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戦業主夫

作者: カレーはお吸い物

初の投稿をさせて頂きます。

投稿テストも兼ねています。内容はあまりにも稚拙かと思いますが、生暖かい目で、退屈しのぎにでも読んでいただければと思います。

「どうでしょうか?」

 白いワンピース姿の女性が尋ねる。

 テーブルを挟んで座る水野裕輔は、茶封筒をテーブルの上に置いた。

「中々良い絵ですね。話の雰囲気によく合っていると思います。先生にも確認を取りますが、僕個人としてはこの絵、使いたいなぁ」

「ありがとうございます」

 女性は丁寧に頭を下げた。

 水野は出版社に勤め、児童本の編集を仕事としている。

今、彼はある絵本を出版するにあたって、挿絵を担当するイラストレーターと打ち合わせをしていた。

目の前に座る彼女がそうだ。今回が初仕事らしく、緊張しているのか肩が微かに震えていた。

 黒く長い髪が印象的な、細い女性だ。化粧っ気の薄い、比較的地味な部類に入るだろう。しかし、元々の素材が良いのか、彼女の綺麗さが全く損なわれることは無い。むしろ、清楚感が際立ち、彼女への好感度を引き上げる要因となっているだろう。

 しばし女性を観察していた水野は慌ててマグカップを手に取り、コーヒーを口の中へ含む。

「な、何か……ご要望とかはありますか?」

 水野は質問する。

「いえ、特にはありません」

 女性は首を左右に振った。

 頭を切り替えた水野は、女性との打ち合わせを続けていった。


 本が無事出版されてからしばらくしたある日。その女性から連絡が来た。打ち合わせに使われていた喫茶店に呼び出され、水野はそこへ向かった。既に女性は席についており、水野を見かけると軽く手を上げた。

「遅れてすみません、リンさん」

 女性、リンは小さく首を横に振った。

「大丈夫です」

 軽い世間話も無く、リンは早速呼び出した理由を述べ始めた。

「あの実は私、ストーカーに遭っているんです」

「ストーカー?」

 水野が訊き返すと、リンは無言で頷いた。

「ここ数日、身の周りをうろうろしているんです。しかも隠れてコソコソせず、堂々としていて、余計それが怖くて……」

 説明するリンの顔は心なしか暗い。

「警察には相談したんですか?」

 水野の問いに、彼女は首を横に振った。

「そのつもりで一度、警察署へ向かおうとしたんです。でも、後ろをずっとついて来るんです、その人。このまま警察署に向かったら、何かされるかもしれない。そう思うと行くにも行けないんです」

 リンはそう言うと、肩を落とした。

哀愁の漂う表情が綺麗だと思うのは不謹慎かもしれないが、水野はその表情に惹かれていた。

 慌ててその考えを振り払うと共に、水野はいくつか思い浮かんだ疑問を尋ねてみる事にした。

「何かされたとかは?」

「いえ、何も。ただじっと、こちらを見ているだけです」

 じゃあ、と水野は続ける。

「男の特徴とかは?」

「その……」

 リンは視線を彷徨わせた。

「特徴があり過ぎて、どう説明したらいいのか……。でも、その人を見れば一目で分かると思います」

 彼女の言葉に、水野は思わず首を傾げた。

「ま、まあ……とにかく、この事は警察に相談するべきだと思いますよ。何なら今、僕も警察署までついて行きます。その方が一人より心強いでしょ?」

「お、お願いします」

 リンは頭を下げた。


 警察署までは水野の車を使う事にした。

 赤のユーノス・ロードスターが昼下がりの国道を走る。

 独り身の水野が唯一金を掛けている物がこれだった。ピカピカの高級車では無い。格安だったので買ったボロボロの中古車だ。別段、質の良いパーツを使っている訳でもない。オープンカーには無い天井を、アルミ製のカバーで覆った位だ。中身に手を加えたことなど、一度も無い。

 エアコンは無いのと等しいくらい機能しないし、ステレオの類も前の所有者が外してしまったようだ。

 これが金食い虫なのは、オンボロさ故に維持費がかさんでしまうからだ。

 勿論隣に女性が座る時ほど絵になるものは無いが、乗る側にとって狭い車内に縮こまる時ほど苦痛なものも無い。取り分け助手席なら尚更だ。それでもリンは平然とした顔で助手席に収まっていた。

