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「何が悪かったの?」

『何が悪かったの? ――召喚された姉は、失踪者になった』

作者: 月白ふゆ

この作品は、同一テーマを用いた二つの短編のうちの一つです。

もう一方には、現実世界を舞台にした別バージョンが存在します。


異世界召喚という設定を使っていますが、

ここで描きたいのはファンタジーではありません。

「人がいなくなった時、残された側は何を見るのか」という現実の話です。


召喚は救済でも奇跡でもなく、

ただの“移動”として扱われます。

必要とされた場所と、不要だった場所の差を、構造として並べています。


この作品単体でも読めますが、

もう一方と読み比べたとき、

問いの輪郭がはっきり浮かび上がるよう設計しています。


同じ問い、同じ言葉、

違う世界、違う状況。

その差そのものが、この短編群の主題です。

『姉が召喚された日、家は少しだけ静かになった』


 姉がいなくなった朝、最初に壊れたのは玄関の靴べらだった。


 家を出る前に靴べらを探した母が、いつもの位置にないことに苛立って、靴箱の上に置いてあった小物入れをどさっと落とした。中身が散らばって、鍵が床を滑り、靴べらがどこかへ転がっていく。


「もう、誰か片付けておいて」


 母はそう言って、靴べらを見つけないまま、靴を無理やり履いた。踵がつぶれる音がして、母は気にも留めない。母は“今の自分が困っていること”には敏感だけれど、“誰かが困り続けていること”には鈍い。


