漆 侵食する闇音
ご訪問ありがとうございます。
今回は、敵側の動きが本格化し、物語が大きく動きます。
シリアス多めですが、二人の絆も深まっていきます。
どうぞご期待ください。
真っ白な部屋だった。
埃ひとつ落ちていないフローリング、指紋ひとつないガラスのテーブル、色味の統一された無機質な家具。まるで高級なモデルルームか、あるいは精神病院の個室のようだった。
そこは、幼い魏哲の家だった。
「哲々、見てごらんなさい」
柔らかく、蜂蜜のように甘い声が降り注ぐ。
六歳の魏哲は、リビングの床に腹ばいになり、クレヨンで画用紙に向かっていた。
描いていたのは、庭で見つけた名もなき紫色の花。花びらの複雑な重なりや、葉脈の走り方を、子供とは思えない観察眼で懸命に模写していたところだった。
しかし、その手からクレヨンが「ふわり」と抜き取られた。
見上げれば、母が立っていた。
完璧にセットされた髪、皺ひとつないエプロン。その顔には、慈愛に満ちた、聖女のような微笑みが張り付いている。
「そんなお絵描きはもうおしまい。だってお母さん、あなたのために新しい本を買ってきたのよ」
彼女は魏哲の手から画用紙を取り上げ、代わりに分厚いハードカバーの本を押し付けた。
タイトルは『分子生物学入門』。
六歳の子供に読ませるものではない。色鮮やかな挿絵などなく、無機質な化学式と文字列がびっしりと並んでいる。
「でも、母さん……僕はまだ、花びらの色を……」
「哲々?」
母の笑顔が、すうっと深まった。
目の奥が笑っていない。
まるで、出来の悪い実験動物を見るような、冷ややかな瞳。
「お母さんとお父さんはね、あなたの幸せを何よりも願っているのよ。無駄なことに時間を費やして、凡庸な人間になってほしくないの。あなたは特別な子。将来は偉大な科学者になって、世界を変えるのよ。……これは全部、あなたのためなの」
そう言って、母は画用紙をくしゃりと丸めた。
ゴミ箱へ放り込まれる乾いた音。
魏哲の心臓が、ひやりと冷たくなる。
夜になれば、父が帰ってくる。
企業の研究職である父は、魏哲の成績表を見るのが日課だった。
「98点か」
父は眉間に皺を寄せ、残念そうに溜息をつく。
決して怒鳴りはしない。手も上げない。
ただ、深く、重く、失望を滲ませるのだ。
「哲々、お父さんは悲しいよ。お前のためを思って、高い学費を払い、最高の教材を揃えているのに。お前がここで妥協してしまったら、私たち親子の努力が水の泡じゃないか」
父の手が、魏哲の肩に置かれる。その手は温かいが、万力のように重かった。
「凡人になってはいけない。他人に埋もれてはいけない。常に頂点に立ち、誰からも羨まれる存在であれ。それがお前の幸福なんだ」
(……嘘だ)
幼い魏哲は、本を開きながら心の中で毒づいた。
「あなたのため」?
違う。
彼らは、彼ら自身のために僕を育てているだけだ。
親戚の集まりで、「うちのアインシュタイン」を自慢するために。
同僚たちに、「優秀な息子を持つ成功した親」としてマウントを取るために。
僕は彼らのトロフィー。
ピカピカに磨き上げられ、棚に飾られるための美しい展示品。
彼らの言う「愛」には、条件があった。
――優秀であること。
――従順であること。
――傑出した成果を出すこと。
その条件を満たさなくなった瞬間、この家における僕の居場所は消滅するだろう。
凡人への道は、愛を失う道だ。
ならば、僕は「怪物」になるしかない。
人の心を捨て、感情を切り離し、ただ結果だけを追求する冷徹な機械に。
深夜、両親が寝静まった白すぎるリビングで。
魏哲は『分子生物学入門』のページをめくっていた。
その栞代わりに挟まれているのは、一枚の古ぼけた白黒写真。
写っているのは、端正な顔立ちのドイツ人医師。
ヨーゼフ・メンゲレ。
ナチスの収容所で、狂気の人体実験を繰り返した「死の天使」。
一般的には悪魔と罵られる男だが、ジョーにとって、彼は唯一の理解者であり、導き手だった。
(ドクター、あなたもそうだったのですか?)
