もう一人のおばあちゃん
部屋の空気が、微かに変わった。
少女の声が、右のベッドへと投げかけられた瞬間、狼の胸に冷たい風が吹き抜けたような気がした。
右のベッド。
そこに横たわる、もう一人の「おばあちゃん」が、ゆっくりと少女に答える。
その言葉は、純粋で、どこかぼんやりとしていて、狼の計算を一瞬でずらす。
「え……? アタシかい……? アタシの耳、そんなに大きいかねぇ……? 80年生きてるけど、そんな事一度も言われた事ないよ……?」
少女は少し目を細め、疑いの色を浮かべる。
その瞳に映る右のベッドのおばあちゃんは、ただの老女でしかなかった。
毛布の下で、狼の爪がシーツを掻く。
「死んだ爺さんなんかは、よく『アンタ福耳だねぇ』なんて言われてたけど、アタシは一回もそんな事、言われた事ないよ?」
言葉が、部屋に落ちる。
柔らかく、しかし確実に、狼の構築した幻想を削り取っていく。
福耳なのは爺さんで、自分は言われた事はない。
そんな本音が、赤ずきんの耳に届くたび、狼の心臓は不規則に跳ねる。
この女、バカか。
コイツは赤ずきんを騙す気がない。
いや、騙すどころか、素で自分を晒している。
その無防備さが、逆に自分を追い詰めるんだ。
「じゃあ、右のベッドのおばあちゃんにまた質問するね? おばあちゃんのお目目はどうして、そんなに大きいの?」
少女の声は、変わらず澄んでいる。
確認作業のように、淡々と、しかし執拗に。
右のベッドのおばあちゃんは、ため息混じりに答える。
「だから、しつこいよ、赤ずきん。アタシはそんなに目が大きいなんて言われた事、一回もないのよ!? アタシ、人生80年、一重だった事がずっとコンプレックスだったんだから! 後、言っておくけど、アタシは手が大きいなんて事も言われた事ないからね!」
その言葉が、部屋に落ちる音を立てた。
狼は、毛布の下で息を殺す。
これは……勝った。
コイツは赤ずきんを騙す気がない。
この勝負、俺の勝ちだ……!
心の中で、獣の笑みが広がる。
右のおばあちゃんの本音が、逆に狼の偽装を補強している。
彼女の否定が、狼の「大きさ」を際立たせ、少女の疑いを右へと逸らす。
完璧だ。
もう少し、もう少し耐えれば――
少女が、再び口を開いた。
「そうなんだ。じゃあ、他の人も何か質問ある? 青ずきんちゃんなんかはどう思う?」
……。
世界が、再び傾いた。
青ずきん。
別の声が上がる気配。
狼の耳が、ピクリと動く。
まだ、終わっていない。
この部屋は、ただの童話ではない。
疑いの種が、静かに、しかし確実に芽吹き始めている。
少女の瞳が、部屋の隅々をゆっくりと見回す。
その視線は、無垢で、残酷だった。
狼は、毛布の下で牙を噛みしめる。
まだ、食べてはいない。
まだ、終わっていない。




