ウサギさんと過ごす日々
この浮き世には、何をおいても負けられないライバルだと感じる好敵手が現れる事があると思う。
あたしと奴は、小学校で初めて出会った時から、ズバリそんな関係だった。
いけ好かないと思っているアイツ、奴の名は翔 (しょう)。
咲来 (さら)は母の美しいウェディングドレス姿を眺めながら、唇から溜め息が漏れ出てくる。
「ママ、綺麗綺麗!」
相変わらず脳天気な三つ下の妹、佳音 (かのん)は、母親の周りをぐるぐると回って歓声を上げている。
「ありがとう、佳音ちゃん」
ヴェール越しにも咲来の母である理奈 (りな)の声は嬉しげに弾んでいて、やれやれと咲来は内心の不満を押し殺した。
今日、理奈は宇佐木優氏の下へと嫁いでゆく。よりにもよって、咲来がライバル視している同じクラスの男子、翔の父親である優氏に。
互いに伴侶に先立たれ、連れ子を抱えた再婚同士である彼らの出会いは、咲来にとっては皮肉な事に、小学校での父兄参観日だった。
お互いへのライバル心を剥き出しにして、授業中率先して手を挙げあう息子と娘の姿に、教室の後方で何事かを語り合ったらしい。決してそれは艶めいたものなど何も無い、純粋に子育てに関する話題。
その後も咲来と翔は、小学校で進級するたびに判で捺したように同じクラスに割り振られ、常に火花を散らしていた。
学力テスト、体育の成績、通知表の結果、運動会……
翔は常に咲来とつかず離れずの成績を保っていたし、顔を合わせれば必ずつっかかってくる生意気な性格はひどく鼻についた。
そんな大嫌いな相手と、一つ屋根の下に暮らす事になるだなんてどういう冗談だと、正直なところ咲来は幾度も口にしかけた。
父が不慮の事故で亡くなり、母が女手一つで娘二人を育ててきた事で、並大抵でない苦労を背負いこんでいた事は、咲来とて承知している。
けれどそんな理奈を、咲来は今まで支えてきたと自負していたのだ。夜遅くまで仕事に出る母の不在中、留守を守り通し、幼い妹の世話をし、家事に奔走し、毎晩ヘトヘトになりながら机にかじりついて勉強に励んだ。
絶対に、大成してやると。
今は苦労させている母を、将来は楽させてやるんだと。
咲来の人生の目標は、活力の源は、その固い決意によっていた。
常に首位を目指すそんな咲来の前に立ち塞がっていたのが……
(アイツ、宇佐木翔。小学校の先生は、間違いなくあたしとアイツを、ワンセットのコンビ扱いしてくれていやがったに違い無い)
咲来にとって翔はいわば目の上のたんこぶ、目標に向かって邁進する彼女を阻む障害物でしかなかった。
毎日毎日、遊ぶヒマも無いほどにてんてこ舞いになりながら、塾や家庭教師の費用など捻出出来ない為、自宅で遅くまで自主学習に励み、母を支えて妹の世話をする咲来と、親の金で最高の環境を与えられて遊び半分に学習していく翔。
境遇の違いを僻んで、努力の質ではこちらの方が上だと自負していても、顔を合わせるごとに突っかかってくる苛立たしい少年。
コンコン、と、花嫁控え室のドアがノックされて、咲来が応えるよりも早く佳音が軽い足取りで「は~い」と返事をしながらあっさりと開け放った。ドアの向こうに立っていたのは、タイムリーにも丁度、咲来がつらつらと考えていた問題のライバル・翔と、その兄である蓮 (れん)の二人。
「あっ、蓮お兄ちゃん!」
「やあ、佳音ちゃん。素敵におめかししちゃって……今日の服、可愛いね。とても似合ってるよ」
「蓮お兄ちゃんだって、いつも格好良いよ」
翔も一緒に訪れてきたのだが、すっかりと佳音の目には蓮の姿しか見えていないようだ。つい先日まで、あの子は翔にべったりだった筈なのに……と、妹の途轍もない変わり身の速さに、思わず背筋に戦慄が走る咲来。だがその反面、当て付けるように咲来の目の前で佳音を可愛がっていた翔にたいしては、(ザマアミロ)という感覚をも同時に覚えるのだから、人間はよく分からないものである。
今日から正式に義理の兄妹となる蓮に抱き付く佳音と、あんたらどこのバカップル? と、思わず尋ねたくなるような甘ったるい台詞を躊躇いもせず吐く蓮。妹曰わく、彼らはそもそも何年も前からの付き合いであるのだそうで、それこそ佳音にとっては翔よりも蓮の方が親密な間柄らしい。
そんな二人は放っておくに限ると、咲来は極力シスコン・ブラコンを視界から遮断し、翔に焦点を合わせた。
「何の用よ? 言っとくけど、式前に花嫁さんの姿を見るのはマナー違反よ?」
