陸 皇女、週末を過ごす
お読みいただきありがとうございます。
今回は、穆清が現代の「日常」を満喫する週末回です。
ゲーム、ファストフード、広場舞…異文化体験盛りだくさん!
ほのぼの多めでお送りします。
漆黒の闇に、氷のように冷たい石畳の感触だけがあった。
そこは長安の未央宮。かつて穆清が暮らした、世界の中心にして、鳥籠の中。
重苦しい帳の向こう、高い玉座にその人は座っていた。
「……穆清よ」
老婆のような、しかし老婆とは思えぬほど力を宿した声。
穆清の祖母、呂后。
天下を統べ、劉一族を恐怖の底に叩き落とした鉄の女帝。
彼女の瞳は、まるで底のない古井戸のように暗く、穆清を射抜いていた。
「お前は逃れられぬ。お前の体には、あの弱き劉氏の血だけでなく……」
彼女が痩せ細った指を伸ばす。その指先が、心臓を撫でるように近づいてくる。
「我が呂氏の、冷酷なる支配者の血も流れているのだから」
「いいえ……! 私は……!」
否定しようとした私の声は、喉の奥で凍りついた。
景色が歪む。
宮殿の朱塗りの柱が、ドロリと溶け出して鮮血に変わった。
「穆清様、お逃げください……ッ!」
耳をつんざく絶叫。
忠臣、曹じいの背中が、穆清の目の前で刃に貫かれる。
噴き出す血の赤さが、視界を埋め尽くす。
追手の兵士たちの、仮面の下の嗤うような息遣い。
死の匂い。鉄の錆びた臭い。
「あ……ああ……」
足がすくんで動かない。後ろには冷たい壁。前には血濡れの剣。
もう終わりだ。命運はここで尽きる――。
その時だった。
「穆清」
地獄の底に、場違いなほど穏やかな声が響いた。
誰かの手が、穆清の手首を強く、しかし優しく掴んだ。
その手は温かく、血の冷たさを瞬時に溶かしていく。
光が射し込んだ。
血の赤が薄れ、白い光に包まれる。
気がつくと、穆清は見慣れぬ、しかしどこか懐かしい木のテーブルについていた。
湯気を立てる温かい汁物。ふっくらとした白い飯。
目の前には、亡くなったはずの父上と母上が、穏やかな顔で穆清を見守っているようだ。
そして、穆清の隣には。
「さあ、冷めないうちに食べよう」
現代の衣服を着た少年――白書文が、箸を差し出していた。
彼の笑顔は、冬の日のひだまりのように、穆清の凍えた心を溶かしていく。
「はい……父上、母上……」
穆清は涙ながらに箸を受け取り、隣の彼に向き直った。
「そして……兄上……いえ、書文様」
頬が熱くなるのを感じながら、穆清はその名を呼ぼうとして――。
「――っ……はあッ!?」
カッと目を見開いた瞬間、目の前に広がっていたのは白い天井だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
穆清の心臓が早鐘を打っている。
背中には嫌な脂汗がびっしょりと張り付いていた。
無意識にシーツを強く握りしめていた指先が、白く震えている。
「夢……」
穆清はゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。
そこは未央宮の冷たい石造りの部屋でも、血なまぐさい路地裏でもない。
クリーム色の壁紙に、柔らかな朝の日差しがカーテン越しに差し込む、小さな洋室。
サイドテーブルの上で、デジタル時計の赤い数字が「6:30」を示している。
「私は……もう、あの時代にはいない。ここは書文様のお家……」
窓の外から、チュンチュンと小鳥のさえずりが聞こえる。
遠くで車の走る音がするが、それは夜襲の馬蹄の音ではない。平和な朝の音だ。
「ふぅ……」
肺の底に溜まっていた恐怖の澱を吐き出すように、深く安堵の息をつく。
汗を拭おうとして、穆清はふと部屋の隅にあるドレッサーに目をやった。
真新しい、モダンなデザインの鏡台。
その脇には、まだ値札の外されていない化粧水のボトルや、可愛らしい櫛が並んでいる。
『女の子にはこういうのが必要だろ? 俺、よく分かんないから店員さんに聞いて一通り揃えてみたんだけど……気に入らなかったら言ってね』
一昨日、書文様が照れくさそうに頭をかきながら設置してくれたものだ。
視線を移せば、クローゼットの横には淡いピンク色のルームライト。
床には、穆清の足が冷えないようにと敷かれたふわふわのラグマット。
本棚の片隅には、穆清がこちらの言葉を覚えるための絵本や、漢字ドリルが丁寧に並べられている。
『無理して覚えなくていいから。穆清のペースで、少しずつね』
彼の言葉が、穆清の耳の奥で蘇る。
この部屋にあるもの一つ一つが、彼の優しさの結晶だった。