 私は床にしゃがんで鍵を拾い、小物入れを戻し、散らばったものをざっとまとめた。いつものことだ。散らかったら、私が戻す。誰かの手が荒れたら、私が整える。

 姉がいた頃は、私がしゃがむ前に姉がもうしゃがんでいた。

 その“いつもの位置”が、今朝は空っぽだった。


「灯里、遅刻するよ」


 父が新聞を畳みながら言った。父は遅刻という単語が好きだ。時間に厳しい、というより、遅れる人間に価値を感じないだけだと思う。


「うん、分かってる」


 私は鞄を掴み、姉の部屋の前で一瞬だけ足を止めた。ドアは閉まっている。音はしない。

 昨夜、姉は確かに部屋にいた。廊下ですれ違って、「おやすみ」と言った。いつもより少し疲れた笑い方だった。私は「無理しないで」と言った。姉は「大丈夫」と言った。

 大丈夫じゃないときに言う、大丈夫だった。


 母が玄関で鏡を見ながら、声だけを投げてくる。


「お姉ちゃん、もう起きてるでしょ。ゴミ出し、お願いね」


 返事がない。母は眉をひそめたが、姉のドアを叩くこともしない。姉が返事をしないのは、姉が悪い、ということになっているからだ。


「まったく。あとでやっておいて、灯里」


「……うん」


 母が“あとで”と言うとき、その“あと”は私の時間に割り込む。割り込んで当たり前だと思っている。

 私は靴を履きながら、姉の靴を見た。姉のスニーカーが揃っている。パンプスもある。外に出た形跡がない。


 それでも、私はその時点では、姉が“いなくなった”なんて思わなかった。

 思うはずがない。姉はずっと、“いないみたいに扱われて”生きてきたのだから。突然、本当にいなくなるなんて、現実が気を利かせすぎている。


 その日はゼミが長引いて、私は夕方に帰宅した。

 玄関には、朝と同じように姉の靴が揃っていた。

 それで、胸が少しだけ冷えた。


「ただいま」


 リビングからテレビの音だけが返ってくる。母はソファに寝転んでスマホを見ている。父はまだ仕事だろう。

 私は台所を覗いた。シンクには朝の食器がそのまま。ゴミ袋は口が結ばれていない。

 姉がいない。


「お母さん、お姉ちゃんは?」


 母はスマホから目を上げずに言った。


「知らない。仕事でしょ」


「まだ帰ってない?」


「帰ってるんじゃないの? あの子、いつも部屋にいるじゃない」


 “いつも部屋にいる”という言い方が、私の中で何かを押した。

 姉は仕事から帰ると、部屋に直行する。食卓に座ると、母と父の会話の中で自分が透明になるのを知っているからだ。だから部屋にいる。

 母はそれを“部屋にいる子”として処理してきた。処理したものは、わざわざ確認しない。


「部屋、いない」


「じゃあ、買い物じゃない? コンビニとか」


 母は軽く言う。軽さが、嫌な予感を育てる。


「スマホ、繋がらない」


「充電切れてるんじゃない? あの子そういうとこだらしないし」


 母は姉の欠点を言うとき、少しだけ安心する。欠点があると、雑に扱った理由が作れるからだ。


 私は姉の部屋のドアを開けた。

 ベッドはきれいに整っている。机の上も整っている。むしろ整いすぎている。

 姉の性格はきちんとしている。でも、疲れているときは、きちんとできない。

 今朝、母が落とした小物入れのように、誰かが乱したものを姉が戻していた形跡もない。


 クローゼットを開ける。服はある。

 棚を開ける。財布がある。

 机の引き出しに、姉のスマホがあった。電源は切れていない。通知が何十件も溜まっている。


 私は息を止めた。

 スマホと財布を置いて、人は外に出ない。少なくとも姉は出ない。


「お母さん、スマホ置いてる」


 リビングに戻って言うと、母はやっと顔を上げた。


「え? じゃあ、忘れて出たんじゃない?」


「財布もある」


「……じゃあ、急に具合悪くなって、病院とか?」


 母は“自分が責められない理由”を探す速度だけは速い。

 でも、母の視線はどこか他人事で、姉の不在を現実として受け止めていない。姉は、家の中で“確認しなくても動く装置”だった。装置が止まったとき、人は最初「故障」とは思わない。自分が使い方を間違えたのだと思う。


