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捌 蠢く思惑

ご訪問ありがとうございます。

今回は、日常の裏側で蠢く「悪意」と、仲間たちの絆が試される回です。

平和な日常を守るため、彼らはどんな選択をするのか――。

緊張感高まる展開、ぜひご期待ください。

 週末の朝、張り詰めた空気が白家のリビングを支配していた。

 テレビから流れる能天気なバラエティ番組の音だけが、不自然に明るい。

 書文は、スマホを耳に当てたまま、窓のカーテンの隙間から外の通りを窺っていた。電話の主は林祈だ。


『――というわけで、もう隠す段階じゃない』

 電話口の向こう、祈の声はいつになく硬質で、氷のように冷えていた。

『昨日の夕方、接触があった。タクシー運転手を装ってるけど、中身は完全に「向こう側」の人間だ。筋肉質で、目つきが悪い。……そして、間違いなく殺意を持ってる』

「殺意……」

 書文はごくりと唾を飲み込んだ。背筋に冷たい汗が伝う。

『奴は単独じゃない可能性が高い。組織的に動いていると考えた方がいい。……いいかい、書文。これから当分の間、穆清さんを一人にするな。通学路も、週末もだ。僕もできる限りフォローするけど、一番近くにいるのは君だ』

「分かってる。……絶対に、守るよ」


 通話を切り、書文は深く息を吐いた。

 守る。口で言うのは簡単だが、相手は「武人の誇り」とかいう狂信的な思想を持った連中だ。平和ボケした現代の学生である自分に、何ができるというのか。

(怖い……)

 本音が漏れそうになる。

 だが、ふと振り返ると、ソファで不思議そうにこちらを見ている穆清と目が合った。彼女は何も知らない。知らなくていい恐怖だ。

「……書文様? 怖い顔をして、どうされたのですか?」

 心配そうに首を傾げる彼女を見て、書文は頬を叩いて無理やり笑みを作った。

(僕が怯えてどうする。彼女を不安にさせてたまるか)

「ううん、なんでもないよ! それよりさ、穆清ちゃん」

 彼は努めて明るい声を出した。

「今日、二人で出かけない? 気分転換にさ!」

 家に閉じこもって震えているより、人目のある場所の方が安全かもしれない。それに何より、彼女にあの日のような影のある顔をさせたくなかった。


「気分転換、ですか?」

「そう! とっておきの場所があるんだ」

 書文は、以前ショッピングモールの掲示板で見かけたポスターを思い出していた。

『ストレス発散! 初心者歓迎、実弾射撃場』

(普通ならデートで選ぶ場所じゃないけど……彼女は元皇族だ。現代の武器を見せるのも社会勉強になるし、何よりあの大きな音を出せば、嫌なこと全部忘れられるかもしれない)

「行こう、穆清ちゃん。君の世界にはなかった、すごい体験をさせてあげるよ」



 たどり着いたのは、市内の複合施設にある屋内射撃場だった。

 防音扉を開けた瞬間、独特の匂いが鼻をついた。

 オイルと、焦げた火薬、そして冷たい金属の混じり合った匂い。

「……!」

 バン! バン!

 奥から響く乾いた破裂音に、穆清の細い肩がビクリと跳ねた。彼女は無意識に書文の袖を掴み、身を寄せる。

「こ、これは……なんという音でしょう。いかずちが落ちているのですか?」

「大丈夫、雷じゃないよ」

 書文は彼女の背中に手を添えて、受付へと促した。

「これは『銃』っていう道具の音だ。……大きな音がするけど、正しく使えば怖くないから」


 手続きを済ませ、防音用のイヤーマフと保護メガネを受け取る。

 指定されたブースに入ると、そこには黒光りするハンドガンが一丁、冷ややかに置かれていた。

 穆清はおっかなびっくり、まるで毒蛇でも触るかのようにそのグリップを握った。

「……重いです」

「そうだね。鉄の塊だからね」

 書文は彼女の横に立ち、優しく教え始めた。

「こうやって、両手で包み込むように握って……腕はまっすぐ伸ばす。足は肩幅に開いて、重心を少し前に」

 言われた通りに構える穆清だったが、やはり恐怖心が勝っているのか、指先が微かに震えている。

 一発目。

 ドォン!

