが絡み合いすぎた。だから、恨みは無い。
『目覚めてすぐに妾を殺してくれたこと、忘れてはおらぬ。あの時に悪役令嬢の始末、この手でつけておくべきであったわ』
水晶宮の戦いではリリーに力が足りなかった。そして、齊天后マフには生きようとする意志と大切な者が足りなかった。
「シャルロッテのこと、よくしてくれたみたいだ」
リリーは続きの言葉をどうしようか迷って口ごもった。
寵姫と呼ばれているのは知っているし、妖精を相手にする際の調印で短いながら言葉も交わしている。
もし、マフがよくしていないなら、シャルロッテは助けを求めるか耐え忍んでいただろう。あれは、そうではない。
友達は、敵を選んだ。
『……、友達であったそうじゃの。辛い思いをさせてしまうな』
勝って当然の口ぶりは挑発ではない。その言葉、齊天后マフの心根より出たものだ。
「すまない、そんな話をするべきではなかった。やろうか」
『うむ、始めよう』
気やすい仲のように言葉を交わすのが不思議だった。
リリーは剣を抜いて地摺りに構える。
齊天后マフは両手に一本ずつ長い杖を持っている。
神具の杖は、右手が炎を発しており、左手の杖は銀色の燐光を放っていた。
神具は見た目とは違う。
あれは杖のように見えているだけで、叩かれでもしたら肉体は四散する奇天烈な何かと思った方がいい。
齊天后マフは右の杖を振り、虚空から火の玉を放つ。
分かりやすい魔法である。今となっては、遣い手は数えるばかり。そのほとんどは大道芸でしかない魔法だが、いまこの時、神話時代の魔法が蘇る。
「しぃっ」
気合と共に、リリーは炎の玉を剣で斬り裂いた。
この世にあらざるものであれば、リリーはそれを斬れる。
本物の炎であれば余波で全身に火傷を負うはずだが、それも無い。理外の術であれば、雲散霧消する。
『やはり、術では倒せぬか。魔人の力、それだけではないと知れ』
齊天后マフは、両手に持った二本の杖と杖を叩き合わせた。
異様な音が響く。
いや、それは音であったのだろうか。何か音のようなものが杖と杖を叩く度に響き渡っているが、尋常のものではない。
不吉なものが渦巻いている。
リリーは息を呑んだ。何か、異様なことが起きていて、それはこちらを狙うものだ。
ゆっくりと杖と杖を叩き合わせる齊天后マフは、それ以上のことをしない。ただ、そこに立っている。
リリーが意を決するのは早かった。
地摺りに構えて齊天后マフに肉薄する。
隙だらけの立ち姿に、剣を振り抜いた。
骨の貴婦人の口元が笑みを刻む。
瞬間、リリーは異様なものを斬った。
取り返しのつかないことをしたという、奇妙な確信がある。
『攻撃、したな』
齊天后マフの胴体は神具のドレスごと切り裂かれていた。燐光を放つ赤い光は、理外の存在であるマフの命を削り取った証だ。
魔人の中でも、人の形を捨て去ったマフは驚異的な生命力を持つ。そうであるというのに、この一撃は致命的であった。
時戻しの奇跡である回復魔法を行使したが、それでも命が流れ出ていく。まるで、肉体が、本物の身体を斬られたようだ。
少し前のマフであれば、未知への恐怖と焦りから逃げを選んでいただろう。しかし、今は命の流出ですら、意に介さないだけの意地と執念がある。
リリーは異様な気配に冷たい汗をかいていた。
これは罠だ。
最初の一手から何かを仕掛けてられていた。だが、それが何かすら分からない。
魔人の術は人の想像を遥かに超えた奇跡を引き起こす。
今は、嵐の前の静けさに違いない。
リリーは距離を取った。
背後に下がり、剣を正眼に構える。完全に守りの姿勢であった。
『ヒヒッ、そんなに離れては良い的じゃなァ』
マフは言いながらも杖同士を叩き合わせることをやめない。