魏哲は写真の中の冷たい瞳を指でなぞる。
(凡人たちの倫理や道徳など、科学の前では無意味。ただ純粋に、限界を超えようとしたのですね)
親の愛という名の支配に窒息しそうになる夜、この写真だけが彼に呼吸を許した。
感情を殺せ。
同情を捨てろ。
ただ、より高く、より深淵へ。
凡人どもを見下ろす場所へ――。
幼い指が、写真の医師に向かって忠誠を誓うように触れた。
……。
…………。
ぱちん。
乾いた音が響き、真っ白な幻影が弾け飛んだ。
魏哲は、ゆっくりと目を開けた。
そこは私立未央宮学園の、豪奢な特別応接室。
革張りのソファの感触が背中に戻ってくる。
彼は手元のタブレット端末をタップし、ニヤリと唇を歪めた。
「Auf der Heide blüht ein kleines Blümelein……(荒野に小さな花が一輪咲いている……)」
口ずさむのは、幼き日に見たあの花への鎮魂歌か、それともこれから始まる惨劇への序曲か。
彼は立ち上がり、窓の外、校庭を行き交う無知な生徒たちを見下ろした。
凡人たち。愛に飢え、愛に縛られた哀れな家畜たち。
校内放送が、軽やかなチャイムと共に響き渡る。
『――生徒の皆さんに連絡いたします。明日、第一講堂におきまして、特別科学講座が開催されます。講師は、西安先進技術研究所よりお越しいただいた若き天才科学者、魏哲博士です。「遺伝子と進化の未来」について、貴重なお話を……』
「さあ、始めようか」
魏哲は白衣の襟を整え、完璧な「先生」の仮面を被った。
あの日の両親のように、慈愛に満ちた、聖人のような笑顔を浮かべて。
「すべては、彼らの『進化』のために」
未央宮学園、第一講堂。
その巨大な空間は、千人を超える生徒たちの熱気と、それを上回る「期待」の重圧で満たされていた。
照明が落ち、暗転したステージ。
一筋のスポットライトが、天から降り注ぐ柱のように演壇を切り裂いた。
そこに、彼は立っていた。
魏哲。
若き天才科学者。完璧に仕立てられたスーツ、整えられた髪、そして何より、見る者を安心させる柔らかな微笑み。
彼は何も言わない。マイクを握ることもなく、ただ静かに、慈愛に満ちた瞳で客席を見渡した。
ざわめきが波のように引いていく。
一秒。五秒。十秒。
咳払い一つ許されない、真空のような静寂が講堂を支配した。
その静けさが頂点に達した瞬間、魏哲は満足げに目を細め、パン、と乾いた拍手を一つ鳴らした。
「素晴らしい」
マイクを通さない、しかしよく通る声だった。
「諸君は今、教師に怒鳴られたから黙ったわけではない。チャイムが鳴ったから黙ったわけでもない。自らの意志で、学ぶべき場への敬意として沈黙を選んだ」
彼は演壇から一歩踏み出し、両手を広げた。
「その『自律』こそが、理性の証だ。さあ、諸君自身の賢明さに、盛大な拍手を!」
彼が先導して強く手を打ち鳴らすと、まるで魔法にかかったかのように、生徒たちも一斉に拍手を始めた。
パラパラという音が、瞬く間に万雷の轟音へと変わる。
空気の色が変わった。
生徒たちの瞳に、「私は認められた」という高揚感が灯る。
掌握。
この瞬間、講堂は巨大な一つの生き物となり、魏哲はその心臓となった。
「さて、本日のテーマは『科学技術と人類の未来』だ」
魏哲はマイクを手に取り、ステージをゆっくりと歩き始めた。その足取りは優雅で、まるで舞踏のようだ。
「人類の未来……そう聞くと、君たちは何を想像する? AI? 宇宙開発? 不老不死?」
彼は客席の最前列に座る生徒を指差し、悪戯っぽく微笑んだ。
「あるいは……『親が望む未来』を想像してしまったのではないかな?」
ドキリ、と空気が揺れた。
図星を突かれた生徒たちの顔に、微かな戸惑いが走る。
魏哲はそれを見逃さない。彼は声を、より低く、より親密な響きに変えた。
