弐 現代(いま)という名の異国
ご閲覧ありがとうございます。
前回、空から降ってきた皇女・穆清。
今回は彼女の過去と、現代での戸惑い、そして「守りたい」という書文の心の変化に焦点を当てます。
歴史要素も少しずつ増えていきますので、歴史好きの方もぜひお楽しみください。
部屋に漂う空気は、一分ごとに重さを増していくようだった。
蛍光灯の白い明かりが、劉穆清の青白い横顔を無機質に照らし出している。
ここは現代の西安、白書文の狭い自室。壁に貼られたポスターや乱雑に積まれた参考書が、この場の緊迫感とはあまりに不釣り合いな日常を主張している。
しかし、その中央で膝を抱える少女の纏う空気だけが、遥か二千年の時を超えた深淵な闇を帯びていた。
「……穆清様」
姜衛佳が、再び古風な韻律を帯びた言葉で静かに問いかけた。その声音は、傷ついた小鳥に触れるように慎重だ。
「我々に話していただけませんか。貴女がここへ来る直前……長安で何が起きたのか。そうすれば、我々も貴女を護る手立てを考えられます」
穆清はゆっくりと顔を上げた。
黒曜石のような瞳が、焦点の合わない虚空を見つめる。
彼女の唇が震え、掠れた声が紡がれる。それは書文の耳には異国の呪文のようにしか聞こえないが、その旋律には深い悲愴が滲んでいた。
「……そうじゃな。語らねばなるまい……」
衛佳が短く頷き、書文と祈に向かって視線を送る。
「通訳するわ。……彼女は今、記憶の扉を開こうとしている」
穆清が瞳を閉じた瞬間、まるで部屋の空気が一変した。
白書文の視界から現代の家具が消え失せ、代わりに伽羅の香りと、血と酒の匂いが混じり合った、重厚で冷酷な宮殿の幻影が立ち上るような錯覚を覚えた。
記憶の底にある最初の風景は、宮廷にあるはずの暖かな陽だまりのような黄金色ではなかった。
そこは、常に張り詰めた静寂と、底冷えする空気が支配する、未央宮の回廊だった。宮廷の色彩は、私が物心ついた時から、既に凍りついたような鈍色に変わっていた。
父上は、私に会いに来ることはほとんどなかった。
偶にお見かけしても、その姿は魂を失った人形のようだった。天下を統べる皇帝でありながら、その瞳には権力者特有の覇気よりも、何か恐ろしいものを映し出す、虚ろな恐怖が宿っていた。
『私は……私はもう、母上の子ではない』
父が震える手で酒杯を煽る姿。それが、私が見た父上の、最も鮮明な姿だった。
酒の匂いと、嘔吐の匂い。そして、父上が遠い昔に味わった絶望の匂い。
私の実の母親は、なぜか傍にはいなかった。そして、私が「母上」と呼ばなければならなかった皇后様は、一度も私に笑顔を見せてくれたことがなかった。
宮殿は、愛も温もりもない、巨大な墓標だった。
だが、その鈍色の世界にも、小さな光はあった。
唯一、私に温かさを与えてくれたのは、乳母と、口数の少ない宦官のおじいさんだけだった。
乳母は、お祖母様の耳を恐れて、私を抱きしめることは少なかったが、私を寝台に寝かせるとき、そっと額に触れる手のひらの温もりが、私がこの世で知る唯一の「母の愛」だった。
そして、宦官のおじいさんは、遠い日の出来事を、時折、寂しそうに囁いた。
『如意さまは、優しくて、勇気のある若様でいらっしゃった』
『高祖様がおわした頃は、宮中も陽だまりのような温かさに満ちていたのに……』
私が会ったことのない趙王・劉如意は、私にとって「父上を壊し、温もりを奪った、祖母の狂気が始まる前の最後の希望」を象徴する、物語上の英雄となった。
その父もまた、徐々にその深淵に自ら身を投げるようにして崩御された。
