玖 皇女、補習をする
いつもお読みいただきありがとうございます!
今回は、現代の学園生活で「皇女」が直面する最大の壁――定期試験と補習です。
果たして穆清は、現代の理系科目を乗り越えられるのか?
笑いあり涙ありの青春補習回、どうぞお楽しみください。
月曜日の朝。
白家のリビングには、刑事裁判の判決言い渡し直前のような、厳粛な空気が漂っていた。
ダイニングテーブルの中央に鎮座するのは、一枚の薄い紙切れ。
しかしその紙は、どんな勅書よりも重く、現代の学生たちを絶望の淵へと叩き落とす力を持っている。「学期定期試験成績表」だ。
「……じゃあ、見るよ、穆清さん」
書文はゴクリと唾を飲み込み、その紙に手を伸ばした。
対面に座る穆清は、正座を崩さず、膝の上でギュッと拳を握りしめている。その表情は、敵国の使者を迎える将軍のように強張っていた。
「う、承知いたしました……。書文様、どうぞ忌憚なき評価を」
「評価っていうか、結果だからね」
書文は深呼吸をして、ペラリと紙をめくった。
最初に目に飛び込んできたのは、リストの一番上にある『語文(国語)』の欄だった。
「……えっ」
書文の目が点になる。
「こ、これはすごい……!語文、138点だ!」
「ひゃく、さんじゅう……はち?」
穆清がおずおずと顔を上げる。
「すごいよ!満点が150点だから、学年でもトップクラスだ!現代文の読解もそうだけど、特に古文と作文が満点だよ!」
書文が興奮気味に告げると、先ほどまでの緊張はどこへやら、穆清の表情がパァァァッと華やいだ。
彼女は「んっふふ〜」と鼻歌交じりのような声を漏らし、これみよがしにふんぞり返った。
「当然の結果ですね! 出題された『師説(韓癒)』も『琵琶行(白居易)』も、私にとっては子守唄のようなものですから。作者の心情を問う設問など、彼らに直接手紙を書くような気分でしたわ!」
「直接手紙って……まあ、感覚としてはそうなるのか」
彼女のドヤ顔は、実に可愛らしい。小さな鼻をツンと上に向けて、少し赤い唇を尖らせている。現代社会に馴染めない「異邦人」だと思っていたが、彼女の教養はやはり本物だったのだ。
「よし、この調子で他も……次は、『物理』だ」
書文の視線が下に滑る。
その瞬間、彼の表情筋が凍りついた。
「……ん?」
二度見した。いや、三度見した。
点数欄には、残酷な数字が印字されている。
『24点』
「…………」
重苦しい沈黙が卓上を支配する。
書文はゆっくりと顔を上げ、穆清を見た。
彼女は先ほどのドヤ顔を引っ込め、サッ、と視線を窓の外へ逸らした。
「……書文様。あの設問は、哲学的すぎます」
「哲学的?」
「はい。『物体が摩擦のない斜面を滑り落ちる』などと申しますが、摩擦のない世界など、仙界でもありえません。それに『加速度』とは何事ですか? 物は人の手から離れれば、地に落ちて止まるのが道理。勝手に速くなるなど、妖怪の仕業ではありませんか」
彼女は口をへの字に曲げ、ふくれっ面で抗議する。
現代科学の基礎概念、ニュートン力学。それが彼女にとっては「妖術」や「非現実的な妄言」にしか見えないのだ。
「いや、空気抵抗とか摩擦を無視した理想状態の話であって……」
「理想とは、徳を積んだ君子の姿を指すものです。鉄球の話ではありません!」
「うーん、これは前途多難だ……。不合格決定だね」
気を取り直して、書文は次の科目に目を移した。
文系科目の砦、『歴史』である。
「あ、でも歴史はすごいぞ! 見てこれ!」
書文が指差した先には、神々しいまでの数字が輝いていた。
『100点』
「おおーっ!」
穆清の瞳が、再びキラキラと輝きだした。
「ふふん! 恐れ入りましたか? 私の生きた時代が出るわけではありませんでしたが、宋や明の治乱興亡など、宮廷の記録で嫌というほど読み聞かされましたからね!」
彼女は胸を張り、テーブルに手を置いて身を乗り出した。
