後日譚其の参 皇女、西安に誕生
いつもありがとうございます。
今回は、穆清が現代で「自分の役割」を見つけ、新たな人生を歩み始めるお話です。
彼女がどんな風に現代社会に根を下ろしていくのか、ご期待ください。
長安の四季は巡り、木々の葉は何度その色を変えただろうか。
かつて時空の裂け目から落ちてきた小さな皇女は、現代という土壌にしっかりと根を下ろし、美しい花を咲かせようとしていた。
西北大学、文学院の大講堂。
階段教室の窓から差し込む午後の日差しが、舞い踊る埃を黄金色に染めている。
数百人の学生が静まり返る中、白髪の老教授の声だけが朗々と響いていた。
「――後漢末期、外戚と宦官の専横により政治は腐敗し、黄巾の乱が勃発。これが400年続いた漢王朝の落日であり、三国時代の幕開けとなるのです。この動乱期において……」
教室の中ほどの席に、周囲の学生とは明らかに異質な空気を纏う二人の姿があった。
白書文は高校を卒業し、晴れてこの大学の学生となっていた。身長はこの数年で伸び、172センチまで成長。少年のあどけなさは抜け、知的で落ち着いた青年の顔つきをしている。
そして、その隣で熱心にノートを取っているのは、劉穆清だ。
彼女には戸籍がないため、正規の学生としては入学できない。しかし、書文が大学の制度を調べ上げ、教授に直談判を重ねた結果、特例として聴講生の身分を得ていた。
18歳になった彼女は、依然として小柄で152センチほどだが、その身体つきは以前のような頼りない細さではない。
淡いクリーム色のブラウスに、膝丈のフレアスカート。現代の衣服を身に纏い、背筋を伸ばして座る姿は、スレンダーながらも女性らしい柔らかな曲線を帯び始めていた。
キャンパスを歩けば、すれ違う男子学生たちが思わず振り返り、その気品ある横顔に見惚れる。彼女は今や、文学院の隠れたマドンナ的存在でもあった。
「……書文」
教授が黒板に向かった隙に、穆清が小さく囁いた。
「この時代の歴史は、本当に興味深いですね。高校の教科書よりも深く、人の業というものを感じます」
「そうだね」
書文は彼女の整った文字で埋め尽くされたノートを見て、微風のように優しく微笑んだ。
「君にとっては、自分の家が燃え落ちた後の話だから……辛くはないかい?」
「いいえ」
穆清は首を横に振り、教科書の『曹操』の肖像画を指先でツンと突いた。
「王朝の盛衰は世の理。私が悲しんだところで、歴史の奔流は変わりません。それに……この乱世には、煌めくような英雄たちがたくさんいたようですから」
彼女はページをめくり、『諸葛孔明』と『関羽雲長』の挿絵を見つけると、少女らしく瞳を輝かせた。
「私、この諸葛亮殿と関羽殿は好きです。忠義に厚く、漢の再興のために命を燃やした方々……素晴らしい生き様です。それに比べて、この曹操という男は……ふふん、あまり好きではありませんね」
あからさまに頬を膨らませるその仕草に、かつて深窓の皇女だった頃の面影が覗く。漢王朝を終わらせた簒奪者と、それを守ろうとした守護者。彼女の好悪の基準は、2000年前の「当事者」としての感情そのものだ。
「はは、分かりやすいな、穆清は」
書文は堪えきれずに吹き出し、慌てて口元を押さえた。周囲から「シーッ」と注意され、二人は顔を見合わせて悪戯っぽく舌を出した。
講義の後、二人は大学近くの並木道を歩いた。
「では書文、この後は図書館に行きましょうか。司書の方が、新しく出土した漢代の竹簡に関する資料が入ったと教えてくださったのです」
「ああ、いいね。ついでに王健さんたちの所にも顔を出そうか。久しぶりにみんなで夕飯でもどう?」
「賛成です!あの方たち、最近どうされているかしら」
王健は、長年裏稼業で貯め込んだ資金を元手に、市内に小さな警備会社を立ち上げていた。
『鉄壁セキュリティ・サービス』。
