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壺の上で踊る  作者: 海老
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救世の毒

 甲殻戦鬼は理外の怪物であるが、理外にあるというだけで、人でも撃退できる程度の存在だ。

 領主軍と帝国軍はそれぞれに順調に歩を進めていた。



 あまりにも強すぎるものを作ってはいけない。

 人は強すぎるものに寄りかかり、前に進まなくなる。



 巨大な白百合に近づけば近づくほどに、辺りには異様な気配が満ちる。

 木々の姿は奇妙な色合いへと変わり、目の前が歪むような色彩の花々が目立ち始めた。

 冬の始まりの冷たさの中で、夏の花々が七色に咲き誇る。

 心を惑乱させる幻色は、狂気の孤島を思い出させた。


「脳男の島と同じか」


 リリーは思い出す。巡礼の旅で出会った異常なる魔人の島は、これとそっくりの色をしていた。


「ぼっとしないっ」


 鋭い声で我に返る。

 空から現れた甲殻戦鬼に、すぐさま手斧の一撃を喰らわせたアヤメに礼を言おうか迷ったが、彼女はすでに別の敵に意識を向けていた。


「お嬢様、こんな景色はまやかしですぞ」


 ウドの声は走りながらだと言うのに耳元で聞こえる。細作の業だ。

 老いた奴隷たちも戦士として槍を振り回している。


「ははは」


 不意に笑いたくなった。

 こんなものに惑わされているのは、わたしだけか。




 明確にこの世のものでは無いと分からせねばならない。

 人は理外に恐怖し、それを神とする。




 甲殻戦鬼の群れを蹴散らしながら進めば、突如として道が開けた。

 壁の如くあり得ないほどに密集した木々に狭められた道は、二股に別れていた。

 先頭を走るリリーが手を上げて、皆は足を止めた。


「二手に分かれる、わたしは左に行こう」


 決めたという訳ではない。自然と口を突いて出ただけだ。


「お嬢様は右へ行って下さい」


 声をかけたのはウドだ。

 彼にしては珍しいことである。


「ウド、何か見えたのか」


「お嬢様、こいつは細作の手管ですぜ。頭に血を登らせたヤツに行かせるように、仕向けてあるって寸法で」


 二つの道を見ても、どちらも同じようなものだ。


「確かか?」


「へい、間違いなく。左はお嬢様の目線に合わせて選びやすくしてありまさあ。あっしらが騎士様を誘導する時に使う手ですよ」


 言われてみれば、木々の枝ぶりが違う。左は馬上の者が進みやすくしてあるように見えないでもない。


「ふん、味な真似をしてくれますわね。リリー、左は私とウドの兄さんの領分ですわよ」


 アヤメとウドは迷いなく左の道に足を向けた。


「二人とも、死ぬなよ」


 リリーの口を突いて出たのは、意図しない言葉である。


「リリーも、後で会いましょう」


「ごめんなすって」


 二人は戦士たちの半数を率いて左の道を。

 リリーは残ったフレキシブル教授を見やる。

 老いたというのに馬の扱いは一流だ。リリーに苦も無く付いてきた。


「行くか」


 と、リリーは独り言のように言う。


「ああ、行こうかね」


 響いてくる鬨の声は、帝国軍のものだろうか。

 どうせ、妖精は待ち構えているだろう。

 今までは始祖の吸血鬼や脳男といった理外の存在が、リリーの足跡を隠してくれていた。だけど、そんなものは今となっては必要無い。


「世の中というのは、よく出来ているものだな」


 甲殻戦鬼が来ないのは罠の証か。

 リリーは竹の水筒で水を飲む。