「特にあの設問!『北宋の王安石の変法について論ぜよ』! ……あまりに簡単すぎて、筆が止まりませんでしたわ。当時の派閥争いの醜さ、司馬光との確執、民への負担……教科書には書いていない『裏事情』まで、たっぷりと記述して差し上げました!」
「それ、採点した先生がビビっただろうな……専門家レベルの記述だよ」
書文は苦笑いした。彼女にとって歴史は「暗記科目」ではなく「実体験に基づく記憶」なのだ。これでは現代の高校生が太刀打ちできるはずがない。
「……とまあ、ここまではいいとして」
書文の声のトーンが、急速に冷える。
彼は残りの理系科目の欄を、無慈悲に読み上げた。
「『数学』、二次関数と集合……32点」
「むぅ……」
「『化学』、物質量とモル計算……28点」
「うぅ……」
読み上げられるたびに、穆清の身体が小さくなっていく。
最初は威勢よく張っていた胸も縮こまり、いまやテーブルに突っ伏しそうな勢いだ。
「いいですか、書文様……。あの『えっくす』とか『わい』とかいう文字は、何者なのですか? 数字の代わりに文字を使って計算をするなど、商人ですら行いません。それに『モル』……? 目に見えぬ粒を数えて何の意味があるのです!」
「気持ちは分かるけど、それが現代のルールなんだよ」
書文は容赦なく事実を突きつける。
「文系科目は神童レベルだけど、理系科目は……正直、小学生以下だ」
書文は成績表をテーブルに置き、両手を組んで、まるで患者に余命宣告をする医師のような顔つきになった。
「穆清さん」
「は、はい……」
彼女は上目遣いで、怯えた小動物のように彼を見つめる。
「このままだと、進級できないよ」
「し、進級……?」
「そう。この学校に居続けることができなくなる。……つまり、僕と一緒に通えなくなるってことだ」
その言葉の威力は絶大だった。
穆清の顔色が、みるみる青ざめていく。
「そ、それは……嫌、です……」
「なら、やることは一つだね」
書文は、ニッコリと、しかし逃げ場のない笑顔を浮かべた。
「今日から毎晩、僕がみっちり教えるから。地獄の補習、スタートだ」
「――ほえ?」
穆清の口から、間の抜けた音が漏れた。
彼女の瞳から光が消え、魂が口から半透明になって抜け出ていくのが見えるようだった。
ガクリ。
彼女はテーブルの上に突っ伏し、動かなくなった。
長い黒髪が、成績表の上に広がる。
「あぁ……無常……。我が世の春は、短うございました……」
「大げさだよ! さあ、まずは『等加速度直線運動』の公式から叩き込むからね、覚悟して!」
朝日が差し込むリビングに、穆清の情けない悲鳴と、書文の鬼教官のような声が響き渡る。
それは、血なまぐさい陰謀とは無縁の、平和で、騒がしくて、愛おしい日常の一コマだった。
期末試験の結果が貼り出された放課後。教室の片隅は、まるで敗戦処理の作戦会議室のような重苦しい空気に包まれていた。
机の上には、赤点の山と化している穆清の理系答案用紙が広げられている。
「……というわけで、これはもう非常事態だ」
書文は答案用紙を指で弾きながら、真剣な面持ちで宣言した。
「このままじゃ追試どころか、進級すら危うい。今日から猛勉強の開始だ」
「うぅ……」
穆清が、しなだれた柳のようにがっくりと項垂れる。
その横で、祈は窓際に座り、静かに文庫本を読んでいたが、ふと顔を上げて口を開いた。
「衛佳はどうした? 成績優秀な彼女がいれば心強いだろう」
「ああ、誘ったんだけれど……」
書文は肩をすくめた。
「生徒会の予算編成で缶詰めらしい。『穆清ちゃんには、ニュートンのリンゴを頭に落とすところから始めて!』って伝言だけ預かったよ」
「代わりに、強力な助っ人を頼んでみよ。僕の友達だ」
「友達、ですか?」
穆清が不思議そうに顔を上げる。
「うん。とても仲良くて、今は特進クラスにいる二人だよ。李宅くんと、趙子薫さんだ」
放課後の図書館は、静謐な空気に満ちていた。
高い天井まで届く書架の並び、ページをめくる乾いた音、そして暖房の微かな駆動音。
