後日譚其の陸 皇女、母になる
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いよいよ後日譚もクライマックス。
今回は、穆清が「母」となり、新しい命が誕生します。
家族の幸せ、そして未来への希望を描きます。
沖縄の青い海と白い砂浜が、早くも遠い夢のように感じられるほど、季節は足早に過ぎ去っていった。
ハネムーンから数週間。西安の街は、深まる秋の気配と共に、いつもの喧騒を取り戻していた。
白書文の日常は、以前にも増して忙しさを極めていた。
「西安の土を掘れば歴史に当たる」と言われるこの土地で、考古学者が失業する心配はない。むしろ、地下鉄工事や都市開発のたびに新たな遺跡が見つかり、彼の携帯は博物館と現場からの連絡で鳴り止むことがなかった。
一方、劉穆清もまた、充実した日々を送っていた。
彼女が開講した「古風文化教室」は、またたく間に口コミで広がり、予約の取れない人気講座となっていた。
当初は漢服ブームに乗った古風好きの若者が中心だったが、穆清が教える作法の美しさ、古典文学への深い造詣、そして何より彼女自身が醸し出す「本物」の気品に魅せられ、今では主婦層や定年後のシニア世代までもが生徒として通い詰めていた。
かつて深窓の皇女として閉ざされた世界にいた彼女は今、二千年の時を超えた文化の伝道師として、現代社会の中で確かに自分の居場所を見つけていた。
そんな順風満帆な日々に、小さな、しかし劇的な波紋が広がったのは、文化教室が休講となる火曜日のことだった。
「お義母様、その洗濯物は私が干します」
「あら、いいのよ穆清ちゃん。今日は休みなんだからゆっくりしていなさい」
「いいえ、体を動かしている方が落ち着くのです」
白家のリビングには、穏やかな午前の光が差し込んでいた。
穆清は袖をまくり、李静と共に家事をこなしていた。現代の家電製品にもすっかり慣れ、今ではロボット掃除機と会話するほどの余裕さえある。
李静がキッチンで昼食の準備を始めたときだった。
「今日は魚の甘酢あんかけにするわね。新鮮な鯉が手に入ったの」
ジューッという音と共に、中華鍋から甘酸っぱい香りと油の匂いが立ち昇る。
その瞬間だった。
「うっ……!」
穆清の表情が凍りついた。
いつもなら食欲をそそるはずのその匂いが、突然、耐え難い悪臭のように感じられ、胃の腑を強烈に突き上げたのだ。
「穆清ちゃん? どうしたの?」
李静が振り返ると、そこには口元を押さえ、壁に手をついて必死に何かを堪えている穆清の姿があった。顔からは血の気が失せ、真っ青になっている。
「えっ、穆清ちゃん!?」
「す、すみません……急に、胸が……うぷっ……」
穆清は言葉を続けられず、そのまま洗面所へと駆け込んだ。
中から聞こえる苦しげな嗚咽。
李静は慌ててコンロの火を止め、背中をさすり介抱したが、彼女の脳裏にはある直感が閃いていた。
(この症状……それに、あの拒絶反応……)
母親としての経験、そして女性としての勘が告げられている。
李静はタオルを渡しながら、まだ呼吸の荒い穆清の背中を優しく撫でた。
「穆清ちゃん、もしかして……心当たりはない?」
「え……?」
涙目で振り返る穆清に、李静は確信めいた微笑みを向けた。
「ほら、月のものが遅れてるとか……」
穆清はハッとして、自身の腹部に手を当てた。
「あ……」
長安の宮廷で、乳母や女官たちが噂していた話を思い出す。それは、女性の体に訪れる、最も神聖で重大な予兆。
「まさか……私が……?」
「間違いなさそうね。すぐに行きましょう」
李静の行動は早かった。
「え、どこへ……?」
「決まってるでしょ、病院よ! 書文には私が連絡しておくから、あなたはとにかく楽にしてて」
向かった先は、衛佳先輩の父である姜石年院長の病院だ。
突然の来院にも関わらず、院長はすぐに検査の手配を整えてくれた。近代的な検査機器、テキパキと動く看護師たち。穆清にとって病院はまだ少し怖い場所で、過去のトラウマで様々な予防接種は地獄のようなものだったが、李静がずっと手を握っていてくれたおかげで、スムーズに全ての検査を終えることができた。
その日の夜。
遺跡の発掘現場から戻った書文は、玄関を開けた瞬間、奇妙な違和感を覚えた。
「ただいま……」
いつもなら「お帰りなさい、書文様!」と明るい声で出迎えてくれる穆清の姿がない。
リビングの照明は少し落とされ、静まり返っている。
ソファーには、父と母、そして穆清が座っていたが、全員が押し黙り、どこか張り詰めたような、重苦しい空気を纏っていた。
(なんだ……?何かあったのか?)