「君たちは優秀だ。だからこそ期待されている。医者になれ、官僚になれ、一族の誇りになれ……重圧が肩に食い込んでいるのが、私には見えるよ」
彼は自分の肩を揉む仕草をして、苦笑いを浮かべた。
「それは君たちの人生か? それとも、親の人生の『再放送』か?」
「違う!」
彼は突然、声を張り上げた。
穏やかな学者の仮面が揺らぎ、その下から熱狂的なアジテーターの顔が覗く。
「私は親に反抗しろと言っているのではない。ただ問いたいのだ。君自身の魂は、何を望んでいるのかと!」
右腕を振り上げ、空間を握り潰すジェスチャー。
「歴史を見よ! 幾多の国家、幾多の民族が砂のように現れては消えた。だが、我々はどうだ?」
彼の声のトーンが上がる。リズムが速まる。聴衆の鼓動とシンクロするように。
「我々の民族だけが、数千年の時を超え、数え切れぬ戦乱と災厄を生き抜き、現代という頂に立っている! これは偶然か? 運命か? 断じて違う!」
彼は演壇を拳で叩いた。ドンッ、という重低音がマイクを通して響き渡る。
「これは『優秀』だからだ! 圧倒的に、生物学的に、我々の血が優れているからだ!」
狂熱の種火が、生徒たちの心に飛び火した。
「君たち一人一人の血管には、生存競争を勝ち抜いた勝者の血が流れている! 君たちは選ばれた存在なのだ! ならば、その未来を誰かに委ねていいはずがない!」
彼の言葉は劇薬だった。
若者特有のコンプレックスと万能感を同時に刺激し、陶酔へと誘う。
「自分の道を選べ! 己の価値を知れ! そして、その高貴な血を絶やすことなく、相応しき伴侶を選び、さらに強き次世代へ繋ぐのだ!」
「うおおおおおおッ!!」
誰からともなく、歓声が上がった。
割れんばかりの拍手。突き上げられる拳。
それは学術講義の反応ではなかった。宗教的な儀式、あるいは――独裁者への宣誓。
だが、その熱狂の渦中で、冷ややかに凍りついた一角があった。
講堂の後方座席。
書文、祈、衛佳の三人は、微動だにせずステージを見つめていた。
「この熱気……異常だ」
書文は、背筋を這い上がる悪寒に歯を食いしばった。
(俺は歴史の授業で見たことがある。白黒の映像の中で、チョビ髭の男が叫び、何万人もの人々が涙を流して熱狂している光景を)
目の前の魏哲と、その独裁者の姿が二重写しになる。
(言っていることは『自律』だの『優秀』だの、耳障りのいい言葉ばかりだ。だが、その本質は……他者への排斥と、選民思想の植え付けだ。『我々は優秀だ』という言葉の裏には必ず、『それ以外は劣等だ』という意味が含まれている)
その隣で、祈は深くフードを目深にかぶり、鋭い視線を魏哲の眉間に突き刺していた。
(……臭う)
祈は鼻をつまみたくなる衝動を抑えた。
(言葉は綺麗に飾られているけど、あの男から発せられている『気』は……腐ったどぶ川のように冷たくて、粘着質だ。あれは科学者の目じゃない。……何千、何万人という命を『数字』として処理してきた、虐殺者の目だ)
そして、衛佳。
彼女は組んだ腕を強く抱きしめ、不快そうに眉をひそめた。
(世界の理が歪んで聞こえるわ。彼の言う『進化』は、調和じゃない。剪定よ。不要な枝を切り落とし、自分好みの形に世界をねじ曲げようとする……傲慢な造園家の思想)
三人は顔を見合わせた。
言葉は要らなかった。
この男は、ただの特別講師ではない。
この学園に、いや、この世界に流し込まれた「毒」だ。
「――諸君の未来に、栄光あれ!」
魏哲が両手を広げて叫ぶと、講堂は絶叫に近い喝采で揺れた。
演説が終わった。
彼は汗一つかいていない涼しい顔で、優雅に一礼し、ステージ袖へと消えた。
ステージ裏の控え室。
「魏先生!! 素晴らしかったです!!」