穆清という、突然転がり込んできた異邦人を、家族のように、あるいはそれ以上に大切に想ってくれている証拠。
「書文様……」
夢の最後で、穆清は彼をなんと呼ぼうとしただろうか。
『兄上』と言いかけて、『書文様』と言い直した。
あれは願望が見せた夢だったのだろうか。
父や母の代わりに穆清を守り、導いている人。
けれど、ただの保護者ではない。
血の因縁に縛られた穆清を、現代という光の中に引き上げてくれた、唯一無二の光。
「あの方の手は……とても、温かかった」
穆清は胸元に手を当て、まだ早鐘を打つ心臓をなだめた。
呂后の呪縛も、血塗れの記憶も、消えたわけではない。
けれど、この部屋に満ちる彼の気配がある限り、穆清はきっと、夜明けを迎えることができると思った。
穆清が窓の外を見上げると、吸い込まれそうなほど青い空が広がっていた。
今日もまた、彼と共に過ごす一日が始まる。
そう思うだけで、穆清は恐怖に震えていた体が、じんわりと内側から温まっていくのを感じた。
週末の朝、白家のリビングには柔らかな陽だまりができていた。
窓の外では、刈り込まれた庭木の葉が風に揺れ、光の斑大がフローリングの床の上で踊っている。
ソファでは、父の白建文が新聞を広げ、その隣で母の李静が編み物の手を休めて、湯気の立つお茶を啜っていた。どこにでもある、しかし何ものにも代えがたい平和な休日の風景だ。
その平穏な空間に、電子音が響いた。
「よし、アップデート完了。……穆清、ちょっとこっちに来て座ってくれないか?」
テレビの前であぐらをかいていた書文が、手招きをした。
大画面モニターには、最新の協力型アクションRPG『真・武神伝』のタイトル画面が映し出されている。重厚なオーケストラと共に、鎧を纏った戦士たちが剣を掲げる映像が流れていた。
「はい、書文様。……これは、絵芝居ですか?」
穆清が不思議そうに首をかしげながら、書文の隣にちょこんと正座する。
「見るだけじゃないんだ。自分で動かすんだよ。ほら」
書文は、白と黒の流線型をしたゲームコントローラーを彼女に手渡した。
「こ、これは……?」
穆清は、まるで爆発物か未知の呪具でも扱うように、恐る恐るその物体を受け取った。
両手で包み込むように持ち、裏返して見たり、アナログスティックを恐る恐る指でつついたりする。
「これは……新手の暗器でしょうか? ボタンが沢山ついていますが、どれを押せば針が飛び出す仕組みで?」
「武器じゃない、武器じゃないから安心して。この画面の中の人を操るための道具だよ」
書文は苦笑しながら、自分のコントローラーを握って見せた。
「左の丸い突起――スティックを倒すと移動。右のボタンで攻撃だ。四角ボタンが弱攻撃、三角ボタンが強攻撃。とりあえず、これだけ覚えれば大丈夫」
「は、はい……移動……攻撃……」
穆清はおっかなびっくりスティックに親指を添えた。
画面が切り替わり、戦場フィールドに二人のキャラクターが降り立つ。
書文の操る青い鎧の剣士と、穆清に割り当てられた赤い軽装の女剣士だ。
「じゃあ行くよ、スタート!」
「わっ!……あ、あれ? う、動きません!書文様、私の分身が……あさっての方向へ走っていきます!」
画面の中の女剣士は、敵のいない壁に向かって全力疾走し、そのまま壁に顔を擦り付けて走り続けている。
「スティックを前に!敵はこっち!」
「こ、こうですか!?……きゃあっ!」
コントローラーがブルッと振動した瞬間、穆清は「ひゃうっ!」と可愛らしい悲鳴を上げて、コントローラーを取り落としそうになった。
「て、手が痺れました!な、なんと奇怪な術を……!」
「振動機能だよ! ダメージを受けると震えるんだ。ほら、敵が来てる! 四角ボタン連打!」
「れ、連打……ええいっ!」
彼女はコントローラーを拝むように持ち直し、人差し指でボタンをポチポチと押し始めた。その仕草は、ピアノを弾くというよりは、お灸を据えるような慎重さだ。
画面の中の女剣士は、ためらいがちに小剣を振り回しているが、押し寄せる雑魚敵の群れにあっという間に囲まれていく。
「くっ……多勢に無勢……! 卑怯者め、私の背後を取るとは!」
穆清の眉が吊り上がる。
彼女の顔つきが変わった。コントローラーを見るのをやめ、画面を凝視する。
長安の闇を生き抜いてきた彼女にとって、「敗北」は即ち「死」を意味する。たとえそれが遊戯の中であっても、彼女の戦士としての本能が、無様な敗走を許さなかった。
「書文様、回避はどうやるのです!?」
「バツボタン!」
「承知!」
タンッ!
