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伍 芽生える恋、古き誓い

ご覧いただきありがとうございます。

今回は、穆清の「恋心」が芽生える回です。

時代も常識も違う二人の、すれ違いと成長を描きました。

甘酸っぱい青春の空気を感じていただければ幸いです。

 朝の光が、まだ夜の冷気を残した廊下に斜めに差し込んでいた。

 築年数の浅くない白家の二階。その突き当たりにある洗面所の扉が、ガチャリと開いた。

「ふわあ……あ、おはよう穆せ――」

 寝癖のついた髪をかきながらあくび交じりで出てきた書文は、そこで言葉を飲み込んだ。

 目の前に、劉穆清が立っていたからだ。

 彼女は今まさに扉に手をかけようとしていたところらしく、少し驚いたように目を丸くしている。

 問題は、その姿だった。

 いつものきっちりとした服装ではない。少しサイズの大きいTシャツに、ジャージのズボン。書文が貸した寝巻き代わりの服だ。薄手の生地の下に、華奢な肩のラインや鎖骨の窪みが無防備に覗いている。

 朝の柔らかい光の中で、彼女の透き通るような肌は、見てはいけないもののように白く輝いて見えた。髪も少し乱れていて、それがかえって艶かしい生活感を醸し出している。

「あ……」

「……」

 二人の間に、数秒の静寂が落ちた。

 換気扇の回る音だけが、やけに大きく聞こえる。

 穆清の顔が、みるみるうちに熟した桃のように赤くなっていくのが分かった。彼女は慌ててTシャツの襟元を両手で押さえ、視線を泳がせた。

 書文もまた、心臓が早鐘を打つのを感じていた。同じ家に住んでいるとはいえ、ここまで無防備な「朝の顔」を至近距離で見るのは初めてだった。

 漢代の姫君にとって、寝起き姿を異性に見られることの意味。それがどれほど重大なことか、書文の現代的な常識でもなんとなく察せられた。

「ご、ごめん!俺、下! 下のトイレ使うから!」

 書文は裏返った声で叫ぶと、脱兎のごとく階段を駆け下りていった。

 ドタドタドタ、という慌ただしい足音が遠ざかっていく。

 残された穆清は、扉の前で立ち尽くし、熱を持った頬を両手で包み込んだ。

 手のひらに伝わる自分の鼓動が、早すぎて怖い。

「……あ、あられもない姿を……」

 彼女はその場にしゃがみ込みそうになるのを堪え、小さく呻いた。

 だが、恥ずかしさと同時に、胸の奥で小さく鳴った音を彼女は聞き逃さなかった。

 彼が慌てて去っていった背中。赤くなった耳。

 自分を見て動揺してくれたという事実が、なぜか甘い痺れのように腹の底に残っていた。

(今の御身おんみの瞳に映った私は……どのような顔をしていたのだろうか)



「おっはよー!二人とも!」

 朝食を終え、制服に着替えて家を出ると、門の前で林祈が待ち構えていた。

 スポーツバイクに跨り、ヘルメットを小脇に抱えた姿は、朝の住宅街でもひときわ目を引く。

「林先輩? どうしたんですか、朝から」

 書文が鞄を持ち直しながら尋ねると、祈はニッと白い歯を見せた。

「いやー、今日は天気がいいからさ。ちょっと遠回りして通学しようかなって思って。ついでに二人をエスコートしてあげようかと」

「エスコートって……方向、逆ですよね?」

「細かいことは気にしない! さあ、行こう!」

 祈は明るく振る舞っていたが、その実、ハンドルのグリップを握る手には微かに力が込められていた。

 彼の鋭敏な知覚――長年の武術修行で培われた「気配察知」のアンテナが、昨夜から微かなノイズを拾い続けていたからだ。

 特定の誰かというわけではない。だが、この街の空気に、異質な緊張感が混じっている。

 それはまるで、草むらに潜む猛獣の息遣いのような、静かで粘着質な殺気。

(……ただの勘違いならいいんだけどね)