学園長がハンカチで目を拭いながら、魏哲の手を両手で握りしめた。
「あんなに生徒たちが一丸となるなんて……感動しました! まさに魂の教育です!」
「いえいえ、大したことではありませんよ」
魏哲は、さっきまでの鬼気迫る表情を消し去り、人当たりの良い青年の顔で微笑んだ。
「彼らは決して愚かではない。ただ、霧の中で迷っていた子羊だったのです。少しばかり、光の方向を示してあげただけですよ」
「おお、なんと謙虚な……! ぜひまた、講演をお願いします!」
「ええ、喜んで。すべては未来のために」
学長が感激して出て行った後、ドアが閉まる音がカチャリと響いた。
その瞬間。
魏哲の顔から、表情筋という表情筋が抜け落ちた。
後に残ったのは、能面のような無機質な冷たさだけ。
「……凡人どもめ」
彼は吐き捨てるように呟き、消毒薬を取り出して、学長に握られた手を念入りに拭いた。
「どいつもこいつも、感情というバグに振り回される欠陥品だ。少しの刺激で踊り狂う。……扱いやすくて助かるが、退屈だ」
彼は白衣を翻し、廊下へと出た。
次の予定は理事会との会食だったはずだ。興味のない時間の浪費。
彼はあくびを噛み殺しながら、ふと廊下の窓から中庭を見下ろした。
そこに、昼休みの生徒たちがたむろしている。
その中に。
一際異彩を放つ、白い花の如き姿があった。
「――ッ!?」
魏哲の足が止まった。
中庭のベンチ。
劉穆清が、古風な仕草で空を見上げている。
周囲の女子生徒たちが流行りのアイドルやスイーツの話で盛り上がる中、彼女だけが、まるでセピア色の古いフィルムから切り取られたかのように、時空から浮いていた。
その立ち姿。首の傾げ方。憂いを帯びた瞳の揺らぎ。
21世紀の人間には決して出せない、濃厚な「過去」の香り。
ドクン。
魏哲の心臓が、早鐘を打った。
瞳孔が一瞬で収縮し、口元が三日月型に歪む。
「……見つけた」
窓ガラスに張り付くようにして、彼は食い入るように彼女を見つめた。
データ上の数値ではない。実物が放つ特異な存在感。
「あの娘こそが……私の理論を証明する最後のピース。『時間』を超越した特異点……!」
長年の渇望。
焦がれ続けた実験材料。
それが今、手の届く場所で、無防備に呼吸をしている。
脳内でドーパミンが爆発した。
彼は即座に踵を返し、校長室へと引き返した。
ドアを開ける。
「あ、すみません学長」
声色は、瞬時に誠実な青年のものに戻っていた。
「急用を思い出しまして。研究所に戻らなければならなくなりました。会食はまたの機会に」
「えっ? あ、はい、それは残念ですが……お忙しいのですね」
「ええ、非常に重要な『サンプル』が見つかりましてね。……失礼します!」
彼は一礼もそこそこに部屋を出ると、廊下を早足で歩き出した。
いや、それは行進だった。
歓喜の行進。
「Auf der Heide blüht ein kleines Blümelein(荒野に小さな花が咲いている)……♪」
彼の唇から、軽快で不気味なマーチが漏れ出す。
「und das heißt(その名は)……♪」
靴音が廊下に響く。
カツ、カツ、カツ、カツ。
獲物を追い詰める捕食者のリズム。
「Erika……♪」
彼は中庭へと続く階段を駆け下りた。
その顔には、隠しきれない恍惚と、歪んだ知識欲が赤黒く張り付いていた。
今、彼は教育者ではない。
メスを握りしめた、狂気の解剖医だった。
陽だまりの中に、不協和音が混じり込んでいた。
昼休みの中庭。生徒たちの談笑や鳥のさえずりが平和なBGMを奏でているはずなのに、穆清の耳は、風に乗って運ばれてくる異質な旋律を鋭く捉えていた。
「Auf der Heide blüht ein kleines Blümelein……(荒野に一輪の、小さな花が咲いている……)」