その物々しい社名の通り、社員には元傭兵や格闘技の達人が揃っており、張勇や李娜も創業メンバーとして名を連ねている。
……はずだったのだが。
「おぎゃあああああああッ!!」
オフィスのドアを開けた瞬間、二人の鼓膜を劈いたのは、警報音よりも強烈な赤ん坊の泣き声だった。
「ど、どうしたんですか!?」
書文と穆清が慌てて奥へ駆け込むと、そこにはカオスが広がっていた。
事務室の革張りソファに、強面の男たちが疲れ切った顔で沈んでいる。
そして、その中心にいるのは張勇だ。いつもの寡黙で無骨な巨漢が、今は腕の中に抱えた小さな命に、脂汗を垂らしながら翻弄されている。
「あー……よしよし、泣くな、泣かないでくれ……頼むから……」
張勇の腕の中には、タオルにくるまれた生まれたばかりの赤ん坊。
火のような赤髪の李娜は、やつれた顔で哺乳瓶の温度を確認しており、その後ろで社長の王健が頭を抱えている。
「王健殿!李娜殿、張勇殿!」
「おお……穆清ちゃんか……」
王健は救助隊を見た遭難者のような目で振り返った。
「どうしたんですか、これ……会社ですよね?」
穆清が目を丸くすると、王健は深いため息をついた。
「見ての通りだよ。こいつらにガキが生まれてな……。育児休暇を取れって言ってるんだが、李娜の奴が聞かねえんだ。『穆清ちゃんの護衛シフトに穴を開けるわけにはいかない』って、無理やり赤ん坊連れで出勤して来やがって……」
「だ、だって……!」
李娜はクマのできた目で反論した。かつての氷の暗殺者の面影はどこへやら、髪を振り乱した新米ママの姿だ。
「張勇一人じゃオムツも替えられないし、それに穆清ちゃんに何かあったら、この子が大きくなった時に合わせる顔がないじゃない!」
「だからって、職場に乳飲み子を連れてくる奴がいるのか! ここは戦場(セキュリティ会社)だぞ!」
「うう……頼む、誰かこの泣き声を止めてくれ……俺の筋肉じゃあやしきれない……」
張勇が悲痛な声を上げる。赤ん坊の泣き声はボルテージを上げる一方だ。
見かねた穆清が、スッと前に進み出た。
「張勇殿、私に貸していただけますか?」
「えっ、い、いや、でも穆清ちゃん、赤ん坊なんて抱いたこと……」
「大丈夫です。少しだけ」
彼女は優しく微笑むと、張勇の丸太のような腕から、壊れ物を扱うようにそっと赤ん坊を受け取った。
その手つきは驚くほど自然だった。
左手で頭を支え、右手でお尻を包み込み、自分の心音が聞こえる位置に引き寄せる。そして、ゆっくりと一定のリズムで体を揺らし始めた。
「よしよし……いい子ですね。大丈夫、皆ここにいますよ……」
彼女が漢代の子守唄を口ずさむと、不思議なことに、火がついたように泣いていた赤ん坊が、嘘のように泣き止んだ。
赤ん坊は大きな瞳で穆清を見つめ、きゃっきゃと小さな手を伸ばして彼女の指を掴んだ。
「す、すげえ……」
王健が口をあんぐりと開けた。
「さすが姫殿……まさか、赤ん坊の扱いまで完璧とはな」
「穆清、すごい……魔法みたいだ」
書文も感嘆の声を漏らす。
午後の日差しの中、赤ん坊を慈しむように抱く穆清の姿は、まるで聖母画のように神々しく、そして温かかった。
「ふふ、可愛い……とっても温かいです」
穆清は赤ん坊の柔らかい頬を指で撫でながら、ふと、甘い想像に耽った。
(もし……私と書文様が結ばれて、二人の赤ちゃんができたら……きっと書文様に似て、優しい目をした子になるのでしょうね……)
妄想の中の自分は、書文と寄り添い、今のようの腕の中の命を見つめている。
「ねえ、あなた。私たちの宝物よ」
「ああ、そうだね穆清」
そんな甘い幻聴まで聞こえてきて――。
「いやあ、こりゃあ穆清ちゃんはいいお母さんになるわ。なあ、書文?」
王健の冷やかしの声で、穆清は現実に引き戻された。
「ほ、へ!?」
「書文と結婚しても安泰だな。こりゃあ将来、世継ぎの顔を見るのが楽しみだ」
ボンッ!!