 戦場を馬上で駆ける時、小便は無意識に出る。これは男も女も同じものらしい。気が付けば、股座が濡れていて小便を洩らしていたと後で気づく。


「僕はそう思わないよ。世の中には裏切られてばかりだ」


「帳尻を合わせる時なんだよ、お古いの」


 帳尻を合わせることだけが、人に出来ることだ。正しくなくても、満足いくように帳尻を合わせればいい。


「若者というのは、いつも老人の先を往く。気に入らないね」


 教授の減らず口に笑みをみせたリリーは、ミラールの頬を撫でた。ミラールはるぶぅと鳴いて、水筒の水をねだる。


「行こう」


 水を飲ませてから、腹を蹴って歩を進める。







 左の道に敵はいなかった。

 アヤメとウドにはそこにある異質な気配が分かる。

 奴隷の老人たちにも、その異質さが分かる。

 脳男のいた島にあった植物とよく似たものがそこには蠢いている。そして、敵はいない。

 ここでは、甲殻戦鬼すらまともな生物に見える。


「厭なところね」


 アヤメが言うと、ウドは肩をすくめてみせた。


「アヤメ殿」


「殿は結構」


 ウドはまたしても肩をすくめる。やりにくいが、最近になって慣れてきた。彼女が礼儀を忘れるのは身内にだけだ。


「ここにお嬢様を来させなかったのは正解だ。どうにも、気に入らねえ」


「気が合うわね。たしかに、人を見透かしているような、そんな厭な感じがしますわ。ビビらせようっていのが透けて見える」


 作為的な狂気とでも言おうか。

 誰かに見せるために作った忌まわしさがある。

 ウドの知るそれは、細作が相手を動揺させるために使う一つの技術だ。例えば、相手の身内を引き裂いて壁に飾り付けるとか。

 アヤメの知るものはウドより穏やかだが、意図するところは同じである。邪宗、邪教の祭壇にある虚仮威しの生贄のようなもの。

 どちらも、見た者を自らの世界に引き込み萎縮させようとするものだ。そして、それらはいずれも気の弱さや子供じみたものが根底にある。

 ウドは奇妙にねじくれた無花果に似た木に駆け寄った。

 果実は実っていない。かわりにあるのは大きな肉袋だ。これを知っている者は、顔を青くするだろう。

 身重の獣の腹を裂けば、そっくりのものが出てくる。中には育ちきらない子供が入っていて、間近で見れば、肉の果実は臓器のごとく脈動していた。


「さて、何が出るやら」


 ウドが短剣でそれを裂いた。

 羊水と共に、人間とも虫の幼虫ともつかぬものが出てくる。大きさは、大人の男ほどであった。


『きたのは、お前らか。奥へ、行け』


 その未成熟なものは言うと、動かなくなった。死んだのだと分かる。


「私の領分かしら」


 アヤメは言うが、このような魔は知らない。甲殻戦鬼とも違うだろう。 あれは、それこそ働き蟻のような、そういうものだ。こんなに奇妙なものではない。

 この旅に付き従った奴隷たちは、それを見ても「気持ち悪いぜ」などと言うだけで平然としている。年若い兵士であれば錯乱もするだろうが、悪徳を知る老人たちはこれらを受け入れられる。

 ただ一人、溝鼠のドガだけは奇妙な感覚を覚えていた。

 老いた奴隷の一人であるドガは、こんな冒険とは無縁の小悪党として生きた。だから、この風景に懐かしさを覚えるというのは、とても奇妙なことだ。

 ごく自然に、ドガは奇妙な色合いをした花を摘んで、その蜜を舐めた。


「やめなさい、毒になるかもしれません」


 アヤメが鋭く叱責した。

 闇狩りの倣いだ。魔に連なるものの誘惑には、食べることも含まれる。 一部の植物に擬態する魔物は、そのようなことをする。女の濡れそぼる股座に擬態するというのは、魔に属するものがよくやることの一つだ。