その一角にある六人掛けの閲覧テーブルに、奇妙な顔ぶれが揃っていた。
「よっ!呼んでくれてありがとな、書文書記!」
品高くて会釈するのは、笑顔が爽やかな美少年、李宅だ。
その隣には、青春最中の活力がほとばしる雰囲気の美少女、趙子薫が座り、太陽のような笑みで手を振っている。
「はじめまして。趙子薫です。ふふ、たっくんったら、張り切っちゃって」
「そりゃあな! たまには先輩らしいとこ見せないと!」
こうして、書文、穆清、祈、そして李と薫の五人による、緊急補習勉強会が幕を開けた。
机の中央には、物理と数学の教科書、そしてルーズリーフの山が築かれている。
「よし、まずは最大の鬼門、『物理』から片付けよう」
書文は腕まくりをして、教科書の第3章『運動の法則』を開いた。
「穆清、まずは基本だ。ニュートンの第二法則、運動方程式『F=ma』。……これは覚えてる?」
「えふ……いこーる、えむえー……」
穆清は呪文を唱えるように復唱し、教科書の図解――滑車に引かれる台車の絵――を、まるで敵軍の布陣図を見るような険しい目つきで睨みつけた。
「……これは、兵法の一種でしょうか?」
「へ?」
「FとはForce(力)、つまり兵力。mはMass(質量)、すなわち兵糧の重さ。aはAcceleration(加速度)、これは騎馬隊の突撃速度……。つまり、兵糧が多くなればなるほど、騎馬隊の速度は鈍るという戒めですね?」
彼女は大真面目な顔で頷いた。
「なるほど。孫子の『兵は拙速を尊ぶ』に通じる理です。兵站の重みを知れと」
「いや違う! 全然違うから!」
書文は頭を抱えた。
「兵站とか騎馬隊とか忘れて! ただの箱! ただの箱を引っ張るだけの話だよ!」
古代の軍略思想と現代物理学の絶望的な乖離に、書文が天を仰いだその時。
「あはは! 面白い解釈だなあ」
李が声を上げて笑った。彼はシャーペンをくるくると器用に回しながら、穆清のノートを覗き込む。
「でもまあ、当たらずとも遠からずだよ。重いヤツを動かすには、デカい力が必要ってだけさ。ほら、見てみな」
李はサラサラとノートの隅に図を描いた。
「敵の大軍(質量m大)を吹き飛ばすには、こっちもデカい気合(力F大)で殴らなきゃいけない。逆に、小兵(質量m小)なら、デコピン(力F小)で彼方まで吹っ飛ぶ。……そういう『実感』で覚えりゃいいんだよ」
その説明はあまりに乱暴で直感的だったが、不思議と穆清の腑に落ちたらしい。
「……なるほど。巨漢の敵には大鎚を、小兵には暗器を。力の配分を誤るなということですね」
「そうそう! その通り!」
「たっくん、すごい!」
隣で見ていた薫が、目を輝かせて小さく拍手した。
「私、教科書の説明よりずっとわかりやすかった! さすがたっくん、頭いいんだね」
「へへっ、まあな! 伊達に場数踏んでないってことよ」
李は鼻の下を指でこすり、得意満面だ。
「……厳密には、加速度は力の向きに生じる。ベクトルを意識しないと、次の章で詰むぞ」
「むぅ……べくとる……。また新たな妖怪の名ですか?」
勉強会は、そんな奇妙な和やかさの中で進んでいった。
穆清の珍回答に書文がツッコミを入れ、李が大雑把に正解を導き、薫がそれをニコニコと見守る。
窓の外には冬の柔らかな日差し。
(あの人(暗殺者)の警告は気がかりだが……)
祈は、穆清が「摩擦係数μ」という文字を見て「ミューという蟲ですか?」と真顔で尋ねているのを見ながら、小さく息を吐いた。
(今は、この平穏な時間を守ることが最優先だ)
その時だった。
「――お客様」
頭上から、冷ややかな声が降ってきた。
空気が一瞬で凍りつく。
見上げれば、書架の影から一人の図書館スタッフが立っていた。
深緑のエプロンに、黒縁メガネ。そして、室内だというのにニット帽を目深に被り、さらにその上からパーカーのフードまで被るという、極めて怪しい出で立ちだ。
その男は、事務的かつ慇懃無礼な口調で告げた。