穆清の指が、迷いなくボタンを叩いた。
画面の中の女剣士が、敵の攻撃を紙一重でかわし、バックステップで距離を取る。
「……見切った」
彼女の瞳孔がスッと細くなった。
先ほどまでの狼狽が嘘のように、彼女の指先がリズムを刻み始める。
「右手が攻撃、左手が足捌き……なるほど、馬の手綱と剣の扱いに似ている」
タタタンッ、カチャ、タンッ!
規則的かつ高速なボタン入力音が響く。
画面の中、女剣士が舞うように回転し、群がる敵兵を次々となぎ倒していく。
「す、すげぇ……」
書文は思わず自分の操作をおろそかにして見入ってしまった。
彼女は適当にボタンを押しているのではない。敵の攻撃モーションを見てから回避し、隙を見てコンボを叩き込んでいるのだ。
「そこだッ! 愚か者め!」
穆清が叫ぶと同時に、三角ボタンの強攻撃が炸裂。敵の隊長格が空中に吹っ飛んだ。
「穆清、ナイス! そのまま空中コンボいけるか!?」
「空中……空中で追撃ですね!? お任せを!」
「よし、俺が援護する! 合わせろ!」
二人のキャラクターが青と赤の光の軌跡を描きながら交錯する。
書文が敵を打ち上げ、落ちてきたところを穆清が斬り上げる。阿吽の呼吸。
画面いっぱいに出現した巨大な中ボス――剛腕の鬼神が、二人の連携攻撃を受けて体力を削り取られていく。
「あと少し! 必殺技ゲージ溜まった! 同時押しだ!」
「心得たり!!」
「「いっけえええええ!!」」
カチリ、と二人の指が同時にトリガーを引いた。
画面が閃光に包まれ、『完全勝利(PERFECT VICTORY)』の金文字が躍る。
「やっっったあぁぁぁーー!」「成敗!!」
書文がコントローラーを置いて両手を挙げ、穆清も弾かれたように立ち上がった。
二人は互いに向き合い、自然な流れでパチン! とハイタッチを交わした。
「やったな穆清! 素人とは思えない動きだったぞ!」
「ふふっ、書文様の指揮のおかげです!楽し……なんと胸の躍る戦いでしょうか!」
興奮冷めやらぬ二人は、そのまま笑い合った。
その距離は近く、肩と肩が触れ合い、互いの体温を感じられるほどだったが、勝利の熱狂の中にいる二人は気にも留めていない。
ソファの後ろでは、新聞を畳んだ建文が眼鏡の位置を直しつつ、穏やかに笑っていた。
「やれやれ、家の中に軍師様がいるようだな」
「ふふ、本当ね」
李静も編み棒を動かしながら、目を細めて二人を見つめる。
「書文も、すっかりお兄ちゃんの顔をして。あんなに楽しそうなあの子を見るのは久しぶりだわ」
「ああ。穆清さんも、来たばかりの頃のあの張り詰めたような顔つきが嘘みたいだ。……いい家族になったな」
両親の視線には、温かな春の日差しのような慈愛が満ちていた。
一息ついた二人は、ソファの空いたスペースにドサリと座り込んだ。
激しい「戦い」の後の心地よい疲労感が漂う。
「はぁ……手汗かいちゃったよ。まさかあそこまで追い詰められるとはね」
「ええ……ですが、書文様が背中を守ってくださったので、恐れることなく剣を振るうことができました」
穆清はそう言って、ふと息をついた拍子に、脱力して隣の書文にコクリと頭を預けた。
頭の下にあるのは、書文の肩だ。
彼の着ているパーカーの柔らかな感触と、微かに漂う洗剤の清潔な香り。そして、運動後のような温かい体温が伝わってくる。
「ん、お疲れ。穆清、結構筋がいいから、次はもっと難しいクエスト行ってみるか?」
書文は特に気にした風もなく、リラックスした様子でスポーツドリンクのペットボトルを手に取った。彼は学校でも女子との距離感が近いタイプで、無自覚にスキンシップを受け入れる癖がある。
しかし。
ゲームの熱狂が冷め、心拍数が落ち着いてきた穆清の脳裏に、遅れて「現状」が染み込んできた。