 ヘルメットのシールド越しに、祈は鋭い視線を周囲の路地裏や駐車場の影へと走らせた。

 書文と穆清には、まだ何も伝えていない。余計な不安を与えたくないし、確証もないからだ。だからこそ、こうして「お節介な友人」を装って傍にいることを選んだ。


 三人は並んで通学路を歩き出した。祈はバイクを押しながら車道側を、書文と穆清が歩道側を歩く。

 不意に、書文が深いため息をついた。

「はぁ……今日も学校行くの気が重いなぁ」

「白くん?まだ昨日のことを気に病んでいるのですか?」

 穆清が心配そうに覗き込む。

 昨日の放課後、あの「象棋号泣事件」の後、誤解は一応解けていた。

 書文の必死の説得と、穆清が涙ながらに「彼は悪くない、ただ歴史の悲しみを共有していただけだ」と(ややズレた方向で)力説したおかげで、彼が穆清をいじめたという最悪の疑いは晴れた。

 だが、その代償として別の噂が広まったのだ。

『白くんってさ、歴史の話になると人格変わるらしいよ』

『彼女を泣かすほどの熱血漢なんだ……ちょっと面倒くさそう』

「いじめっ子疑惑は晴れたけど、今度は『歴史マニアのめんどくさい奴』扱いだよ。クラスの女子の視線が痛い……」

 書文が肩を落とす。穆清は申し訳なさそうに眉を下げた。

「私のせいです……。あのような場所で取り乱し、書文様の名誉を傷つけてしまいました」

「いや、いいんだよ。穆清の気持ちは分かったし……それに、あの後クラスのみんなに説明してくれただろ? あれは嬉しかったよ」


 昨日の夕暮れ。

 穆清は涙目のまま、クラスメイト一人一人のところへ行き、拙い現代語で頭を下げて回ったのだ。

『白書文は、優しきお方です。私が故郷を思い出し、勝手に涙しただけなのです』と。

 その姿があまりに健気で、真摯だったため、クラスの雰囲気は一転して「転校生、いい子じゃん」「白、お前愛されてるな」という空気に変わったのだ。

「ま、ドンマイよ白くん」

 祈が背中をバシッと叩いた。

「噂なんて七十五日もすれば消えるって。それに、あんたの実力ならすぐに見直されるわよ」


 学校に到着すると、やはり廊下ですれ違う生徒たちからの視線は好奇なものが多かった。

 だが、授業が始まれば、そんな空気は一変した。

 数学の時間。

 黒板に書かれた難解な微分の応用問題に、指名された生徒たちが次々と撃沈していく中、書文はチョークを手に淡々と数式を書き連ねた。

「……ここで合成関数の微分を用いて、さらに整理すると……答えはこうなります」

 カツ、カツ、と小気味良い音を立てて導き出された解答は完璧だった。

 数学教師が感嘆の声を上げる。

「素晴らしい。教科書の別解まで網羅しているな。白、よく予習している」

 体育の時間。

 バスケットボールの試合形式の練習。

 書文は決して体格に恵まれているわけではないが、その動きは無駄がなく洗練されていた。

 敵チームのパスを鋭い読みでカットし、そのまま速攻へ。ディフェンスを華麗なドリブルでかわし、レイアップシュートを決める。

 ボールがネットを揺らす乾いた音が体育館に響くのと同時に、ギャラリーの女子生徒たちから黄色い歓声が上がった。

「キャー! 白くんナイス!」

「やっぱカッコいいじゃん! 歴史オタクでも許せる!」

「ねえ、やっぱりあの転校生と付き合ってるのかな?」

 穆清は、コートの端でボトルを渡す係をしながら、その光景を呆然と見つめていた。

 汗を拭いながらチームメイトとハイタッチを交わす書文。その横顔には、朝のトイレ前で見せたような慌てぶりも、通学路での弱気な様子も微塵もない。

 ただひたすらに、眩しい。

(なんという……)

 漢の時代において、「男」の価値とは、家柄か、武功か、あるいは詩文の才によって測られるものだった。

 だが、この時代の基準は違う。

 自らの力で難問を解き明かし、自らの体で道を切り開き、周囲の信頼を勝ち取っていく。

 誰の血筋でもない。「白書文」という個人の輝きが、そこに在る。

(立派な……殿方だ)

 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。

 視線を外そうと思っても、磁石に吸い寄せられるかのように、彼の姿を追ってしまう。彼が動くたびに、自分の視界全体が揺れるような錯覚。

 心臓が、朝の比ではないほど激しく打ち鳴らされている。

 ドクン、ドクン、と耳の奥で血流の音がする。

(これは……病か? それとも呪いか?)