書文の心臓が早鐘を打ち始めた。
穆清の顔色が少し悪い。うつむいて、膝の上で両手を固く握りしめている。
まさか、病気か? それとも、現代生活のストレスで倒れたのか?
いや、もしかして……彼女の「身元」に関わるようなトラブルが発生したのか?
「どうしたんだ、みんな。……そんなに深刻な顔をして」
書文は努めて明るく振る舞おうとしたが、声が震えるのを隠せなかった。
上着も脱がずにリビングの中央へ進み出る。
「穆清、大丈夫か?顔色が悪いぞ。……何があった?言ってくれ、俺ができることなら何でもするから」
悪い想像ばかりが膨らみ、胃が痛くなる。
沈黙を破ったのは、穆清だった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、書文を真っ直ぐに見つめた。その瞳は揺れ、不安と、それ以上に大きな何らかの感情を湛えていた。
「書文様……。落ち着いて、聞いてください」
その声は儚げで、消え入りそうだった。
書文はゴクリと喉を鳴らし、彼女の前に膝をついて視線を合わせた。
「ああ。聞くよ。何でも」
穆清は一度深く深呼吸をし、意を決したように唇を開いた。
「私のお腹に……宿りました」
「え?」
「貴方様の……赤ちゃんが、できました」
時が、止まった。
書文の思考回路が完全にショートした。
彼の脳内で、「赤ちゃん」「俺の」「できた」という単語がばらばらに飛び跳ね、なかなか一つの意味として結合しない。
赤ちゃん?
ここ数週間の、愛し合った日々。
新しい命。
自分と、穆清の子供。
「…………へ?」
歴史学者の知性などどこへやら、口から出たのは間の抜けた音だけだった。
彼は石像のように固まり、ポカンと穆清の腹部を見つめた。
「もう、何やってんのよ書文!」
耐えきれなくなった李静が、パンと手を叩いて空気を変えた。
先ほどまでの深刻な顔は演技だったのか、今は満面の笑みを浮かべている。
「そこは『本当か!?』って喜ぶところでしょ!パパになるのよ、あんた!」
「そ、そうですぞ書文。わしも……おじいちゃんか。ふーむ、悪くない響きだ」
厳格な父・白建文までもが、新聞で顔を隠しながら目尻を下げている。
家族の笑い声で、ようやく書文の魂が現世に戻ってきた。
現実感が、津波のように押し寄せてくる。
恐怖でも、トラブルでもない。
世界で一番、尊く、温かい奇跡。
「ほ、本当か……? 穆清、本当に……?」
「はい……。お医者様が、そう仰いました」
穆清は恥ずかしそうに、しかし幸せそうに頷く。
「う……うわあああああっ!!」
書文は叫び声を上げると、勢いよく穆清を抱きしめた。
「ありがとう……!ありがとう、穆清……!」
「きゃっ……書文様、苦しいです……」
「ご、ごめん! ……ああ、でも、嬉しい……本当に……」
彼は彼女の背中に顔を埋め、男泣きした。
腕の中にいる愛しい妻。そして、そのお腹に宿る小さな命。
守るべきものが、もう一つ増えたのだ。その重みが、彼を震わせた。
書文の温もりに包まれながら、穆清の目からも涙が溢れ出した。
(ああ……夢のようです)
かつての自分を思う。
漢の皇女として生まれ、政略結婚の道具として育てられ、愛など知らぬまま、戦乱の中で散るはずだった命。
誰もが私の「血筋」や「立場」を見ていた。私という「個」を見てくれる人など、誰もいなかった。
けれど今、この場所で。
私は一人の女性として愛され、愛する人の子を宿し、家族として祝福されている。
かつて胸を焦がした不安――書文様は別の誰かを愛しているのではないか、私などただの重荷なのではないか、いつか捨てられるのではないか――そんな暗い迷いは、朝霧が晴れるように消え失せていた。
(私は、生きていてよかった。……この時代に来て、本当によかった)
穆清は書文の広い背中に腕を回し、強く抱きしめ返した。
彼女の手のひらを通じて、鼓動が伝わる。