「きゃっ!?」

 反動で腕が跳ね上がり、弾丸は的を大きく外れて天井の吸音材にめり込んだ。

「痛っ……手が、痺れました……」

 涙目になる彼女を見て、書文は苦笑しながら、彼女の背後に回り込んだ。

「力みすぎだよ。もっと力を抜いて……僕が支えるから」


 書文は後ろから、穆清の両手を自分の手で包み込むようにして支えた。

 彼の胸板が、彼女の華奢な背中に触れる。

「いいかい、狙うのはあの真ん中の黒い点だ。深呼吸して……」

 耳元で囁くように指示を出す。

 その時だった。

 ふわり。

 鼻腔をくすぐる、甘く瑞々しい香り。

(……え?)

 火薬のツンとした匂いの中で、そこだけ別世界のお花畑のように、優しい香りが漂ってきた。

 それは先日、彼が「女の子には必要だろう」と思って買い与えた、少し高価な化粧水の香りだった。

 視線を落とせば、すぐ目の前に彼女の白いうなじがある。後れ毛が震えている。

 背中から感じる体温は柔らかく、そして温かい。

 あの日拾った時は、泥と煤にまみれた「異邦人」だった。

 でも今は――。

(……いい匂い)

 ドクン、と書文の心臓が跳ねた。

「妹」として守らなきゃいけない存在。そう思っていたはずなのに。

 この距離感、この香り、そして腕の中に収まる華奢な感触が、彼の脳内の認識を強引に書き換えていく。

(あれ……?なんか僕、変だ。心臓の音がうるさい)