 彼女は、この感情の名前を知らなかった。

 政略結婚が当たり前の王族として生まれ、恋愛などというものは詩経の中の絵空事だと思っていた。

 だが今、彼女の体は正直に反応していた。

 汗に濡れた彼の前髪。真剣な眼差し。笑った時にできる目尻の皺。

 そのすべてを、独り占めしたいという欲求。

 気がつけば、彼女の意識は現実から遊離し、甘美な妄想の世界へと滑り落ちていた。



 ――そこは、長安の都を見下ろす草原。

 春風が、色とりどりの花々を揺らしている。

 遠くには宮殿の瓦が黄金に輝き、雲一つない青空が広がっていた。

「穆清」

 優しく名を呼ばれ、彼女は振り返る。

 そこには、白馬に跨った書文がいた。

 だが、今の制服姿ではない。

 頭には漆紗しっしゃの冠を戴き、身には深い紫色の錦のほうを纏っている。腰には玉帯を締め、その凛々しい姿はまさに、高貴な姫君を娶るにふさわしい「駙馬都尉ふばとい」の装束そのものだった。

「書文……様」

 穆清自身もまた、現代の制服ではなく、かつて着ていた十二単のような豪奢な正装に身を包んでいた。長い黒髪が風にたなびく。

 書文が馬の上から手を差し伸べる。

 その手は大きく、頼もしく、温かい。

「さあ、私の手を取って。二人で世界の果てまで行こう」

 彼の声は、蜂蜜のように甘く、琴の音色のように響く。

 穆清は頬を染め、恥じらいながらその手を取った。

 彼は軽々と彼女を引き上げ、自分の前に乗せる。

 馬の背の上、彼の広い胸板に背中を預ける形になる。彼の腕が、彼女の腰を背後から優しく抱きしめる。

 背中に感じる彼の体温。耳元にかかる吐息。

「穆清、愛しい私の妻よ」

「あぁ、書文様……私も、お慕い申し上げております……」

 二人は馬に揺られながら、どこまでも続く草原を駆けていく。

 誰にも邪魔されない、二人だけの桃源郷へ――。



「ふへ……ふへへ……駙馬ふばさま……」

 現実の体育館の隅で、穆清はスポーツドリンクのボトルを抱きしめたまま、だらしなく相好を崩していた。

 口元が緩み、目はとろんと虚空を見つめている。

「劉さん? 大丈夫?」

 近くにいた女子生徒が、不審そうに声をかけてきた。

「はっ!!」

 その声で、穆清は現実に引き戻された。

 目の前には草原も白馬もない。あるのはバスケットボールのゴールと、汗臭い男子たちと、怪訝な顔をするクラスメイトだけ。

 一瞬にして、自分が何を考えていたのかを理解した。

 顔から火が出る、などという生易しいものではない。全身の血液が沸騰したかのような熱波が彼女を襲った。

「は、はわ……っ!?」

 彼女はボトルを取り落としそうになりながら、ワタワタと手を振った。

(な、なんということを……! まさか、書文様を……あの、あのような……!)

 駙馬。

 それは皇帝の娘婿。つまり、自分と書文が「夫婦」になるという想像。

 しかも、あんな公衆の面前で(妄想内だが)、馬上で抱き合うなどという、破廉恥極まりないシチュエーションを、自分から望んでしまったのだ。

(穢らわしい! 私はなんと浅ましい女なのか! 神よ、ご先祖様よ、お許しください!)