残されたのは、絶対的な権力を握った祖母・呂太后と、恐怖に震える私たち劉氏一族の子供たちだけ。
「それからの日々は……、息をしていても、生きた心地はしなかった」
穆清の声が震え、衛佳の通訳もまた、沈痛な色を帯びる。
私は見た。弟たちが、次々と「皇帝」という名の玉座に据えられ、そして用済みとなれば、無慈悲に闇に葬られていく様を。
前少帝、後少帝。
彼らは祖母の操り人形に過ぎなかった。少しでも自我を見せれば廃され、闇の底へ突き落とされる。
私もまた、いつ祖母の気まぐれで殺されるか分からない。あるいは、どこかの誰かに政略の道具として売られるのか。
夜ごと、寝台の中で震えながら、私は乳母と、物語の中の如意叔父様、そして顔も知らぬ亡き母上を呼んだ。
誰からも愛されず、存在すら肯定してもらえなかった私。
ただその名だけが、私が人間でい続けるための、唯一のよすがだった。
「……あの夜、余はお祖母様の亡き後、呂氏一族の当主である呂産叔父様に呼び出されました」
穆清の双眸は虚空を見つめ、まるでそこに二千年前の長安の闇を映し出しているかのように、低く、静かに語り始めた。
「『未央宮へ参れ』と。ただ一言、そう命じられたのです」
記憶の中で、車輪が石畳を叩く音が蘇る。
誰もが寝静まった深夜、豪奢だが不気味なほど静まり返った牛車に押し込められた。護衛の兵と、数人の侍女だけを連れた奇妙な行列。宮中が不穏な空気に包まれていることは、部屋に閉じ込められていた私ですら肌で感じていた。
呂氏の血を引く者を根絶やしにしようとする動きと、それを迎え撃とうとする呂氏一族の焦り。
(……ああ、とうとうその時が来たのか)
揺れる牛車の中で、私は冷めた頭で考えていた。
未央宮へ行けということは、おそらく皇帝――私の弟である少帝の元へ行き、何らかの命を受けるか、あるいは……。
有力な諸侯への手土産。
政略の駒。
呂氏の権力を繋ぎ止めるための、ただの人身御供。
父上が死に、私を守ってくれる者はもういない。私はただの「劉氏の血を引く呂氏の道具」でしかないのだ。
恐怖よりも先に、鉛のような諦観が胸を満たしていた。どうせ抗うことなどできぬ。この身がどこへ売られようと、心が死んでいるのなら同じことだ。
だが、運命は私が想像していた「政略の犠牲」よりも、遥かに無慈悲で、鮮烈な形で牙を剥いた。
「行列が……長安の通りを抜けた時でした。不意に、風を裂く音がしたのです」
ヒュンッ、という鋭い音が空気を切り裂き、次の瞬間、牛車の御者の喉に矢が突き刺さった。
悲鳴を上げる間もなく、御者はどうとしめやかに崩れ落ちる。
それを合図に、闇の中から無数の黒い影が湧き出した。
『呂氏の残党だ! 一人も生かして帰すな!』
『女もだ! 皇族の血を一滴たりとも残すな!』
怒号。
襲撃者たちは、父の旧臣たちだったのか、それとも斉王の兵だったのか。
護衛の兵たちは応戦したが、多勢に無勢だった。
牛車の御簾が乱暴に引き裂かれ、私は外へと引きずり出された。
「……逃げてください! 穆清様!」
幼い頃から私に仕えてくれた侍女の春蘭が、私を庇うように前に立ちはだかった。
いつも私の髪を梳き、震える夜には手を握ってくれた、姉のように慕っていた春蘭。
だが、白刃がきらめくと同時に、彼女の身体は糸の切れた人形のように崩れた。
鮮血が、私の頬に飛び散る。
生温かい、鉄の臭い。
「春……蘭……?」
私の目の前で、一人、また一人。
親しい者たちが、私を守ろうとした者たちが、肉塊へと変わっていく。
悲鳴さえ凍りつき、喉から出なかった。
私は裾を乱し、転がるようにして逃げた。
どこへ? どこへ行けばいい?