(……あ)
今、自分の頭は書文の肩にある。
太ももの側面が、彼の足とぴったり密着している。
さっきのハイタッチの時、彼の手のひらが自分の手に触れた感触。
ゲーム中、無意識に体を寄せて、彼が叫ぶたびにその振動が伝わってきていたこと。
(な、なんという……)
カァァァッ……と、音を立てて血液が顔に集まっていくのが分かった。
(私としたことが……戦いに没頭するあまり、殿方とこのように……触れ合い放題などと……!)
「ど、どうした? 顔赤いぞ? 画面酔いしたか?」
書文が覗き込んでくる。その無邪気な瞳が近すぎて、直視できない。
「い、いえ……なんでも……ありませぬ……」
彼女は俯き、小さく答えるのが精一杯だった。
離れなければ。淑女として、慎みを持って距離を置かねばならない。
頭ではそう分かっている。
けれど、体は鉛のように重く、そして何より――この心地よい温度から離れることを、心のどこかが拒んでいた。
(……少しだけ)
彼女は熱い頬を隠すように、ほんの少しだけ、さらに深く彼の肩に顔を埋めた。
(疲れただけだ。……戦いの疲れを癒やすしばしの間だけ、この温もりに甘えることを……お許しください)
「ま、休憩したらまたやろうぜ。次は穆清に魔法使いキャラを使わせてあげるよ」
「……はい、ご指導……頼みます」
穏やかなリビングに、ゲームの待機画面の音楽が静かに流れる。
両親が交わす他愛のない会話、庭の小鳥の声、そして隣に座る人の鼓動。
それらが混ざり合い、穆清の緊張を解きほぐしていく。
追われる恐怖も、血の宿命も、この瞬間だけは遠い世界の出来事だった。
ただの「劉穆清」として、ここにいていいのだといわれているような、甘やかで平和な午後のひとときが、そこにはあった。
午後を回ると、日差しは少し傾き、柔らかな琥珀色を帯び始めていた。
書文と穆清は、腹ごなしを兼ねて近所の公園へと足を運んだ。
週末の公園は、平和そのものだった。砂場で遊ぶ子供たちの甲高い笑い声、リードを引いて犬の散歩をする人々、ベンチで将棋を指す老人たち。
そのありふれた風景の中にあって、穆清の存在は異質でありながら、不思議なほど鮮烈に映えた。
彼女は書文が選んだ現代風のワンピース――淡い水色の生地に、白いカーディガンを羽織っている。シンプルな装いだが、背筋をスッと伸ばして歩く所作や、風に揺れる黒髪を耳にかける指先の動き一つ一つに、隠しきれない気品が滲み出ている。
まるで、古い絵巻物から天女が抜け出してきて、そのまま現代の路地を歩いているような錯覚。
すれ違う人々が、思わず振り返る。
ベンチに座っていた一人のお婆さんが、目を細めて声をかけてきた。
「あらまあ……綺麗な娘さんだこと。隣のお兄さんも優しそうで。いいご兄妹ですな」
突然の称賛に、穆清は少し驚き、頬を染めて首を横に振った。
「い、いいえ……私など、そのような……」
「謙虚すぎるよ。今の若い子はみんな派手だけど、あんたみたいな慎ましさは宝物だよ」
お婆さんは杖に手を重ね、少し寂しそうに笑った。
「うちの孫たちがね、ちょうどあんたたちくらいの年頃なんだよ。従兄妹同士なんだけどさ。昔は本当の兄妹みたいに仲良しで、いつも二人でキャッキャと遊んでいたのにねぇ……」
お婆さんの眉間に、深い皺が刻まれる。
「思春期に入ってからかねぇ。なんだか仇同士みたいになっちまって。顔を合わせれば喧嘩腰、口を開けば罵り合いさ。あんなに仲が良かったのに、今じゃ見るだけでこっちの心が苦しくなるよ」
「仇……」
その言葉に、穆清の足が止まった。
仇のように憎み合う血縁者。
彼女の脳裏に、どす黒い記憶がフラッシュバックする。
玉座を巡って殺し合う兄弟、毒を盛られる姉妹、笑顔の裏で刺客を放つ親族。