リリーが反応しないでいると、虚空に光弾を生じさせて撃ちだしてきた。だが、その数は一つだけだ。
マフにとっては児戯に等しいこの光弾ですら、まともに当たればリリーの肉体を四散させるだけの威力がある。
リリーはそれを斬り捨てるしかない。
見え見えの罠に向かっていくしかないというこの状況、これこそが一方的な戦いである。
齊天后マフの、いや、魔人のほとんどが得意とする理詰めの戦いであった。
「くそっ」
リリーは悪態をついて前に一歩出た。
泥濘に足を踏み入れたような違和感がある。無論、これは現実にではない。リリーの心にあるものだ。
『鴨撃ちの的となるかっ、人食い姫』
挑発の言葉には余裕がある。
齊天后マフには、詰みが見えていた。
光弾が続けて二発放たれるが、それもまたリリーにとっては容易く斬れる軌道である。
リリーには分かっていた。
齊天后マフはリリーが向かってこなければ、倒れるまでこれを続けるだろう。
罠であろうと飛び込まねば勝機は無い。
息を吸えば、全身が内側から痛む。
この一日で一生分戦ったような気がした。ここで死ぬなら、まさにそうなる。
命など、いつも投げ捨ててきた。
濃密な死の気配があった。
息を吸えば、より一層に懐かしい闇の感覚を思い出す。
一度死に、黄泉帰った。
あの記憶は偽りであったのだろうか。
暗い地獄と同じ気配を感じる。
『そらそら、かわしてみせい』
齊天后マフは挑発を続けながら、杖を叩き合わせるのをやめない。そして、奇怪なる奇跡の光弾は鋭さを徐々に増している。挑発だけではなく、この千日手にも殺意を乗せてきた。
数百年以上を戦いに生きた魔人の老獪さである。
リリーは深く息を吸った。
地獄が近くにある。
疲れ切った身体で、息を吸う。
生まれて二十年も経たぬ小娘が、半生を費やして会得した息吹呼吸。
師の完成された息吹秘剣は全て見た。
地獄より放たれる瘴気は、かつての呼吸を思い出させてくれた。
人が発するとは思えぬ、鋭い呼吸音
リリーが発する呼吸は息吹と成った。
放たれた光弾に向かって、リリーは駆ける。
獲物に飛び掛かる毒蛇の鋭さで、剣を振り抜く。
骨の貴婦人は、口元に笑みを刻む。それは、下顎骨を動かすだけの微かなものだ。
剣が隙だらけの齊天后マフの頭部に当たる直前、切っ先が何かを斬った。
「いかんっ」
怖気の走る異様な手応えは、リリーに死を察知させる。咄嗟に剣を放せたのが生死を分けた。
魔国で鍛えられた業物は、一瞬の内に錆び、腐り落ちる。
同時に、暗闇が零れた。
死そのものが、剣を殺す。
『なんじゃ、これは』
齊天后マフもまた、仕掛けた罠が別物にあい成ったことを察し、咄嗟に瞬間移動の術で後ろに下がる。
リリーも同じだ。背中を見せてでもそれから距離を取った。
虚空に穴が開いている。
リリーの剣は確かに何かを斬った。その結果として、虚空に暗闇の広がる穴が開いている。
あまりにも異様な光景であった。
それは、齊天后マフにとっても予想外の光景であった。
齊天后マフが杖を叩き合わせていた一連の動作は、魔人だけが行使できる防御動作であった。
本来は両手で持つべき長杖を片手に装備する。本来ならば片手で行う完全防御術を両手それぞれで行い、不滅属性エヌピイシイに攻撃をさせる。
世界の理から反することにより、世界が狂う。
狂った世界の作用により、不滅のはずのエヌピイシイは、二度目の攻撃動作の直後に消滅する。
『バグ技を、バグらせるか。バケモノめが』
魔界語は、魔人の間でしかその意味が通じない。齊天后マフの言葉もまた、リリーには意味不明のものであった。
それでも、それが驚愕を含んだものと分かる。
濃密な地獄の気配。