宮殿はすでに炎に包まれているかもしれない。長安の街全体が、私たちを殺そうとする巨大な処刑場と化している。
息が切れ、肺が焼けつくように痛い。
血で濡れた石畳に足を取られ、何度も転び、それでも這うようにして路地の奥へと逃げ込んだ。
しかし、そこは袋小路だった。
背後には冷たい石壁。前方からは、血に濡れた剣を提げた兵士たちが、獲物を追い詰めた獣のような笑みを浮かべて迫ってくる。
『見つけたぞ、皇女だ』
『首を跳ねろ。恩賞ものだぞ』
男たちが、じりじりと間合いを詰めてくる。
殺気と、死臭と、そして下卑た欲望の視線。
逃げ場はない。
助けも来ない。
(……ああ、もういい)
極限の恐怖の果てに、私の心にふっと静寂が訪れた。
こんなにも酷い世界なら。
親しい者たちが皆殺され、私一人が生き恥を晒し、道具として利用されるだけの人生なら。
ここで終わるのも、悪くはない。
むしろ、これこそが私が望んでいた安らぎなのかもしれない。
『観念しろ!』
兵士の一人が大きく剣を振りかぶった。
月光を反射して、銀色の刃が美しい弧を描く。
私は目を閉じた。父上、母上、みんな、今そちらへ参ります。
潔く、その刃を受け入れようとした、その瞬間――。
「……世界に、穴が開いたのです」
私の背中、冷たい石壁があるはずの場所に、突然「無」が現れた。
音もなく。前触れもなく。
漆黒の、渦を巻くような空間の亀裂。
振り下ろされる剣よりも速く、凄まじい引力が私を後ろへと引っ張り込んだ。
「私は……抵抗しませんでした。あの男たちに殺されるくらいなら、この得体の知れない闇に飲み込まれて消滅したほうが、よほどましだと思ったのです」
死への恐怖よりも、生への絶望が勝った瞬間。
私は自ら、その穴へと身を委ねた。
視界が闇に塗りつぶされ、感覚が引き伸ばされ、身体が千切れるような浮遊感に包まれる。
それが、私の最後の記憶。
「……そして、目が覚めたら、あの寝台の上に落ちていたのです」
穆清の長い独白が終わった。
部屋は水を打ったような静寂に沈んでいた。
彼女は膝を抱え直し、小さく身を震わせている。
「此処は異界か、それとも黄泉の国か……。いずれにせよ、私の居場所など、もう何処にもない……」
それは単なる同情や憐憫では埋められない、あまりに壮絶で救いのない「過去」の重みだった。
衛佳が通訳を終え、その場に深いため息をついた。
「……これが、彼女の『真実』よ。教科書には『呂氏の乱の後、文帝が即位して平和が戻った』としか書かれていない。けれど、その行間には、一掃された『前皇帝の子供たち』の悲劇があった」
白書文は、言葉を失っていた。
喉の奥が熱く、痛い。
数時間前、自分がスマホで撮影し、「バズるための駒」として見ていた少女。
彼女は、単なる「可愛いコスプレイヤー」でも「異世界からの客人」というファンタジーな存在でもなかった。
権力という巨大な暴力にすり潰され、愛する家族を惨殺され、信じていた家臣に裏切られ、命からがら逃げ延びてきた、生身の、傷だらけの人間だったのだ。
(僕は……なんて愚かなことを……)
如意を失って壊れた恵帝の話。
操り人形として殺されていった兄弟たち。
彼女の背負っている地獄の深さは、平和な現代で「いいね」の数に一喜一憂している自分の想像を絶するものだった。
書文の中で、何かが音を立てて砕け散った。
それは、彼を支配していた軽薄な承認欲求の外殻だったかもしれない。
殻が割れた後、そこから溢れ出したのは、熱く、切実な「庇護欲」だった。
有名になりたいんじゃない。自慢したいんじゃない。
目の前で震えるこの少女を――この、歴史の狭間に置き去りにされた孤独な魂を、なんとしても守りたい。
書文は拳を握りしめ、穆清を見つめた。
