40.有翼族への怒り
言葉を失った魔王様の前で、カイダル様が悲痛そうな表情を浮かべていた。
客室から戻って来たジフジ様が、流れる涙を止めずに床に跪いている。
三人の目の前には、大きなベッドに横たえられたお妃様の姿があった。
白く美しい顔は赤黒く腫れ、唇の端が切れて血が滲んでいる。衣服で覆われた全身にも、殴られたような痣があるという。ジフジ様が震える手でお妃様の手に触れているけど、お妃様はベッドの上で目を閉じたままだ。
すべての感情を消し去ったような顔をしている魔王様に、それでもカイダル様が報告を続ける。
「有翼族の小娘は、サヴィーナ老の屋敷の地下牢に妃殿下を拘束していた。そこで、エバー王国に帰るように、王妃の座を明け渡すようにと拷問を加えていた」
ジフジ様から外れた手枷の魔力を追跡に使って、捕らえられたお妃様を見つけたという。
カフカが運んできた清潔な手巾を桶の水に浸して固く絞った後、傷だらけのお妃様の顔にそっと触れた。こびりついた血を、少しでも拭き取って差し上げたい。
横から、ジフジ様が手を伸ばす。
「……あたしが、やるよ」
「いえ、私が拭きますので、ジフジ様は魔法で水を出していただけますか。血が固まって、拭くだけでは綺麗にして差し上げられません」
「わかった……」
僕たちのやり取りを見ながら、魔王様が口を開いた。
「その小娘はどうした」
「ぎゃんぎゃん騒いでやかましかったから、一発だけ殴って気絶させて連れて来た。殺すなって言われてたからな。貴人用の牢に入れてある」
地下牢とは違って、魔王城には罪を犯した高位魔族を入れておくための牢がある。綺麗に整えられた部屋ではあるけど、これまで甘やかされて育った温室娘には堪える境遇だろう。
だが、魔王様には気に入らない話だったようだ。
「そうか、俺が殺せばいいんだな」
「まぁ待て、シュヴァンダル。殺す前にすべて吐かせろ。こんな大それたことを、あの小娘一人でできると思うか?」
「白を切るだろうが、どうせサヴィーナがやらせたんだ。そうか、有翼族を滅ぼせばいいのか」
メイドも護衛官もすべて部屋から出しカフカも退室させて、今この場には魔王様たちしかいない。
「総務官長に調査を命じたんだろう?結果を待て。それまで、お前は妃殿下の傍にいてやれ」
お妃様の名前を出されて、魔王様がグッと言葉に詰まる。
揺れる瞳で、ベッドの上に視線を向けた。
最強の魔王様にとって、心を寄せ始めていたお妃様のこんな無惨な姿は、決して見たくないものだっただろう。先ほどまでの無表情は消えて、眉間に深く皺を寄せて苦しそうな顔をしている。
お顔の汚れを拭き終え、手巾を洗う。
ゆっくりと、これ以上傷が増えないように優しくそっと、体の汚れを拭き始めた。お妃様への許せない暴行に、怒りで目の前が真っ赤になりそうだった。
首から肩、腕へと手巾を動かしていく。
ピクリ、と指先が動いた。
「っ!妃殿下っ!?」
驚いて思わず叫んでしまった。僕の声に、バッとジフジ様が顔を上げる。
魔王様とカイダル様も、ベッドの上を凝視した。
固く閉じられた瞳を縁取る黒いまつ毛が震える。眉が寄る。ピクピクと、瞼が動き出す。
ベッドの枕元に膝をついて、魔王様が固唾を呑んで見守る中、お妃様の瞳がゆっくりと開いた。薄く開いた黒曜の瞳が、ゆらゆらと揺れてこちらを向いた。
「ミサキ……!」
悲鳴のような魔王様の言葉に、不思議そうな顔を向けたお妃様が、一瞬の後に大きく目を見開いた。
「……ぁ」
「いい、無理に話すな。お前の意識が戻ったのなら、治癒魔法が使える。今、治療師を呼ばせるから……」
立ち上がろうとする魔王様に、お妃様が困ったような顔を向けた。
「どうした?」
気づいた魔王様がお妃様の顔を覗き込む。
震える唇をゆっくりと動かして、お妃様が消え入りそうな声で言葉を零した。
「……お初に、お目にかかり、ます。セレス、リーアの魔王陛下……」
お妃様の顔で、声で、紡がれた言葉はお妃様とは別人のような口調だった。