穆清の顔から、目に見えるほどの勢いで湯気が出た。
「い、いいえっ!そ、そそそ、そんなっ!!」
彼女は赤ん坊を抱いたまま、あわあわと首を振り、耳まで真っ赤に染めて叫んだ。
「わ、私なんてまだ……っ!書文様とは、その……まだ、手、手を繋ぐことくらいしか……したことがありませんからっ!!」
「……は?」
その場の空気が凍りついた。
王健、李娜、張勇の三人が、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。
「き、清い交際なのです!まだ……そういう、大人の段階には……至っておりませんっ! 未経験です!!」
しーん……。
オフィスの時計の秒針の音だけが響く。
数秒の沈黙の後、王健が恐る恐る口を開いた。
「お、おい……マジか?」
「マジなのか? お前ら、一緒に住んで三年以上経つよな?」と張勇。
「え、嘘でしょ……?普通、もうとっくに……」と李娜。
三人の元暗殺者たちは、信じられないものを見る目で書文を凝視した。
「お前……まさか、枯れてんのか?それとも僧侶にでもなるつもりか?」
「ち、違いますよッ!!」
書文も顔を真っ赤にして反論した。
「む、穆清さん!? なんでそんなこと、今ここで言うんですか!?」
「だ、だってぇ……!皆さんが誤解なさるから……!うぅぅ……あわせる顔がありません……!」
穆清は赤ん坊を盾にするようにして顔を埋め、さらに小さくなってしまった。その隙間から見える耳は、熟したトマトよりも赤い。
「はっはっは!こりゃあ傑作だ!」
王健が腹を抱えて爆笑した。
「あーあ、書文。お前、本当に大事に大事に育ててんだなぁ。……ま、そういう不器用なところも、お前ららしいか!」
「うるさいですよ王健さん!」
「ふふっ……まあ、ゆっくり進めばいいんじゃないか」
苦笑しながらミルクを作る李娜、豪快に笑う王健、困り顔の張勇。
そして、顔を見合わせ、お互いのあまりの初々しさに、たまらず一緒に笑い出してしまう書文と穆清。
窓の外では、現代の西安の街並みが夕焼けに輝いている。
戦いの日々は遠くなり、ここにあるのは、少し騒がしくて、とびきり温かい「日常」だけ。
時空を超えた恋人たちの物語は、この街の片隅で、これからもゆっくりと、確かに紡がれていくのだろう。
ある朝、長安の空は白み始め、鳥たちはまだ巣の中で微睡んでいる頃。
白家の玄関で、小さな「事件」が起きていた。
「行ってきます」
書文の声はいつもより少し弾んでいた。
それだけなら良い。問題はその格好だ。
普段はパーカーやTシャツといったラフな格好を好む彼が、今日はなんと、パリッとした襟付きの白いシャツに、仕立ての良いベスト、そして足元には磨き上げられた革靴を合わせている。髪もワックスで丁寧にセットされ、甘いコロンの香りまで漂わせていた。
「い、行ってらっしゃいませ……」
穆清は笑顔で送り出したが、ドアが閉まった瞬間、その笑顔は能面のように凍りついた。
(怪しい……)
女の勘、そして元・皇族としての危機察知能力が警鐘を鳴らしている。
今日は休日だ。デートの約束もしていない。それなのに、あの気合の入ったお洒落。
(まさか……浮気!? いえ、書文に限って……でも、現代の女性は積極的だと聞きますし、書文は優しすぎるから押し切られたら……!)
バタン。
妄想が爆発寸前になった穆清は、パジャマの上からダボっとしたパーカーを羽織り、慌てて玄関を飛び出した。
通りの先を歩く書文の背中が見える。
穆清は電柱の影に隠れ、抜き足差し足で尾行を開始した。
「……むふふ。この穆清の目は誤魔化せませんよ」
彼女は自分では完璧な忍びのつもりだったが、その姿は、パーカーのフードを目深に被った怪しい小動物がチョコチョコ動いているようにしか見えない。
書文が角を曲がろうとした、その時だった。
「――穆清ちゃん、そんなところで何してるの?」
「ひゃああっ!!」
背後から突然かけられた声に、穆清は飛び上がり、漫画のようにずっこけた。
心臓が口から飛び出るかと思った。恐る恐る振り返ると、そこには赤ちゃん用抱っこ紐を装着し、買い物袋を提げた李娜が立っていた。
「あ、あなたがた……!驚かさないでください、寿命が縮むかと思いました!」
穆清は胸を押さえて抗議するが、李娜はキョトンとしている。