 信号が赤になり、停車させる。リンは反対車線の歩道に目を向けた。

その顔が段々と青くなっていった。

「どうしたの?」

 水野は尋ねる。リンはそっと、歩道側に指をさした。

「あの人です」

「え?」

 水野も顔を向ける。

 ああ、本当だ。一目で分かった。

 歩道からこちらを見ている男がいる。その姿を見て水野は合点がいった。

「特徴の塊だよ、あいつ」

身長は二メートルを超えるだろう。大男は紺色の和服の上に白い割烹着を身に着けていた。せり出した分厚い胸筋が割烹着の上からでも分かる。捲った袖からは丸太のように太い腕が伸びている。先端の手も、指も、並の男よりゴツゴツしていて、デカい。服で隠れている両足もおそらく、丸太のような太さなのだろう。何せ、あれだけの体を支えなければならないのだから。

まさに『筋骨隆々』という言葉をそのまま体現した男だった。

 白い三角巾を頭に巻き、目元の辺りまで深く覆っている。精悍な顔立ちで、鋭い眼光は普通の人間にはない独特の輝きを持っていた。

「主夫だね」

「主夫ですね」

 二人は顔を見合わせ、互いの心の中に浮かんだ言葉を口にする。

「その、何だ。主夫に付き纏われる理由が思いつかないんだけど」

「私も見当がつきません」

 まあ、そうだよな。

 心の中で水野は呟いた。


 主夫の姿は信号で止まるたびに歩道で見かけた。どうやって車に追いついているのか皆目見当がつかない。こっちは時速六十キロ以上で走っているのに。

「ちょっと、道を外れます」

 水野は国道から脇道へ。警察署に繋がる小道の一つに入った。

 狭い道路に入ったのもつかの間、前方に配達用のトラックが停車していた。配達用のトラックが丸々、一車線塞いでしまっている。更にトラックの前を子どもたちが横切っている最中だった。

 そうだ。

 水野は子ども達を見て、思いついた。

「リンさん。ちょっと、足を踏ん張ってください」

 そう言って、水野はハンドルを切ってトラックを避ける。車は道路の右側へ大きく膨らみ、右の前輪がむき出しの側溝に落ちた。続いて後輪までもが落ちる。右の二つを落としてしまった事で、水野の車は自力での脱出が出来なくなった。

「水野さん、これは?」

 トラックの斜め前で脱輪したせいで、道路を完全に塞いでしまった。人一人分通れるかどうかの幅しか残っていない。

「リンさんなら通れるだろうけど、あのデカブツはちょっと苦しいだろうね。このまま真っ直ぐ進めば警察署に行けるから、あとは君一人で」

「はい」

 リンは車から出ると、小走りで進んで行った。

「さて、と」

 水野は助手席側から車外へ出る。こちらに来るであろう、あの主夫を待つことにした。

 案の定、主夫はやって来た。

「すいません、今レッカーを呼ぶんで、引き返してもらってもいいですか?」

 水野は作り笑いを浮かべ、言った。とりあえず時間稼ぎさえ出来れば、と水野は考えたのだ。

 主夫は無言でロードスターを観察する。

「自力では出せないみたいだな」

「そうなんですよ」

 主夫は無言でロードスターに歩み寄った。

 まさか。

 水野が声を掛けようとしたが、遅かった。

 主夫はロードスターの車体後部に手を掛け、力をいれる。腕、肩、背筋が大きく盛り上がった。そこにあるのは筋肉のコブではない。

岩石だ。

 ちょっと待て。一トン近くあるんだぞ、この車!

