16.あの夜のこと
大量の書類を裁く魔王様に、カイダル様が突然尋ねた。
「お前、蜜月はまだか?」
サインを書いていた魔法ペンがボキリと折れた。あぁ、あれ高いのになぁ……。
「な、何言って……」
「いい雰囲気だと思うんだがなぁ。なんでまだなんだ?」
書類から顔を上げ、カイダル様が魔王様の顔をじっと覗き込んだ。
「同衾はしているんだろう?」
その質問に魔王様の眉間に深い皺が寄る。
「……あいつは、俺のことを何とも思っていないだろう」
お妃様は今、湯浴みの時間だ。今日はジフジ様とご一緒されるからと、私室を追い出された僕はこうして執務室にいる。だけど、失敗したかな。気まずい雰囲気になってしまわれた。
「何とも思ってないなんてことが、あるか?同じベッドで、魔力を馴染ませて眠るんだろう?」
「……」
それはそれは深いため息を漏らして、魔王様が書類を放り投げた。
立ち上がってソファへ向かわれるのを見て、カイダル様も机から離れる。あぁ、今日も仕事は滞るかもしれないなぁ。
床に散らばった書類を拾い集め、決裁済と未決裁のものに仕分けていく。
「……あのな」
他に誰もいない執務室で、それでも極限まで声を潜めた魔王様が話しだした。
「前に、酒を飲んだんだ」
「酒?」
ソファの間にあるテーブルを飛び越えそうな勢いで、カイダル様が身を乗り出した。
「寝酒によく飲む、リンゴのブランデーだ。あいつが、飲んでみたいと言い出したから、一杯だけのつもりで飲ませたんだ」
あぁ、十日前の夜か。途中で寝室を退出したから、何があったのか僕は知らない。
「少し飲んで、これまでのことを話して、また少し飲んで。今まで聞いたこともないようなあいつの世界の話が面白くて、俺も普段より杯を重ねた」
何を思い出したのか、魔王様の耳が赤いような気がする。
「気づいた時には、あいつも結構飲んでしまっていて。顔を赤らめて、俺を見て微笑んで……『あつい』と言い出して夜着を脱ごうとした」
叫んでしまうところだった。お妃様、何てことを。
「慌てて止めたんだが、そのまま肌着だけになってベッドに横になりやがった。それで、俺に言うんだ。『ほら、早く寝るわよ。明日もお仕事でしょ』って。俺のことなど何とも思っていないように、あっけらかんとして」
カイダル様が、気の毒そうな表情を浮かべて頭を抱えた。
「まだ魔力が完全には馴染んでいなかったから、仕方なくベッドに入った。だが、とても眠れそうになかった俺に、あいつは……」
はあーっと深い息が吐き出されたのが聞こえる。
「『眠れないなら、こうしててあげるわ』とか何とか言って、俺の頭をすっぽりと腕に抱き込んだ」
あぁ、魔王様が顔を両手で覆ってしまわれた。カイダル様も、見てはいけないものを見てしまったみたいな顔をしている。
「挙句、背中をぽん、ぽん、と叩き始めた。あれは完全に、異性ではなくどこかの子供か何かだと思っている態度だった」
脱力したようにソファにもたれかかり、魔王様がチラリとカイダル様を見た。
「そして次の日の朝、あいつは何も憶えちゃいなかった」
「……お約束だな」
「だが、一緒に寝たのに何もなかったことで安心したのか、俺の流す魔力に慣れて温かさを求め始めたのか、あいつは俺と同衾することを平然と受け入れだした。ただの日課だとでも思ってるんじゃないのか」
絶句しているカイダル様と項垂れた魔王様の前に、濃い珈琲を淹れて差し出した。
「それで、どうやって蜜月を迎えろと言うんだ……」
ため息を漏らした後、魔王様が淹れたての珈琲を口にした。
居た堪れない沈黙が流れる。どうしよう。主君が悩んでおいでなら、解決に手を貸して差し上げるのも侍従の務めだと思うんだけど、ジフジ様にきつく言いつけられている。
お妃様の私室を退出する時に、こっそりと厳命された。
『いいかい?今日の茶会であたしたちが話したことは、陛下には言うんじゃないよ。こういうことは、周りがあれこれしたって、結局は本人次第なんだ。あたしたちは、見守ってやるだけでいい』
そりゃあ、女性同士の会話の内容を魔王様に語るのは、報告じゃなくて告げ口してるみたいだけど。悶々とされる主君を見続けるのもなぁ。
魔王様が、パンッと大きな音を立ててご自分の頬を思い切り叩いた。
「今はとにかく、あいつを元の世界へ戻せるかを、調べねばな」
「……お前は、それでいいのか?」
「約束した。調べてやると。あいつがどんな決断をするかはわからんが、泣かせたくはないからな」
「……」
カイダル様は何も答えなかった。
けれどその表情は、自覚のない初恋に振り回されている幼馴染を見守る優しいものだった。