漢の宮廷において、「不仲」とは口喧嘩のことではない。相手の存在そのものを抹消することだ。
声すら交わさない。視線すら合わせない。ただ静かに、冷徹に、排除する。それが彼女の知る「仲違い」の果てだった。
(……なんと、平和な悩みであろうか)
罵り合えるということは、相手がまだ生きているということだ。感情をぶつけ合えるということは、まだ相手に関心があるということだ。
彼女はゆっくりと息を吐き、お婆さんの手の上に、自分の手をそっと重ねた。
「お婆様。……きっと、大丈夫でございます」
「え?」
「一応、仲が良いのかもしれません。……本当に仲が悪く、心の底から憎しみ合っているのなら、たぶん喧嘩すらしません。言葉を交わすことすら、無駄だと思いますから」
彼女の声は静かで、しかし深い確信に満ちていた。
「無視をするか、あるいは……永遠に会えなくなるように仕向けるでしょう。声を荒らげて言い合えるうちは、まだ互いの心に触れたいと願っている証拠なのです」
お婆さんは目を丸くした。
まだあどけなさの残る少女の口から、まるで何十年もの修羅場をくぐり抜けてきたような、重みのある言葉が出てくるとは思わなかったのだろう。
「……お嬢ちゃんは若いけど、物知りだねぇ。苦労したのかい?」
「……」
穆清は言葉を濁した。
(苦労、という言葉で片付けられるものでしょうか)
どうやって生き残ったか。どれだけの屍を見てきたか。それを語ることはできない。
代わりに、彼女は穏やかな微笑みを浮かべた。
「心配なさらないでください。彼らはきっと、彼らなりの接し方を探している最中なのだと思います。いつか、嵐は過ぎ去りますよ」
「……そうかい。そうだといいねぇ。あの子らが、あんたみたいに優しい子になればいいんだけどね」
お婆さんは少し安心したように表情を緩め、何度もお礼を言って去っていった。
その背中を見送りながら、穆清はふと肩の力を抜いた。
その時、横から書文の声がした。
「さっきの会話で、また過去を思い出した?」
穆清はドキリとして振り返った。
「……分かったのですか?」
「そりゃあね。だって、一瞬……ほんの一瞬だけ、すごく険しい顔をしたから」
書文は自分の眉間を指差して見せた。
「まるで、戦場を見るような目だった」
「……嘘……」
穆清は慌てて自分の頬に手を当てた。
(いけない。こちらの世界では、穏やかに過ごすと決めたのに。無意識のうちに、死人の顔をしていたとは……)
彼女が恥じ入るように俯くと、書文はポンとその頭に手を置いた。
「別にいいよ。隠さなくて」
「え?」
「穆清に悲しい過去があるのは変えられない事実だ。それを無理に忘れる必要もないし、消す必要もない。……どんな過去があっても、今の穆清は穆清だろ? 大事なのは、今、ここで生きているってことだけさ」
書文の言葉は、飾らないが真っ直ぐだった。
過去の亡霊に怯える彼女を、「今」という場所にしっかりと繋ぎ止めてくれるような響きがあった。
「書文様……」
「ほら、暗い顔はなし! せっかくの散歩なんだから、もっと前を見ようぜ」
「……はい。そうでございますね」
穆清は小さく頷き、彼の手の温もりが残る頭を、自分でもそっと撫でた。
日が暮れ始め、街灯が一つ、また一つと灯り始めた頃。
公園の一角にある広場が、にわかに活気づき始めた。
スピーカーが運び込まれ、そこから大音量でリズミカルな――というよりは、やや騒々しい中華風のダンスミュージックが流れ出したのだ。
ズンチャ、ズンチャ、と腹に響く重低音。
それに合わせて、ジャージや普段着を着た数十人のお年寄りたちが整列し、一斉に体を動かし始めた。
「こ、これはッ……!?」
穆清は目を見開き、あとずさりした。