「あ、いや、つい、懐かしくて」


 ドガは言ってから、花を落とした。


「ああ、そうだ。あっしは、ここにいたことがある。そうだ、この花の蜜は甘くって、いつも夢中で吸ってた。あっちだ、何も変わってねえ」


「何を言っているの」


 ドガは虚ろな目で足を動かした。

 握り締めていた戦槌を取り落として、走る。走りながら、革鎧を脱ぎ捨てていく。


「魅入られたか」


 アヤメは口の中で短い祈りを紡ぐと、手斧を投擲する。

 足手まといは処分せねばならない。

 必殺の間合いで放たれた手斧はドガの頭をかち割る前に、妖魔の触手のごとく伸びた樹木に阻まれた。

 身構えたが、そこにある樹木は攻撃に移ろうとはしない。ただ、折れ曲って手斧の進路を塞いだだけだ。


「どうする?」


 ウドが短く問うた。


「罠は食い破るまで。ウドさん、後詰をお願いします」


「任された」


 互いに口だけで笑んだ。

 なんとも頼りになる。互いにそう思っている。闇に生きたがゆえに、同じだけ罪を背負うがゆえに、兄妹ほどに分かる。


「奴隷共、付いて参れ」


 アヤメは細作の足で走る。それに奴隷たちが追いつけるはずはないが、彼らは懸命に後を追う。

 ウドもまた鳥にすら気取られぬほどに大気に溶け込んで、その後を追う。理外の存在にどれほど通用するかは分からない。だが、自らの修練と技術が裏切らないことは知っている。


 アヤメの足であればドガなどすぐに追いつける。だというのに、距離は縮まらない。

 何がしかの術にかけられているのかは判別できないが、罠であるのは明白だ。

 しばし走る。そして、辿り着く。

 そこは、巨大な花に囲まれた広場だった。足元には柔らかな芝生があって、妖精の楽園にも見える。


「なんと邪悪な」


 アヤメですら、顔色を変えた。


「ああ、そうだ、俺はここにいたんだ。ここにいるころは、なんにも苦しくなかった。帰ってきた、帰ってきた」


 ドガはわめきながら、巨大な花に縋りついて泣き始めた。


「苦しかったよぉ。苦しかったよぉ」


 巨大な花の種類は分からない。鮮やかな紅色の花弁は、南国のそれに似る。そして、花の中心部、本来ならめしべやおしべ、柱頭のある部分には赤子の顔が生えて無邪気に笑っていた。


「……外は苦しい。ああ、ここが安らぐ」


 ドガは泣き崩れている。

 そこかしこにある大人ほどの大きさの花々の全てには、赤子の顔がある。どの顔も違う。山の民の顔つき、帝国人の顔付き、男の子、女の子、青い瞳、黒い瞳、金髪、赤毛。


「こっちにお前たちが来たか。予想外だな」


 アヤメが声の方向を向けば、男がいた。

 それは、ずっと懐かしい顔だ。

 アヤメがリリーと敵対していた折に見た顔である。ジーンと同じく甲殻戦鬼へと変身する冒険者シャザムであった。


「あなたは、妖精に与する敵でしたわね。たしか、シャザムといいましたか」


「ああ、そう名乗っている。お前が見たのは端末に過ぎないが」


「ここは、なんですの?」


 アヤメは司祭服の袖に隠した毒針を指先で探った。必殺の屍毒が理外の存在に効くか否か。

 シャザムは少し考え込む仕草をした。


「そうだな、ここは俺の棲家だよ。同時に、端末の生産場所でもあるが」


「端末?」


 よく分からない言葉だ。端の末とはどういう意味だろう。


「簡単に言えば、そこの男の様なものを造る場所だ。『取り替え子』というのがあるだろう。あれだよ」


 チェンジリングとも呼ばれる神隠しのようなものだ。父母と似ても似つかぬ子供を育てるために、妖精が子供を取り換えたということにする。父親の分からない子供や不義の子供を誤魔化すための風習である。