「ごめんごめん。いや、後ろから見たらなんか挙動不審なもこもこしたのが動いてるなと思って」
「きょ、挙動不審だなんて失礼な!挙動不審なのは私ではなく、あそこでコソコソしている書文の方で――って、あれ?」
穆清が指差した先には、すでに書文の姿はなかった。
「ああっ!見失ってしまいました……!」
穆清はガックリと肩を落とした。
「書文くん、いないねえ。……もしかして、尾行?」
李娜がニヤニヤしながら尋ねると、穆清はバツが悪そうに頬を膨らませた。
「……だって、今日はお洒落すぎます。どこに行くのか、気になってしまって……」
そんな彼女のいじらしい様子に、李娜は苦笑した。かつて命を狙った相手が、今はこんなに普通の女の子として恋に悩んでいる。それがなんだか嬉しかった。
「まあ、邪魔しちゃったお詫びに、何か奢ってあげるよ。元気出して」
李娜に連れられて入ったのは、最近オープンしたばかりの「漢風カフェ」だった。
店内には琴のBGMが流れ、店員たちは現代風にアレンジされた漢服もどきを着て、プラスチックの扇子を仰ぎながら接客している。
「へえ、結構凝ってるね。穆清ちゃん、こういうの懐かしいんじゃない?」
李娜がメニューを開きながら言うと、穆清は眉をひそめて店内を見回した。
「……正直に申しましても?」
「うん」
「生地がペラペラです。それに、あの店員さんの裾の合わせ方、逆です。死装束になってます。あと、あのお茶の注ぎ方は作法がなってません。宮廷なら即刻折檻ものですね」
「あはは、厳しいなあ本職は!」
李娜は声を上げて笑った。「まあまあ、あくまで『雰囲気』を楽しむ場所だから。現代人なりの古代へのリスペクトってやつよ」
運ばれてきたジャスミンティーを啜りながら、二人の話題は自然と過去へと移っていった。
「李娜殿は……その、本当に幸せそうですね」
穆清は、李娜の腕の中で眠る赤ちゃんの柔らかな頬を見つめて言った。
「あんなに素敵な旦那様と、可愛いお子様がいて」
「……うん。正直、自分でも信じられない時があるよ」
李娜の瞳が、ふと遠くを見るように細められた。
29歳になった今の彼女は、すっかり落ち着いた母親の顔をしている。だが、その言葉の端々には、壮絶な過去を生き抜いてきた重みがあった。
「知ってると思うけど、私は孤児だった。組織に拾われて、物心ついた時から人を殺す技術だけを叩き込まれてきた」
彼女は自分の手のひらを見つめた。そこには、家事による手荒れと、消えない古傷が混在している。
それから、申し訳なさそうに穆清を見た。
「……穆清ちゃんの命を狙ったことも、その一部だった。本当に、ごめんね」
「もう良いのです」穆清は首を横に振った。
「貴女がいなければ、私は今ここにいません。私にとっては、貴女は守護者であり、頼れるお姉様ですから」
「……ありがとう」
李娜は照れくさそうに笑い、続けた。
「この時代に飛ばされた時、私は15歳。王健さんは20歳、張勇は17歳だった。……怖かったよ。右も左も分からない、言葉だって違う。毎日が綱渡りだった」
当時の彼らは、現代社会という異世界に放り出された迷子だった。
「王健さんは、私たちを食わせるために必死で汚れ仕事を引き受けて、兄貴分として振る舞ってくれた。でも、私の弱音を受け止めてくれたのは、いつも張勇だった」
李娜の声が、少し震えた。
「あいつ、無口だけどさ。私が夜中に元の世界を思い出して泣いてると、何も言わずに隣に座っててくれるの。……ある冬の日、張勇が高熱を出したことがあった」
「張勇殿が?」穆清は驚いた。あの頑強な大男が寝込む姿など想像できない。
「ええ。現代のウイルスに免疫がなかったのか、40度近い熱が出てね。薬も買えない、病院にも行けない。未知の病気かもしれないって、みんな焦った」
李娜の脳裏に、あの寒々しいアパートの一室が蘇る。
『近寄るな、李娜……!』
汗まみれになりながら、うわ言のように繰り返す張勇。
『俺はもうダメかもしれん……お前だけでも、逃げろ……伝染るぞ……』
彼は、自分の命よりも李娜の安全を案じて、震える手で彼女を突き放そうとした。
けれど、当時の李娜は泣きながら彼にしがみついたのだ。
『嫌だ!絶対に離れない!あんたが死ぬなら、私も一緒に死ぬ!』