「und das heißt……(その名は……)」
低く、正確な音程で刻まれる鼻歌。
それは楽しげな歌声であるはずなのに、なぜか軍靴の足音を連想させた。規則正しく、一切の揺らぎがなく、無機質で……そして、急速に近づいてくる。
ザッ。
芝生を踏む音が、穆清の背後で止まった。
野生の直感が警鐘を鳴らす。
穆清は本を閉じ、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、先ほど講堂で熱狂的な演説をしていた特別講師、魏哲だった。
彼は逆光を背負い、完璧に仕立てられたスーツ姿で、まるで紳士のお手本のような穏やかな笑みを浮かべていた。
「やあ。こんにちは、劉さん」
風が止まった気がした。
彼の声は滑らかで耳触りが良い。だが、穆清の肌は怖気立ち、総毛立つのを感じていた。
(この男……)
笑顔だ。目尻も下がっているし、口角も上がっている。
けれど、瞳の奥が凍りついている。
そこにあるのは人間を見る目ではない。市場で並べられた肉の鮮度を確かめるような、冷徹な品定めの色。
祈の言葉が、脳裏をよぎる。
『あの男、怪しい研究者だ。……近づかない方がいい』
穆清はベンチに座ったまま、警戒心を露わにして彼を見据えた。
皇女としての矜持が、安易な媚び笑いを許さなかった。
「……何か、私にご用でしょうか」
冷たい声で問う。
魏哲は怯むどころか、その冷たさを楽しむように目を細めた。
「いえ、なに。講義に来なかった生徒がいると聞いてね。どんな子かと思って顔を見に来ただけですよ」
「……」
「それに、あなたの噂は少し耳にしていましてね。古風で、凛とした美しい生徒がいると」
彼は一歩、距離を詰めた。
穆清は反射的に身を引こうとしたが、意思の力で踏み止まった。ここで引けば、獲物と認めることになる。
「噂……ですか」
「ええ。私はごく普通の、しがない研究者ですが……美しいサンプル――おっと、美しい現象には目がなくてね」
言い間違いか、それともわざとか。
彼が漏らした「サンプル」という言葉に、穆清の眉が微かに動く。
「……あなたは先ほど、歌っておられましたね」
穆清は話題を変えるふりをして、核心を突いた。
「なんとも奇妙な旋律でした。……あれは、私への嘲りでしょうか?」
近づいてくる最中、彼が口ずさんでいたあの歌。
歌詞の意味は分からずとも、そのリズムには他者を圧倒し、踏みつけるような暴力的な響きが含まれていた。
魏哲はきょとんとして、それから唇に手を当てて上品に笑った。
「おや、聞こえていましたか。失礼。……嘲笑だなんてとんでもない」
彼は大げさに首を振った。
「あれは『エリカ』。ドイツの古い歌ですよ」
「エリカ……?」
「ええ。美しい花の名であり、愛しい女性の名でもある。……あなたの名前のように、とても美しい響きでしょう?」
彼はうっとりと目を細め、まるで見えない花を愛でるような手つきで空気を撫でた。
その仕草のあまりの芝居がかりように、穆清は薄ら寒さを覚えた。
この男にとっての「愛しさ」とは、歪んでいる。正常な情愛ではない。
穆清は探るように口を開いた。
「……あなたには、想い人……恋人などがいらっしゃるのですか?」
もし愛を知る者ならば、こんな眼差しはしないはずだ。
だが、返ってきた答えは、穆清の想像を遥かに超えて無機質だった。
魏哲は真顔になり、首を振った。
「いいえ、いませんよ」
そして、当然の真理を説くように、サラリと言い放った。
「凡庸な女性では、『遺伝子』に良くないですから」
「……いでんし?」
聞き慣れぬ言葉に、穆清は眉をひそめた。
「私の伴侶となる資格があるのは、欠陥のない、優れた形質を持つ個体だけだ。私はね、そんな素晴らしい女性と出会えることを……それはもう、科学的確信を持って待ち続けているんですよ」