「館内での過度な親密行為、いわゆる『イチャツキ』は公序良俗に反します。直ちに解散するか、あるいは距離を保ちなさい」
その声を聞いた瞬間、李宅の表情から笑顔が消えた。
「げっ……」
彼は露骨に嫌そうな顔をして、舌打ちした。
「またお前かよ……」
「おや、誰かと思えば」
スタッフ――その正体が何者であるかを知る李は、呆れたようにため息をつく。
「お前、ほんとこのキャラ好きだな。今回は何の真似だ? ストーカーか?」
「人聞きが悪い。私はただ、善良なる市民の憩いの場を守るために、風紀の乱れを是正しているに過ぎない」
スタッフは無表情のまま、メガネのブリッジを中指で押し上げた。
レンズの奥の瞳が、鋭く李と薫、そして書文と穆清を順に睨みつける。
「特にそちら。……高校生同士の交際を否定はしないが、ダブルデートの延長で学習スペースを占拠するのは感心しないな」
「だ、だだだ、ダブルデートぉ!?」
書文が椅子から転げ落ちそうになった。顔が一瞬にして茹でダコのようになる。
「ち、違います! 私たちはただの勉強仲間で、その、やましいことなんて何も!」
「白くん、落ち着きなよ」
李が書文の肩をポンと叩き、ニヤリと笑ってスタッフを見上げた。
「こいつの文句は、俺に向けたモンだろ? なあ?」
「……フン」
スタッフは鼻を鳴らした。
李は挑発的に足を組み、椅子にふんぞり返る。
「で? 去年の『件』はもう手打ちにしたはずだろ? なのに、まだ俺の監視を続ける気か?」
「監視ではない。……定期巡回だ」
「へぇ。もしかして、俺に可愛い彼女が出来たのが羨ましいとか?」
李は隣の子薫の肩をグイと引き寄せ、これみよがしに見せつけた。薫は「きゃっ」と声を上げつつも、満更でもなさそうに頬を染めている。
その挑発に、スタッフの眉がピクリと跳ねた。
「戯言を。……これ以上、天て……いや、家庭の規則を乱すようなら、出入り禁止に処するぞ」
スタッフは何事もなかったかのようにすまし顔で咳払いをした。
「……静粛に頼む。次はイエローカードではない、レッドカードだ」
言い捨てると、スタッフは踵を返し、逃げるようにカウンターの方へと歩き去っていった。その背中は、どこか動揺しているようにも見えた。
「……なんなんですか、あの人」
書文がまだ赤い顔のまま、呆然と呟いた。
「李先輩、知り合いですか?」
「あー、まあな。腐れ縁ってやつさ」
李は肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「ただの頭の固い公務員崩れだよ。気にすんな、気にすんな」
「そ、そうですか……。でも、ダブルデートだなんて……」
書文はチラリと穆清を見た。彼女は「だぶるでーと」の意味が分からず、きょとんとしている。その無垢な横顔を見て、書文の心臓はまた早鐘を打ち始めた。
「ほらほら、再開するぞー!ムダ話してる暇はないんだろ?」
李が手を叩き、強引に場の空気を戻した。
薫もまた、ニコニコとシャーペンを握り直す。
「たっくん、この問題教えて?」
「お、いいぜ。これはだな……」
嵐のようなスタッフが去った後、テーブルには奇妙な和やかさが戻っていた。
祈は、熱心に数式を解説する李と、それを嬉しそうに聞く薫、そして未だに「だぶるでーと?」と首を傾げている書文たちを見やり、小さく苦笑いを漏らした。
(あれほど毛嫌いしているように見せて、結局は息が合っているんだよな、あの二人は)
かつて共に死線を潜り抜けた経験がある。だが、その根底にあるのは、言葉にはしない絶対的な信頼だ。
だが、今は――。
祈は文庫本を閉じ、窓の外の暮れなずむ空を見上げた。
(……今は、この穏やかな時間を守るだけだ)
平和な学園生活の皮を被った、束の間の休息。その脆さを誰よりも理解しているからこそ、彼は沈黙を守り、友人たちの笑顔を見守ることに徹していた。
勉強会を終え、一同が図書館を出た頃には、すでに世界は瑠璃色の帳に包まれていた。