 私は姉の部屋に戻って、もう一度、細かく見た。

 何か、せめて“痕跡”が欲しかった。

 でも、痕跡がない。

 ないことが、痕跡になっている。


 机の上のノートの端に、一枚のメモが挟まっていた。

 白い紙に、姉の字で短く書いてある。


『行ってくる。

 たぶん、戻れない。

 灯里、ごめん。ありがとう』


 そこまで読んだところで、私の手が震えた。

 行ってくる、という言葉が現実味を持っている。

 戻れない、という言葉が、胸の中で硬くなる。


 ありがとう。

 姉は、ありがとうと言うとき、いつも最後みたいに言う。


 母にメモを見せると、母は眉を寄せた。


「何これ。家出? 何、ドラマみたいなことして」


 その反応が、私の中の何かをさらに冷やした。

 姉が消えたのに、母は“演出”として処理する。


「家出なら、スマホと財布持っていくでしょ」


 私は強めに言った。

 母は少しムッとして、でもすぐに笑って誤魔化した。


「じゃあ、誰かに連れていかれたとか? そういうの、変なニュースであるじゃない」


 母の言葉には、姉の生活がない。姉の人格がない。ニュースの中の“誰か”になっている。

 私は姉の職場に電話をした。姉は出勤していないと言われた。

 同僚に連絡を取った。姉は昨夜、普通に帰ったはずだと返ってきた。


 父が帰ってきたのは夜十時過ぎだった。

 事情を話すと、父は最初に言った。


「遅刻してないだろうな」


 私は一瞬、意味が分からなかった。

 姉が消えた話をしているのに、父は私の遅刻を心配している。


「してない。でも、お姉ちゃんが——」


「だから、仕事サボったんじゃないのか。あいつ、最近だらけてたろ」


 父は姉を“最近だらけてた”と断定する。

 姉が疲れていた理由を、父は知らない。知ろうともしない。

 姉の疲れは、父にとっては“態度が悪い”に変換される。


 私はメモを見せた。

 父は紙を持ったまま、しばらく黙っていた。

 そして、紙をテーブルに置き、吐き捨てるみたいに言った。


「勝手なやつだな」


 母が頷いた。


「ほんとよ。家族に迷惑かけて」


 迷惑。

 姉の人生が、迷惑でまとめられる。

 私は唇を噛んだ。怒鳴ると、空気が壊れて、また私が悪者になる。姉はずっと、その仕組みの中で黙ってきた。

 だから、私は黙りたくなかった。


「警察に行く。失踪だよ」


 私が言うと、父は眉をひそめた。


「大げさだ。二十六にもなって、いなくなるぐらいあるだろ」


「スマホも財布もあるのに?」


「忘れて出ただけだ。どこかにいる」


 父は“どこかにいる”と言い切った。どこにいるのかは、探さないまま。

 母は「そのうち帰ってくるわよ」と言った。

 そのうち、という言葉は、姉に対してだけ無限に伸びる。


 私は一人で警察署に行った。

 行方不明者届は、簡単には受理されない。成人だからだ。自分の意思でいなくなった可能性が高いと言われる。姉のメモを見せても、警察官は困った顔をして言った。


「この内容だと、家出の可能性もありますね」


 私は声が震えそうになるのを押さえた。


「家出なら、財布とスマホを置きません」


「そうですね……。ただ、事件性がないと、こちらも動きにくいのが現状で……」


 現状。

 現状、姉はいない。

 でも現状は、誰かが困らないと“動きにくい”。


 結局、受理はされた。捜索願いという形で。

 ただし、積極的に動けるわけではない、と言われた。

 私は帰り道、コンビニの明るい照明の下で立ち尽くした。夜なのに明るい。明るいのに、姉はいない。


 家に帰ると、リビングの空気はいつも通りだった。

 テレビがついていて、母が笑っている。父がスマホをいじっている。

 姉がいないのに、家は“回っている”。

 回っているように見える。


「警察、行ってきた」


 私が言うと、母は「あらそう」と言っただけだった。

 父は「無駄なことを」と言った。


 その夜、私は姉の部屋で寝た。

 布団は姉の匂いがした。洗剤と、少しだけ甘いハンドクリームの匂い。

 枕元に、姉が読んでいた本が積まれている。異世界ものの小説が多かった。姉は昔からそういう話が好きだった。

 好きだった、というより、“そういう世界なら自分が必要とされるかもしれない”と、どこかで信じたかったのかもしれない。


 翌朝、ゴミ出しの日だった。

 母がいつもの調子で言った。


「灯里、ゴミ出しお願い」


 私は一瞬、笑いそうになった。

 姉がいなくなっても、役割は残る。役割はすぐに別の人間に移される。

 母はそれを“自然”だと思う。


「お母さん、自分で出して」


 私が言うと、母は目を丸くした。


「え? どうしたの急に。忙しいのよ、私」


「私も忙しい」


「灯里は学生でしょ。社会人の忙しさとは違うの」


 母は当然のように言った。

 社会人である姉の忙しさは、母の中では“しっかりしてるから大丈夫”に変換されてきた。

 私は黙ってゴミ袋を持った。