二人の心臓が、そして新しい命の鼓動が、確かにここで共鳴している。
「書文様……私、頑張ります。貴方と私の赤ちゃんを、立派に育ててみせます」
「ああ……俺もだ。二人で、世界一幸せな家族になろう」
リビングの柔らかな光の中で、二人はいつまでも寄り添い合っていた。
その姿を、両親が温かく見守っている。
二千年の時を超えた愛は、新しい命という結晶となり、未来へと続いていく。
それはどんな歴史書にも記されていない、けれど世界でたった一つの、最高の物語の始まりだった。
季節が巡り、街路樹が色づく頃、穆清のお腹もまた、ふっくらとその曲線を増していた。
彼女は妊娠中も「古風文化教室」の講師を続けていた。
講義や簡単な所作の指導が中心で、体に負担のかかる重労働ではない。むしろ、家に篭りきりになるよりも、適度に動き、人と触れ合う方が彼女の心身には良いようだった。
だが、変わったことが一つある。
それは、彼女の「通勤風景」だ。
教室へと続く銀杏並木の歩道。
穆清がゆったりと歩を進めるその数メートル後方を、目立たないスーツ姿の男たちが、影のように追随している。
彼らは王健が経営する警備会社から派遣された、選りすぐりの精鋭たちだ。
「穆清様、足元にご注意を」
「段差があります」
すれ違う自転車や、はしゃぎ回る子供たちが近づくと、彼らは壁のように音もなく立ちはだかり、主への動線を確保する。その動きには、現代の警備員というよりは、かつての近衛兵を思わせる無言の威圧と忠誠心が滲んでいた。
これは王健たちの総意だった。
『将軍・白書文は多忙であり、分身の術は使えぬ。ならば、我らが盾となるのみ』
『皇女殿下と、その御身に宿りし若君(あるいは姫君)を守護するは、我ら旧臣の至上の喜び』
彼らにとって、これは単なる業務ではない。二千年の時を超えて再び巡ってきた、聖なる任務なのだ。
穆清も最初は遠慮していたが、彼らの熱意と、何よりお腹の子の安全を思い、その警護を感謝と共に受け入れていた。
教室に入ると、生徒たちの温かな出迎えが待っている。
「先生、おはようございます!」
「あ、先生! 荷物持ちますよ!」
「座布団、二枚重ねにしておきましたからね。冷えは大敵ですから」
生徒たちは、日に日に母性を帯びていく穆清の美しさに、うっとりと見惚れていた。
妊娠してからの彼女は、以前の凛とした美貌に加え、内側から発光するような慈愛と柔らかさを纏っている。
「皆さん、ありがとう。……ふふ、見てください」
穆清は微笑みながら、自身が着ている漢服の袖を広げた。
ゆったりとした曲裾の深衣は、膨らんだお腹を優しく包み込み、決して締め付けることがない。
「漢服の素晴らしいところは、この『寛容さ』です。体型が変わっても、紐の結び位置を少し変えるだけで、美しく着こなすことができます。命を育む女性の体を、決して邪魔しないのですよ」
「へぇーっ! 本当だ、全然苦しくなさそう」
「マタニティウェアとしても優秀なんですね……!」
「先生、聖母様みたい……」
生徒たちは感嘆し、熱心にメモを取る。中には、安産のお守りや、体に良いとされる漢方茶を差し入れてくれる者もいた。
誰もが、この美しい講師と、彼女の新しい家族の幸せを心から願っていた。
一方、夫である白書文にも、密かな「日課」が増えていた。
夜、書斎のパソコンに向かい、一日の終わりにデータを整理する時間だ。
カチッ、カチッ。
マウスを操作し、スマートフォンから転送した写真データを、外付けのハードディスクへと移動させる。
画面に次々と表示されるのは、穆清の姿だ。
初めてデートした時の初々しい笑顔。
結婚式での、息を呑むような花嫁姿。
沖縄の海で見せた、あられもない(といっても健全な)水着姿。
そして最近の、お腹に手を当てて幸せそうに微笑む妊婦姿。
書文のスマートフォンのストレージは、彼女との思い出で埋め尽くされ、既に容量警告が出るほどになっていた。