「しょ、書文様……?次は、どうすれば……?」

 穆清が少し首を捻って見上げてくる。長いまつ毛の下にある瞳と、至近距離でかち合う。

「あ、え、えっと!」

 書文は慌てて視線を逸らし、誤魔化すように彼女の手を握り直した。

「そ、そう!吐く息で止めるんだ!息を吐ききった瞬間に、引き金を引く!」

「は、はい……!」


 書文の動揺など露知らず、穆清は素直に頷き、前を向いた。

 彼女の瞳から、怯えが消える。

 スゥゥゥ……。

 彼女は深く、静かに息を吐いた。

 その瞬間、ブース内の空気が凍りついたように静止した。

 彼女のまとう気配が変わる。

 か弱き少女のそれではない。かつて宮廷という伏魔殿で、常に死と隣り合わせで生きてきた者が持つ、研ぎ澄まされた集中力。

 彼女の脳裏から、書文の存在も、周囲の騒音も消え失せた。

 見えるのは、10メートル先の標的の中心点のみ。

 タン。

 軽い音だった。

 ためらいのない、指先の収縮。

 的のど真ん中、10点のエリアに小さな穴が開いた。

「えっ」

 書文が声を上げる間もなく、彼女は次々と引き金を引いた。

 タン、タン、タン、タン。

 リズミカルな発砲音。

 反動はあるはずなのに、彼女の体幹は古木のように揺るがない。

 撃ち出された弾丸は、まるで磁石に吸い寄せられるかのように、すべて中心の黒丸へと吸い込まれていく。

 最後のスライドがホールドオープンし、弾切れを告げるカシャンという音が響いた時。

 的の中心は、綺麗にえぐり取られていた。

「……信じられない」

 書文は、支えていた手を離して呆然と呟いた。

「初めてだよね? すごいよ穆清ちゃん! これ、プロ級の腕前だよ!」

「ふぅ……」

 穆清はイヤーマフを外し、ふわりと微笑んだ。

 その笑顔には、先ほどまでの緊張はなく、何か憑き物が落ちたような清々しさがあった。

「不思議ですね。この重み……弓とは違いますが、的を射抜く瞬間の感覚は同じです。……胸のつかえが、弾と一緒に飛んでいったような気がします」

「そっか……よかった」

 書文は、彼女の晴れやかな横顔に見惚れていた。

 王健たちの影、迫りくる危機。

 それらを一時でも忘れ、彼女がこうして笑ってくれたことが、何よりも嬉しかった。



 射撃場の防音扉が閉まる。

 一瞬だけ耳に残る残響。しかし、穆清の表情は晴れやかだった。

 スコアボードには、初心者とは思えない高得点の弾痕が記録されていた。彼女は自分の指先を見つめ、小さく、けれど確かな達成感に口元を綻ばせた。

「すごいよ、天性の才能だね」

 書文が本気で感心した声をかけた。

「……不思議です。ただの鉄の塊なのに、指先の震えが止まりました」

「アドレナリンが出たんだよ。かなり集中してたからね」

 書文は笑い、彼女の健闘を讃えるように背中をポンと叩いた。その手に伝わる彼女の体温が、先ほどブース内で感じたドキドキを呼び覚ましそうになり、彼は慌てて話題を変えた。

「あー、そうだ! お腹空いたろ? ご飯行こう、ご飯!」

「ご飯……でしょうか。家に戻られるのでは?」

「いや、せっかくだから外で食べよう。とっておきの場所があるんだ。『ワクドラレド』っていうんだけど」

「わく……どら?」

 穆清は聞き慣れぬ異国の響きに、可愛らしく小首をかしげた。


 二人が向かったのは、街の中心部にあるファストフード店だった。

 原色を多用した派手な看板。ガラス張りの店内から溢れ出る、若者たちの喧騒と明るすぎる照明。

 それは先ほどの無機質な射撃場とは対照的な、現代消費社会の象徴のような風景だった。

「うわあ……」

 店内に足を踏み入れた途端、強烈な匂いの奔流ほんりゅうが穆清を襲った。

 揚げたてのジャガイモの脂っこい香り、焼けた肉の香ばしさ、そして人工的な甘いシロップの匂い。

 宮廷の繊細な料理とは対極にある、暴力的で、しかし抗いがたい魅力を持った「食欲」の匂いだ。

 カウンターには長い行列ができている。

 書文は慣れた様子で列に並び、頭上のメニュー表を見上げている。穆清は、忙しなく動き回る店員たちと、次々と手渡される紙袋を、まるで魔法の儀式でも見るように呆然と眺めていた。


 順番が来た。

 書文が一歩前に出る。

「いらっしゃいませ!ご注文をどうぞ!」

 マニュアル通りの高い声の店員に対し、書文は深呼吸をして、一息に口を開いた。

「えーと、メガ・ダブルビーフ・デラックスのセットで。あ、バンズはセサミ多めのエクストラ・トーストに変更。パティは塩胡椒強め、ピクルス抜き、グリルオニオンはトリプル増量でお願い。ソースは通常のケチャップじゃなくて、期間限定のスモーキーBBQソースに変更して、さらにマヨネーズをサイドに別添え。ドリンクはスパークリング・シトラス・スプラッシュの氷少なめ・炭酸強めで、ポテトはLサイズ、揚げたて指定で塩は別袋に!」

「……かしこまりました! メガ・ダブルビーフ・デラックス、エキストラ・トースト、塩胡椒ストロング、ノーピクルス、トリプルオニオン、ワン・バーベキューチェンジ、マヨサイド、シトラス・ライトアイス・ハードスパーク、ポテトL揚げたて、ソルト別添えですね! 少々お待ちください!」