「リリーが来たら説明しようと思っていたんだが、お前では話にならんか。なあ、知っていたら教えてくれ。リリーは転生者なのか? 俺はその真偽が知りたくて呼んだんだが」


 シャザムの他人事のような言葉に、得体のしれぬ怒りが湧く。


「揃いもそろって、貴様らの吐く言葉はいつも誰に向けているものか分からない。気に入らぬ、お前たちの何もかも知ったというその顔ッ」


 アヤメの投げた毒針は、何か言おうとしたシャザムの額に突き刺さった。屍毒がなくとも、額に針を刺されたら人は死ぬ。シャザムもまた何か意味の分からない言葉を吐いて倒れた。


「答えは地獄で捜すがよい」


 アヤメは吐き捨てて、息を整えた。


「乱暴はよせ。お前たちが知りたいだろうことを教えてやる」


 背後からの声。

 振り向けば、またもシャザムがいる。


「幻術ではないな」


 確かに実体があり、手応えもあった。


「ああ、この身体はまだ百ほど備蓄がある。いくら殺しても一緒だ。まあ、話を聞くといい」


 シャザムは友好的な笑みをみせる。だが、それは仮面のごときもの。


「俺の話を聞いてから、質問に答えてくれ。まずは俺だが、アメントリルの仲間の一人だ。あいつはデカいことをやるが細かいことが苦手でな。俺が色々と手伝ったんだ。その色々は皇帝の蔵書棚にある」


 アヤメは口を閉ざして聞く姿勢を取る。


「だんまりか。まあいい。アメントリルは原作の破壊を望んだ。なんだったか、逆ハーの話を再現してめたくそにしてやりたいって言ってな。ははは、あれって二次創作の話なんだぜ」


 アメントリルのことを思い出したのだろう。シャザムの顔は人のような感情を浮かべた。だが、それは一瞬のことだ。


「そのためには、舞台を整えてやらないといけないだろ。妖精は人の細かいとこをやるには向いてない。だから、妖精に俺の分身をたくさん作らせた。最初は失敗も多くてな。たくさんの俺じゃあ限界があったから、貴族の赤ん坊を造り変えて端末にしたりして、なんとか舞台を整えたんだ」


 そこにはドガも含まれる。世界中の情報を集めるために、様々な場所にドカのような端末は存在する。

 シャザムのそれはアヤメに向けているようで、向けていない。独り言のようなものだ。


「妖精にやらせたら、変な生物を造るからな。本当に大変だったんだ。俺も脳の処理能力が足りなくて、途中で妖精に改造させた。一人でこんな大仕事をやるってのはなかなか大変だったんだ。せっかく舞台は整ったってのに、リリーとお前ら、それにマフのおかげで滅茶苦茶だ」


 人間のように話しているのに、感情はそこに無い。


「ま、お前らに言っても仕方ないな。モブキャラなんだし。新しいリリーも造ってあるし、なんとかなるんだ。アメントリルのカルト教団にいるだろ、お前。なら、手伝え。あいつのために、造るんだ」


 アヤメは長年の修行で培った仮面を脱ぎ捨てた。


「あなたの言葉を完全には理解できないけど」


 その顔に憐れみの色が浮かぶのを抑えられない。


「私には、アメントリル様の教えと共に生きた私には分かる。あなたは、アメントリル様の望んだ未来のために、世界を操ったのですね」


「ははは、なかなか理解力があるな。あいつには世話になったんだ。ログインしたてでな、俺にはなんの力もなかったってのに、守ってもらった恩があるんだ。それに、あいつのやることは、いちいち面白かった」


 アヤメには、憐れな魔人シャザムが救世ぐぜの毒に侵されたのだと分かる。


「なんと憐れな。アメントリル様はどうして、こんな酷いことを。あなたの行いなど、アメントリル様はきっと、望んでいない」


 シャザムに感情の色が宿る。


「モブキャラが知ったようなことを」


「望んでいない。だって、あの方は自分のことしか見ていない人だもの。アメントリル様の教えは、アメントリル様自身には何の意味もない綺麗事……。あの方は、ただ、自分のためだけに生きて、他者を顧みない」