「な、なんという儀式でしょうか!?ご老人たちが一斉に……ま、魔除けの舞?それとも雨乞いですか!?」
「あー……うん、あれはね……」
書文は少しバツが悪そうに苦笑した。
「『広場舞』だよ。定年退職したお年寄りたちの娯楽さ。健康維持と、まあ、コミュニティ作りみたいなもんだね」
現代中国の風物詩とも言えるこの光景。若者にとっては「音がうるさい」「場所を占領する」と敬遠されがちな存在だが、この時代のお年寄りたちにとっては生きがいそのものだ。
「娯楽……これが、遊びなのですか?」
穆清はおっかなびっくり、しかし釘付けになってその集団を見つめた。
リズムに合わせて手を伸ばし、足を踏み鳴らし、回る。
その動きは決して洗練されているとは言えないし、中にはテンポから遅れている人もいる。だが、誰の顔も生き生きとしていて、楽しそうだ。
宮廷の舞踏とは違う。
あちらは皇帝を楽しませるための、一糸乱れぬ緊張の芸術だった。失敗すれば罰せられ、美しくなければ価値がない。
だが、これは違う。
誰もが自由に、自分のために踊っている。
「……やってみたい」
穆清の口から、ポツリと言葉がこぼれた。
「えっ、興味あるの?」
書文は意外そうに眉を上げた。
「いや、参加は自由だけど……俺らくらいの年齢で混ざるの、結構勇気いるよ?」
「いいえ、やってみたいのです。……あの輪の中に、入ってみたい」
穆清の瞳が、夕陽を反射してキラキラと輝いている。
子供がおもちゃを見つけた時のような、純粋な好奇心の光。
それを見て、書文は「やれやれ」と笑った。
「分かったよ。穆清が行くなら止める理由はないさ。行ってきなよ」
「はい! ……いいですか? 私、行ってまいります!」
穆清は弾むような足取りで、踊る老人たちの輪の端へと駆け寄った。
音楽のリズムを聞き、前の人の動きを見る。
右へステップ、手を広げて、回る。
最初は戸惑っていたが、彼女の体はすぐにその単純なリズムを理解した。
いや、理解するどころか――。
(リズムは単調。振り付けも単純。なれど……)
彼女の中で、かつて叩き込まれた舞踊の基礎が目覚めた。
指先の伸ばし方、足の運び方、首の傾げ方。
お年寄りたちの真似をしているはずなのに、彼女が動くと、そこだけ空気が変わった。
ただの手拍子が、花が咲くような優雅な所作になる。
ただのステップが、水面を滑るような軽やかな舞になる。
夕闇の中で、白いカーディガンをなびかせて舞う彼女は、まるで月光の妖精のようだった。
「おや……?」
近くで踊っていたお婆さんが、動きを止めて穆清を見た。
「あのお嬢ちゃん、すごいねぇ」
「動きは真似っこだけど、なんだか品があるよ」
「見てごらん、あの指先。プロの踊り子さんかい?」
ざわめきが広がる。
最初は数人だった視線が、次第に十人、二十人と増えていく。
「お嬢ちゃん、踊るのが好きなのかい?」
隣のお爺さんがニコニコと話しかけてきた。
「は、はい! 動きがまだピッタリとはいきませぬが……楽しいです!」
穆清は息を弾ませながら、満面の笑みで答えた。
「筋がいいよ! 若い子が参加してくれるなんて、嬉しいねぇ!」
「ここのターンはこうやるんだよ!」
「はい! こうですかッ!?」
クルリ、と彼女が回る。スカートがふわりと広がる。
「おおーっ!」と歓声と拍手が沸き起こる。
褒められる。受け入れられる。笑顔を向けられる。
漢の宮殿では、どれだけ美しく舞っても、それは「権力への媚び」か「生き残るための手段」でしかなかった。
だがここでは、ただ「楽しい」というだけで、こんなにも温かい拍手がもらえる。
その事実が、彼女の胸を熱く焦がした。
(あぁ……なんて……なんて気持ちがいいのだろう!)