 店員が目にも止まらぬ速さでレジを打ち、奥の厨房に向かって早口の符丁を叫んだ。

「……」

 穆清は、ぽかんと口を開けていた。

 彼女の美しい瞳が、点のような形になっている。

 トレイを受け取り、窓際の席に着いた書文が得意げに振り返ると、彼女はおずおずと尋ねた。

「あの……書文様」

「ん? どうしたの?」

「先ほどのは……何かの呪詛じゅそ、あるいは祝詞のりとでしょうか?食事の前に、神に祈りを捧げておられたのですか?」

「ぶふっ!」

 書文は危うくストローからドリンクを吹き出しそうになった。

「違う違う!ただの注文だよ!自分の好みに合わせて細かく指定しただけ」

「あれが……注文……」

 穆清は信じられないものを見る目で、トレイの上の山積みになった物体を見つめた。

 薄い紙に包まれた、分厚い円盤状の塊。

「ほら、これが『ハンバーガー』。現代のソウルフードさ。熱いうちに食べてみて」

 書文に促され、穆清は恐る恐る包み紙を開いた。

 湯気が立ち上る。

 照り輝くバンズに挟まれた、肉汁溢れる二枚のパティ、とろけるチーズ、そして山盛りのオニオン。

 彼女はその大きさに圧倒されながらも、両手でしっかりと持ち上げた。その仕草は、どんなにジャンクな食べ物を持っていても、茶器を扱うように優雅だった。

「これを……このまま、かぶりつくのですか? お箸や、小刀は……」

「ないよ。豪快にガブッといって!」

 書文が自分のバーガーを大口で頬張って見せると、穆清は意を決したように頷いた。

(郷に入っては郷に従え、ですね……)

 彼女は小さく口を開け、その巨大な塊の端っこを、上品に、しかし思い切って齧った。

 サクッ。ジュワッ。

 バンズの香ばしさと、パティから溢れ出る濃厚な脂の旨味。そこにスモーキーなソースの酸味が絡み合い、口の中で爆発した。

「んぐ……っ」

 彼女の動きが止まる。

「どう?」

 書文が心配そうに覗き込む。

 数秒の沈黙の後。

 カッ、と穆清の瞳孔が見開かれた。

「……!」

 彼女は咀嚼し、飲み込み、そして信じられないという顔で自分の手元のバーガーを見つめた。

「……美味しい」

 その声は震えていた。

「何でしょう、この……下品なまでの力強い味は!舌が痺れるほど濃い味付け、噛むたびに溢れる野性的な脂……!宮廷の料理人は決して作らない味ですが……なんと、なんと美味なのでしょう!」

 感動に打ち震えながら、彼女は今度はさっきよりも大きく口を開け、二口目に挑んだ。

 口の端に少しだけソースがついているのも気にせず、夢中で頬張るその姿。

 リスのような頬の膨らみ。幸せそうに細められた目。

 先ほどまでの「高貴な皇女」の仮面が剥がれ、年相応の少女の素顔がそこにあった。

「ふふっ」

 書文は思わず笑みをこぼした。

「気に入ってくれたみたいでよかった」

「はい! この『ぽてと』という揚げ物も、塩と油の味が絶妙です!」

 彼女が無邪気にポテトを摘み、カリカリと音を立てて食べる。

 その様子を眺めながら、書文の胸の奥で、またあの甘い痛みが疼いた。

(可愛いな……)