彼の目が、じっとりと穆清の全身を舐め回した。
頭の先から爪先まで、細胞の一つ一つまで透過スキャンするかのような粘着質な視線。
「素晴らしい……女性……」
穆清の中で、言葉の意味が翻訳されていく。
遺伝子、形質、欠陥――それらの単語は分からずとも、漢の宮廷で育った彼女には、その本質が痛いほど理解できた。
それは「血統」の話だ。
良き馬を作るために種馬を選ぶように。
強い権力を維持するために、政略結婚で血を混ぜ合わせるように。
この男は、女性を「人間」として見ていない。
優秀な次世代を産み出すための「母体」、あるいは自身の優秀さを証明するための「道具」として見ている。
(……なんと、悍ましい)
かつて呂后が、一族の繁栄だけを願って娘たちを道具のように嫁がせた、あの冷酷な血の匂いと同じだ。
現代の服を着て、科学の言葉を操っていても、この男の本性は「独裁者」そのものだ。
穆清が絶句していると、魏哲は満足そうに懐中時計を取り出し、時間を確認した。
「おっと、長話をしてしまいましたね。……では、失礼しますよ、劉さん」
彼は優雅に一礼し、背を向けた。
去り際、彼は穆清には聞こえぬほどの低い声で、再びあの旋律を口ずさみ始めた。
「Auf der Heide blüht ein kleines Blümelein……(荒野に一輪の、小さな花が咲いている……)」
その背中を見送りながら、穆清は自身の手が震えていることに気づき、強く拳を握りしめた。
(ただ者ではない……。あの笑顔の裏には、底知れぬ闇がある)
一方、校舎へと戻る魏哲の顔には、隠しきれない歓喜が張り付いていた。
(間違いない。あの警戒心、あの鋭い眼光! ……現代の腑抜けた女たちにはない、生存本能の輝き!)
彼はポケットの中で、強く拳を握りしめた。
(見つけたぞ、私のエリカ。……君こそが、私の理論を完成させる「聖杯」だ)
「……もう少しだ」
彼はニヤリと笑い、誰もいない廊下で、獲物を檻に追い込む算段を巡らせながら、軽快に足を踏み鳴らした。
夕刻のチャイムが鳴り響き、校舎は一日の終わりを告げた。
黄金色の斜陽が校庭の並木道を長く引き伸ばし、生徒たちの賑やかな帰宅の波が校門へと流れていく。
「じゃあな、林先輩。姜先輩も、また明日」
書文が鞄を肩に掛け直し、軽く手を挙げた。
隣には、すっかり現代のスクールバッグを持つ姿が板についた穆清が、丁寧にお辞儀をする。
「それでは皆様、また明日お会いしましょう」
「ええ、またね穆清。……書文、帰り道に変な寄り道しちゃダメよ?」
衛佳が釘を刺すと、書文は「分かってるって」と苦笑した。
平和で、ありふれた放課後の別れ。
彼らが背を向けて歩き出したその背中を、林祈はポケットに手を突っ込んだまま、じっと見送った。
「……じゃあ、僕も行くね」
祈の声は普段通りだった。
だが、彼らが角を曲がって見えなくなった瞬間、その瞳から少年らしい温かみがスッと消え失せた。
「……さてと」
彼は誰にともなく呟き、逆方向――生徒会室のある棟へと向かうふりをして、人気の少ない裏門の方角へと足を向けた。
「悪いけど、今日はちょっと『残業』だ」
日没が近づき、街は急速に群青色の帳に覆われつつあった。
祈が選んだ帰路は、表通りの喧騒から外れた、古ぼけた倉庫街を抜けるルートだった。
街灯のいくつかは球切れを起こしており、薄暗いコンクリートの壁に、野良猫の影だけが横切る。
彼の足音だけが、寂れたアスファルトにコツコツと響く。
(……来た)
背後から近づくエンジンの音。
普通の車ではない。タイヤが砂利を踏む音で、運転手の気性の荒さが分かる。
一台のタクシーが、祈の横を追い越しざまに急停車した。
キキーッ!