「そりゃ新郎の話だろ? 心配しなくても、父さんは新郎控え室でワクワクし過ぎて落ち着き無くしたまま、ぐ~るぐる周回運動してる」
どうやら翔の方も、蓮と佳音に関しては咲来と全く同じ結論に達したらしく、顔は断固として咲来に固定されたまま口を開く。まるで、片時の目が離せない関係みたいだから止めてよね、とは思っても、翔以外のモノに視線を向けたら負けのような気がして目を逸らせない咲来。
「……パパ可愛い、とか思っちゃったじゃん」
「いんじゃね? 父さんは距離置かれるより、仲良くしたい派だし。つー訳で理奈さ……かあ、さん。式が始まるまで、コイツ借りてくから」
「ええどうぞ。またお式でね、咲来。
どうやら佳音ちゃんには必要ないみたいだし……あなたにブーケを投げてあげる」
「いや、あたし以外の年頃のお姉さん方に投げてあげなよ、ママ……」
ざっくばらんにあっさりと、優を『パパ』と形容出来てしまう咲来とは違い、翔の方はまだ理奈を母と認識しきれず、『お母さん』と呼ぶ事に抵抗があるらしい。
ふと、そんな些細な事に気が付いた咲来は、『翔が何か葛藤しているのかもしれない』という点に唐突に思い至り、それについて自分が困惑している事に戸惑いを覚えた。そのせいで、咲来の手を引いて歩き出す翔に抵抗する事も無く、されるがままに歩を進めてしまう。
(……あたし、何に驚いてるんだろ?
翔が再婚に不安を抱いている事とか、翔が悩みを抱えてる事に、驚いてるの?)
それではまるで長年の腐れ縁である翔を、咲来は『何の悩みも痛みも感じない相手』だと考えてたみたいじゃないか……自分で馬鹿馬鹿しいと否定したとんでもない可能性に、咲来の背にはビクリと震えが走った。
(コイツとは何年の付き合いよ? 六年よ、六年。その間ずーっと、あたしは本当の姿を見ようともしてなかった……とか?)
翔に手を引かれるまま、花嫁控え室から結婚式会場となる教会の礼拝堂に足を踏み入れた彼らは、式開始直前の慌ただしさ、その嵐の前を予感させる静かな空間に佇む。突っ立ったままの立ち話はご免だったので、咲来は手近な信者席に腰を下ろした。
「で? 何の用なのよ?」
鼻を鳴らしながら横目でチラリと視線を向けると、翔はストンと咲来の隣に腰を下ろした。彼我の距離は人一人分。お互いが無造作に投げ出したような形になっている手のひらは、未だ繋がれたまま……冷たかった木製の椅子は、両者の体温が少しずつ移ってゆく。
咲来の前方にある祭壇、十字架を象ったその象徴。あと数時間後には、母が咲来の実の父ではない人と永遠の愛を誓う場所……
「なあ、咲来」
「何よ」
「お前さ、もう肩肘張んの、止めろよ」
「意味分かんない」
お互いに前を向いたままだった筈なのに、気が付けば咲来の顎に手が添えられて、翔の方へと向けさせられた。開いていた距離を詰めるように、間近で顔を覗き込んでくる。
翔はいわば、咲来にとって幼馴染みのようなものだ。反発心を抱いて、『アイツにだけは負けたくない』と感じる事があろうと、長年顔を突き合わせてきた間柄である事に変わりは無い。
それなのに何故、今日に限って翔が見知らぬ誰かのように感じてしまうのか。咲来は自分の心であるにも関わらず、すぐには理解出来なくて盛んに瞬いてしまう。
「例えば佳音だ」
「はあ?」
何故ここで妹の名が出てくるのかと疑問の声を上げるが、翔は構わず言葉を続ける。
「『あの子はこれくらいなら大丈夫でしょ』とか、『あの子は所詮、まだまだ幼いのよ』とか……お前の中で基準を決めて、『あたしがなんとかしなきゃ』って考えてる」
「だって、その通りじゃない」
佳音はまだ子供だ。少なくとも、危なっかしくておちおち一人で包丁を握らせる事は出来ない。
「じゃあ、咲来が『これくらいなら』とか、『所詮』と考える根拠はなんだ? お前が今の佳音の年齢の頃は、何を考えてたよ。
お前は自分の妹を、ノータリンでヘラヘラ笑ってるとか思ってねえ?」
「そこまで考えてない。まあ、どっちかって言うと呑気な子だとは、思うけど……」
「佳音はさ、馬鹿でも考え無しでもねえ。
相手の事や周囲の状況を汲み取れるヤツは、口が裂けても『これぐらいなら大丈夫でしょ?』なんて言わねえよ。『これぐらい』は、自分の中での根拠でしかねぇって、ちゃんと分かってるからな」
翔の発言は、いつもの咲来をただ傷付けてやろうとする悪質なモノではなく、珍しく忠告のように聞こえてきた。いや、今までの嫌味や中傷も、中には敢えての苦言も含まれていたのか?