 射撃場での凛とした姿も美しかったが、こうしてジャンクフードを頬張って目を輝かせている彼女のほうが、なんだかずっと愛おしい。

 守りたい。

 暗殺者の殺意から、未知の敵の狂気から。

 この屈託のない笑顔を、この温かい日常を、絶対に壊させはしない。

「……あ、口についてるよ」

 書文は自然と手を伸ばし、彼女の口元のソースを指で拭った。

「えっ……?」

 穆清が動きを止め、きょとんとして彼を見る。

 書文もまた、自分の行動に気づき、カッと顔を赤くした。

「あ、ご、ごめん! つい!」

「……い、いいえ。ありがとうございます……」

 穆清もまた、頬をほんのりと桃色に染めて視線を伏せた。

 喧騒と揚げ油の匂いに満ちた店内で、二人のテーブルだけが、ふわりとした春の陽だまりに包まれたようだった。



「腹ごなしに、少し歩こうか」

 店を出て、書文はモールの奥の通路を指差した。

 そこからは、まるで祭りの夜のような、賑やかで電子的な音が漏れ聞こえていた。

「あっちに『ゲームセンター』があるんだ。行ってみない?」

「げーむ……せんたー?」

 穆清ぼくせいは、またしても聞き慣れない言葉に、可愛らしく首を傾げた。

 その瞳は、未知への不安と、先ほどのハンバーガーで見せた好奇心が半分ずつ混ざり合っている。

「簡単に言えば、現代の遊び場だよ。……まあ、説明するより見た方が早い」

 書文が先導して足を踏み入れると、そこは光と音の洪水だった。

 ネオン管の極彩色が天井を這い、無数のモニターが明滅し、アップテンポな電子音とコインの落ちる金属音が、巨大なうねりとなって鼓膜を震わせる。

 若者たちの歓声、機械のアナウンス、ボタンを叩く乾いた音。

 宮廷の静寂とは対極にあるその空間に、穆清は一瞬、たじろいだように書文の袖を掴んだ。

「……なんと賑やかな。ここは毎日、うたげを開いているのですか?」

「毎日は言い過ぎだけど……まあ、似たようなものかな」

 書文は苦笑しながら、両替機でコインのカップを用意した。

「さあ、まずは手始めにこれだ」

 彼が連れて行ったのは、ガラスケースの中のぬいぐるみをアームで吊り上げる「クレーンゲーム」の前だった。

 中には、とぼけた顔をした丸いパンダのぬいぐるみが山積みになっている。

「見てて。あれを取ってあげるから」

 書文は自信満々にコインを投入した。

 ウィーン、という駆動音と共にアームが動く。

 狙いを定め、ボタンを離す。アームが降下し、パンダの頭を掴む――かに見えた。

 だが、持ち上げた瞬間にアームが「するり」と力を抜き、パンダは無情にも元の山へと転がり落ちた。

「ああっ!?」

 書文が情けない悲鳴を上げる。

 もう一度。さらに一度。

 しかし、パンダは嘲笑うかのようにゴロゴロと転がるばかりで、一向に出口へ向かおうとしない。

 ムキになった書文の額に、脂汗が滲む。

「くそっ、次こそは……!」

 その必死な横顔を見て、穆清は口元を袖で隠し、コロコロと笑った。

(……ふふ。この方も、こんな顔をされるのだな)

 普段、命を狙われる自分を守ろうと気を張っている書文。

 あるいは、現代の知識を教えてくれる時の、少し大人びた先生のような書文。

 けれど、今の彼はただの少年だ。たかがぬいぐるみ一つに一喜一憂し、頬を膨らませたり、頭を抱えたりしている。

 その無防備な姿が、穆清には何よりも愛おしく、そして頼もしく見えた。

 平和とは、こういうことなのかもしれない。

 誰も傷つけず、誰にも命を狙われず、ただ小さな失敗を笑い合える時間。

「……もう、諦めるよ。このパンダ、絶対に足元に磁石が入ってる」

 十数回挑んで敗北した書文が、肩を落として振り返った。

 その手には空っぽのカップ。

「ふふっ。書文様、その『磁石』というもののせいにするのは、少々見苦しいかと」

「うっ……!い、いじわる言わないでよ」

 穆清の軽口に、書文は顔を赤らめる。

 彼女がこんな風に冗談を言えるようになったことが嬉しくて、悔しさも半分消えてしまった。


「よし、じゃあ次は穆清ちゃんの番だ。これなんかどう?」

 彼が指差したのは、フロアの中央に鎮座する一台の大型筐体だった。

 床にはカラフルなパネルが敷き詰められ、正面の巨大スクリーンには派手な矢印が流れている。

 リズムに合わせて足元のパネルを踏む、ダンスシミュレーションゲームだ。

「これは……足踏みをするのですか?」

「そう。音楽に合わせて、画面の指示通りにステップを踏むんだ。……昔、宮廷で舞の稽古とかしてた?」

「はい、たしなみ程度ですが」

「ならきっとできるよ。一番簡単なモードにしておくから、やってみて」

 書文がコインを入れ、初心者向けの曲を選んだ。

 軽快なポップミュージックが流れ出す。

 穆清は少し戸惑いながらも、ステージの上に立った。

 スカートの裾を少し持ち上げ、画面を見上げるその背中は、やはり現代のゲームセンターには不釣り合いなほど優雅だ。

『Let's Dance!』

 機械的な掛け声と共に、画面下から矢印が流れてくる。

 右、左、上、下。

 最初はタイミングが合わず、ぎこちなく足を動かしていた穆清だったが。

 その「学習」の速度は、射撃の比ではなかった。

 タン。

 一度、完璧なタイミングで「Perfect」の文字を出した瞬間、彼女の中で何かがカチリと噛み合った。

 彼女の足捌きが変わる。

 迷いがない。

 重心がブレない。

 流れてくる矢印を「読む」のではなく、リズムそのものを身体に取り込み、音楽と一体化し始めたのだ。

 タン、タタン、タンッ!