 彼女は両手で真っ赤になった顔を覆い、しゃがみ込んだ。

 指の隙間から、まだ試合を続けている書文の姿が見える。

 彼がシュートを決め、爽やかにガッツポーズをする。

 その姿が、さっきの妄想の中の「紫の袍を纏った貴公子」と重なって見えてしまう。

「うぅ……直視できませぬ……」

 いけない、と思えば思うほど、その残像は鮮明になるばかり。

 彼女は知らなかった。

 一度芽吹いた「恋」という名の雑草は、抜こうとすればするほど、根を深く張り、可憐な花を咲かせてしまうことを。

 この日、劉穆清の胸の中に、現代の知識よりも遥かに厄介で、甘くて苦い「学習科目」が一つ、追加されたのだった。



 昼食のチャイムが鳴り響くと、教室はたちまちお祭り騒ぎのような喧騒に包まれた。

 机を合わせる音、購買部へダッシュする足音、そしてビニール袋をガサガサと開ける音。

 書文は手際よく机を四つ合わせて「ランチ・アイランド」を作っていた。そこには当然のように穆清ぼくせいが座らされ、さらにクラスの女子生徒――お調子者のちんと、少し大人びた眼鏡のていも加わっていた。

「ほら、穆清。今日は学食の『激辛麻婆豆腐』じゃなくて、パンにしておいたよ。こっちの方が食べやすいだろ?」

 書文が焼きそばパンとクリームパンを差し出す。

 穆清はコクリと頷き、それを受け取った。

「……かたじけない」

 彼女の声は、蚊の鳴くように小さい。


 彼女の精神状態は、午前中の体育の授業――あの忌まわしき「妄想暴走事故」以来、低空飛行を続けていた。

 クリームパンの包みを開けながら、彼女の視線は虚空を彷徨う。

(……私は、一体どうしてしまったのだ)

 脳裏に焼き付いているのは、馬上で書文にしがみつき、あろうことか「愛しい妻よ」などと囁かれる自分自身の姿だ。

 思い出すだけで、耳の裏がカッと熱くなる。

(違う。断じて違う。あれは……魔が差しただけだ)

 彼女は必死に自分に言い聞かせた。

 今の自分は、漢の公主などという高貴な身分ではない。逆賊に追われ、一族を惨殺され、時空を超えて逃げ延びてきた「朝敵」の娘だ。

 いつ、あの扉が開いて追っ手の斧が振り下ろされるかもしれない。いつ、この平穏な日常が血の海に変わるかもしれない。

 そんな薄氷の上に立っていながら、恋だの愛だの……ましてや書文を「夫」になど、夢見る資格すらない。

(私は不吉な女だ。私の周りには死が纏わりついている。曹じいも、父上も……。書文を巻き込んではならないのに)

 ズキリ、と胸が痛む。

 その時だった。

「ねえ白くん、この間の模試の結果見た?白くんまた学年トップじゃん」

 隣に座っていた陳が、身を乗り出して書文の腕をポンと叩いた。

「え、あー、まあね。数学だけは自信あったから」

「謙遜しちゃって!でさでさ、今度の日曜、みんなで打ち上げカラオケ行くんだけど、白くんも来ない? 勉強教えてほしいし!」

「カラオケ?うーん、どうかな……」

 陳の上目遣い。李の熱っぽい視線。

 彼女たちは、何の屈託もなく書文に触れ、笑いかけ、彼の視線を自分たちの方へ引き寄せようとしている。

 その距離の近さに、穆清の手が止まった。

 クリームパンを持つ指先に、じわりと力が入る。

(……近い)

 陳の指先が、書文のジャージの袖を摘んでいる。

 程が、彼にプリントを見せるふりをして肩を寄せている。

 ただの同級生としての親愛だとは分かっている。この時代では普通の距離感だとも、頭では理解している。


 だが。

(……消えてしまえばいい)

 どす黒い感情が、インクを垂らしたように心の中に広がった。

(書文は私の恩人だ。私だけの……兄上のような、それ以上の人だ。なぜ、そなたらごときが気安く触れる? その手をどけよ。その笑顔を消せ。私の視界から……いなくなれ)