助手席の窓が下がり、運転席の男が野太い声をかけた。
「よう、そこのお兄さん」
制帽を目深にかぶった男。
その腕には、タクシー運転手には不釣り合いなほど太い筋肉が盛り上がり、無精髭の奥の瞳は、客を探す目ではなく、獲物を探す獣の光を宿していた。
王健だった。
「少し、いいかい?」
祈は足を止め、わざとらしく小首をかしげた。
「僕に用? タクシーなら呼んでないけど」
「いや、ちょっと人を探していてね」
王健は胸ポケットから一枚の写真を取り出し、祈に見せた。
それはスマホの画面をプリントアウトしたものだ。背景は書文の家。古風の私服を着て、気絶している穆清の姿が映っている。書文があの日SNSにアップした写真だろう。
「この娘、見覚えないか?」
祈の視線が、写真から王健の顔へとゆっくり移動した。
「……さあね。制服も着てないし、知らないな」
「惚けるなよ。お前、いつもこの娘と一緒にいるあの男の連れだろ?」
王健の声色が一段低くなった。
「それを聞いてどうするんだい?」
「お兄さんには関係のない話だ。ただ教えてくれればいい」
「なら、何も言えないね」
祈は肩をすくめ、再び歩き出そうとした。
「他人のプライバシーを、どこの馬の骨とも知れない運転手にペラペラ喋るほど、僕は馬鹿じゃないんでね」
「待てッ!」
ドォン!
王健がドアを内側から殴りつけた。
並の学生なら震え上がるような威圧感。だが、祈は眉一つ動かさず、冷めた目で彼を見下ろした。
「……理由を言えば、考えるけど?」
王健は舌打ちをし、ハンドルをギリギリと握りしめた。
「俺たちは武人だ。無関係の一般人を巻き込みたくはねえ。だが……邪魔立てするなら容赦はしねえぞ」
「武人、ねぇ」
祈は鼻で笑った。
「あいにくだけど、僕はこう見えて『場数』を踏んでるんでね。相手が嘘をついているか、本気かくらいは一発で分かる。……理由を聞かせろと言っているんだ。納得できる答えじゃなきゃ、一歩も通さないよ」
王健は祈を睨みつけた。
このガキ、ただの学生ではない。
殺気を受けても動じない胆力。そして、どこか古びた魂の気配。
王健は観念したように、低く唸った。
「……いいだろう。正直に言う」
彼の目が、ギラリと赤黒く光った。
「俺たちは、あの娘の命を狙っている」
「ほう。理由は?」
「劉家の天下を取り戻すためだ。そのためには、あの娘に流れる『呂氏』の汚れた血を根絶やしにせねばならん」
その言葉を聞いた瞬間、祈の口から乾いた笑いが漏れた。
「はっ……ははは! 傑作だね」
「何がおかしい!」
「いや、おかしいだろ。矛盾しすぎているよ」
祈は呆れたように首を振った。
「あの娘の苗字は『劉』だぞ? 呂氏の血を絶つと言いながら、劉氏の末裔を殺すなんて、随分と皮肉な忠義じゃないか」
「貴様に何が分かる……!これは大義なんだ!漢の純血を守るための、尊い犠牲なんだ!」
「大義?忠誠?誰に対する?」
祈は一歩、王健のタクシーに近づいた。
その瞳は、まるで何千年もの時を見通してきた老人のように深く、鋭かった。
「今は21世紀だ。君たちの愛した漢王朝は、1800年も前に滅びている。君もこの街で暮らし、タクシーを転がして、現代の空気を吸っているはずだ。それなのに……まだそんな腐った亡霊みたいな思想にしがみついているのか?」
「黙れッ!!」
王健が叫んだ。
「時代が変わろうと、魂は不滅だ!武人の誇りは捨てられん!」
「誇り、か。……じゃあ聞くけど、君は『天子』の忠臣なのか、それとも『誰か個人』の犬なのか?」