 結局、出す。出さないと、家が荒れる。荒れると、姉がいなくなったことがさらに現実になる。私はまだ、現実を直視する体力がなかった。


 姉がいなくなって一週間が経った。

 父は「そのうち帰る」と言い続けた。

 母は近所の人に「上の子がちょっと出てて」と笑って言った。

 “ちょっと出てて”。姉は遠出の買い物みたいに扱われる。


 でも、家の中は確実に崩れ始めた。


 洗濯物が溜まる。

 風呂掃除が適当になる。

 食卓の上にチラシが積み重なる。

 冷蔵庫の中に、賞味期限の切れた牛乳が残る。


 母は苛立ち始めた。


「なんでこんなに家が回らないのよ」


 私は喉の奥で何かが鳴った。

 回していたのは姉だ。姉が回していたから、母は回っていることに気づかなかった。

 回していた人間が消えると、回らないことに気づく。でも回していた人間の価値には、気づかない。


「お姉ちゃんがいないからだよ」


 私が言うと、母は不機嫌そうに言った。


「だからって、灯里まで機嫌悪くしないでよ。

あの子が勝手にいなくなったんでしょ」


 勝手。

 姉が自分で望んだことにした方が、母は楽だ。

 望んだことなら、母は責められない。


 私は姉の職場にもう一度連絡した。

 上司の人は、最初は事務的だったが、私が事情を話すと声の温度が変わった。


「……お姉さん、最近かなり追い込まれていました。

残業続きで、休日出勤も多くて。こちらでも調整しようとしていたんですが……」


 私は受話器を握りしめた。

 追い込まれていた。

 それを家族は誰も知らない。

 知らないまま、「勝手」と言う。


 電話を切って、私は母に言った。


「お姉ちゃん、追い込まれてたって。仕事が大変で」


 母は台所でスポンジを動かしながら、軽く言った。


「みんな大変でしょ。社会人なんだから」


 その言葉は、姉の苦しみを“普通”に沈める。

 普通に沈めると、誰も救わなくていい。

 私は息を吐いた。


「お母さん、お姉ちゃんの誕生日、去年も忘れてた」


 母の手が止まった。

 でも母はすぐに笑って言った。


「えー、忘れてないわよ。ほら、ケーキ買ったじゃない」


「私が言ったから買ったんだよ」


「結果、買ったんだからいいでしょ」


 結果。

 姉が削られてきた過程は、結果で消される。


 その夜、私は姉の部屋で姉の本を開いた。

 異世界召喚ものだった。主人公が突然、光に包まれて別の世界へ飛ぶ。周囲が驚き、主人公が選ばれたことに価値が与えられる。

 姉が好きだったのは、選ばれる瞬間だったのかもしれない。

 現実では、姉は選ばれたことがなかった。


 ページをめくると、しおり代わりに挟まっていたレシートが落ちた。

 コンビニのレシート。

 日付は、姉がいなくなった前日の夜。

 買ったものの欄に、温かいスープと、のど飴と、栄養ドリンク。

 姉はきっと、疲れていた。風邪気味だったのかもしれない。

 その夜、私は姉と廊下ですれ違ったのに、私は気づけなかった。


 私はレシートを握りしめ、声が出ないまま泣いた。

 泣いたところで、姉は戻らない。

 戻らない、という言葉が、メモの文字で何度も反響する。


 姉がいなくなって二週間。

 父が苛立ちを隠さなくなった。


「いつまでこんなことしてるんだ。警察も動かないんだろ。

あいつ、どこかで勝手にやってるよ」


 “勝手にやってる”。

 姉が勝手にやっていたのは、家事と空気の処理だけだ。

 勝手にやっていた、ということにすれば、父は責任を持たなくていい。


 母は母で、近所の視線を気にし始めた。


「変な噂立ったらどうするの。上の子がいなくなったなんて」


 姉の人生より、噂が怖い。

 私は台所で包丁を握ったまま、動けなくなった。

 その手が震えて、指を切りそうになった。


「噂より、お姉ちゃんでしょ」


 私が言うと、母は眉をつり上げた。


「灯里、言い方があるでしょ。

私だって心配してるわよ」


 心配。

 母の心配は“自分が困る”の形をしている。

 姉がいないことが“自分の評価”に響くのが心配だ。

 姉が寒い場所で眠っているかもしれない、という心配ではない。


 私は警察からの連絡を待ち、病院に照会をかけ、姉のSNSのログイン履歴を追い、姉がよく行くコンビニやカフェに足を運んだ。

 誰も姉を見ていない。

 当たり前だ。姉はいつも“目立たないように”生きていた。


 そして、三週間目の夜。

 姉の部屋の隅に置いてあった古いリュックの底から、もう一枚の紙を見つけた。


 封筒に入っていたわけでもない。ただ折り畳まれて、リュックの底に押し込まれていた。

 紙は少し黄ばんでいて、姉の字じゃない字で書かれていた。


『召喚対象:佐伯 真冬

 適性:高

 世界線干渉:最小

 帰還:不可

 代替:不要』


 私は意味が分からなくて、何度も読み返した。

 召喚。対象。適性。帰還不可。

 代替不要。

 代替不要、という言葉が、なぜだか一番、姉らしくて、吐き気がした。