一曲が終わり、少しの休憩が入った。
息を切らした穆清が、ベンチに座っている書文の元へ戻ってきた。
額には玉のような汗が光り、頬は上気して薔薇色に染まっている。
「お疲れ、スター誕生だな」
書文は笑いながら、ペットボトルの水を差し出した。
「ありがとうございます……ふぅ、ふぅ……」
穆清は水を一口飲み、またすぐに広場のほうへ目を向けた。
その横顔は、今まで見たどの表情よりも輝いていた。
「楽しかった?」
「……はい」
穆清は深く頷いた。
「以前は……都にいた頃は、こんなふうに誰かと笑い合って体を動かすことなど、ありませんでした」
彼女はボトルをぎゅっと握りしめた。
「舞とは、誰かのために披露するもの。間違えてはならぬもの。恐怖と隣り合わせのものでした。でも……」
彼女は広場のお年寄りたちを見た。互いに汗を拭き合い、笑いながら次の曲を待っている人々。
「ここでは、誰も私を品定めしません。ただ一緒に、同じ音を聞いて、同じ時を過ごしている。……それが、こんなにも楽しいことだなんて」
「みんな知り合いじゃないのに、心が通じ合うような……不思議な感覚です」
書文は彼女の言葉を噛み締めるように聞いた。
彼女が失っていた「青春」や「日常」は、何も学校行事や恋愛だけではない。
こういう、なんでもない、名前もない、ただの「楽しい時間」。それこそが、彼女に一番必要だった薬なのかもしれない。
「それはよかった」
書文は優しく微笑んだ。
「もし好きなら、毎日でも付き合ってあげるよ。ここなら、夕飯の買い物ついでに来れるしね」
「ま、毎日……?」
穆清は目を丸くし、それから少し遠慮がちに眉を下げた。
「でも……書文様にご迷惑では? その、お勉強もありますし、このような年寄りじみた遊びに毎日もお付き合いいただくのは……」
「迷惑なもんか」
書文は即答した。
「俺は、穆清が笑ってるのを見るのが一番嬉しいんだ。それに、穆清が過去に楽しめなかった分、これから全部取り返さなきゃいけないんだろ?」
彼はニッと悪戯っぽく笑い、親指で広場を指した。
「遠慮なんかするな。存分に踊って、存分に笑ってこい! 俺はここで特等席で見物させてもらうからさ」
その言葉に、穆清の瞳が揺れた。
やがて、彼女の顔に花が咲くような、極上の笑顔が広がった。
「……はいッ!書文様!」
ちょうど、スピーカーから次の曲のイントロ――軽快なアップテンポの曲が流れ始めた。
「行ってまいります!」
穆清はベンチを蹴って飛び出し、再び光の輪の中へと駆けていった。
「おっ、お嬢ちゃんが戻ってきたぞ!」
「次は難しいよ!ついておいで!」
「望むところです!ご指導願います!」
老人たちの輪の中心で、彼女が舞う。
不器用ながらも一生懸命にステップを踏むその姿は、確かに過去の血塗られた記憶を塗り替えていくようだった。
日が落ち、街がネオンとヘッドライトの河に沈んでいく頃。
都市の片隅、薄汚れたコンビニエンスストアのバックヤード。
廃棄弁当の仕分け作業をしていた王健は、スマホの画面を睨みつけながら、苛立ち紛れに弁当の容器を叩き潰した。
「クソッ……! どこにも映っていないだと……!」
プラスチックの割れる音が狭い空間に響く。
彼の屈強な肉体は、安っぽい店員の制服に窮屈そうに押し込められている。かつて戦場で槍を振るった剛腕が、今は深夜シフトの品出しとレジ打ちで消耗しているのだ。
「監視カメラのハッキングは、もう限界よ。これ以上やると足がつくわ」
向かい側のロッカーで、李娜が疲れ切った声で言った。
彼女もまた、深夜営業のファミレスでの過酷なシフトを終えたばかりだ。化粧は崩れ、足はむくみ、かつての妖艶な輝きは、現代社会の労働という泥にまみれてくすんでいる。
「『あの女』は、まるで煙のように消え失せた。……GPSの反応もない。本当にこの時代にいるのか?」
「いるはずだ。あの『気配』は間違いない……」
王健は画面の地図アプリをスクロールさせながら、奥歯を噛み締めた。
「必ず見つけ出す。どれだけ泥水を啜ろうとも、我らの怨念は消えん。……待っていろ、劉家の小娘」