 巡礼の旅で知った。

 聖女もまた、ただの人であった。苦しみと共にある人でしかなかった。

 アメントリルの教えは素晴らしいものだ。彼女の心には何一つ響かないものだったからこそ、他者を救うに足る。


「お前に、何が分かる」


「分かります。私も、アメントリル様に縋って生きましたから。でも、今はもう、必要ないと知った。そして、私の役割も。この旅で分かりました」


 アヤメは意図せずに浮いた涙を司祭服の袖で拭う。


「モブにどんな役目がある」


「アメントリル様の過ちを正すこと。それが私に課せられた運命クエスト


 シャザムの身体がばたりと倒れた。

 大地が揺れる。



 ひさびさに、ムカついたぜ。



 頭の中に直接声が響く。



 気が変わった。お前らはここで一人残らず死ね。



 アヤメは異様な気配にその場を飛び退った。

 さきほどまで立っていた場所に、地面から杭が突き出ている。それは、植物の根のようなものだ。

 大地が揺れて、盛り上がる。

 巨大な花が地を割って姿を晒していた。


「なんと……、これほどの怪物とは」


 アメントリルが造りだしてしまった怪物の姿がそこにある。

 薔薇の花に似た花冠を持つ、白い花。伝説の竜ほどの巨体である。

 花弁には憎悪に燃える瞳と、巨大な口があった。茨の手足がゆらりと持ち上がり、天を向いて吠える。



 皆殺しだ。何もかも。



 花に咲く赤子たちの泣き声。

 ドガは子供のようにうずくまって泣いている。


「アメントリル様、あなたは、なんと罪深いことを」


 聖句を吟じようとして、止めた。

 今のアヤメには必要無いものだ。

 背後からは奴隷たちの悲鳴。


「奴隷共、足手まといになる。離れておれ」


 アヤメは叫んで、手斧を取り出して走る。

 茨の触手をかわしながら進むが、あの巨体のどこに手斧を打ち込めばいいのやら。

 答えはある。人も魔物も、頭を潰されては生きていけない。例え理外にあろうとも、同じに違いない。

 近づくのすら命がけ。どうしたらいいものか。


「くっ」


 またしても、茨がやってくる。なんとかかわしているが、一度でもやられたら立ち上がれまい。

 シャザムの巨体が暴れ回れば、そこかしこの赤子の花が潰れていく。

 赤子の泣き声がそこかしこから響く。地獄の光景であった。

 落ち着け。こんな時にこそ、落ち着かねばならない。


「アヤメ殿っ」


 ウドの鋭い声。

 そちらを見ることは無い。分かっている。

 陰に姿を隠していたウドは、近くの木の上で短弓を構えていた。

 放たれた弓矢はシャザムの花弁、瞳の部分で弾ける。

 奇妙な音が頭の中に響く。それは、シャザムの悲鳴なのだろう。匂いから察するに、あれは邪毒の聖油だ。


「いつのまに」


「ちょいと前に拝借しやしたぜっ」


 細作というのは、これだから油断ならない。

 隙が出来た。

 袖口に隠していた聖光丹という名の薬物を飲めば、目の前が光に包まれる。人を鬼に変える教会の暗部に伝えられた必殺の業。


「一の座点を解放し、続き二の座点、女陰を締め、背骨より回し、額の座点を開き、心の臓を鬼骨とする」


 自らが体内で行う邪術。意識と肉体を邪鬼へ近づける魔の業。

 この業は無言では行えない。体内の気の高まりを確認するために、声に出す。リズムを一つでも違えれば、体内で気は暴発して肉体が折れ曲るからだ。

 似た術は他にもある。邪宗では完全な鬼と成るために赤子を喰らうという。

 全身に満ちる力に任せて、茨を振り払う。そして、シャザムの巨体によじ登る。



 モブどもが、いい加減にしろ。



 危険な気配が満ちた。

 花弁にある口の部分に妖精のそれと同じ雷が集まっている。


『この機会を待っていたぞ』


 異常な声が響く。

 アヤメとウドの知る声だ。