「さーら、お前は今までちっとばかし全力疾走し過ぎたんだ。だからもうそろそろ、休憩しようや」
ぽんぽんと背中を叩かれて、咲来は何故、今日に限って翔に目くじらを立てて怒鳴りつける気力が湧いてこないのか、何となく理解した。せざるを得なかった。
(あたし……無理し過ぎてバテバテだったの?)
人生の目標、生きる活力の素であった、母である理奈を支えるという目的が、唐突に宙ぶらりんになって。母にも、妹にも、最早必要とされていないように感じられて。萎れていたのだろうか。
「父さんは咲来の敵じゃねえし、理奈さんにお前が不要になる訳じゃねえ。
だから今日は、笑って祝福してやれよ」
「あたし……笑ってなかった?」
呆然と呟いた一言に、翔はすかさず「なかった」と即答し、頷く。
「ってか、ここ数日の再婚に向けての期間以外でも、お前が笑ってたのはホント少ねえ。どーやったら笑うんだろうなーって、色々やってもぜってー苛ついてるし、眉間に皺寄ってるし」
つんつん、と眉間の辺りを遠慮無くつつかれて、咲来は翔の人差し指を払い落とした。
「咲来は生真面目な奴だって、父さんは知ってるがな。匡 (たすく)兄と彬 (あきら)兄は気にしてたぜ? もしかして、何か失礼な事でもやっちまったのかも、って」
「それは……申し訳ない事をしたわ。因みにそこに、蓮さんの名前が入っていないのは……」
「そこは聞くな、突っ込むな」
優氏の連れ子である息子達のうち、長男の匡と三男の彬の名は挙がったのに、何気なく省かれていた次男の蓮についてを咲来が言及してみると、大真面目な表情で『口にするのも恐ろしいあのお方』扱いをしだす翔。
思わず同時に、ぷっと吹き出していた。そんな些細な事がそう、とても面白おかしく感じる。
「まああんな人だが、それでも今日からはお前の家族だ。蓮兄もな、悪い人じゃねえんだ。悪い人じゃ……あ、兄貴としては頼れるぞ、うん」
声を震わせながらそう口にする翔だったが、喉が震える原因が笑いでは、兄への尊敬の念もへったくれもあったものではない。
「家族、家族かあ……」
信者席の背もたれに体重を預けて、咲来が見上げた天井。そこには美しい天井画が描かれていて、前方にある祭壇の背後のステンドグラスからは、様々な色合いに染め上げられた眩い日の光が差し込んでくる。
ふふ、と、自然と零れ落ちてゆくのは、ワクワクと胸躍るその感覚は。それは自分でも分からない何かを失う儀式ではなく、新しい門出を祝う為の……
「それとだな、咲来」
あー、ゴホン。と、わざとらしく咳払いした翔。木製の椅子の上に置かれた手に、何やら力が込められてきた。
「父さんも言ってたが、呼び名を変えると心構えも段々革新されていくと、おれも思う。
つー訳で、今日からお前はおれを兄として敬い、尊敬の念を込めて『兄さん』と呼ぶように」
「……今まで結構真面目な話してたと思うんだけど。あんた、この期に及んでふざけてる?」
「ようやく『末っ子イコール下っ端』扱いの日常から逃れられるんだぞ!? 生憎とこの件に関しては真剣大真面目だ!