あの時、死の世界で感じたそれと同一なのに、現世に漏れ出るそれはあまりにも危険で恐ろしいと感じる。
冷たい汗をかいた手の平で、考えるより先にリリーは短剣を取り出していた。
いつも、これに助けられている。
シャルロッテと出会った折に買ったものだ。
「勝機は、ここか」
口に出してみると、より一層に無茶苦茶だ。
リリーは微笑んだ。余りにも、今の状況が馬鹿げていたからだ。
恰好をつけて、一人で全員倒すなどと、馬鹿の極みではないか。
今や、剣すら失くした。
息を吸えば、地獄の気配が入り込む。
懐かしい感覚だ。
「手伝うわ」
長らく聞いていなかった、じぶんの声。
鬼女と化して地獄に堕ちた本来のリリーが囁いた。
息吹を捨ててから、その存在を感じられなくなっていたが、やはり、いてくれたか。
齊天后マフの放つ光弾は、弧を描いて右から来た。手が勝手に動いて、短剣の切っ先でそれを斬る。
片目はなくとも、もう一人のリリーがそれを補ってくれる。
地獄が開いているというのなら、鬼女が力を貸すのは道理。
『恐るべきバケモノよ。必殺の仕掛けを打ち破るというのならば』
齊天后マフは両手の杖を捨てた。
虚空にしまい込む一瞬ですら惜しく、虚空より新たな武具を取り出す。
取り出だすのは、大の男ほどはあろうかという長さの騎士剣であった。
「また、仕掛けつきか?」
『小娘が、舐めるでないわ。搦手、小細工、破られたからにはそのような弱いものに頼らぬ』
齊天后マフは驚くほど綺麗に剣を構えた。
騎士剣の上段構えとしてはお手本通りとでも呼ぶべき形から、距離を詰めてくる。
長すぎる剣での上段振り下ろしもまた、あまりにも素直で綺麗な軌跡であった。
短剣では受け止められない。
リリーは地面を転がるように距離を取って逃げる。続けて放たれたマフの追撃もまた、実直な振り下ろしであった。
魔人の剣士職基本技である。
魔人は他者の命を吸い上げることにより、学びすらしないで技術を会得する。知識、技術、魔法、それには騎士剣術も含まれる。
リリーは息を吸った。
鬼女の手が重なれば、疲労により活力が失せたままだというのに、手が持ち上がる。
短剣一本で立ち向かうことに恐怖すら感じない。
相手を食い破ればよいだけだ。
いかほどに肉体が裂けてもよい。人鬼の本能のまま、食らいつけばよい。
リリーは息を吸う。
長らく、使おうとしても使えなかった息吹呼吸。無理に使ってみれば、全身に痛みをもたらすものと化している。
これであっていたか、とそんなことを思うほどに覚束なくとも、続けるほかない。
息吹呼吸を無くしては、心を鬼女に引っ張られる。
正気と狂気、その境界線に身を置かねばならない。
そうすれば、魔人の剣技で振るわれた、鋭く速い横凪ぎの一撃を紙一重で回避できる。
『ちょこまかとっ』
毒蛇のごとき呼吸音。
極まった息吹呼吸は、独特の音を立てる。
肉体は悲鳴を上げているのに、鬼女はもっと、もっと速くと急かす。
リリーの短剣が齊天后マフの太ももを切り裂く。確かに、斬れている。骨の貴婦人から、命が流れ出している。
殺せる。
いかな魔人といえ、不死ではない。
死を克服した最上位に位置する魔人であるマフと、理を反する神具の力ですら、世界への反逆者であるリリーと地獄に堕ちた鬼女であれば、斬ることができる。
『ぐぅっ』
齊天后マフのそれは、まぎれも無く痛みから出た呻きだ。
紙一重の攻防が続く。
押しては引いて、舞踏のように攻防が一変する。
リリーの短剣は齊天后マフを傷つけてはいるが、浅い傷を与えているに過ぎない。体力が持つならば、この流れでもやれたかもしれない。