言葉は通じない。それでも、伝えなければならない。自分は、あの冷酷な兵士たちとは違うのだと。
彼はゆっくりと一歩踏み出し、床に膝をついた。穆清の視線の高さに合わせるように。
そして、言葉で、しかし万感の思いを込めて言った。
「大丈夫です。……もう、誰もあなたを傷つけさせない」
衛佳がハッとして書文を見、そして優しく微笑んだ。
彼女は素早く、その誓いの言葉を穆清に伝える。
『安心なされよ。この者は誓った。二度と貴女を傷つける者は現れぬと』
穆清がおずおずと顔を上げる。
その瞳に溜まっていた涙が、一粒、頬を伝って落ちた。
彼女はまだ信じきれていない様子だったが、それでも書文の真剣な眼差しから目を逸らすことはなかった。
日暮れる静寂の中で、一つの運命が、静かに、しかし確実に動き出していた。
だが彼らはまだ知らない。
この部屋のすぐ外側、電子の海の向こう側から、すでに「狩人」たちの魔の手が音もなく忍び寄っていることを。
部屋に沈黙が戻ったのは、穆清の嗚咽が静まった頃だった。
「ここは法治国家だ。軍隊が押し寄せてくるなんてことはない。とりあえずは安心していい」
衛佳もすぐに頷き、柔らかな笑みを浮かべた。
「そうね。祈が言うなら間違いないわ。まずは落ち着きましょう。……穆清様も、今は身体を休めることが先決です」
衛佳が流暢な古語で伝えると、穆清の肩から力が抜けた。張り詰めていた糸が緩んだように、彼女は深く吐息をついた。
「さて」
衛佳がパンと手を叩き、場の空気を切り替える。
「次はご両親への説明ね。白くん、下に降りましょう。ここからは私の独壇場よ」
彼女の瞳が、悪戯っぽく、しかし頼もしく輝いた。
一階のリビングでは、テレビのニュース番組が流れるのどかな日常が広がっていた。
書文の父・白建文と母・李静は、突然の来客――しかも生徒会長と副会長というVIPの登場に少し緊張しつつも、興味津々の様子で待ち構えていた。
衛佳は穆清の背中を優しく支えながら、リビングへと足を踏み入れた。
「あらあら、まあ! なんて可愛らしいお嬢さん!」
李静が目を丸くする。穆清の、泥汚れこそあるものの隠しきれない高貴な顔立ちと、見事な刺繍の漢服に目を奪われたのだ。
穆清は怯えたように衛佳の後ろに隠れようとしたが、衛佳がすかさず口を開いた。完璧な標準語、完璧な笑顔。そこには一点の曇りもない「模範的な生徒会長」がいた。
「おじ様、おば様、突然のご相談で申し訳ありません。……実はこちらの劉さん、日本からの留学生なんです」
「えっ、日本から?」
書文は心の中で(そう来たか!)と叫んだ。言葉が通じない理由を「外国人」で押し通すつもりだ。
「はい。彼女、ご実家が日本の旧家でして、中国の歴史や漢文化に並々ならぬ情熱を持っていらっしゃるんです。この漢服も、ご自身の研究のために特注されたもので」
衛佳のスラスラと流れるような嘘に、両親は「へえ~」と感心した声を上げる。
「ただ……少しご家庭の事情が複雑でして。急遽、予定していたホームステイ先がキャンセルになってしまい、行き場を失ってしまったのです。言葉もまだ不慣れで、ひどく心細い思いをされておりまして……」
衛佳は芝居がかった悲しげな色を目に浮かべ、穆清の細い肩を抱いた。
「そこで、誠実で面倒見の良い白くんのご家庭なら、安心して彼女をお預けできるのではないかと、私が無理をお願いして連れてきた次第なのです」
完璧だった。
「文化好き」「家庭の事情」「困っている外国人」。善良な市民の良心をくすぐるキーワードの連打だ。
建文が頷き、李静の母性本能に火がついたのは一瞬だった。
「まあ、それは大変だったわねぇ……。こんなに小さくて可愛い子が、異国の地で一人なんて」
李静は穆清に歩み寄り、その手を取った。穆清はビクリとしたが、李静の手の温かさに驚いたように目を見開く。