 瞬間、彼女はハッとして息を飲んだ。

 自分の内側に湧き上がった、氷のように冷たく、刃物のように鋭い殺意。

 それはあまりにも鮮明で、かつて自分が最も恐れていた「あの人物」の思考そのものだったからだ。

 ――呂后りょこう

 祖父・劉邦の愛した側室・戚夫人せきふじんの手足を切り落とし、豚小屋に投げ込んで「人豚ひとぶた」と呼んで笑った、あの残酷な祖母。

「私の邪魔をする者は、すべて消せばいい」

 幼い頃、御簾の向こうで聞いた祖母の冷たい声を思い出す。

(ああ……やはり、私はあの人の孫なのだ)

 血の気が引いていく。

 嫉妬に狂い、他者の不幸を願う醜い心。それは間違いなく、あの呪われた血脈の証だ。

(私は……なんて恐ろしいことを……)

(すべての不幸は、お祖母様がそうやって他者を排除し続けた報いとして起きたはず。なのに、私もまた同じごうを背負おうとしているのか?)

 絶望感が、鉛のように胃の腑に落ちた。

 私はやはり、穢れた血を引く罪人なのだ。だからこうして、時を超えても安寧を得られず、心を苛まれているのだ。



「……穆清?」

 ふと、心配そうな声が降ってきた。

 書文が、会話を中断して彼女の顔を覗き込んでいた。

「どうした? パン、口に合わなかった? それとも気分が悪い?」

 その瞳は、あくまで澄んでいて、優しい。

 陳や程に向けていた社交辞令の笑顔とは違う。心の底から身を案じる、温かな光。

 その光が、穆清の心の闇を暴き立てるようで、たまらなく辛かった。

「う……」

 視界が歪んだ。

 堪えようとしたが、ダムが決壊するように、瞳から大粒の涙が溢れ出した。

「うっ、うう……っ!」

 ポロポロとこぼれ落ちる涙が、クリームパンの上に落ちる。

 瞬時に、テーブルの空気が凍りついた。

「えっ!?ちょ、ちょっと穆清!?どうしたの!?」

 書文は飛び上がらんばかりに驚いた。

 昨日の「象棋号泣事件」のトラウマが蘇る。

 クラス中の視線が、再び「また白が泣かせたのか」という疑惑の色を帯びて突き刺さるのを幻視して、彼は顔面蒼白になった。

「お、お俺は何もしてない!してないよね!?ただ『美味しい?』って聞いただけで……!」

「おちついて白くん!動揺しすぎ!」

 すかさず陳が割って入った。

「分かってる、分かってるって。白くんがそんなことする人じゃないのは、私たちが一番よく知ってるから」

 彼女は書文の背中をバシバシと叩き、それから穆清に向き直って優しく言った。

「劉さん、大丈夫?白くんの顔がブサイクすぎて泣けてきた?」

「そうそう、緊張しなくていいのよ」

 眼鏡の程も、落ち着いた声でフォローに入った。

「昨日のことなら、もう誰も気にしてないわ。誤解は解けてるし、白くんがいじめっ子じゃないなんて、クラスの女子はみんな分かってるもの」

 程は手早くポケットティッシュを取り出し、穆清の手に握らせた。

「ほら、涙拭いて。せっかくの美人が台無しよ」


 彼女たちの屈託のない優しさが、穆清の罪悪感をさらに刺激する。

 消えてしまえばいい、などと願った相手に、こうして慰められている。

 自分はなんと浅ましく、小さい人間なのか。

「……なんでも、ありませぬ……」

 穆清はティッシュを目元に押し当て、鼻をすすった。

「ただ……己の中に、とても嫌な考えが浮かんで……自分が嫌いになっただけでございます……」

「嫌な考え?」

 書文は眉を下げた。

 彼は少し考え、穆清がまだ過去の記憶や、不慣れな環境への不安に押しつぶされそうになっているのだと解釈した。

 彼は居住まいを正し、彼女の目をまっすぐに見た。

「穆清。……過去に何があったとしても、今の君はここにいる」

 彼は教室を見渡すように手を広げた。

「ここは学校だ。誰も君を責めないし、誰も君を傷つけない。君はただの、15歳の女子高生なんだよ」

 そして、どこかの漫画かドラマで見たような、キザなセリフを精一杯の笑顔で言った。

「過去のことは一旦忘れよう。青春短し、楽しめ乙女……ってね!」


 一瞬の静寂。

 そして、プッ、と陳が吹き出した。

「ぶはははは! 何それ!」

「それ言うなら『恋せよ乙女』でしょ? なんで微妙にヘタレたことわざにするのよ」

 程も肩を震わせて笑っている。

「白くん、たまにそういうおじいちゃんみたいなとこあるよね」

「うっさいな! 語呂がいいだろ!」

 書文が赤くなって抗議する。

 その明るい笑い声に包まれて、穆清の涙は自然と止まっていた。

 ああ、この人たちは、なんて明るいのだろう。

 私の暗い血の因縁など、太陽の下の雪のように溶かしてしまう。

 胸のつかえが取れた安堵感。

 そして、書文が自分のために必死になってくれた嬉しさ。

 それらが混ざり合い、彼女の口から、とんでもない「本音」と「譲歩」が飛び出した。

「……わかりました」

 穆清は真剣な眼差しで書文を見つめた。

「書文様のお心、しかと受け止めました。……ですから、私も寛大になりましょう」

「へ? 寛大?」

「はい」

 彼女は凛とした声で、皇女のような威厳を込めて宣言した。

「書文様が、他の女性と親しくなさり、ねやを共にすることを望まれるのであれば……側室として迎えることは、この正妻わたしが許します」

「…………はい?」

 時間が止まった。

 陳の箸が止まり、程の眼鏡がズレた。

 書文は口を開けたまま凍りついた。

「え、あ、そ、そく……?」

 書文の声が裏返る。

「側室です。あるいはめかけでも構いませぬ。甲斐性のある殿方が多くの女子を囲うのは、繁栄の証。……ただし、正妻は私です。そこだけは譲りませぬが、第二夫人の席くらいなら、まあ……」