特に彼の「お気に入り」は、待ち受け画面に設定している一枚だ。
それは先月、街の広場で撮ったものだ。
巨大なクリスマスツリーのイルミネーションを背景に、冬用の厚手の漢服を着て佇む穆清。
現代的なLEDの煌びやかな光と、古典的な装束のコントラスト。
その幻想的な光景の中で、彼女は少し不思議そうに、けれど楽しげに光の粒を見上げていた。
「はあ……可愛い……」
書文は画面の中の愛妻を拡大表示し、にやけた顔で独り言を漏らす。
昔の彼なら、こんな「奇跡の一枚」が撮れれば、即座にSNSにアップして「俺の嫁が尊すぎて辛い」と自慢していただろう。いいねの数は万単位が確実だ。
だが、彼はそれをしない。
写真は全てローカル保存。クラウドサービスへの自動バックアップさえオフにしている。
インターネットという大海原に、彼女のデータを流出させるわけにはいかないからだ。
彼女は「存在してはいけない」皇女。万が一にも、歴史学者や特定班の目に留まり、その正体を探られるようなことがあってはならない。
(この美しさは、俺だけのものだ。世界中の誰にも見せてやるものか)
それは独占欲であり、同時に、夫としての最上級の防衛本能だった。
彼は大事そうにハードディスクを「鍵付き」の引き出しにしまった。これこそが、博物館の国宝よりも貴重な、白家の秘宝なのだ。
リビングから、ドライヤーの音が聞こえてきた。
書文はスマートフォンを手に取り、部屋を出た。
脱衣所には、湯上がりの湿気と、甘いシャンプーの香りが漂っている。
鏡の前で、穆清が長い黒髪を乾かしていた。
ゆったりとしたパジャマ姿。ドライヤーの風に吹かれて、漆黒の髪がサラサラと揺れる。
その横顔は無防備で、とても穏やかだ。
書文は音を立てずに近づき、カメラアプリを立ち上げた。
シャッター音を消すために指でスピーカーを押さえ、パシャリ。
画面に保存されたのは、日常の、けれどかけがえのない一瞬。
髪を乾かす妻と、そのお腹の中にいる小さな命。
「……書文様?」
気配に気づいた穆清が、ドライヤーを止めて振り返った。
少し驚いたような、しかしすぐに柔らかく綻んだ目元。
「また、撮っておいでですか?」
「うん。今の穆清も、すごく綺麗だったから」
「もう……変な顔をしていませんでしたか?」
「してないよ。女神様みたいだった」
書文は近づき、まだ少し温かい彼女の髪に口づけを落とした。
新しいコレクションが、また一つ増えた。
この何気ない幸せを守り抜くこと。それが今の彼にとって、いかなる歴史的発見よりも重要な使命だった。
窓の外を、冬の柔らかな日差しが音もなく通過していく。
乾いた空気が肌を刺す季節だが、床暖房の効いた白家のリビングは、春のように穏やかな温もりに満ちていた。
「ふう……よいしょっと」
ソファに身を沈める動作一つにも、重々しい気配が漂う。
今日、白家を訪れた衛佳の腹部もまた、毬のように大きく膨らんでいた。彼女の出産予定日も、穆清とそう変わらない。
「先輩、その……お体は、大丈夫ですか? とても重そうに見えますが……」
穆清が気遣わしげに尋ねると、衛佳は苦笑して膨らんだお腹をさすった。
「重いわよー。もう、腰が砕けそう。……でもね、不思議と悪くない気分なのよ」
衛佳の表情には、かつて「神農の娘」として数千年の時を渡り歩いてきた超然とした気配は鳴りを潜めていた。その代わりに宿っているのは、どこにでもいる、子を慈しむ一人の「人間の母」としての柔らかな光だった。
かつては人の世の理の外側にいた彼女が、今こうして生命の円環の中に身を置き、新しい命を育んでいる。
その姿は、穆清の目にはどんな神話の女神よりも神秘的に映った。
「この子には……普通の人生を送らせてあげたいの」
衛佳はハーブティーの湯気を眺めながら、独り言のように呟いた。