一方、都市の高層ビルに位置する「西安先進技術研究所」。
外とは隔絶された無菌の空間で、魏哲は一人、青白いモニターの光に照らされていた。
研究室には、サーバーの唸るような駆動音だけが響いている。
彼の指先がキーボードの上で踊り、画面上の複雑な波形データを次々と処理していく。
「ふふ……んふふ……♪」
彼の唇から漏れるのは、ドイツ軍歌『エリカ』の旋律。
軽快なマーチのリズムとは裏腹に、彼の瞳は氷のように冷たく、そして熱狂的に輝いていた。
「見つけたよ、ノイズの発生源」
画面の中央に、赤い点が灯る。
それは、都市の膨大なエネルギー消費データの中に紛れ込んでいた、極めて微細な、しかし決定的な「異常値」。
「美しいねぇ。科学の法則を無視した、未知のエネルギー干渉。……これでターゲットの座標は絞り込めた」
彼は満足げに眼鏡の位置を直し、椅子の背もたれに深く体を預けた。
「あとは、君を解剖台に乗せるだけだ。……Auf der Heide blüht ein kleines Blümelein(荒野に小さな花が咲いている)……」
冷徹な鼻歌が、無機質な部屋に不気味に響き渡る。
打って変わって、白家の夕食の食卓は、湯気と笑い声に包まれていた。
「へぇ! 穆清さんが広場舞を?」
母の李静が目を丸くして笑う。
「はい!とても楽しゅうございました!皆様、とても親切で……また明日も誘われております」
穆清は少し頬を染めながら、箸を動かした。
食卓には麻婆豆腐に青椒肉絲、トマトと卵の炒め物。家庭的で温かい料理が並んでいる。
「いいことじゃないか。体を動かすのは健康にいい」
父の建文もビールを飲みながら頷く。
「書文も一緒に踊ったのか?」
「い、いや、俺は見てただけだよ!さすがにあの中に入る勇気はないって」
書文が慌てて否定すると、穆清がクスリと笑った。
「書文様はずっとベンチで、私の荷物を持って応援してくださいました。……まるで、本当の兄上のようで」
「兄上か。……まあ、頼りない兄貴だけどな」
書文が照れくさそうに鼻をこする。
暖色の照明の下、四人の影が床に長く伸びている。
そこにあるのは、何の変哲もない、けれど奇跡のように穏やかな家族の団欒だった。
「ごちそうさまでした!」
食事を終え、リビングのソファでくつろぐ時間。
テレビから流れるバラエティ番組の笑い声に混じって、「明日は何をする?」という平和な会話が交わされる。
「明日は日曜日だし、みんなで映画でも観に行きましょうか」
「映画!活動写真ですね!ぜひ!」
穆清の瞳が輝く。
その同じ瞬間。
白家の門の外、街灯の光が届かない電柱の影に、一人の少年の姿があった。
祈だ。
彼はポケットに手を突っ込み、フードを目深にかぶったまま、じっと白家の窓から漏れる明かりを見上げていた。
中から聞こえる笑い声。食器の触れ合う音。
祈の視線は鋭く、獲物を狙う鷹のように夜の闇を見据えていた。
彼の肌が、ピリピリと粟立っている。
「気配察知」――現代科学では説明のつかない、彼の直感。
それが、この街の空気に混じり始めた異質なノイズを捉えていた。
どす黒い怨念のような粘着質な殺意と、それとは対照的な、冷徹で無機質な観測者の視線。
二つの異なる脅威が、確実にこの家を中心にして渦を巻き始めている。
(やっぱり、嗅ぎつけられたか)
祈は、誰にも聞こえない声で呟いた。
彼は中へは入らない。
衛佳から頼まれたからではない。彼自身の前世からの因果か、あるいは単なるお節介か。
(僕がいる限り、この聖域には指一本触れさせないよ)
彼はポケットの中で密かに拳を握りしめ、闇の奥を睨み返した。
リビングの窓の中、楽しそうに笑う書文と穆清のシルエットが揺れる。
その温かな光と、少年が一人背負う冷たい夜の闇。
見えない境界線の上で、静かな戦いの幕が上がろうとしていた。
最後までお付き合い感謝です!
現代の楽しさと、穆清の成長を描きました。
次回は、再び「過去の因縁」が動き出します。
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