 水野は驚愕した。

 ロードスターのタイヤが路面から浮き上がる。一人の男が持ち上げたのだ。

 水野は更に驚愕した。

 主夫はロードスターを後ろに引っ張る。脱輪した二つのタイヤが溝から出てきた。主夫は平然と溝から上げた後も数メートル引きずって行った。

 水野は驚きすぎて、もう声も出なかった。その間にも主夫はロードスターを下ろし、ゆっくり息を吐く。呼吸のたびに動く筋肉は、まるで岩が上下に動いているようだった。

「これでいいだろう」

 主夫は微笑んだ。人好きのする笑顔だった。

「あ、ああ。ありがとう」

 水野は礼を述べる。

「あんた、何者?」

 水野はようやっと尋ねた。

「主夫だ」

 主夫はさも当たり前のように返答する。

「お前みたいな主夫がいるかよ!?」

 水野は主夫が持ち上げてくれた愛車を指さし、ツッコミを入れる。

「……よく言われる」

 主夫は残念そうに言った。その後、両者無言で見合った。

「ああ、そうだ。あんたに質問がある」

 沈黙を破り、水野は切り出す。

「何だ?」

「リンさんを付き纏う理由は? それに、彼女は警察に行ったよ。色々面倒なことになる前に退いたらどうだ?」

「質問は一度ずつ喋ってもらいたいものだが、まあいいか。残念だが、こっちにも事情があって退くことは出来ない。訳を話したところで世迷い事にしか聞こえないだろうから話すつもりも無い」

「一体どう言う事なんだ?」

 水野は怪訝な様子で尋ねる。

「そのままの意味だ。忠告しておくが、あまり深入りはするな。面倒が増えると俺も困る」

「何を言ってるんだよ、あんた? 全然意味が分かんないんだが」

「分かった所で得はしない。知らずに関わらない方が身のためだと思うぞ」

 主夫はそう言うと、背を向けて去ろうとした。

「名前は?」

 水野は尋ねる。

真央幸(マオ ユキ)

 そう幸は名乗り、元来た道を引き返した。

彼の姿が見えなくなるのと同時に、リンが戻ってきた。

「車、どうしたんですか?」

 リンは尋ねた。

「引き上げてもらったよ。所で、どうだった?」

「はい、近々私の家に来てくれるそうです」

 安堵の表情を浮かべ、リンは答える。

「一先ずは安心だね」

 胸の奥で幸の言ったことがつっかえたまま、水野は笑顔で返した。


 夕食を共にしてから、リンが住む小奇麗なアパートまで彼女を送った。

「今日はありがとうございました」

 リンは礼を述べた。

 食事中に酒を飲んだリンの頬は微かに赤らんでいる。酔っているのだろうが、その素振りは一切見せない。

「これであの男も手を引いてくれればいいんだけどね」

 水野は言った。

「あの、この後……明日とか、ご予定はありますか?」

 リンは恥ずかしそうに尋ねる。

「明日は休日だから仕事はないよ。だから今日はこのまま帰って……」

「水野さん」

 彼女は水野の話しを遮った。

「あの、コーヒーでもどうです? 私の部屋でよろしければ」

 リンの提案に、水野は息を呑んだ。

 今、何て言った?

 水野は耳を疑うが、リンはそれを知ってか知らずか、強引に話を続ける。

「お礼もしたいですし」

 そう言うと、彼女は水野の手を取った。リンの形の良い手が、細く長い指が、水野の手に絡まる。

「どうでしょうか?」

 水野は車を発進させ、アパートの駐車場に入れた。

 その様子を影から見ていた人物がいるとは知らずに。


 部屋は引っ越して来たばかりなのかと錯覚する位、物が無かった。

「あまり物を置かない様にしているんです。片付けが苦手なもので」

 口許に手を当て、リンは苦笑いをする。

 コーヒーを飲み干してからも水野は緊張しっぱなしであった。仕事柄、自宅を仕事場にする女性作家の下を訪れることもあるが、仕事とこれとは訳が違う。完全に私事だ。

 話をしているが、自分が何を言っているのかも分からないし、彼女の言っている事も半分ぐらいしか耳に入ってこない。

「あの、もう夜も遅いですし、泊まって行かれませんか?」

 突然の提案、突然の奇襲、突然の爆弾発言。水野は彼女の仕掛けた罠に追い込まれているような、そんな錯覚を覚えた。

 水野は無言で首を縦に振った。リンは微かに笑みを浮かべると、口を全くつけなかった自分のコーヒーを持ってソファから立ち上がる。

「お風呂、入ってきます。テレビのリモコンは棚の上にありますから、暇でしたら見ていてください」

 リンは台所でコーヒーを流した後、風呂場へ向かった。彼女の姿がリビングから消えると、水野は多岐のような汗を流し、慌てた。

 ついつい承諾したが、心の準備は無いに等しかった。この後の展開を想像、もとい妄想するだけで思考がまとまらない。

 水野は大きく深呼吸をしてから、部屋の中をうろつくことにした。棚は壁に固定されている姿見の横にあり、その上にリモコンがある。今テレビをつけても内容が頭に入るかどうか疑問だ。