疲れ切った身体に、一度でも受ければ命は無い騎士剣の乱れ打ち。まともであれば、敗色濃厚という局面である。
リリーの短剣が、先ほどよりも深く齊天后マフの腹を裂いた。骨だけであろう身体だが、その近くを見えぬ肉体とでも呼ぶべきものがある。
空を斬りながらも、斬る手応えがある矛盾。
これこそが、リリーと鬼女の地獄剣。
『くふ、ははははは、この程度で殺せると思うな、リリー』
ようやく名前で呼んでくれた。
マフのそれは強がりに違いない。
なかなか、やるじゃないか。そんな風に思ったリリーは、なんだかおかしくなった。
魔人は皆、強い。
だというのに、臆病で寂しそうだ。
それだけの強さがありながら、何を恐れる。
「マフ、お前はここで連れていく」
その言葉は、リリーだけのものではなかった。
喋る余裕などなかったはずなのに口を突いて出た言葉は、もう一人のリリー、本来の未来で地獄に堕ちた鬼女リリーのものである。
齊天后マフの下段切り上げをすり抜けるように回避し、呼吸が触れ合うほどの間合いに飛び込む。
頭を狙うと見せかけて、切り裂いたのは骨の右手首。
見えぬ命と共に骨をも砕く。
その大きさに相応しい重さを持つ騎士剣は、無事な左手に握られたままだ。しかし、魔人の背負う宿命とでも呼ぶべき枷があった。
両手剣は部位破壊により使用不可となる。
いかほどの執念があろうと、禿鷹の魔人は枷より抜け出せない。
魔人と人間の差、それがこの状況を造りだした。
リリーの呼吸音に、マフは敗北を悟る。
後ろに下がるが、間に合わない。あと一歩後ろに下がれれば、致命傷は避けられる。だが、間に合わない。
それでも、後ろに下がるしかない。諦める訳にはいかないのは、マフも同じこと。
突き出された短剣は、毒蛇の牙のようであった。
その切っ先がマフの額を貫かんと繰り出されたその時、リリーの視界が突然に変わった。
どうしてか、齊天后マフの足を見ている。
何が起きたのか、リリーとマフ、両者共に分からなかった。
リリーは短剣を握るその手を突き出しながら、膝から崩れ落ちていたのである。
呼吸が乱れ、途端に息ができなくなった。
疲労が限界に達していた。
恐るべき殺意とは裏腹に、肉体は動くことを拒否する。人体の理は、リリーにすら覆せない。
地面に膝をつき、荒く息を吐きだすリリーを、茫然とマフは見やった。
人の身であることがリリーの敗因。
『勝ったぞ、シャルロッテ』
立ち尽くすマフは、万感の思いを込めてそう呟いた。
ようやく、手に入れた。
何もかも失うだけだったこの地で、ようやく、確かなものを。
右手首を再生させ、騎士剣を握ろうとして気づく。
齊天后マフ、恐るべき魔人が、その全身を金縛りにでもあったかのように動かない。
情報を確認すれば、異常な表記が見えた。それこそ、バグのような意味不明の文字列が表示されている。
背後から、奇妙な風が吹く。
『まさか、このようなことが』
齊天后マフがバグ技と呼んだ、虚空に開いた暗闇。
その暗闇に、片足が呑み込まれていた。
リリーの一撃を避けようと、下がったその一歩。
その一歩である。
地面に這いつくばり、荒い息を吐きながら、なんとか立ち上がろうとするリリー。しかし、身体は動かない。
這いつくばるリリーの背後で、陰が実体を為していく。
豪奢なドレスに鬼火を纏わせる、鬼女のリリーであった。
「行きましょう」
鬼女の声音は、どこか優しく、人鬼に似つかわしくないものであった。
リリーは荒い呼吸のまま頭だけをなんとか持ち上げて、見た。
あの地獄から、共に現世に戻った鬼女は、優しい顔をしている。
『ふ、ふざけるなっ。こんなところでっ、シャルロッテがいるっ。妾がおらねばっ、シャルロッテはっ』
マフは死に抗おうとしていた。