街灯がぽつりぽつりと灯り始め、冷たいアスファルトをオレンジ色に染めていく。
「うへぇ、もうこんな時間か」
書文が白い息を吐きながら、夜空を見上げた。
「頭使いすぎて糖分が足りないよ……。帰りにコンビニ寄っていい?」
「賛成です。あの『ちょこれーと』なる秘薬を所望します」
穆清が真剣な顔で頷く。彼女にとってカカオの甘味は、現代文明における最大の発見の一つらしい。
そんな和やかな会話を交わしながら、彼らは駅へと続く広場に差し掛かった。
ふと、薫が足を止めた。
彼女が見つめているのは、ガードレールの杭が並ぶ、なんの変哲もない一角だ。
「……そう言えば」
薫が、どこか夢見るような、神秘的な声色で呟いた。
「去年の今頃だったかな。この広場で、あの『すごい人』と出会ったのよね」
その言葉を聞いた瞬間、李の眉間にしわが寄った。
「あー……あの『猿』か」
忌々しげに吐き捨てる李。
「すごいけどさ、彼氏の前で、他の男の話なんか思い出させないでよ。しかも、あんな騒々しい野生動物のことなんて」
「え〜? でも私から見れば、たっくん、あの人のこと結構信頼してるように見えたけど?」
薫が悪戯っぽく覗き込むと、李はふいっと明後日の方向を向いた。
「ほっとけ。……あいつとは腐れ縁だし、貸し借りもある。癪に障るが、いざって時に背中を預けられる数少ない『バカ』ってだけだ」
ツンとした態度だが、その声音には否定しきれない温度があった。かつて共に天界を揺るがし、共に戦った戦友への、屈折した信頼。
祈と書文は、そんな二人のやり取りを微笑ましく眺めていた。
平和だ。
あまりにも、平和な夕暮れだった。
その時だった。
キキキキキッ!!
耳をつんざくようなスキール音が、静寂を引き裂いた。
道の向こうに停まっていた一台のタクシーが、突如として牙を剥いた獣のように急発進し、彼らめがけて一直線に突っ込んできたのだ。
ヘッドライトの強烈な光が、視界を白く焼き尽くす。
「危ないッ!!」
祈が叫び、咄嗟に書文と穆清を突き飛ばした。
轟音と共に、タクシーが歩道に乗り上げ、彼らが先ほどまで立っていた場所に急停止する。
バン! バン!
両側のドアが弾け飛び、影が二つ、飛び出した。
「ターゲット確認!」
女の声――李娜だ。その手には、青白いスパークを散らす特殊なスタンガン。
反対側からは巨漢の張勇が、鈍い光を放つ軍用ナイフを逆手に構えて躍りかかる。
「逃げろッ!!」
書文は悲鳴に近い声を上げ、震える足で穆清を背に庇う。
だが、敵の速さは常軌を逸していた。李娜は獲物を見つけた猛禽のように、最短距離で書文たちへと肉薄する。
殺気が肌を刺す。このままでは間に合わない。
刹那、祈の思考が冷徹に状況を弾き出した。
「行くぞ、李くん! 守りを頼むッ!」
「……分かってるよッ!!」
李の瞳から、高校生の甘さが消え失せた。
ドンッ!
彼が地面を踏みしめると同時に、その姿がブレた。
攻撃に転じるのではない。彼は、書文、穆清、そして薫の三人を自身の背後に収める位置へと、滑るように割り込んだのだ。
「うおぉらぁぁっ!」
張勇の振るうナイフが、李の首筋を狙って一閃される。
だが、李はそれを紙一重でかわし、流れるような動作で張勇の手首を「パァン!」と掌底で弾いた。
「くっ!?」
張勇の体勢が崩れる。
さらに、横合いから李娜がスタンガンを突き出してくるが、李はそれを見ることなく、まるで背中に目があるかのような動きで半身をひねり、彼女の腕を外側へといなした。
円の動き。
決して攻撃せず、しかし決して侵入させない、鉄壁の防衛圏。
「た、たっくん……!?」
薫が驚愕の声を漏らすが、李は振り返らない。
普通の高校生なら一瞬で切り刻まれているはずの猛攻を、彼はダンスでも踊るかのように涼しい顔で捌き続けている。
その守りが「絶対」であると確信した祈は、躊躇なく前に出た。
(こいつら、プロだ……!)