「うちは狭い家だけど、部屋ならちょうど一つ空いてるのよ。お父さんの書斎にするつもりだったけど、まだ物置だしねぇ?」
「ああ、構わんよ。こんな優秀な先輩たちの頼みだ、断る理由がない。それに、国際交流はいいことだ」
建文も豪快に笑って承諾した。
(ちょろい……いや、衛佳先輩が凄すぎるんだ)
書文は、あまりにトントン拍子に進む展開に呆れつつも、心の底から安堵のため息をついた。これで、最悪の事態――警察沙汰や追い出し――は回避できた。
「ありがとうございます! 白くん、案内してあげて」
衛佳に促され、書文は二階の空き部屋へと穆清を連れて行った。
誰も使っていない六畳ほどの部屋。今は古いタンスと段ボールが積まれただけの殺風景な空間だが、雨風をしのぐには十分すぎる。
「ここが……余の、閨か?」
穆清がポツリと、聞き取れない言葉で呟く。衛佳がすかさず通訳する。
「『ここが私の部屋ですか』って。気に入ったみたいよ」
穆清はおずおずと部屋の中へ入り、壁のクロスやカーテンの感触を確かめるように触れた。長安の宮殿とは比べ物にならないほど狭く、装飾もない。だが、ここには「安全」がある。
「劉さん、疲れたでしょう?」
後から追ってきた李静が、タオルの束と着替えのスウェットを抱えて顔を出した。
「お風呂、沸いてるわよ。さっぱりしてらっしゃい。使い方は私が教えるから」
母の明るい声に、穆清はキョトンとして衛佳を見る。
「『身を清める場所へ案内する』と言っているわ。行ってらっしゃい」
衛佳に背中を押され、穆清は李静に連れられて廊下へと消えた。
浴室のドアが閉まる音がした。
「じゃあ、服を脱いでね。ここは籠に入れて……」
李静の声がドア越しに聞こえる。
穆清は言葉が分からないながらも意味を受け取れている。言われるがまま、重い絹の帯を解いた。幾重にも重ねられた衣が、一枚、また一枚と床に落ちる。
豪奢な漢服の下から現れたのは、驚くほど白く、そして痛々しいほどに華奢な肢体だった。
肋骨が浮き出るほど痩せた体躯。腕や足には、逃走の際についたと思われる無数の擦り傷と、古い痣のような痕跡が刻まれている。
「まあ……随分と痩せて……苦労したのねぇ」
李静の悲しげな呟きは、穆清には意味が分からなかったが、その声色の優しさだけは伝わった。
李静が出て行き、一人になった浴室で、穆清は立ち尽くした。
そこは、彼女の知る「湯殿」とは何もかもが違っていた。
壁も床も、目の眩むような純白のタイルで覆われている。天井には太陽を閉じ込めたような眩い光(LED照明)が埋め込まれ、夜だというのに昼間のように明るい。ろうそくの揺らぐ薄暗い明かりしか知らぬ彼女にとって、影のない空間はそれだけで異界だった。
そして、彼女の視線が壁の一点に釘付けになる。
「……っ!」
息を呑み、思わず後ずさる。
そこには、向こう側にもう一人の「自分」が立っていた。
銅鏡などではない。
曇り一つなく、歪み一つない、恐ろしいほど鮮明な「鏡」。
穆清は恐る恐る手を伸ばし、鏡の中の自分に触れた。冷たく、硬い感触。
映っているのは、疲れ果て、髪を振り乱し、垢に塗れたみすぼらしい少女。
(これが……今の余の姿か)
宮殿の磨き上げられた銅鏡でも、これほど残酷なまでに明瞭に己を映し出したことはなかった。目元の隈、唇の渇き、そして瞳の奥にある怯えまでもが、容赦なく暴かれている。
「姫」と呼ばれ、「皇族」として傅かれた自分の、あまりに惨めな現実。
しかし同時に、その鮮明さは、自分が確かに今ここに「生きている」ことを証明しているようでもあった。
彼女はおずおずと浴槽に近づいた。
なみなみと張られた湯から、温かな湯気が立ち上っている。
李静が教えてくれた通りに、壁の突起(蛇口)をひねってみる。
――ザアアアアッ!