 姿見に近づくにつれて、水野は違和感を覚えた。鏡に小さな亀裂が無数に走っているのだ。亀裂はそこだけでは無い。棚にもあった。試しに棚の亀裂に手を触れると、指に何かがついた。それはネバネバした、白い糸だった。

 蜘蛛の糸に近いだろうそれは、水野の指と指の間で薄く輝いた。

 水野は棚の亀裂に手を掛け、力を加える。すると、持った部分がたやすく外れてしまった。手元まで伸びる長い糸と、鏡を交互に見比べていく内に、水野の心臓の鼓動はより一層速まる。

 まさか、この鏡も……。

 水野が鏡に手を掛けようとした時だ。

「お待たせしました」

 背後から声を掛けられ、水野は思わず飛び退く。振り返ると、リンが立っていた。

 白いバスローブのみを身に着け、胸元を見せるように大きく肌蹴ていた。濡れたままの黒い髪が胸の辺りにまで垂れ下がっている。

 その姿はそそるものがあり、それでいて、身の危険を抱かせる何かがあった。

 彼女は裸足のまま水野の下へ歩み寄る。水野は彼女と距離を置くようにじりじりと動いた。姿見の前から移動し、入り口を背にして立つ。一方のリンは姿見を背にして立った。

「ふふ……」

 リンは口許に笑みを浮かべた。清楚さなんてものは微塵も無い。獲物を追い詰めた時の、勝ち誇ったような笑い方だ。

逃げようとする水野にリンが抱きついた。風呂に入ったのにも関わらず、体は冷たかった。

「さあ、力を抜いて」

 リンは囁く。

「力を抜いて、あるがままに……」

 脳みそが奇妙な揺れ方をし始めた。そのせいでまともな判断が出来ない。体にも力が入らず、立っているのもやっとだ。

もしかして、この声が原因なのか?

 彼女は顔を近づけ、唇を重ね合わせようとする。水野は顔を遠ざけるが、彼女の顔はどんどん迫ってくる。

 もう、駄目だ。

水野がそう思った、その時。

 アパートの黒い扉が破られ、割烹着の大男が乱入してきた。

 幸だ。

彼は手にしたフライパンを投げた。フライパンは縦に回転しながら水野達に迫る。水野が首を捻ると、その脇をフライパンが通過してリンの顔面に直撃。彼女の体がふわりと浮き、鏡に頭から突っ込んだ。

鏡は粉々に砕ける。棚同様に糸で繋ぎ止められていたのか、破片に混じって糸も落ちていった。

 その破片と共に、鏡の中から大量の物が転がり落ちる。おそらく鏡と壁の中をくり抜いて空けたのだろう。部屋にあったと思われる大量の道具、家具類。どれも損傷し、赤いものがついていた。最後に人『だった』物体が音を立て、いくつか出てきた。

 水野は絶叫し、床にへたり込む。

 どの死体も全身に食い破られた痕があった。内一体、全身の皮が剥ぎ取られている。肉体的な特徴から、それが女性のものだと分かった。

「もしかして……」

 水野は声を震わせながら、それらの山の中に埋もれるリンを見る。

「その、まさかダ」

 部屋中に低く、くぐもった笑い声が響く。

山の中からリンが出てきた。その顔を見て、水野の意識は遠のきそうになった。

 フライパンのぶつかった箇所が破れ、さらに焼けていた。その間から赤い口と舌が見える。鼻は横に大きく、そして歪に膨らみ、シューシューと音を鳴らしている。

「こノ男ヲ餌に、お前ガこうして、やって来るのヲ、待って、いたノサ。人助けガ仕事ノお前ハ、この男の事ヲ放っテ置かない、だろうからナ」

 リンの口から発せられるのは彼女の声では無かった。不気味な響き方をする男の声だった。

 もしかして、俺は雄に惹かれていたのか?