 穆清は陳と程をチラリと見て、「そなたらなら悪くない」と言わんばかりに小さく頷いた。

「ち、ちちち、違う違う違う!!」

 書文の絶叫が食堂に響いた。

 彼はテーブルに身を乗り出し、必死の形相で両手を振った。

「現代は違うから! 一夫多妻はNG! 法律違反! 重婚罪で捕まっちゃうから!」

「まあ、法で禁じられているのですが?」

 穆清はきょとんとして首をかしげた。

「なれど、妾なら多少入れても……」

「俺は駙馬じゃない!ただの高校生!妻は一人だけ!オンリーワン!」

「なんと……」

 穆清は目を丸くした。

「では、書文様は生涯ただ一人……私だ……けを……?」

 言いかけて、彼女はようやく自分の発言の意味に気づいた。

「正妻は私」という前提で話を進めていたこと。

 そして、現代の価値観において、それがどれほど常軌を逸した「プロポーズ」に近い発言だったかということ。

「あ……あ……」

 ボンッ、と音がしそうなほどの勢いで、彼女の顔が茹でダコのように真っ赤になった。

「わ、わわ、私は何を……!?」

 彼女はバッと両手で顔を覆い、机に突っ伏した。

「忘れてください……!今のは、その、故郷の……悪い冗談で……穴があったら入りたい……!」

 そのあまりの狼狽ぶりに、一瞬の沈黙の後、テーブルは爆笑の渦に飲み込まれた。

「あはははは! 劉さん最高!」

 陳が腹を抱えて笑っている。

「側室って!どの時代から来たのよー!」

「やるわねぇ、天然記念物級だわ」

 程も涙を拭いながら笑っている。

「でもいいわね、『正妻は私』宣言。白くん、愛されてるじゃない」

「からかうなよぉ……」

 書文は脱力して椅子にもたれかかったが、その表情は安堵に緩んでいた。

「まあ、元気が出たならよかったよ。……そういう冗談が言えるくらいなら、大丈夫だね」

「じょ、冗談……はい、冗談です……精一杯の……」

 穆清は赤い顔のまま、指の隙間から書文を見た。

 みんながこれを「異文化ギャップによる高度なジョーク」として受け取ってくれたことに感謝しつつ、彼女の胸の奥には、ほんのりと甘い余韻が残っていた。

「妻は一人だけ」。

 その言葉が、彼女の嫉妬をきれいに拭い去っていた。



 放課後の夕暮れ。

 茜色に染まる通学路を抜け、四人の姿は白家のリビングにあった。

 書文、穆清、祈。

 そして、仕事の合間を縫って駆けつけた衛佳だ。

 彼女は高級そうなスーツに身を包み、手土産のケーキの箱をテーブルに置きながら優雅に微笑んだ。

「学校生活、お疲れ様。大きなトラブルはなかったみたいで安心したわ」

「いや、トラブルというか……僕の心臓がいくつあっても足りないようなことはありましたが」

 書文が苦笑いしながらコーヒーを淹れる。

「でも、クラスには馴染めたみたいね。穆清ちゃん、顔色が良くなったわ」

 衛佳の言葉に、穆清は恥ずかしそうに頷いた。