祈は正面から李娜に相対した。
彼女の踏み込み、重心移動、そして容赦のない急所への刺突。それら全てが、人を殺すために訓練された動きだ。
だが、祈とて修羅場を潜り抜けてきた経験値が違う。
「ハッ!」
李娜の突きを最小限の動きで回避し、その伸びきった腕の関節に、祈の手刀が突き刺さる。
「ぐっ……!」
李娜が顔をしかめ、バックステップで距離を取る。
「速い……! なに、このガキ……!」
「ただの学生だよ。……少々、荒っぽい部活に入ってるけどね」
祈は静かに構え直した。その瞳は、深海のように静まり返っている。
李が完璧に後衛を守ってくれているという安心感が、彼の動きを極限まで研ぎ澄ませていた。
背後の気配、敵の呼吸、筋肉の収縮。
すべてが見える。
祈は流れる水のように李娜の連撃を受け流し、カウンターの掌底をその腹部へと叩き込んだ。
ドゴォッ!
「がはっ……!?」
重い打撃音が響き、李娜が膝をつく。
一方、書文たちは、目の前で繰り広げられる光景に言葉を失っていた。
「す、すげぇ……」
書文は、穆清を抱きしめたまま、ポカンと口を開けていた。
いつも飄々(ひょうひょう)としている李が、まるで重力を無視したような動きでナイフを弾き返し、温厚な祈が、殺し屋を相手に圧倒している。
これが、僕の友達なのか?
「チッ……!分が悪い!」
運転席にいた王健が、窓から身を乗り出して叫んだ。
「引くぞ!一般人が混ざっている上に、この手練れ相手じゃ時間がかかりすぎる!」
「くそっ……!」
暗殺者たちはタクシーへと飛び乗った。
「待てッ!」
祈が追いかけようとするが、タクシーは爆音を上げて急発進し、テールランプを引きずるようにして闇の中へと消えていった。
後に残されたのは、タイヤの焦げた匂いと、静寂だけ。
「……はぁ、はぁ」
緊張の糸が切れ、書文はその場にへたり込んだ。
「た、助かった……のか?」
「ああ。深追いは危険だ」
祈は乱れた呼吸を整えながら、周囲を警戒する。敵の気配は完全に消えている。
「……穆清、怪我はないか?」
「は、はい。書文様が庇ってくださいましたから……」
穆清は少し震えていたが、気丈に振る舞い、書文の袖をギュッと掴んでいた。
恐怖はあった。だがそれ以上に、仲間たちが命がけで守ってくれたという事実が、温かく胸に満ちていた。
「たっくん!!」
その時、張り詰めた空気をぶち壊すような、黄色い声が響いた。
ガバッ!
薫が、李の背中に思い切り抱きついたのだ。
「今の動き、すっごくかっこよかった!!カンフー映画みたいだったよ!?」
目をキラキラさせて騒ぐ薫に、李は一瞬で「武人」から「普通の少年」へと戻った。
「うわっ!? ちょっ、薫、苦しいって!」
「だってすごかったんだもん!私のこと、絶対通さないって感じで守ってくれて……もう、惚れ直しちゃった!」
彼女は李の頬に、チュッと音を立ててキスをした。
「~~ッ!!」
李の顔が、瞬時に茹で上がったトマトのように赤くなる。
「ば、バカ! みんな見てるだろ……!」
「いいじゃん、減るもんじゃないし!」
緊迫感などどこへやら、一気に甘酸っぱいラブコメの空間へと変貌していく。
「ま、まあね……。俺の女に手を出そうなんて、100年早いっての」
李は照れ隠しに鼻をこすりながらも、満更でもなさそうなニヤけ顔を見せた。
「…………」
祈は、その様子を半眼で見つめていた。
(こいつら、本当に空気読んでないな……)
さっきまでの修羅場が嘘のようだ。
だが、その呆れの奥にある感情は、安堵だった。
こんな風に笑い合える日常が、まだここにはある。
祈はふと視線を李に向けた。
李もまた、薫に抱きつかれながら、視線だけを祈に向けた。
言葉はいらなかった。
小さく、一度だけ頷き合う。
『ナイスフォロー』
『そっちこそ』
それは、幾多の戦場を共に駆け抜けてきた戦友だけが交わせる、静かで、強固な信頼の証のようだった。