「神話だとか、宿命だとか、そんな重たい荷物は私だけで十分。ただ泣いて、笑って、恋をして……ごく当たり前の人間として、幸せに生きて、そして寿命を迎えてほしい。それが私の、一番の願いなの」
数千年の苦難を知る彼女だからこそ言える、重みのある言葉だった。
穆清は深く頷き、無意識に自分のお腹へ手を重ねた。そこには、二つの小さな鼓動がトクトクと力強く響いている。
定期検診で判明したことだが、彼女のお腹には男女の双子が宿っていた。
「私も……同じ気持ちです」
穆清の声が、静かに響く。
「私の過去は、血と争いに塗れていました。生まれながらに皇女という枷を負い、最後は全てを失いました。……だからこそ、この子たちには私の不幸を一欠片たりとも背負わせたくありません。ただ健やかに、自由に……」
二人の母の視線が交差する。
時代も、出自も違う。けれど、子を想う祈りのような願いは同じだった。
「でも、穆清ちゃんはすごいわね。双子だなんて」
衛佳は声を明るくして、茶化すように言った。
「いきなり二人のママになるんだもの。大変よー? 夜泣きも二倍、オムツも二倍!」
「うう……覚悟しております。書文様もお手伝いしてくださると仰っていますし……」
「困ったことがあったら、いつでも言ってね。……あと、本当にどうしようもなくなったら、うちの『お父さん』にも頼んでいいから」
「えっ? いえ、そんな……お父様(神農様)にお手数をおかけするわけには……」
穆清が恐縮して首を振ると、衛佳はニカッと笑った。
「いいのいいの! お父さんはね、ずーっと昔から、民草のために薬草をかじって駆け回ってた『お医者さん』みたいなものなんだから。みんなを平等に救うのが趣味なのよ。だから、遠慮なんかしないで」
「……ふふ。衛佳様のお父様は、本当に偉大な方なのですね」
「まあね。ちょっと薬草オタクなところはあるけど」
その言葉の裏にある、人知を超えた守護の力。
穆清は改めて、自分たちがどれほど大きな縁に守られているかを感じ、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。もしもの時は、どうかよろしくお願いいたします」
そして、その日は唐突に、しかし必然として訪れた。
「……っ、書文様!」
夜明け前。隣で眠る書文の袖を、穆清が強く引いた。
その切迫した声と、苦悶に歪む表情に、書文は瞬時に飛び起きた。
「穆清!? 陣痛か!?」
「はい……破水、したようです……っ」
そこからは、まるで早回しの映画のようだった。
事前に何度もシミュレーションしていた通り、書文は冷静に(手だけは震えながら)病院へ連絡し、車を出した。
病院に到着するとすぐに分娩室へ。
廊下には、知らせを受けた「親衛隊」がすでに集結していた。
王健、張勇、李娜夫妻。全員が普段の勇猛さをどこかへ置き忘れ、ただの落ち着きのないおっさんと化している。
特に王健はひどかった。分娩室のドアの前を熊のように行ったり来たり繰り返し、床がすり減りそうな勢いだ。
「おい、まだか……!まだ産まれねぇのか!もう一時間は経ってるぞ!」
「落ち着けよ、王健。まだ入ったばかりだ」
張勇が諌めるが、彼自身も貧乏ゆすりが止まっていない。
「だがよぉ!穆清様は体が小さいんだぞ!?難産になったらどうするんだ!俺が……俺が気合いを入れに行ってくる!」
「やめろ馬鹿!お前が入ったら医者が気絶するわ!」
そんな外の喧騒を知ってか知らずか、分娩室の中では、穆清が人生最大の戦いに挑んでいた。
現代の医療技術は、彼女を強力にサポートした。無痛分娩の麻酔が痛みを和らげ、助産師たちの的確なリードが彼女を導く。
「はい、吸ってー、吐いてー!上手ですよー!」
「うぅ……っ、んんーーーっ!」
穆清は書文の手を握りしめた。その握力は、とてもあの華奢な腕から出ているとは思えないほど強かった。
(負けない……私は、母になるのですから……!)