「はい。皆さまのおかげで……こちらの世界のしきたりにも、少しずつ慣れてまいりました。側室制度がないことも学びましたし」

「そ、それはもう言わなくていいから!」

 書文が慌てて遮る。

 テーブルを囲んで、これからの生活についての「作戦会議」が始まった。

 表向きの議題は、穆清の学習計画や、身分証明書の扱い、そしてもし「故郷の追っ手(という設定の借金取りなど)」が現れた時の対処法についてだ。

「基本的には、一人で出歩かないこと。登下校は必ず白くんか祈ちゃんと一緒に」

 衛佳がテキパキと指示を出す。

「もし怪しい人を見かけたら、すぐに私か祈に連絡して。私の父……お父さんのコネクションも使えるから、警察より早く動ける場合もあるわ」

「心強いです。本当にありがとうございます」

 和やかな空気の中で、祈だけはケーキのフォークを口に運びながら、鋭い視線を窓の外へ向けていた。

(……やっぱり)

 彼女の感覚は捉えていた。

 昨日から感じる、粘つくような視線。

 それは特定の場所からではなく、街全体から滲み出ているような、奇妙な圧迫感だ。

 それに加えて、張った「結界」――科学的な監視妨害装置と、彼が独自のオカルト的な術式を組み合わせた防壁に、微かな干渉の痕跡がある。

 まるで、誰かが指先で扉の鍵穴を探っているような、慎重で不気味な接触。

(普通じゃないわね。ただの借金取りやヤクザじゃない。……もっと異質な「何か」が動いてる)

 だが、彼は視線を戻すと、務めて明るい笑顔を作った。

「ま、ボディーガードの件は僕に任せときなって!バイクの機動力なめないでよね」

「頼りにしてるよ、林さん」

 書文が笑う。

 祈は、まだ何も言わないことにした。

 今、この不安を口にすれば、せっかく学校に馴染み始めた穆清を萎縮させてしまう。

 それに、敵の正体も目的も分からない状態で騒ぎ立てるのは得策ではない。

(僕が食い止める。……あんたたちの「青春」は、壊させないよ)

 ショートケーキの苺を頬張りながら、祈は密かに拳を握りしめた。

 甘いクリームの味の裏側で、鉄の味がするような戦いの予感が、静かに膨れ上がっていた。



 リビングでの穏やかな空気が夜の闇に溶けていくのと対照的に、普通に見えるビルの中では、冷徹な人工光が煌々と輝き続けていた。

 研究施設「西安先進技術研究所」。

 空調の駆動音と、サーバーの排気音だけが支配する無機質な空間。

 その中央にあるデスクで、魏哲は一人、データ端末の画面に見入っていた。

 青白い光が、彼の眼鏡のレンズに反射している。

 画面を流れるのは、白家の周囲に張り巡らされた「結界」から採取した観測データだ。空間線量の異常な歪み、局所的な重力変動、そして特定波長の遮断率。それらの数値を元に構築された解析グラフは、緩やかではあるが、確実に「正解コア」へと近づく曲線を描いていた。