 水野は命の危険が迫っていた事よりも、別な方面での危険が迫っていたことに恐怖を覚え、思わず尻穴をすぼめる。

「罠? その割にはこいつを食おうとしていたな?」

 幸は平然とした様子で尋ねる。

「お前さえ来レば、充分。あとは、お前を倒しテ、こいつヲ、喰らうダけ」

 水野は混乱しつつも頭が働く部分だけを使い、かろうじて理解できた。

 リン、もとい化け物は幸がストーカーだと嘯いて幸と水野を接触させたのだ。事情を知らない、無関係な水野が化け物の下にいる。幸は水野を助ける為に必ず乗り込んでくるだろう。この化け物はそう考えたのだ。そして、その思惑通り事が運んだ。つまり、餌としての役割を自分は果たしてしまったのだ。

「退治屋のお前にハ、死んでもらうゾ」

「退治屋?」

 水野は幸を見上げた。

「あんな輩とやり合うのが、俺の仕事なんだ」

 幸は答える。

「主夫じゃないのか?」

「主夫だよ。化け物退治専門の『戦業主夫』だ」

 ――なーんか、納得。

 幸はゆっくりと化け物に近づく。握った両拳から音が鳴った。

「来るナ。それ以上動クと、この男、殺スぞ」

 化け物のこの一言で、自分の役目がまだ終わっていない事に水野は気付いた。

「人質をとるのは別に構わんが……」

 幸は一間置いてから、

「その代わり、容赦はしないぞ」

 と、言った。

 それから幸は突進した。巨体がものすごい速さで水野の前を通過し、化け物に迫る。

 肘を突きだし、化け物にぶち当たる。速度、重量の乗った重い肘打ちが亡物の体にめり込み、後方へ吹き飛ばした。後ろの隠し穴の壁を破り、化け物は隣の部屋へ。幸も空いた穴から隣室へ乗り込む。

 水野も幸の後に続いた。この場で逃げても咎められることはないが、終わりも観ずに逃げるのも嫌だった。

「う……わぁ……」

 水野は辛うじて声を出した。

 荒れ果てた部屋中に白い糸が張り巡らされていた。おそらく死体の中に、この部屋の住人がいたのだろう。あるいは、このアパートの住人全員がヤツに食べられてしまったのだろう。

 部屋の中央に化け物がいた。

 露わになった腹部は青黒く変色し、腐り始めていた。

「生き物の皮は早めに加工しないと、すぐに腐るぞ」

 幸はそう言うと、腕を上げて構えをとった。

「コロス……。お前、丸齧リイィっ!」

 文字通り化けの皮が剥がれた。いや、化け物が無理やり引き剥がしたのだ。

 胸に手を突き入れ、肉ごと左右に引っ張ったのだ。そして、リンの体は左右に裂け、中から本体が姿を現した。蜘蛛の体をした、目のない代わりに大量の口を持つ不気味な色合いの化け物だった。顔の裂け目から見えた口もあの中の一つなのだろう。赤い口から涎がとめどなく溢れ、舌が海藻のようにウネウネと這い回る。

 これ程までに気色の悪い物を、水野は見たことが無かった。

「夢であってほしいな……」

 水野はぼやく。

「夢でも見たくないよ、こんなやつは。でも、仕事じゃあ仕方ない」

 幸は頭を振る。自分の仕事に対して、どこか諦めに近いものがあるようだ。

 息を静かに吸い、腹に力を入れて大きく踏み込む。振り下ろした拳が化け物の胴体に突き刺さった。

 化け物は呻き、後退する。

それを皮切りに幸は口を避けて拳を叩きこんでいった。息を止め、続く限り左右の拳を振る。己の力を全力でぶつけにいっていた。暴風雨のような乱撃は尚も続き、化け物を追い詰めていく。

 化け物も負けじと細長い腕を横から振り回したが、幸はわざと当たりに行って威力を殺してしまう。腕は幸の太い体を打ち据えたが、全く効いている風には見えない。

 しかし、これで化け物の動きが止まる事は無かった。次々と腕を幸に伸ばし、攻撃を仕掛けてきたのだ。それらを掌で払いのけている内に、足元への注意がおろそかになっていた。

 そこを衝かれた。

 正面からは見えない部分にあった口から舌が伸び、幸の足首を絡め取って転倒させたのだ。

 巨木のような幸の体が床に落ちる。それを好機と見なした化け物が幸の体にのしかかった。この時、胴体の裏側に巨大な口がある事を幸は知った。普通の人なら上半身がすっぽり収まるほど巨大な口だ。