「ひっ!?」
勢いよくほとばしる湯に、穆清は悲鳴を上げて飛び退いた。
水が、生き物のように壁から吹き出してくる。なんと奇妙で、恐ろしい仕掛けなのか。
だが、恐る恐るその湯に指先を触れると、心地よい熱さが指先から全身へと伝わってきた。
「……温かい」
長安の逃避行で、芯まで冷え切っていた身体が、その熱を求めて震えた。
彼女はゆっくりと、湯船に身を沈めた。
たっぷりの湯が、痩せた身体を優しく包み込む。浮力が重力から彼女を解放し、こわばっていた筋肉が一つずつ解けていく。
「…………ふぅ」
自然と、深く長い吐息が漏れた。
いつ以来だろうか。こんなにも無防備に、温かい湯に浸かったのは。
父が生きていた頃、まだ宮殿が笑い声に満ちていた頃以来かもしれない。
湯気の向こう、天井の眩しい光を見上げながら、穆清は思った。
ここは異界だが、地獄ではないのかもしれない。
「白……書文……」
あの少年が、ぎこちない手つきでパンを差し出し、必死に何かを伝えようとしていた姿を思い出す。
そして、先ほど彼がひざまずき、真っ直ぐな瞳で告げた、分からないはずの言葉。
意味は分からなかったが、心臓の鼓動が伝わってくるような、熱い言葉だった。
湯の温もりが、彼の不器用な優しさと重なる。
鏡の中の少女の頬に、湯気とは違う、一筋の雫が伝った。
彼女は膝を抱え、温かい水の中で小さく丸まった。まるで、再び生まれ直すための胎児のように。
リビングルームの空気は、先ほどまでの緊迫感が嘘のように和らいでいた。
浴室から聞こえてくるシャワーの音が、この家に新しい住人が加わったという非現実的な事実を、日常の生活音として溶け込ませている。
「それじゃあ、私たちはこれで失礼します」
林祈がスマートフォンの時計を確認し、白書文の両親に向かって一礼した。その所作は洗練されており、高校生とは思えない落ち着きがある。
「ええ、もうこんな時間。長居してしまってすみません」
姜衛佳もまた、完璧な笑顔を崩さずに頭を下げる。
「あら、もう帰っちゃうの? せっかくだから夕飯でも食べていけばいいのに」
李静が名残惜しそうに言うが、衛佳はやんわりと、しかし固辞した。
「お気遣いありがとうございます。でも、明日の生徒会の準備がまだ残っていますので。……劉さんのこと、どうかよろしくお願いします」
「ええ、任せておいて。あの子、本当に大変な思いをしてきたんでしょう? ちゃんと面倒見るわよ」
この善良な母親は、完全に衛佳の作った「ストーリー」を信じ切っている。書文は内心で冷や汗をかきつつも、二人の先輩の手腕に改めて舌を巻いた。
「書文、お見送りしてきなさい」
白建文に促され、書文は二人を玄関の外まで見送った。
重厚な鉄のドアが閉まり、夜の冷たい外気が肌を打つ。家の中の温かさが遮断された瞬間、あたりは静寂に包まれた。
街灯の明かりが、三人の影をアスファルトに長く伸ばしている。
「……姜先輩、林先輩。本当に、ありがとうございました」
書文は深々と頭を下げた。言葉では尽くせないほどの感謝だった。もし彼らがいなければ、今頃自分はどうなっていたか想像もつかない。穆清を通報していたか、あるいは親に問い詰められてパニックになっていただろう。
「気にしなくていいよ、白くん。困ったしくはお互い様……って言うには、ちょっと事態が大きすぎるけどね」