 常闇の脳喰らいと呼ばれる魔物であり、かつてアメントリルと共にあった七聖人が一人。今は脳男と名乗る魔人である。



 ナツ、お前か。



 脳男は宙に浮かび、神具の杖より放つ魔力の光で雷光を押し留める。


『今は脳男だ。妖精に守られたお前をやる機会を待っていた。その攻撃は私が止める。司祭、お前がやれ』


「言われなくてもおおおおお」


 アヤメは花弁によじ登り、憎悪に燃える瞳と瞳の間にその拳を叩き込む。

 邪鬼と化したその拳は、シャザムの理外の肉を貫いた。


「邪を以て魔を滅す」


 魔を討つは魔のみ。その身を邪鬼にまで堕とし、より大きな善と救世を為す。

 花弁の瞳から流れるのは血の涙。

 巨体は崩れるように力を失い、地に伏した。


「アメントリル様には、地獄で会うとよい」


 アヤメは血とも樹液ともとれぬ穢れのついた手で懐を探った。聖光丹の中和薬を取り出して、口に含む。

 目の前が、狭くなる。この感触はいつまでたっても慣れない。


「アヤメ殿」


 ふらついた体をウドが支えてくれた。


「殿は、いらないわ」


「どうにも、あんたにはくだけた口を利きにくいぜ」


「できてるじゃない」


 アヤメは目を閉じようとして、やめた。

 まだ、リリーの戦いは終わっていない。


『よくやってくれた』


 脳男がいつのまにか隣にいた。


「いつから、いたのですか」


『お前たちと別れた後に妖精の襲撃を受けてな。シャザムの端末が場所を知らせたのだろうが、その時にやられたフリをして好機を待っていた』


 その戦いは壮絶なものであったのだろう。脳男の神具の衣服には、戦いの痕があった。

 脳男もまた命を賭した。魔人にしか分からない理由ではない。アメントリルのためだ。

 罪深い聖女である。

 男たちが惹かれたのもまた必然か。


「ナツ、どうして邪魔をする」


 シャザムの声である。

 花弁が弱々しく動き、いかなるものか声を出していた。


『……我々が間違ったからだ』


「アメントリルの夢を、叶えるとっ、俺たちは、約束しただろう」


 シャザムの花弁から力が失われていくのが分かる。

 脳男は沈黙した。


「アメントリル様の夢は、きっと、こんなことではないわ」


 アヤメが代わりに言う。


「どうして、分かる」


「女だからよ」


「……」


 シャザムは何か魔界語で言ってから、朽ちた。

 花弁は急速に張りを失い枯れていく。


「あれは、最期に何を言ったの?」


 アヤメの問いに、脳男は首を横に振る。

 ふと見れば、泣いていたドガが倒れている。ウドが確認すると、死んでいた。


『これで、シャザムの影は消えた。この世界を操る者はいない』


 シャザムと妖精がどのような技術でこれを為したかは分からない。この時、世界各地で取り替え子たちは死した。花弁の赤ん坊もまた、全てが息絶えている。

 アヤメは死を悼む聖句を吟じた。きっと、シャザムにそれは届かないだろう。


「次は妖精ですわね。少し休んだら、合流します。ウドさん、先に行ってくれますか」


「お任せあれ」


 ウドは姿を消す。

 頼りになる男だ。


『司祭よ、感謝するぞ』


「あなたは、妖精を倒しに行かないのですか」


『魔人の力はあれには通じん。だが、リリーやお前ならば、勝てる』


「魔人の保証つきか。これから、どこへ」


 脳男は答えなかった。

 神具の杖を振り、空間を歪めてその姿を消す。


「アメントリル様」


 アヤメは祈る。

 世界に光を示した稀代の聖女アメントリル。

 聖女に捧げる愛のために、シャザムは人ではなくなった。そして、脳男も。

 アメントリルの罪をアヤメだけが償える。聖句を吟じる彼女は、まさしく聖女に他ならない。


 祈りは、彼方に届く。


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