「……美しい」

 彼はふと、独り言を漏らした。

 求めていたのは、この抵抗だ。ただの物理的な障壁ではない。意思を持ったかのように外部の干渉を拒絶する、未知のテクノロジー。あるいは、未知の「術理」。それを一枚一枚、外科医が皮膚を剥ぐように解き明かしていく快感。

 彼は一度、端末をデスクに伏せた。

 白衣のポケットから、一冊の分厚いハードカバーを取り出す。

『優生学と遺伝子工学の倫理的境界』。

 表紙にはそんなタイトルが記されているが、彼にとってそれは倫理を学ぶためのものではなく、乗り越えるべき「古い境界線」を確認するための地図のようなものだった。

 彼は何気なくページを開く。

 そこには、ヨーゼフ・メンゲレの写真が挟まれていた。

 柔和な微笑みを浮かべているが、その双眸はどこまでも冷たく、深い理知と狂気を宿している。

 魏哲はその写真を数秒間、愛おしげに見つめた。

「先輩、聞こえますか? 研究が順調に進めてそうですよ」

 彼は満足げに目を閉じ、写真の挟まった本をデスクの上に置いた。

 そして、革張りの椅子をゆっくりと回しながら、口笛のように唇を尖らせた。

「Auf der Heide blüht ein kleines Blümelein……(荒野に小さな花が咲いている)」

「Und das heißt……(その名は)」

 微かに漏れ出した旋律は、「エリカ」。

 軽快なマーチのリズムが、冷え切った研究室の空気に不気味に響き渡る。

「……Erikaエリカ

 最後の一節を口ずさみ、彼は薄く笑った。その笑顔は、メスを握る前の外科医のように、期待と血の予感に満ちていた。



 一方、地上のどこか。

 都市の喧騒に紛れた安アパートの一室には、重苦しい焦燥感が沈殿していた。

「クソッ……また空振りか」

 王健が、コンビニエンスストアの廃棄弁当を鷲掴みにしながら唸った。

 その屈強な肉体には、サイズの合わない警備員の制服が窮屈そうに張り付いている。

 深夜の巡回警備。それが彼の今の「仮の姿」だった。誇り高き漢の将兵が、現代のビルを守るために懐中電灯を持って歩き回る。その屈辱に耐えながら、彼は目を血走らせてスマートフォンを睨んでいた。

「監視カメラの映像にも、交通系ICカードの履歴にも、奴らの痕跡がない……。魔法のように消え失せたわけではあるまい」

「GPSの誤差範囲をしらみつぶしにするしかないわね」

 李娜りなが、疲れた顔で化粧を落としながら言った。彼女もまた、深夜のファミレスでの過酷なシフトを終えて帰ってきたばかりだ。

 指先は荒れ、足はむくんでいる。現代社会の労働という鎖が、彼女の捜索活動を物理的に縛り付けていた。

 そして、部屋の隅では。

 巨漢の張勇ちょうゆうが、工事現場のヘルメットを枕元に置き、死んだように眠っていた。日中の肉体労働で消耗しきっているのだ。だが、その寝言には明確な殺意が滲んでいた。

「……逃がさん……首を……」

 ターゲットを見失った焦り。

 生活という名の泥沼。

 そして、確実にすり減っていく時間と体力。

 だが、それらが彼らの執念を鈍らせることはない。むしろ、追い詰められた獣のように、その牙はより鋭く、より残酷に研ぎ澄まされつつあった。

「待っていろ、劉家の小娘……」

 王健は箸をへし折るように握りしめ、暗い窓の外、西安の夜景を睨みつけた。

「この街のどこにいようと、必ず引きずり出してやる。貴様の血で、俺たちの誇りをすすぐまでは……終わらんぞ」


 地下深くで進行する、冷徹な科学のメス。

 地上で燻る、復讐者たちのどす黒い執念。

 二つの危機は、まだ気づかれていない闇の中で、静かに、しかし確実に、ささやかな「青春」を噛み砕くために動き出していた。

ここまで読んでくださりありがとうございます!

恋と嫉妬、そして「正妻宣言」まで飛び出した穆清。

次回は、二人の関係にさらなる波乱が…?

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