「なっ……!愚弄するか!俺は無論、天子様の……」
「なら!」
祈の声が鋭く響き、王健の言葉を遮った。
「その天子の血を引く子供に刃を向けておいて、どの口が『忠臣』なんてほざくんだ?」
「ッ……!」
王健が息を詰まらせた。
痛いところを突かれた獣のように、彼の表情が歪む。
「あ、あの娘は……半分は呂氏だ!純粋な天子の子では……」
「君は本気でそう信じてるの?」
祈は冷ややかな憐憫の目を向けた。
「それとも、信じてる『ふり』をしているだけか? ……見て分からないわけないだろう。あの娘は、身分も、家族も、守ってくれる軍隊も、何もかも失った、ただのか弱い少女だ」
祈は王健の目の前まで顔を寄せ、囁くように言った。
「丸腰の少女一人を、大の男がよってたかって追い回すことが……『武人の誇り』だって胸を張って言えるなら、君は武人じゃなくてただの三流の殺し屋だよ」
「き、きさまぁ……ッ!!」
王健の顔が朱に染まった。
論理で勝てない屈辱。核心を突かれた動揺。
彼は窓枠を掴み、殺気をむき出しにして叫んだ。
「減らず口を!!ともかくあの娘を差し出せ!さもなくば……次に会った時、その首を胴と泣き別れさせてやる!」
捨て台詞を吐き捨て、王健は乱暴にアクセルを踏み込んだ。
タイヤが激しく空転し、白煙を上げてタクシーが急発進する。
赤黒いテールランプが、闇の奥へと消えていった。
残された祈は、排気ガスの匂いが残る道で、静かにため息をついた。
「……首を飛ばす、か。あら怖い。そう簡単にやられるつもりはないけどね」
彼は自分の首筋を軽く撫でた。
前世、何度も斬られた記憶。その痛みは魂に刻まれているが、今の彼には「経験」という武器がある。
「……急がないとな」
彼は踵を返し、再び家路へと歩み始めた。
その背中は、先ほどまでの少年の頼りなさとは別人のように、大きく、そして孤独に見えた。
場面は変わり、白書文の家。
外の冷たい空気とは対照的に、リビングには暖色の明かりが灯り、あたたかな湯気が満ちていた。
トントントン……。
軽快に包丁がまな板を叩く音が、キッチンの心地よいBGMになっている。
「ふふ、これでいいでしょうか?お義母……いえ、お母様」
エプロン姿の穆清が、刻んだ野菜を得意げに見せた。
その横顔には、かつて宮殿の奥深くで怯えていた頃の影はない。
「まあ!素晴らしいわ、穆清ちゃん」
母の李静が目を細めて褒めた。
「本当に筋がいいわね。切り方も揃っているし、手際もいい。私より上手かもしれないわ」
「そ、そんな……!母さまに教えていただいたおかげです」
穆清は「母さま」と呼ぶことにまだ少し照れながらも、嬉しそうにはにかんだ。
彼女の手つきは、まるで舞を舞うように美しく、丁寧だ。
リビングのソファでは、父の建文が新聞を読み、書文がテレビのチャンネルを変えながら「いい匂いだなぁ」と腹をさすっている。
なんでもない、けれど奇跡のような日常の風景。
窓の外では、夕陽が完全に沈み、深い夜の青が庭を染め始めていた。
ガラス窓に映るのは、幸せそうに笑い合う家族の姿。
彼らはまだ知らない。
その薄いガラス一枚隔てた外の世界で、過去の亡霊たちが牙を研ぎ、彼らの楽園を食い破ろうと迫っていることを。
忍び寄る「武人の殺意」と、観察する「狂気の科学」。
二つの闇が、この平和な灯火を吹き消すために、静かに、確実に収束しようとしていた。
お読みいただきありがとうございました!
闇が迫る中、二人はどう立ち向かうのか。
次回、物語はクライマックスへ向かいます。
ご感想・ご意見、ぜひお寄せください!