 軽やかなステップ音が、ビートと完全に同期する。

 長い黒髪が、遠心力でふわりと舞う。

 回転ターンの指示が出た時、彼女はその場で一度だけ優雅に回り、裾を花のようになびかせながら、涼しい顔で着地を決めた。

「すごっ……」

 見ていたギャラリーから、感嘆の声が漏れた。

 それはゲームの動きというより、洗練された演舞だった。

 無駄な力が一切なく、それでいて一つ一つの踏み込みは鋭く、正確無比。

 周りで激しいパフォーマンスをしている熟練プレイヤーたちよりも、ただ静かにステップを踏む彼女の方が、圧倒的に目を引いた。


 そして、書文は。

 飲みかけのジュースを持ったまま、立ち尽くしていた。

(……きれいだ)

 射撃場で見せた静的な集中力とは違う。

 今の彼女は、動的で、熱を帯びている。

 激しく動くたびに、白い頬が微かに紅潮し、額に玉のような汗が浮かぶ。

 普段の古風な言葉遣いや、浮世離れした雰囲気からは想像もできない、若々しい「生」の躍動。

 タンッ!

 最後のステップを決め、ポーズを取った穆清が、息を弾ませて振り返った。

 乱れた髪を耳にかけ、パッと弾けるような笑顔を見せる。

「書文様!……できました! リズムに乗るというのは、なんと心地よいのでしょう!」

 その瞬間、書文の胸を、得体の知れない衝撃が貫いた。

 ドクン、と心臓が痛いほど脈打つ。

(なんだ、これ……)

 彼女の白い首筋を、汗が一筋伝って鎖骨へと消えていく。

 その生々しい輝きに、喉が渇いた。

 守るべき「妹」? 亡国の「皇女」?

 そんな肩書きが吹き飛ぶほど、目の前にいるのは一人の「女の子」だった。

 息づかい、体温、汗の匂い、そして弾けるような笑顔。

 その圧倒的な「若さ」と「生命力」が、書文の理性を揺さぶる。

 彼女は、ガラスケースの中のお人形じゃない。

 生きて、笑って、汗をかいて、心臓を動かしている人間なんだ。

「……書文様?」

 反応のない書文に、穆清が不思議そうに顔を覗き込む。

 その瞳に、ゲーム機の極彩色のライトが星のように映り込んでいる。

「あ、あぁ! すごい! 本当にすごいよ穆清ちゃん!」

 書文は慌てて声を張り上げた。

 動揺を悟られまいとして、声が裏返りそうになる。

「まさかあんなに踊れるなんて……!正直、見惚れちゃったよ」

「まあ……。お褒めにあずかり光栄です」

 にっこりと笑う彼女を見て、書文の胸の奥に、甘く切ない感情が沈殿していく。

(……守らなきゃ)

 先ほどまでの兄的な保護欲とは、少し質の違う感情。

 この、光り輝くような笑顔を。

 この、汗ばんだ肌の温もりを。

 理不尽な暴力や、彼女を利用しようとする薄汚い手から、絶対に守り抜かなければならない。

 もしこの笑顔が曇るようなことがあれば、僕はきっと、自分を許せないだろう。


「……喉、乾いたでしょ。何かまた飲み物買おうか」

「はい!……あの、シュワシュワする飲み物がいいです」

「コーラね。わかった」

 二人は並んでベンチへと向かった。

 ゲームセンターの喧騒は相変わらず続いている。

 爆音のBGMも、誰かの歓声も、今はただ、二人だけの世界を彩る遠い背景音のようだった。

 書文は、隣を歩く彼女の横顔を盗み見た。

 手に入れたばかりの「日常」を噛み締めるように、彼女は自販機の明かりを見つめている。

 その横顔は幸福そうで、けれどどこか儚くて。

 まるで、夜が明ければ消えてしまう夢の住人のようにも見えた。

(……大丈夫だ)