かつて剣の前に立ちはだかった時以上の覚悟。
彼女は全身全霊で、新しい命を送り出そうとしていた。
「頭が見えましたよ! もう少し、あと一回いきんで!」
「……っ、うああああああっ!!」
穆清の叫びと共に、世界の空気が震えた気がした。
直後――。
「オギャアアアアア! オギャアアアア!」
「フギャアアア! フギャーッ!」
力強い、二重奏の産声。
それは高らかに、新しい魂がこの世界に到着したことを告げる凱歌だった。
「おめでとうございます! 元気な男の子と、女の子ですよ!」
助産師の声が、天上の音楽のように響いた。
カンガルーケアのために、二つの小さな命が穆清の胸の上に置かれる。
濡れた髪、まだ赤いしわくちゃな肌、小さな手足。
重い。温かい。
「あぁ……」
穆清の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
痛みも、疲労も、一瞬で吹き飛んだ。ただ、愛おしさだけが胸を満たしていく。
これは、私の命。私の未来。
「よく……よく来てくれました……。私の、可愛い赤ちゃん……」
隣で見ていた書文も、ボロボロと涙を流していた。
彼は震える手で、子供たちの小さな指と、穆清の手を包み込んだ。
「すごい……本当に、すごいよ穆清……」
処置を終え、個室に移ると、そこはすぐに祝宴の会場と化した。
許可を得てなだれ込んできた親衛隊たちは、二つのベビーベッドを取り囲み、完全に骨抜きにされていた。
「うおおおお……ち、ちいせぇ……!俺の指一本分しかねぇぞ……!」
王健が巨体を小さく縮こまらせ、恐る恐る男の子の頬を指先でつつこうとして、張勇に「やめろ、壊れる!」と叩かれている。
「見てみろ、この鼻筋。穆清様にそっくりじゃねぇか……。末恐ろしい美人になるぞ、この姫様は」
「こっちの若君は書文に似て……いや、目が凛々しいな。将来は大将軍か?」
かつて戦場を駆けた豪傑たちが、赤ん坊のあくび一つに「おおーっ!」と歓声を上げ、デレデレに相好を崩している。
その光景はあまりにも平和で、滑稽で、そして涙が出るほど温かかった。
ひと通りの面会が終わり、部屋に静寂が戻る頃。
窓の外は夕焼けに染まり始めていた。
ベッドの上、穆清は白いシーツに身を沈め、穏やかな寝息を立てる子供たちを見つめていた。
出産という大仕事を終えた彼女は、汗で髪が額に張り付き、化粧気のない顔をしていた。
だが、今の彼女は、これまで書文が見てきたどんな瞬間よりも美しかった。
全ての虚飾を削ぎ落とし、生命の根源に触れた者だけが持つ、崇高な輝き。
疲労感さえもが、聖女のような神々しさを演出していた。
「……書文様」
穆清が、少しだけ掠れた声で呼んだ。
「はい」
「私……幸せです。今、世界で一番」
彼女は弱々しく、けれど満ち足りた微笑みを向けた。
書文は胸が締め付けられるような愛おしさを感じ、ベッドの端に座ると、彼女の額にかかる髪をそっと払った。
「ありがとう、穆清。本当にお疲れ様」
言葉だけでは伝えきれない感謝を込め、彼は彼女の額に、長く、優しく口づけを落とした。
「愛してる。……君と、この子たちを、一生守るよ」
穆清は目を細め、安心したように書文の手に頬を擦り寄せた。
二千年の時を超え、数々の運命を乗り越えて、彼女はようやく辿り着いたのだ。
「皇女」でもなく、「悲劇のヒロイン」でもなく。
ただ愛する人と共に生きる、「母」という名の、温かな居場所に。
数年後。
季節は巡り、西安の空はどこまでも高く、澄み渡っていた。
白家のリビングは、日曜の朝から戦場のような賑やかさに包まれていたが、今日は少し事情が違う。家族全員で外出の準備を整え、向かった先はショッピングモールでも遊園地でもない。
あの、全ての始まりの場所――未央宮遺跡公園だ。
かつて大漢帝国の栄華を極め、そして二千年の沈黙を守り続けてきたその場所。
今は秋の柔らかな夕日が、風化した土壁や石畳を黄金色に染め上げていた。
広大な遺跡の広場には、歴史の重みなどお構いなしに響く、高い笑い声があった。
「まてまてー! じいじが捕まえちゃうぞー!」
「ばあばも一緒よー! ほら、こっちへいらっしゃい!」
白建文と李静の二人が、年齢も世間体もかなぐり捨てて、必死に小さな影を追いかけている。
その先を走るのは、三歳になった双子の兄妹だ。
「きゃはは! じいじ、おそいー!」
「つかまらないもんねー!」
兄のほうは書文譲りの黒髪を揺らし、活発に駆け回る。妹のほうは穆清に似た大きな瞳をキラキラさせ、スカートの裾を翻して逃げる。
