31.不穏の始まり
お妃様の私室から、静かな廊下を歩いて下へ降りるための階段へ向かう。
広々とした廊下にはお妃様のお世話を命じられたメイドや護衛のための武官が少数行き来しているだけで、他の気配は感じられなかった。
最奥の魔王様の寝室から、反対側の突き当たりに階段はある。手すりの傍には二人の武官。最上階への出入りを許可された者だけを通す守衛だ。
僕の姿に気づいて、一人が踵を合わせて礼をしてきた。だけど、もう一人の男は胸を反らして立ったままだ。頭を下げる武官に目を向けた。
「ご苦労さまです。少し、お話を聞いてもいいですか」
声を掛けられた守衛は、直立不動の体勢のままで「はっ」と短く答えた。
「このところ、魔王陛下の許可のない者がこの階に立ち入っているのですが、ご存知ですか」
僕の問いかけに、礼をした守衛ではなくもう一人がふんと鼻を鳴らした。慌てたようにそちらを見た守衛の男を手で制して、僕も顔を向ける。
「何ですか」
「いえ、侍従どのはあの人族に随分、入れ込んでおられるようで」
嘲笑するような響きに眉を寄せた。
「それは、王妃殿下のことですか」
「はんっ!妃殿下が聞いて呆れます。いまだ蜜月も迎えられない、無能な人族じゃないですか」
「おいっ」
「なるほど。貴方はそう思っている、と。それと、陛下のご意向に逆らうことに、どういう関係が?」
首を傾げてみせると、一瞬だけ怯んだように口を噤み、それでもこちらを真っ直ぐに睨みつけてきた。
「陛下には、お血筋の正しい、高貴な姫君が添われるべきです」
「妃殿下は、高貴な姫君ではないと言われる?」
ちっと舌打ちを漏らして、守衛の一人は忌々しげに吐き捨てた。
「ですから、下賤な人族など、高貴でも何でもないっ!陛下の隣には、ハミリア様こそ立たれるべきだっ!」
話している内に興奮してきたのか、守衛の声がだんだん大きくなる。
「貴方は有翼族の派閥ではないと思っていましたが、寝返りましたか」
魔族の中でも力の強い有翼族は、政にも軍事にも口を出す。数代前には、魔王様の地位を狙って謀反を起こしたことさえあるという。文献でしか知らないけど、当時の魔王陛下はセレスリーアの軍勢の主力が削がれることを憂いて、謀反に関わった当主とその側近、家族までしか処罰しなかったはず。
その後に一時勢力を落とした有翼族だったけど、じわじわと力を蓄え、絡め取るように少しずつ味方を増やし、今では魔族の中で最大派閥を持っている。
目の前の男はその派閥には属していなかったはずだ。そうでなければ、このお役目を魔王様がお命じになるはずがない。いつの間に、あちら側についたのか。
考え込んだ僕の耳に、廊下の奥からの悲鳴が届いた。バッと振り返る。お妃様の私室から……?
まさか、お傍にジフジ様がいらっしゃるのに、何かあったのか?
ハミリア嬢を称えるような発言をした男を抑えておくように守衛に指示し、歩いて来た廊下を全速力で駆けた。こんなに、主の私室までの距離を遠く感じたことはなかった。
気持ちだけが逸る。
ようやく見えた扉を蹴破るような勢いで開けて中に飛び込むと、床に倒れ込む有翼族の者たちと、黒いフードを被った細身の男に抱きとめられているジフジ様の姿が目に入った。
「っ、ジフジ様っ!」
「リカルっ!妃殿下が攫われたっ!すまん!」
悲痛な、泣きだしそうな声で叫ばれたジフジ様の言葉に、一瞬思考が固まった。
ハッと我に返り、魔力を込めた指先で唇を触って指笛を鳴らす。僕の魔力を纏った音が、魔王城中に敵襲を報せる。すぐに、魔王様とカイダル様が駆けつけるだろう。
ジフジ様に抱きつく男に視線を戻した。誰だろう。あのジフジ様の動きを止めているなんて、只者じゃない。
床に倒れる有翼族も気になる。十人はいるように見える。油断なく様子を見ていると、ジフジ様に抱きついている男が恍惚とした声を出した。
「あぁ、ジフジ様……ようやく、この腕に抱くことができました。さぁ、私と参りましょう。すぐに、今の旦那様など忘れさせて差し上げますよ」
「っ、黙れ!あたしは、カイダルを愛してるっ!貴様などに、体を好きにさせるかっ……くっ、離せ!魔力を流すなあっ!」
蒼白になっていくジフジ様に近づけない。フードの男から、吐きそうなほど気持ち悪い魔力が溢れてきていて、体が震える。
それでも何とか足を動かして一歩踏み出そうとしたところで、僕の隣を強い風が吹き抜けた。
ゴンッ、と大きく鈍い音がして、黒いフードの男が床に倒され、カイダル様の大きな足で背中を踏みつけられていた。