 書文は心の中で、誰にともなく誓いを立てた。

 王健だろうが、魏哲だろうが、誰にもこの場所は譲らない。

 この騒がしくて、くだらなくて、でも最高に楽しい時間を、これからもずっと彼女と一緒に過ごすために。

 僕は、もっと強くならなきゃいけない。

「あ、書文様。次はあの、太鼓を叩くやつをやってみたいです!」

「えっ、あれ? あれは結構腕力がいるよ?」

「平気です。昔、戦太鼓の音色には親しんでおりましたから」

「……戦太鼓って。基準がおかしいよ……」

 笑い合う二人の影が、ネオンライトに照らされて長く伸びる。

 それは嵐の前の、あまりにも鮮やかで、あまりにも尊い、一瞬の静寂しじまだった。



 光と音が溢れるゲームセンターの喧騒から、世界は一転して無機質な静寂へと切り替わる。

 西安先進技術研究所、第4研究室。

 空調の低い駆動音だけが響くその部屋は、温度管理された死体安置所のように冷え冷えとしていた。

 魏哲は、青白いモニターの光に顔を照らされながら、キーボードを叩く手を止めた。

 画面に表示されているのは、劉穆清の生体データ予測値。そして、隠し撮りされた数々の写真。

 図書館での横顔、中庭での立ち姿、そして――先ほど射撃場で銃を構えた瞬間の、獲物を射抜く鋭い眼光。

「……素晴らしい」

 彼はヘッドセットのマイクを指で弾き、回線を開いた。

 ノイズの向こうには、金で雇った「実行部隊」が待機している。

「――ターゲットは現在、市内のゲームセンターに滞在している。確保のタイミングは、彼らが店を出て人気ひとけのない場所へ移動した瞬間だ」

 事務的で、感情のない声。

『連れの男はどうしますか? 学生のようですが』

「ただの一般人だ。障害になるようなら排除しろ。……ただし、ターゲットには傷一つ付けるな。彼女は私の『運命』なのだから」

『了解』

 通信が切れると、魏哲は深い息を吐き出し、引き出しをゆっくりと開けた。

 中から取り出したのは、一枚の現像された写真。

 中庭で読書をする劉穆清を、木陰から望遠レンズで捉えたものだ。

 彼はその写真をデスクに置き、まるで愛しい恋人の肌に触れるかのように、指先でそっと彼女の頬をなぞった。

「ああ……」

 指が、写真の中の彼女の唇へ、そして喉元へと這う。

 その手つきは、美術品を愛でるそれではない。粘着質で、湿り気を帯びた、欲望の温床そのものだった。

 彼は親指の腹で、写真の彼女の口元を強く、ぐり、と押し付けた。

「君は知らないだろうね。自分のその体が、どれほどの可能性を秘めた宝庫であるかを」

 彼の脳裏に、不意に遠い日の記憶が蘇る。

『お前は特別なんだ』

『期待しているよ、哲々』

『98点? なぜ満点じゃないんだ?』

 両親の言葉。愛という名の呪縛。

 彼らにとって、魏哲という人間は存在しなかった。存在したのは「優秀な成績」と「将来の栄光」というパラメータだけ。

 感情など不要。個性など夾雑物きょうざつぶつ

(……そうだ。凡人は理解しない。感情に溺れ、倫理に縛られ、泥の中で這いつくばるだけの家畜どもには)