歴史マニアである白建文が、孫のためなら地面に這いつくばることも厭わない「孫バカ」のお手本のような姿を見せている。それを見た双子は、さらに調子に乗って遺跡の礎石の周りをぐるぐると走り回る。
「こらこら、二人とも。あまり遠くへ行っちゃだめだよ。お祖父様たちが疲れちゃうから」
「あはは、大丈夫よ書文。父さんたち、私たちと遊んでた時より元気なんだから」
少し離れたベンチのそばで、その光景を眺めていた書文と穆清は、顔を見合わせて苦笑した。
二人の周りには、穏やかな秋風が吹いている。
穆清は、現代風のニットのワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っている。その姿は完全に現代の女性だが、ふとした瞬間の立ち居振る舞いや、穏やかな微笑みには、変わらぬ気品が宿っていた。
書文はそっと、隣にいる穆清の手を取った。
彼女も自然に握り返す。
指と指が絡み合い、体温が伝わる。かつては触れることさえ躊躇われたその手は、今や何よりも確かな「日常」の一部となっていた。
「……不思議だね」
書文は、夕日に輝く遺跡と、そこで遊ぶ子供たちを見つめながら呟いた。
「ここはかつて、君が生まれ、生きた場所だ。歴史書には『権謀術数の舞台』とか『栄枯盛衰の象徴』なんて書かれているけれど……今のこの景色を見てごらん」
彼の視線の先では、息子がつまずいて転びそうになり、白建文が慌てて抱き止めて、ほっぺにキスを浴びせられている。娘は李静と手をつなぎ、落ち葉を拾って見せびらかしている。
「ここにあるのは、ただの平和な家族の休日だ。……僕たちが命がけで守りたかった、ありふれた幸せだよ」
その言葉に、穆清はゆっくりと頷いた。
彼女の瞳が、夕日を受けて琥珀色に輝く。
かつて、この場所で彼女は多くのものを失った。権力争い、裏切り、孤独。あの冷たい石畳の上で流した涙を、忘れたことはない。
けれど、今の彼女の胸にあるのは、凍えるような悲しみでも、焼けるような怒りでもなかった。
ただ、温かい満腹感のような、静かな愛おしさだけ。
穆清は目を閉じ、心の中で、時空の彼方にいる「あの人」へ語りかけた。
かつて自分を政争の道具とし、冷酷な運命を強いた祖母――呂后へ。
(お祖母様……)
心の中の声は、驚くほど静かだった。
(貴女様は、私に多くの苦難をお与えになりました。あの頃の私は、貴女様を恨み、運命を呪い、毎晩枕を濡らしておりました)
風が、彼女の髪を優しく撫でていく。
(でも……今となっては、それすらも遠い昔の夢のようです。見てください、この温かな夕日を。聞いてください、あの子供たちの笑い声を)
穆清は目を開け、愛する夫の手を強く握りしめた。
(私は今、幸せです。貴女様が望んだ栄華よりも、貴女様が築いた権力よりも、ずっと尊く、温かいものを、私はこの手で掴みました。……だから、もう恨み言は申しません。恨む理由すら、今の私には不要なのです)
心の中に巣食っていた最後の澱が、光の中に溶けて消えていくのを感じた。
呪縛は解かれたのではない。彼女自身の幸せが、それを過去のものとして塗り替えたのだ。
「……ええ、書文様。本当に」
穆清は夫を見上げ、満開の花のような笑顔を向けた。
それは二千年の時を超えた皇女の顔ではなく、今を生きる一人の妻、そして母の顔だった。
「私たちが守りたかった日常は……確かに、ここにあります」
夕日が沈みかけ、世界の輪郭が金色に滲んでいく。
二人の影が長く伸び、遺跡の土の上で一つになった。
寄り添う二人の温かな背中から、ゆっくりと視点を移していく。
手を取り合う夫妻の向こう側。
広場の中央へ。
そこでは、遊び疲れたのか、双子が祖父母の腕の中に飛び込んでいた。
白建文が高い高いをし、李静がその横で手を叩いて笑っている。
子供たちの無邪気な笑顔は、かつてこの地を支配したどんな皇帝の威光よりも眩しく、未来への希望に満ちていた。
歴史は続き、物語は巡る。
けれど、この温かな夕暮れのひとときだけは、永遠のものとして彼らの記憶に刻まれるだろう。
未央宮の風が、優しく彼らを包み込んだ。
(完)
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
二千年の時を超え、愛と家族に包まれた穆清の物語――
皆さまの応援が、ここまで書き続ける力になりました。
またどこかでお会いできる日を楽しみにしています!