 その紙の裏には、姉の字で短く書かれていた。


『灯里へ

 これ、本当だった。

 笑うと思うけど、私は“必要”って言われた。

 こっちでは、名前で呼ばれる。

 ごめん。ありがとう。

 生きて』


 私は紙を持ったまま床に座り込んだ。

 息がうまく吸えない。

 頭の中で、異世界とか召喚とか、現実の枠からはみ出した単語が暴れている。

 でも、姉の言葉だけは、現実の重さで胸に落ちた。


 必要。

 名前で呼ばれる。

 それが姉にとって、どれほど遠かったかを私は知っている。

 家では、姉はいつも“お姉ちゃん”で、役割だった。

 真冬、という名前で呼ばれることは少なかった。


 私は紙を握りしめて、リビングへ行った。

 母はテレビを見ていた。父はスマホを見ていた。

 姉がいなくなって一か月近いのに、二人の姿勢は“日常”のままだ。

 日常は、姉がいなくても成立してしまう。成立してしまうから、姉はますます軽くなる。


「これ……見つけた」


 私は紙をテーブルに置いた。

 母が覗き込む。父が覗き込む。

 二人とも、最初は眉を寄せた。


「何これ、ふざけてるの?」


 母が言った。

 父が鼻で笑った。


「小説の読みすぎだ。あいつ、そういうの好きだったからな。現実逃避だ」


 現実逃避。

 父がそれを言うとき、姉の現実は父の中で存在しない。


「お姉ちゃんの字、あるでしょ。

“帰れない”って」


「だから家出だろ」


 父は即答した。

 受け止めない速度が速い。受け止めると、責任が発生するからだ。


「家出ならスマホも財布も置かないって言ったよね」


 私は声が上ずった。

 母が苛立った声で言う。


「灯里、しつこい。

変な紙にすがって、現実見ないのやめて」


 現実。

 現実は、姉がいないことだ。

 母はそれを見たくないから、私に“現実を見ろ”と言う。

 母にとっての現実は、“今の生活を崩さないこと”だ。


 私は胸の奥で何かが切れる音を聞いた気がした。


「お母さん。お父さん。

お姉ちゃん、いなくなったんだよ。

いなくなったのに、二人とも、最初に言ったのは『勝手』だった。

心配より先に、迷惑って言った」


 母が口を開いた。


「だって、迷惑でしょ。家族なんだから——」


「家族なら、なんでお姉ちゃんのこと見てなかったの」


 私の声は思ったより静かだった。

 静かすぎて、自分でも怖かった。

 母は言葉を詰まらせ、父は眉をひそめた。


「見てた」


 父が言う。

 私は頷いた。


「見てたよね。

“しっかりしてる”って見てた。

“手がかからない”って見てた。

“放っておいても大丈夫”って見てた。

それって、見てないのと同じだよ」


 母が苛立ちを隠せない声で言った。


「灯里、被害者ぶらないで。

あの子だって、ちゃんと育てた。ご飯も作った。学校にも行かせた。

何が悪いの?」


 その言葉が出た瞬間、空気が静かになった。

 テレビの音だけが、違う世界の笑い声を運んでくる。


 私は思った。

 これだ。これが姉を殺したんだ。

 殺したと言っても、手で殺したわけじゃない。

 でも姉が生きる場所を削り続けて、最後に“帰還不可”にした。

 その刃は、怒鳴り声でも暴力でもなく、無自覚の言葉だった。


「……何が悪いの、って」


 私はゆっくり息を吸った。

 姉がいなくなったことを、私はまだ信じきれていない。信じたら、胸が壊れる。

 でも、ここで言わないと、姉は本当に“代替不要”になる。


「お姉ちゃんは、ずっと一人だった」


 私は言った。

 それだけ言うのが精一杯だった。

 母が首を傾げた。


「え? でも家にいたじゃない。部屋もあって——」


 私は笑いそうになった。

 部屋があるから、一人じゃない。

 ご飯があるから、愛されている。

 学校に行かせたから、親として十分。

 母と父の論理は、全部“最低限”でできている。最低限を超える部分は、姉の努力に押し付けられてきた。


「家にいたよ。

でも、家族の中にいなかった」


 父が苛立った声で言う。


「じゃあどうすればよかったんだ。

毎日抱きしめろってか。馬鹿らしい」


 私は首を横に振った。


「抱きしめなくていい。

ただ、名前で呼んで、話を聞いて、疲れてるって言ったら、疲れてるって受け止めて。

誕生日を覚えて、夕飯がない日を当たり前にしないで。

“しっかりしてる”で全部片付けないで」


 母が口を開けたまま、しばらく固まっていた。

 そして、困ったように笑った。


「そんなの……みんなやってるでしょ。

うちだけが特別ひどいみたいに言われても……」


 特別ひどい。

 母は“特別ひどくないなら許される”と思っている。

 姉は、特別ひどくない地獄で削られた。


 私は紙をそっと畳んで、自分のポケットに入れた。

 母と父に理解させるために見せたのに、見せても意味がなかった。

 姉が異世界に行ったことが本当かどうかは、もうどうでもよかった。

 本当なのは、姉がここにいないこと。