 彼は写真の穆清を見下ろし、恍惚とした表情で囁く。

「だが、君は違う。君の遺伝子には、過去と未来を繋ぐ『進化』の鍵が眠っている。……それを解き放つのは、この私だ」

 魏哲は、写真の彼女の瞳を指で覆い隠し、低く歌い始めた。

「Auf der Heide blüht ein kleines Blümelein……(荒野に一輪の、小さな花が咲いている……)」

「und das heißt……(その名を……)」

「Erika……」

 彼は写真を取り上げ、その紙片に直接口付けた。

 冷たい印画紙の感触。

 だが彼の脳内では、それは温かい生身の肉体となり、彼の手によって解剖され、再構築される至高の瞬間へと変換されていた。

「もうすぐだ。……もうすぐ、君は私のボトルの中で永遠に咲き誇る」



 一方、街の反対側にある深夜の大型ディスカウントストア。

 そのバックヤードでは、現代社会の底辺で喘ぐ「武人」たちの姿があった。

「……クソッ」

 王健は、重たい段ボール箱を床に叩きつけるように置いた。

 中身は大量のカップ麺だ。

「おい、王健。商品だぞ、丁寧に扱え」

 フォークリフトの横で在庫表をチェックしていた李娜が、死んだような目で注意する。彼女の制服は薄汚れ、疲労で肌が荒れている。かつての宮廷での優雅な舞など、見る影もない。

「分かっている……!」

 王健は腰を伸ばし、ボキボキと音を鳴らした。

 客からの理不尽なクレーム、店長の嫌味、終わらない品出し。

 彼らの「現実」は、あまりにも過酷で、あまりにも凡庸だった。

 漢王朝の再興、逆賊の討伐――そんな大義を掲げながら、彼らが今戦っているのは「賞味期限切れのチェック」と「酔っ払いの処理」だ。

「……情けないな」

 休憩室のパイプ椅子に沈み込みながら、張勇が安売りの缶コーヒーを開けた。

「俺たちは、こんな場所で腐っていくために転生したわけじゃないはずだ」

「言うな」

 王健は汗を拭い、苦々しく吐き捨てた。

「これも臥薪嘗胆がしんしょうたんだ。資金がなければ、武器も揃えられん」

 彼はポケットから、林祈と対峙した時の記憶を引っ張り出した。

 あの少年の目。

 ただの学生ではない。数多の修羅場を潜り抜けてきた、古強者ふるつわものの気配。

(あの若造……俺たちの正体に気づいているのか?)

「ターゲットには近づいている」

 李娜が淡々と言った。

「穆清という小娘。……あの子さえ始末すれば、我々の大義は成る。そうすれば、こんな屈辱的な日々ともおさらばできる」

「ああ」

 王健は拳を強く握りしめた。

 武人の誇り。忠義の炎。

 それだけが、この泥沼のような現実の中で、彼らを正気につなぎ止める唯一の鎖だった。

「だが、あの少年――林祈だっけか。あれは厄介だぞ」

 王健の声が低くなる。

「奴は、こちらの動きを嗅ぎ回っている。次に動くときは、奴への『対策』も必要だ」

「殺るか?」

 張勇が短く問う。

「邪魔をするならな。……一般人だろうが関係ねぇ。俺たちの道を塞ぐ石ころは、どけるだけだ」

 蛍光灯がチカチカと明滅する薄暗い倉庫。

 カップ麺と洗剤の山に囲まれた彼らの瞳に、どす黒い殺意の光が宿る。

 彼らは信じている。この惨めな労働の果てに、栄光ある粛清が待っていると。

「休憩終わりだ。……行くぞ」

 王健が立ち上がる。

 現代社会という巨大な檻の中でもがく猛獣たちが、牙を研ぎながら、再び店フロアへと消えていった。



 帰り道、夕暮れの並木道を二人で歩きながら、書文は言った。

「また来ようね、穆清」

 その言葉は、自分でも驚くほど優しく、熱を帯びていた。

 これまでは「保護者」として、彼女を安心させるための言葉だった。

 でも今は違う。

 また一緒に時間を過ごしたい。彼女の笑顔をもっと見たい。

 そんな、純粋で利己的な「男の子」としての願いが混ざっていた。

「……はい!ぜひ」

 穆清が嬉しそうに頷く。

 その笑顔を見て、書文は胸の奥がくすぐったくなるのを感じながら、心の中で固く誓った。

(暗殺者だろうが何だろうが、絶対に来させない。……この笑顔は、僕が守るんだ)

 その決意は、もはや単なる正義感ではなく、恋という名の強く、そして脆い盾へと変わり始めていた。

最後までお付き合い感謝です!

激しい戦いの果てに、二人は再会できるのか――

次回、ついにクライマックスです。

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