おれの方がお前より誕生日早いんだから、おれが兄で咲来は妹だ」
どうだ! とばかりに胸を張り、自信満々に自説の論拠を高らかに謳い上げる翔。既に佳音という確定的な末っ子が存在しているというのに、今の段階で兄としての尊厳を確立しておこうという腹積もりである。
四男歴十三年の翔に、長女歴十三年の咲来は首を傾げ……
「結局は同い年だけども、それで良いわよ、別に? 翔が兄であたしが妹で」
「……珍しく聞き分けが良いじゃねえか、いもーとよ?」
あっさりと頷いた咲来に、流石に六年来の付き合いである翔は警戒心がもたげてきたのか、探るような眼差しを向けてくる。
咲来は妹の気が抜けたような笑みや口調を思い返しつつ、
「何のこと、翔にぃ? あたしの方が誕生日遅いんだから、翔にぃをお兄ちゃんとして頼って、何かおかし~い? ねぇ、翔にぃ?」
「まっ、おま! それ、キャラ変わり過ぎじゃねーか!?」
わざとぶりぶりと、可愛こぶって笑みを浮かべながら、語尾にハートマークを浮かべさせていそうな『翔にぃ』を気合いで連呼してやると、決まり悪そうに大慌てしだした。
咲来としては、だ。兄と姉という存在は、弟妹を理不尽に扱っているなどと考えられるのははなはだ心外なのである。
むしろ、妹という生き物ほど苛立たしく腹立たしく、望み通りの状況を楽々と味わっている生き物は無いと思える程に。
(うちの佳音のちゃっかりぶりと、要領良くヘラヘラしてる生き物程、旨味がある立場は無いと思うのよね!)
「翔にぃって呼んじゃ、ダメなの?」
ええと確か、あの子がおねだりしてくる時の口調や、上目遣いと小首を傾げる角度はこんなもんだったかしら……などと参考にしつつ、翔にそう尋ねると、敵は目を白黒させながら、
「いや……ダメって事は……」
などと、ぶつぶつと口の中で呟いている。
「い、いいか咲来! 学校じゃあぜってー『翔にぃ』なんて呼ぶんじゃねえぞ!?」
「うん」
(もちろん、『つい、うっかり~』を装って、連呼させてもらうわ)
目論見の大半は胸のうちにだけ仕舞い込み、咲来はいかにも聞き分けの良い素直な妹らしく即座に頷く。これも、彼女の実妹の日々の態度が参考。
(……あの子も色々、言いたい事飲み込んできたのかしらね?)
これからは、もっと多くの時間を、佳音や理奈との会話に費やせるのだろうか……そんな事を考えて、咲来の唇には自然と笑みが浮かぶのだった。
粛々と進んだ優と理奈の結婚式にて、花嫁のブーケトスで、本人は事前の予告通り自分の娘を狙って投げたようだったが、彼女の投げたブーケはあらぬ方向に飛び……
「……おや?」
ブーケを狙って気合い充分であった、未婚のお嬢さん方の頭上を綺麗に通過して、放物線を描いたブーケは見事、長男である匡の組んだ両腕にすっぽりとはまり込んだ。
「兄さんはもう、何やって……」
「流石はママ!」
「……本当。母さんのセンスは抜群だね」
「つうか匡兄、花嫁のブーケトスの時には男は下がってるもんじゃね?」
「これでも下がっていたつもりだったんだが……母さんは投手としても優秀なんだな」
「まあ、この年になって初めて知る才能だわ!」
「いくつになっても、新しい自分を知る事が出来るというのは、素晴らしい事ですね理奈さん」
「それもこれも、優さんのおかげよ」
「理奈さん……」
兄を窘めようとした蓮は、大喜びの佳音の態度にあっさりと前言を翻し、翔は呆れたように小さく呟く。匡は飛び込んできたブーケを困ったように抱えて感想を漏らし、自らの秘められた能力について、純粋に驚いている花嫁理奈。
そして新婚夫婦は、早速周囲そっちのけで熱い眼差しを交わし始めていた。
「……えーと、単に母さんのコントロール力が無くて、偶然が重なって匡兄さんの腕の中に落っこちてっただけで……」
「あれはあれで盛り上がってますし、突っ込まない方が良いと思います」
お~い、と、ツッコミと共に空中に伸ばした腕を虚しく引っ込め、彬は困ったように頬をかいた。
「……しっかり者が増えるどころか、我が家が益々のほほん空間になっていく……」
……そんな結婚式から約五年後の、とある春の日の宇佐木邸にて。