 そして、姉がここにいても、いないみたいに扱われていたこと。


 その夜、私は姉の部屋で荷物をまとめ始めた。

 姉の部屋から、私の荷物が出ていく。

 家から、二人分の気配が消えていく。


 翌朝、母が玄関で言った。


「灯里、どこ行くの」


「出る」


「え? なんで。今そんな時に?」


 母は焦った顔をした。“そんな時”という言い方が、私を現象扱いする。姉の不在は“そんな時”で、私はその対策要員として残るべきだと母は思っている。


「お姉ちゃんの代わりはしない」


 私が言うと、母の顔が歪んだ。


「代わりって何よ。

家族なんだから、助け合いでしょ」


 家族。

 またその言葉。

 家族という言葉は、便利だ。姉に義務を課すときだけ現れる。


 父が玄関まで来て、低い声で言った。


「勝手なことするな。お前も」


 勝手。

 姉に向けた言葉が、私にも向く。

 私は靴紐を結びながら言った。


「勝手じゃない。

ずっとここで、勝手に決められてきたのは、私たちの方」


 母が声を荒げた。


「何それ、私たちが悪いみたいじゃない」


 私はドアノブに手をかけた。

 最後に、振り返って言うべき言葉を探した。

 姉が置いていったメモの最後は、ありがとうだった。姉は最後まで家族を壊さない言葉を選んだ。

 私は姉ほど優しくない。優しくないから、壊す必要がある。


「悪い、って言ってほしいわけじゃない。

ただ、分からないままにしないで」


 母は唇を震わせて、でも結局、言った。


「……何が悪かったの?」


 その言葉を聞いた瞬間、私は確信した。

 姉は戻らない。

 戻れないからじゃない。戻っても、同じ言葉が待っているからだ。

 異世界が本当にあるかどうかは分からない。召喚なんて、現実には起きないと言う人の方が多い。

 でも、姉が“必要だ”と言われる場所に行ったことだけは、私は理解できる。

 ここでは姉は必要じゃなかった。必要じゃないように扱われ続けた。

 だから姉は、いなくなった。


 私はドアを開けて外に出た。

 冬の空気が頬を刺した。

 息を吸うと、肺の奥が痛い。でも、痛いのに、少しだけ軽かった。


 駅に向かう途中、ポケットの中の紙が指に触れた。

 私は歩きながら、姉の字の最後を頭の中で繰り返した。


 生きて。


 姉が私に残した命令は、それだけだった。

 私は頷いた。誰にも見えないように、小さく。


 そして、少し遅れて、笑ってしまった。

 姉は異世界で名前で呼ばれているらしい。

 それなら、せめて私は、ここで姉の名前を呼び続けようと思った。


 真冬。

 真冬。


 口に出すと、冬の空気に溶けて消える。

 消えるけれど、私の中には残る。

 残るものだけが、私を前に進ませる。


 背中の方で、家のドアが閉まる音がした。

 その音は、長い間“回っていた家”が、ゆっくり止まっていく合図みたいに聞こえた。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


異世界召喚という形式を使っていますが、

この話はファンタジーとして書いていません。

むしろ、日常版よりも現実的な話だと思っています。


姉は異世界で「必要とされた」かもしれません。

けれどそれは、こちらの世界で

「必要とされていなかった」ことの裏返しでもあります。

救われたように見える構図は、

同時に、とても残酷な構図でもあります。


この話の異世界は、

夢の場所ではなく、回収場所です。

誰にも拾われなかった存在が、偶然拾われただけの場所です。


だからこの作品では、

異世界側の詳細をほとんど描いていません。

描かないことで、

「ここにいなかった理由」の方を強調しています。


この短編には、現実世界を舞台にした別バージョンがあります。

二つを並べたとき、

異世界に行っても、行かなくても、

壊れる構造は同じだったと分かるように作っています。


どちらが救いに見えるか。

どちらが地獄に見えるか。

その差もまた、この作品群の一部です。

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― 新着の感想 ―
こっちの方の姉はほんの少しだけ弱かったのかなと 毒親に成り果てても親だからで切り捨てられない子供居るし、 別で言うとDV夫から逃げられない妻? 頭では分かっていても心の問題で逃げる事出来ない人居るから…
結局、なるようになったとしか言えないな。 姉氏がいなくなった、家事が崩壊した、妹につけを回そうとし始めた、妹離脱。 ある意味、姉妹がそれなり以上に優秀で役に立ったから生きてただけで、児童をなぶり殺し…
母親が害悪すぎる環境で、召使いのような扱いの子供達が不憫すぎますね。だらしないのは母親のほう。家事をしない、家族の心配すらしないのならば家庭を持つ資格はないと思ってしまう。助け合ってこその家族なのに空…
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