1.魔王様とお妃様
ガシャーーンッ。
雷が落ちたような衝撃音が、主君の寝室から響いてきた。
朝の準備をしていた僕は、同僚のカフカと顔を見合わせた。ハッとして、厨房から飛び出す。
一拍遅れて、カフカも走ってついて来た。
「今朝もか?」
「……そうみたいだね」
ため息を吐きたくなるのを我慢して、清掃の行き届いた広い廊下を走る。
お城に仕えている魔族たちが、駆ける僕たちを見て苦笑いしている。今朝も、主君が盛大にお妃様に叱られているのだろうと受け取られている。それでいい。本当のことなど、とても言えないのだから。
廊下の最奥、突き当たりに位置する主君の寝室から何やら叫び声が聞こえてくる。
開け放たれた扉の前で、護衛官が部屋に踏み入るべきか逡巡していた。
えっ、扉が開いてる?どうして……。
考えたのは一瞬だった。お城中に響き渡りそうな声が聞こえたから。
「……毎晩毎晩、人が寝てるベッドに勝手に入って来ないでよっ!何度言わせたらわかるのっ、この変態っ!」
耳を塞ぎたくなるような罵倒の言葉に眩暈がした。でも、とても美しい声だと思う。
扉の前で立ち止まり、護衛官に目配せした。心得たように小さく頷いてくれる。
コホン、と小さく咳払いして、室内に向かって声を掛けた。
「失礼致します。どうなさいましたか」
できるだけ、平静な声を心がける。その方が、お妃様を刺激しないともうわかっているから。
チラリ、と寝室の中に目を向けると、ベッドの上でシーツを体に巻き付けて涙目でぷるぷる震えている小柄な少女と、魔法で吹き飛ばされたのか壁際に尻もちをついている主君の姿が目に入った。
「おぉ、リカル。騒がしくてすまんな」
威厳も何もあったもんじゃない格好で、主君がぽりぽりと頭を掻きながらそう言った。
その言葉で僕に気づいたのか、お妃様の視線がこちらに向く。
真っ直ぐに腰まで伸びた艷やかな黒髪と、夜空に星を散りばめたような黒曜の瞳。僕たち魔族にとっては最も好ましいその容姿は、人族の間では忌避されるらしい。こんなに綺麗なのに。
「……リカちゃん」
ぽつり、と零された呟きに主君の眉がギュンッと寄った。顔が怖い。
鍛えられた筋肉を纏う大きな体の魔族の王様。黒い短髪はボサボサに乱れ、血の色を思わせる赤い瞳は情けなく揺れていたのに、お妃様が僕を愛称で呼んだだけで眉間にそれはそれは深い皺が寄っている。
「恐れながら王妃殿下。私のことはリカル、と呼び捨てに……」
「だからっ!あたしは王妃殿下なんかじゃないって言ってるでしょう!?」
「……」
壁際に座ったままの魔王様に、カフカが手当てしようと近寄ろうとしていたのに、あまりの顔の怖さに固まっている。困ったな。
「では、ユーティリア様、朝のお召し替えを持って来させますので……」
「それも違うって!あたしは……美咲って名前なのっ」
ため息が漏れそうになった。嫁いで来られてからの一週間、この少女はこうして訳のわからないことを言って主君を拒み続けている。
立ち上がった魔王様が肩を怒らせてベッドに近づいてきた。途端、お妃様がビクンッと体を跳ねさせる。
「や、やだ……来ないでよ」
「ユーティリア。お前は俺の王妃となるために、人族の王が寄越したんだ。いい加減、拒絶など許さん」
「そ、そんなの知らないっ。あたし……あたしは、片桐美咲って名前の、もうすぐ五十歳の主婦なんだって!」
頭を抱えたくなった。
「俺を拒むなら拒むで、もう少しマシな言い訳はできんのか?」
あぁ、魔王様の機嫌が急降下していく。
お城を吹き飛ばされたらどうしようかな。
聞き分けのないお妃様の様子に、氷点下の空気を纏い出した主君の表情に、そんな現実逃避的なことをぼんやりと考えた。