「……なーんーでーっ! あたしにはカレが出来ないのよーっ!?」
咲来は妹、佳音の胸に抱き付きつつ、この世の終わりのように嘆いていた。
母の再婚を機に、何でもかんでも自力でなんとかしようと意気込むのを止め、自分を精神的に追い詰めない程度の努力をコツコツと重ねていった結果、咲来の心にも大分余裕が生まれるようになり、笑う機会も格段に増えていった。
「お姉ちゃんはさ、高望みし過ぎなのよ。なんか、世の中には身近にある幸せ? とかいうのがあるらしいし、早くそっちに向かったら?」
「もうちょっと具体的に!」
「……十年ぐらいマジで気が付かないってのも、ある意味絶滅危惧種?」
「はあ!?」
逆に妹である佳音はというと、過剰なまでに愛情を注いでくる蓮の存在にほとほと疲れ果てたのか、クールな言動にたまに毒を交え、冷めた眼差しを周囲に向ける少女へと変貌を遂げていた。まさに劇的ビフォーアフターだ。
「いっ、妹が先に初彼をゲットして、初デートを始め恋人同士のあれこれをぜ~んぶ先越されて、焦らない姉が居るかぁぁぁっ!」
妹を殴りつける訳にはいかないので、傍らのベッドをバシバシと殴りつけつつ、咲来は心の叫びを上げた。
因みに、佳音の彼氏とは言わずもがなの、全力熱愛中なあのお方の事である。成長しようが性格がひん曲がろうが、全くブレないその溺愛ぶりには、家族中から生暖かい眼差しが向けられている。
「……で? 今日は何があったの?」
「えぐえぐ……今日の昼休み、せっかく生徒会長とお昼ご飯をご一緒して、あたしの持参したお弁当を貢ぐ予定だったのに。
翔にぃが、今朝お弁当忘れたとか昼休み開始直後に言い出して~っ!」
「生徒会長に捧げる予定の貢ぎ物を、泣く泣く翔お兄ちゃんに手渡した、と」
相変わらず冷めた眼差しを崩さない佳音は、姉から抱き付かれようが自分のベッドをポカポカされようが、眉一つ動かさない。
「それってさあ、咲来お姉ちゃんが翔お兄ちゃんのお腹を満たしてあげる義理はないんじゃないの?」
「なに言ってるのよ、佳音!
いい? 翔にぃは今春大会の真っ最中なのよ? 体が資本のスポーツ選手に、栄養バランスのとれたお弁当を用意してやるのは、身内のチアとして当然の心構えじゃない!」
小学生の頃は陸上部に所属していた翔は、何を思ったか中学からはアメフト部に入部していた。アメフトは単なる球技ではない……体と体が激しく激突しあう、格闘技でもあるのだ。
おまけに、足の速さを生かしたポジションを狙うのかと思いきや、翔のポジションはチームの司令塔クォーターバック。機動力を兼ね備えたタイプで、モバイル型というらしい。
チームの将であるクォーターバックは、当然ながら敵からマークされるし、万全のコンディションでなくてはチーム全体の士気に関わる。
「ああそうね。うんうん全くその通り」
そう力説する咲来にたいして、佳音は面倒臭そうに気のない声音でカクカクと首肯する。
それに不満を覚えた咲来が、文句を言おうと唇を開きかけたところで、咲来の携帯が着信を告げた。この着信音は、問題の翔からである事を示している。
無言で顎をしゃくって、『出たら?』という態度を取る佳音に一言断ってから、咲来は携帯を耳に当てた。
「もしもし?」
「あ、咲来? おれおれ。今風呂上がったんだけどさ、リビングに来てマッサージしてくんねえ?」
翔は言いたい事だけ告げて、通話はブツッと切れた。
「……っの野郎……!」
お互い自分チの中に居るというのに、いちいち携帯で呼び出すなとか、あたしはアンタの専属マッサージ師じゃないだとか、言いたい事は多々あれど。日々の過酷な練習やプレーの様子を見守っている身としては、無碍に出来ない。
足音高く目的地へと向かう咲来は、「行ってらっしゃ~い」という、妹の呑気な声を背に、不機嫌オーラを放ちつつ廊下を横切り、リビングのドアを開け放った。
だがしかし、出入り口から室内を見渡しても、翔の姿が見当たらない。
「翔にぃ? 来たよ?」