「いたダきまっス!」

 化け物がその巨大な口を更に広げ、幸を食べようとした。

幸は化け物の口の端に生えた牙を掴み、抵抗する。化け物は二本の腕を幸の太い首に伸ばし、締め上げる。もう二本の腕で幸の手首を掴み、牙から引き離そうと試みる。

幸が落ちるのが先か、それとも雪が化け物を引き剥がすのが先か。その様子を、水野は呆気にとられながら見ていた。

「あ……。そうだ、どうにかしないと!」

 我に返った水野は辺りを見回す。あの主夫のように素手で渡り合うことは出来ない。しかし、何か自分も……。

 床に転がったフライパンが水野の目に留まった。

「これだ!」

 水野はフライパンを手に取り、叫びながら化け物に突っ込んだ。

 フライパンを胴体に思い切り振り下ろす。

すると、当たった部分がまるで焼石を肉に当てたように焼けてしまった。化け物は痛みに悶え、苦しみの声を上げる。そして残っていた腕で水野を振り払った。水野は窓ガラスを割ってベランダまで飛ばされてしまった。

化け物の気が逸れた隙に、幸は化け物を蹴って脱出する。反撃が来る前に足刀を口の中に打ち込んで距離を取った。

「大丈夫か!?」

 ベランダに声を掛けると、弱々しくも水野が腕を上げて反応した。とりあえず無事のようだった。

 幸はフライパンを持ち、再び化け物と相対する。

 化け物が咆哮し、突っ込んできた。幸は化け物の体を踏み台にして飛び越える。そして、台所に駆けこんだ。姿は見えないが、何やら慌ただしく準備をし始めたようだ。

 化け物が台所に向かおうとした時に幸は出てくる。

 そして手にした食器洗剤を化け物の足元に撒いた。化け物は突然の事に対処できず、足を滑らせ、そして転倒する。

「次!」

 台所から持って来たフォークを投げつけた。スピードが充分乗っていた為、化け物の体に深く刺さった。

「お次は……」

別のフライパンを持ち出して来た。中には熱した油が音を立てていた。それを化け物にかける。

 耳をつんざくような悲鳴を化け物は上げた。油で化け物の皮膚が焼けただれる。いくつかの口にも入ったようで、噴水のように唾液が盛大に噴き上がった。

「た、頼ム。もう、止メてくれ! 殺さナいデぇ!」

 化け物は姿勢を低くして必死に懇願した。

「駄目だ。食べた人達の分の痛みは残さず、充分味わってもらうぞ」

 そう言って、幸はゆっくりと化け物に近づく。その手には例のフライパンが握られている。よく見ると面には赤い札が貼られていた。

「ニ、人間風情ガぁ!」

 激高した化け物は幸に飛びかかった。

「おおおおおおおおおおっ!」

 幸は吼える。フライパンを下から全力で振り上げた。

 鈍い音が響いた。

 化け物の体は打ち上げられ、部屋の天井を突き破り、アパートの屋根までも貫いていった。

 水野が起き上がったのがちょうどその時だった。

 全てが終わった部屋は静かになった。

「終わったのか?」

「終わった」

 幸の返事に水野は胸を撫で下ろした。この男が終わったという事は、つまりそう言う事なのだろう。

「化け物はどうなったんだ?」

「あれだけ高く打ち上げたんだ。どこかに落下した衝撃でくたばるさ。……それでも、食べられた人達は無念が晴れる訳でもないだろうが」

 幸は隣室に散らばる死体を見て無念そうに言う。

「これからどうするんだ?」

 水野は尋ねた。

「まずは彼らを弔うさ。あんたは帰るんだ。そして忘れてくれ。今日あった事、全てを」

「無理だね。インパクトが強すぎる」

 水野は首を振った。

「……それもそうだな」

 幸は笑った。それにつられて水野も笑う。

「また、こういった類の事件に出くわしたら俺を呼べ。力になってやる」

「じゃあ、その時はよろしく頼むよ」

 水野は額を滴り落ちる血を拭いながら部屋から出て行った。

「じゃあな」

 振り返らずに別れの挨拶をして、水野は出て行った。

 その後は一度も振り返る事無く家に帰った。それからというもの、あの騒ぎに纏わる話は聞かない。世間に知られることなく、あの主夫が後始末したのだろう。

 そして化け物に遭う事も、変な事件に遭遇する事も無く、ただ時間が過ぎていく。街を歩いてもあの主夫を見かけることは出来なかった。嫌と言うほど悪目立ちするのに。多分、あの男とはもう二度と会えないのだろう。

 寂しさをいつまでも抱えるつもりは無い。

水野は一連の出来事も、主夫の事も忘れることにした。



 おしまい


読んでいただきありがとうございました。


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