36.付き纏い男の最期
麝香族。セレスリーアに暮らす魔族の中で、最も人数の少ない貴重な種族。
角はなく、長く伸びた上顎の犬歯が特徴的な一族だ。そしてもう一つの特徴が、雌を誘う香りを発生させる雄の分泌物。麝香というその香りは、種族名の由来にもなっている。甘く官能的な香りで、時に種族外の者も誘われてしまう、蠱惑的な香りだという。高い魔力と相まって、一度誘い込まれたら二度と抜け出せない、抗いがたい魅力があると言う。
生まれつき性別を持たない僕のような種族にはあまり関わりがないけど、その希少性と引き込まれる香りで伴侶としては人気がある。
その麝香族の男が、見るも無惨なボロボロの姿で床に崩れ落ちていた。
全身の皮膚が剥がれ、血をボタボタと流しながら、大きな目だけがギョロリとこちらを見ている。
「……妃殿下をどこへ連れて行った」
すべての感情を削ぎ落としたような声で、カイダル様が尋ねた。鉄格子の傍に置いた椅子にゆったりと座った魔王様が、隙なくその様子を眺めている。
満足しきった顔をして客室から戻って来たカイダル様は、その足で地下牢へとやって来た。
ジフジ様をお一人にしていいのかと思ったけど、お妃様を攫われてしまったショックをようやく落ち着かせて眠ったところだから、そっとしておくようにと言われた。客室には隠蔽魔法もかけてきたそうだから、僕が口を出すことではない。
麝香族の男の背中らしき場所に、カイダル様が足を乗せた。引き攣ったような、くぐもったような呻き声が聞こえたような気がしたけど、意識がまだあるか少し怪しい。
「前からジフジに付き纏っていたなぁ。お前が流した魔力など、俺がすべて掻き消してやったぞ。今は俺から、ジフジの豊潤な魔力を感じられるだろう」
「……よ、くも……」
「おお。まだ喋る元気があったか。ならさっさと答えろ。妃殿下はどこだ」
「……ジフジ、さまは、私、の……」
その瞬間、男の顎だった場所をカイダル様が蹴り上げた。軽々と吹き飛ばされた男の体が天井に激突し、空気の抜けた風船のように落ちてくる。
「貴様がジフジの名を呼ぶな」
「……わが、はんりょ、に……」
もう一度、カイダル様が今度は拳で男を殴りつけた。
「このまま死ぬか?情報は有翼族の奴らからでもいいんだぞ」
「……じふじ、さま……」
とうとう我慢しきれなくなったのか、カイダル様が麝香族の男の顔を足裏で踏みつけた。
グシャリ、と音がして、それきり男の声は聞こえなくなった。
「カイダル」
「すまん。さすがに我慢できなかった」
「構わん。術者が死んだことで、ジフジの手枷は外れるだろう」
埃を払うようにぱんぱんと手を叩いて、カイダル様が魔王様に向き直った。
「いいのか?あの手枷、使えるかもと言ってたが」
「物は残るからな。魔力の残滓でミサキの居場所を追えるかもしれん」
「そう言えばお前、妃殿下に魔力込みの宝飾品は贈っていなかったんだな」
夫婦となった時にお互いの居場所がわかるように、魔力を込めた装飾品を贈り合うのは魔族の風習だった。
首を傾げるカイダル様に、魔王様が深い深いため息を吐いた。
「私室の宝石箱に、しっかり入っていた。掃除や料理の邪魔だと、外していたんだろう」
「あぁ……」
「それに、俺たちはまだ蜜月を迎えていない。身につけていたとしても、どれだけ追えたかどうか」
それだけ言って、魔王様が立ち上がった。
チラリと床に転がる男の残骸に目をやって、鉄格子を開ける。
「そのまま置いておくのも穢れが広がりそうだな。後で掃除夫に片づけさせろ」
「御意」
「じきに御前会議を始める。カイダル、お前も参加しろよ」
魔王様の後をついて牢から出たカイダル様が、肩を竦めた。
「堅苦しい話し合いは苦手なんだが」
「だが、俺の怒りを抑えられるのはお前だけだからな。頼りにしている」
平気そうに話をされていても、魔王様が狂おしいくらいにお妃様を心配しているのがわかる。
今は激情を抑えておいでだけど、有翼族の阿呆が魔王様の怒りを増長させたらどうしよう。
お城が吹き飛んでも大丈夫なように、修繕の職人を集めておくかな。