衛佳がふっと笑い、緊張をほぐすように言った。
「でも、これからが本番だよ。言葉の壁はあるし、戸籍の問題もある。君のご両親を騙し続けるのも、いつかは限界が来る。……覚悟はしておいてね」
その言葉の重みに、書文は顔を上げた。
「はい。……僕が、彼女を守ります。最初は……恥ずかしい話ですけど、ちょっと有名になりたいとか、そんな馬鹿なことを考えてました。でも、あの子の話を聞いたら……そんなこと、どうでもよくなりました」
彼の言葉には、数時間前にはなかった芯が通っていた。
「いい顔になったな」
それまで黙っていた祈が、短く言った。
「何かあったら、昼夜問わず連絡しろ。俺たちがバックアップする」
「はい!」
書文が家の中に戻り、再びドアが閉まる音を確認してから、祈と衛佳は歩き出した。
カツ、カツ、と二人の足音だけが夜の住宅街に響く。
先ほどまでの「理想的な先輩」としての柔和な表情は、暗闇に溶けるように消え失せていた。
二人の周囲に漂うのは、戦場に向かう兵士のような、研ぎ澄まされた警戒色だ。
「……気づいているか、祈」
衛佳が声のトーンを落として囁く。
「ああ」
祈は足を止め、鋭い視線で夜空を見上げた。
そこには何の変哲もない星空と、電線が張り巡らされているだけに見える。だが、彼らの「視界」には別のものが映っていた。
粘着質な視線。
電子の網。
何者かが、このエリア全体を――いや、正確には白書文の家を、執拗に探っている気配。
「科学の臭いがするな。……それも、かなり質の悪いやつだ」
祈が嫌悪感を隠さずに吐き捨てる。
「あの子の写真、SNSに上がってたって言ってたもん音ね。デジタルの痕跡を辿って、嗅ぎまわっている鮫がいる」
衛佳はため息をつき、自分の長い髪をかき上げた。
「一般人のセキュリティじゃ、奴らの目は誤魔化せない。……祈、やる?」
「当然だ」
祈は無造作にポケットから片手を出し、白書文の家の方角へと向けた。
その指先が、微かに蒼白く発光する。現代科学では説明のつかない、魔術的な光の揺らぎ。
彼は空中に複雑な幾何学模様を描くように指を走らせた。
「――『界』、展開」
低く、呪文のような言葉が紡がれる。
瞬間、書文の家を包み込むように、薄い膜のようなドームが一瞬だけ顕現し、すぐに空気と同化して見えなくなった。
「認識阻害と、電子的な座標の撹乱を施した。これでしばらくは、外部からの『観測』はノイズに紛れるはずだ」
「さすが。……でも、あくまで時間稼ぎね。直接乗り込んでこられたら、防ぎきれない」
「その時は、俺たちが動く」
祈は冷徹に言い放ち、再び歩き出した。
「行くぞ。俺たちも準備が必要だ。……あの子が連れてきた『因果』は、俺たちが思っているよりずっと深いかもしれない」
二人の影が、夜の闇へと溶けていく。
白書文の家の窓からは、温かな光が漏れていた。その光が、迫りくる巨大な闇に飲み込まれないよう、見えない盾が静かに守り続けていた。
最後までお付き合いくださり感謝です!
穆清の過去、そして現代での「家族」との出会い。
次回は、現代社会に馴染もうと奮闘する皇女の日常が描かれます。
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