追試の日の放課後。
窓の外、空はすでに茜色から群青色へと変わりつつあった。
放課後の静まり返った教室に、暖房の駆動音だけが微かに響く。
その静寂の中、白書文は自分の膝の上で拳を握りしめ、祈るように教壇を見つめていた。まるで死刑判決を待つ囚人のようだが、実際に審判を受けるのは彼ではない。
隣の席、劉穆清だ。
彼女は机の上に両手を置き、背筋をピッと伸ばして正座(椅子の上だが姿勢は崩さない)している。その横顔は、敵国の使者と対峙する時よりも蒼白で、悲壮感すら漂っていた。
「……書文様」
「な、なに?」
「もし……もし不合格なら、私はこの学舎を去らねばならないのですね」
「いや、そこまで即決じゃないけど……でも、進級は厳しくなる」
「うぅ……」
彼女は小さく呻き、胃のあたりを押さえた。
「胃が痛いです。戦場での空腹よりも、こちらのほうが辛いとは……」
「大丈夫、あれだけやったんだから」
書文は励ますが、声が上ずっている。彼自身、ここ数日は穆清の勉強に付きっきりで、自分の予習復習はおろか睡眠時間さえ削っていた。この一週間は、まさに二人三脚の地獄めぐりだったのだ。
ガララッ。
教室の引き戸が無造作に開く音が、二人の心臓を跳ねさせた。
入ってきたのは、少し疲れた様子の担任、王植偉だ。小脇に抱えたファイルが、やけに重々しく見える。
「お、待たせたな二人とも」
「せ、先生……!」
書文が椅子をガタッと鳴らして立ち上がりそうになるのを、王先生が片手で制した。
「まあ落ち着け。……劉、前に来なさい」
「は、はいッ!」
穆清が跳ね起きるように立ち上がり、ロボットのようなぎこちない動きで教壇へと歩み寄る。
王先生はファイルから一枚の紙――追試結果通知書――を取り出し、彼女に手渡した。
「……よく頑張ったな」
その言葉のトーンからは、吉凶が読み取れない。
穆清は震える手で紙を受け取り、恐る恐る視線を落とした。
沈黙。
永遠にも感じる数秒間。
書文は息をするのも忘れて、彼女の背中を見つめていた。
「……劉さん?」
「あ……」
彼女の声が震えた。
ゆっくりと、彼女が読み上げる。
「す、数学……92点」
(うわ、ギリギリ……!赤点ラインぎりぎりだ……!)
書文の心臓が早鐘を打つ。西安高校の追試基準は厳しい。
「か、化学……65点」
(よし、耐えた……!あと一つ、一番の鬼門、物理!)
「そして、物理……」
穆清が一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「……63点」
「…………」
教室に沈黙が落ちる。
書文は頭の中で必死に計算した。63点。ギリギリだ。本当に、首の皮一枚繋がったレベルの点数だ。
だが、そこには残酷な赤字のハンコではなく、王先生の少し乱暴な字で書かれた『合格』の二文字があった。
「ご、ごう、かく……?」
穆清が、信じられないものを見るように書文を振り返る。
書文は駆け寄り、通知書をひったくるように覗き込んだ。間違いない。低空飛行だが、墜落はしていない。
「……受かった」
書文の声が震えた。
「受かったよ穆清ちゃん!進級できる!留年回避だ!!」
その瞬間。
「やったぁぁぁーーっ!!」
穆清が、叫んだ。
高貴な皇女の矜持も、慎ましやかな淑女の仮面もかなぐり捨て、彼女はその場でピョンと飛び跳ねた。
「受かりました! 書文様、受かりましたわ! あの忌々しい滑車も、呪術のようなモル計算も、すべてねじ伏せてやりました!」
「うん、うん! すごいよ、よく頑張ったね!」
はしゃぐ彼女を見て、書文の目頭が熱くなった。
まるで初めて自転車に乗れた我が子を見るような、あるいは逆転サヨナラホームランを見た監督のような心境だ。
「先生! ありがとうございます!」
「おう、次は本試験で点取れよ。……ったく、心臓に悪い生徒だ」