なんでもいい。
行動に移さねば、死を待つのみとなる。
虚空の道具箱から死を禁じる神具を使い続けるが、それは死そのものの前には無力だ。
何もかもが、死と地獄に飲み込まれていく。
リリーは何か言おうとしたが、空気を求める体はそれを許さない。
鬼女のリリーは、這いつくばるリリーに手を振った。
深窓の令嬢が悪戯っぽくするような、しゃんな仕草であった。
「あなたを連れていくわ。大丈夫、寂しくない。もう、いいのよ」
鬼女は齊天后マフを抱きしめるようにして、地獄の裂け目に追いやる。鬼女自身もそこに入り、還るつもりであった。
『死んでたまるものかッ』
魔人の奇跡はまだ残されている。
この残酷な大地で、枷を破った魔人は確かに存在している。
魔国にて魔王を名乗るユウ・アギラもその一人、いや、二人だ。そして、ここにマフもまた、その名を連ねようとしていた。
魔人を縛る枷は、魔人にだけ適用される摂理でもある。
虚空の道具箱には、本来であれば使用できない特殊な神具が幾つもあった。無茶苦茶に使われたそれらは、マフの中で膨れ上がる。
『シャルロッテを、一人には、させない』
神具の力は天変地異を引き起こす。それらが合わさり、マフに異様な進化とでも呼ぶべき変化が起ころうとした。
異様な気配は、かつて対峙した妖精のものに似る。
本能的なもので、リリーには分かった。あれは、生まれてはいけないものだ。
身体を起こそうとあがいたその時、リリーは確かに見た。
地獄の裂け目より、青白いたおやかな手が伸びていた。
夜の水面から顔を出すように、彼女は半身を現世に顕わしていく。
こんなことがあるはずないと分かっているというのに、リリーは息も絶え絶えに、その名を呼ぶ。
「ザビーネ……」
かつて、生きながら死神と化した友であった。
ザビーネは、リリーをちらりと見やったが、それは一瞬のこと。マフを背後から優しく抱きしめる。
死神の抱擁が、マフを包み込んでいく。
マフは抵抗を続けようとしたが、それもすぐに止んだ。
死は等しく訪れる。人に、魔人に、ただ一つの平等なものとして。
最期の力を振り絞ったマフは、首だけをリリーに向ける。
『シャルロッテを、頼む……』
それは、紛れもなくリリーへ向けた言葉であった。
鬼女と死神に抱きすくめられて、マフは闇の中へゆっくりと沈んでいく。
リリーはそれを見ていることしかできなかった。
こんな終わり方が、本当に正しいのか。それとも、これこそが予定された物語の終わりだというのか。
「マフ、待て、死ぬな」
なんでそんなことを言ったのか。リリーにも分からない。
マフの全身が暗闇に呑み込まれると共に、地獄の裂け目はなくなってしまう。最初から、そこに何もなかったかのように、永遠に閉じた。
立ち上がることすらできないリリーは、石畳を叩く。
勝ったというのに、喪失感があった。
マフも、鬼女も、ザビーネも、暗く冷たい場所に逝った。
敵も、半身も、大切な友達も、リリーには分からない理由で去っていく。
リリーは足元も覚束ないまま、無理に立ち上がった。
「次の相手を、出せ」
進行役の芸人を一つ目で睨みつけると、慌てて彼は走っていく。
精も根も尽き果てたが、立っていることだけはできた。
リリーは、足元から伸びた影を見つめる。
随分と濃い影だ。血が染み込んで、黒く、重くなったに違いない。
一人で五人を倒すなど、無理な話だ。
齊天后が倒れたとしても、最後の一人は出るだろう。
ここで逃げ出すようなものに、マフが後を託すはずがない。
馬鹿なことをしたよ。
アヤメの忠告を聞いておけばよかったと思い、リリーは一人、空虚に笑む。
あと、ひとり。
あともう少し
続きは近い内に