咲来はキョロキョロと周囲に視線をやりながらリビングに足を踏み入れ、探し人に向けて声を掛けると、ソファに横になっていたのだろう、翔が背もたれの向こう側からひょっこりと顔を出す。
「あ~、咲来。わり、ちと寝てたわ」
「……いや、それは素直に部屋に戻った方が良いんじゃ?」
まだ湿り気の残る髪をかきあげて、あふ……と欠伸を漏らす翔に、咲来がソファを回り込みながらごく当然の意見を述べると、再びそこに寝そべった翔は目を閉じ、
「動きたくねぇ~」
などと、子供のようなワガママを言い出す。
この姿を、翔に憧れている女子達に是非とも見せたいものだ。風呂上がりで濡れ髪、惜しげもなくさらけ出されている半裸のままソファでうつらうつらしている姿を、取り敢えず手にしたままだった携帯でパチリ。ピンぼけもしていないし、出来はなかなかのものだ。
「……売れるかしら?」
「兄を売るなボケ。
ほれ咲来、早くマッサージしろマッサージ」
「はいはい」
写メは一応保存しておき、携帯をテーブルの上に置くと、咲来はワガママ男の凝りを解しにかかった。応急手当ての仕方からマッサージの勉強まで、気が付けばどうしてここまで面倒を見てやってしまうのか、我ながら謎だとたまに自答自問しつつも。
「ん……さら、そこ……」
「こう?」
「……もうちょい、力入れてくれ」
「これ以上強くしてへーき?」
「ああ。ん……良い。上手くなったな、さら……」
「翔にぃ、ベッドじゃないとやりにくいよ」
「ここまできて、今から場所移せって……? 無茶言うなよ……おれ、も、限界……」
宇佐木家の自宅がいかに広い洋館といえど、どうしてわざわざ携帯を使っての呼び出しをかけてきたのかと思えば、翔は今にも睡魔に敗北してしまいそうな状態であるらしい。
やれやれ、寝落ちする前に部屋まで送ってやらなくてはな、などと考えていた咲来は、出入り口の方からガタガタガタッ! と、騒々しい物音が響いてくるので、何事であろうかと背もたれの上へと首を持ち上げた。
顔どころか首まで真っ赤に染めた彬が、唇を戦慄かせてリビングの出入り口に佇んでいた。足下には、彼が落っことしたと思われる荷物が散乱している。
「彬にぃ、お帰りー。どうしたの、そんなとこで?」
「ん~? あ、彬兄お帰り」
大学生は夜遅くまで大変だな、などと考えながら、帰宅してきた彬に出迎えの挨拶を送ると、翔の方もソファから起き上がってヒラヒラと片手を振って労う。
「う、あ、お、オレは何も見てないし、聞いてないからなっ!?」
だがしかし、彬は突如として早口でそんな宣言を弟妹に叩きつけてきた。
そしてクルリと方向転換し、
「オレは今夜、リビングに入ってないし、何も見知ったりしてないんだぁぁぁぁっ!」
などと、家族中に伝わってしまいそうな大声で叫びつつ駆け出し、前方不注意だったのか飾られていた花瓶に見事な体当たりをかまして、濡れた床にすっ転んで目を回してみせた。
以上、咲来が彬の存在に気が付いてから実に一分にも満たない間の出来事であった。
「……彬にぃ、今夜も絶好調だね」
家ではあんな兄であるが、咲来が同じ学校に通っていた中学一年生と高校一年生時代には、彬に憧れる女子は実に多かった。クールなストイックさが素敵とか言われて。現在のキャンパスライフでも、そうやって罪のない女性に勘違いをもたらしているのだろう。
何事だろうと、廊下の向こう側からヒョイと覗き込んできた蓮と佳音は、翔と目が合うと実にイイ笑顔で手を振って引っ込み、父と母はただ今入浴中である。因みに匡は、大学入学を機に一人暮らし中なので、実家にはたまにしか顔を見せない。
雇っているお手伝いさん達は、夜間にはそれぞれ帰宅してしまうので、今この家にいるのは家族のみ。
「……勘弁してくれよ、彬兄。これは割った花瓶の後片付け、おれがするのか……?」
「頑張って、翔にぃ」
「ぐぐぐ……おかしいっ。おれはもう末っ子じゃなくなった筈なのに、扱いが変わってない!」
すぐ上の兄のいつもながらの暴走っぷりと、ちゃっかりと後始末を押し付けてくる同い年の妹に、翔は嘆息を漏らしながらバサリと頭からTシャツを被った。
こうして、宇佐木さんチのご一家は、概ね平和に過ごしていくのである。