王先生は苦笑いしながらも、安堵したように肩の力を抜いた。
夕暮れの教室。
小躍りする少女と、それを涙ぐんで見守る少年。
そこには、ただひたすらに温かく、等身大の「青春」があった。
だが、その光が強ければ強いほど、影はより濃く、深く、這い寄ってくるものだ。
変哲のない高層ビルにある『西安先進技術研究所』。その「第4研究室」。
分厚い防音扉の向こう、その部屋は完全な静寂と、冷え冷えとした人工的な空気に満たされていた。
壁一面を埋め尽くすモニター群だけが、深海の生物のように青白い光を放っている。
「……ふふ」
暗闇の中、男の低い笑い声が漏れた。
魏哲だ。
彼は革張りの椅子に深く身を沈め、デスクライトの明かりの下、一枚の写真をあなめずるように見つめていた。
それは、先日雇った探偵――いや、ストーカーまがいの情報屋が撮影した、ゲームセンターでの隠し撮り写真だった。
写っているのは、ダンスゲームに興じる劉穆清。
激しいステップの最中、長い黒髪が乱れ、白い額には玉のような汗が滲んでいる。頬は紅潮し、目は爛々(らんらん)と輝き、口元には無防備な笑みが浮かんでいた。
普段の「深窓の令嬢」然とした姿とは違う。
圧倒的な「生」の躍動。代謝。熱量。
「……美しい」
魏哲の細い指が、写真の中の汗の一粒をなぞる。
「この汗の一滴一滴に、過去から現在へと受け継がれた遺伝子の叫びが含まれている……。ああ、素晴らしいサンプルだ」
彼は写真を顔に近づけ、インクの匂いを吸い込むように目を細めた。
「ターゲットA……。早く私のフラスコの中においで。君という存在を、分子レベルまで分解して、愛してあげるから」
その時、隣のモニターからノイズ混じりの音声が流れた。
魏哲が密かに仕掛けた盗聴器。場所は、生徒会室。
『……そんなこと、あったのか』
スピーカーから聞こえるのは、衛佳の声だった。
『ああ。その件があってから、精衛も情報収集に協力してくれたんだ』
答えているのは、林祈。
魏哲の手がピタリと止まる。
『私は神の力を捨てたから、今は祈の力に……』
『精衛は今、普通の女の子として……』
「…………」
魏哲の瞳孔が、カッと見開かれた。
「……なんだと?」
彼は写真を手から離し、食い入るようにスピーカーへと身を乗り出した。
「神の、力……? 精衛……? あの衛佳が?」
音声は続く。祈と衛佳の、過去を懐かしむような会話。それは魏哲にとって、福音であり、雷鳴だった。
劉穆清という、過去からの来訪者。
それだけでも自身の理論を証明する「特異点」として十分だったのに。
まさか、もう一人。
それも、人知を超えた「元・神」が、すぐそばに潜んでいたとは。
「クックック……」
喉の奥から、こみ上げる衝動が抑えきれない。
「ハハハ……アハハハハハハッ!!」
魏哲は天井を仰ぎ、狂ったように高笑いした。
「素晴らしい!なんという僥倖! この世界は、私のために実験場を用意してくれていたのか!」
彼は両手を広げ、虚空を抱きしめるような仕草をした。
青白いモニターの光が、歪んだ笑顔を照らし出す。
「ターゲットAだけでなく、あの生徒会長もまた、至高の検体……!」
彼の脳内で、シナリオが書き換えられる。
より大胆に。より残酷に。より完璧に。
二つの「特異点」を手に入れ、融合させ、解明した時。
自分は人類という種の限界を超え、新たな「理」の創造主となるのだ。
魏哲は立ち上がり、白衣を翻した。
壁のカレンダーには、ある日付に赤い丸がつけられている。
「待っていろ、私の愛しい蝶々たち」
彼はモニターの電源を一斉に落とした。
完全な闇の中で、その双眸だけが、獣のように爛々と輝いていた。
「計画実行は、もうすぐだ……!」
最後までお付き合いくださり感謝です!
補習という名の戦場で奮闘する穆清と仲間たち。
次回、物語は大きく動きます。ご感想・ご指摘、ぜひお待ちしています!