「……結局、ただの風邪だったんだけどね」
李娜は懐かしそうに笑った。「でも、あの時確信したの。この人は、どんな時でも私を守ろうとしてくれる。私の居場所はここなんだって」
それから10年。
彼らは身分証を手に入れ、李娜は張勇に支えられながら夜間学校に通い、現代の知識を必死で吸収した。数学も、英語も、スマートフォンの使い方も、すべて張勇が根気強く教えてくれた。
「ずっと好きだった。でも、私たちは『主君の命令』で動く道具だったから……そんな個人の感情は、任務の邪魔になると思って、ずっと蓋をしてた」
李娜はティーカップを置き、悪戯っぽい目をして穆清に身を乗り出した。
「でもね、すべての任務が終わって、私たちが自由になった日……私の中で何かが弾けたの」
「弾けた、ですか?」
「そう。もう我慢しなくていいんだって思ったら、止まらなくなっちゃって」
彼女は頬を上気させ、声をひそめた。
「私が26歳、張勇が28歳の時……もう、猛アタックよ。あいつ、最初は『俺なんかお前に相応しくない』とかウジウジ逃げてたけど、最後は私が押し倒してやったわ」
「お、お、お押し倒す……!?」
穆清の顔がみるみる赤くなる。
「うん。もう一歩も引かなかった。そして、ついにあいつが観念した夜……」
李娜は恍惚とした表情で、とんでもないことを口走り始めた。
「凄かったわよ。10年分の想いが溜まってたから、お互いに。あいつ、普段は優しいのに、あの時ばかりは獣みたいになって……一晩中、何度も何度も、気絶するかと思うくらい愛し合って……」
「ひゃあぁぁぁぁッ!!」
穆清は両手で耳を塞ぎ、顔から湯気を出して椅子の上で縮こまった。
「そ、そそそ、そのような具体的なお話……! 私にはまだ早いですぅぅ!!」
「あら、これくらい知っておかないと。穆清ちゃんだって、いつか書文くんとそうなるんだから」
「ななな、なりません! いえ、なるかもしれませんが、まだ心の準備が……あぅぅ……」
李娜はそんな純情な反応を肴に、楽しそうに笑った。
「冗談よ、冗談。でもね、穆清ちゃん」
李娜は真面目な顔に戻り、優しく言った。
「大事な人との時間は、永遠じゃない。伝えられる時に、ちゃんと想いを伝えて、触れ合っておくことが大事よ。……私たちは、一度死んで、運良くまた巡り会えたんだから」
その言葉は、穆清の胸に深く刺さった。
李娜の言葉には、戦場を生き抜き、愛を勝ち取った女性だけが持つ強さと、深い慈愛があった。
「はい……。ありがとうございます、李娜お姉様」
穆清は赤ら顔のまま、素直に頷いた。
大人の階段を一段(というより十段くらい一気に)登らされた気分だが、不思議と嫌ではなかった。
「さて、と」
李娜は会計を済ませ、立ち上がった。
「少し長居しすぎたね。次は、もうちょっと穆清ちゃんが好きそうな場所に案内するよ」
「え? まだどこかへ?」
「うん。実は、さっき一瞬だけ書文くんの姿が見えた気がしたの」
「えっ!?」
「確証はないけどね。……行ってみようか」
李娜の意味深なウィンクに、穆清は期待と不安を抱きながら、再び街の雑踏へと足を踏み出した。
繁華街の喧騒から一本外れた、静かな路地裏。
李娜に導かれるまま、穆清は雑居ビルの薄暗い階段を上っていた。
彼女の心臓は、不吉な予感で早鐘を打っている。
(ここは何なのでしょう……何か、怪しいアジトのような……)
二階の突き当たり。少しだけ開いたドアの隙間から、聞き覚えのある声が漏れ聞こえてきた。
「なあ……さすがに僕、これで彼女が惚れないわけがないだろ?」
その声は紛れもなく、書文のものだった。
ドクン、と心臓が跳ねた。
足がすくみ、冷水を浴びせられたような感覚に陥る。
(――惚れる? 彼女?)
書文の言葉が、鋭い棘となって胸に突き刺さる。
やはり、予感は的中してしまったのか。
今日のあのお洒落。高揚した様子。そして「彼女」という響き。
穆清の脳裏に、現代的で洗練された、華やかな女性の姿が浮かんで消える。
自分のような、二千年も昔の価値観しか持たない、時代遅れの「骨董品」のような女では、彼の隣に並ぶには相応しくないのかもしれない。
そう思った瞬間、視界が歪み、熱いものがこみ上げてきた。
「でもよ、この出来は、さすがにオリジナルまでは程遠いんじゃねえか?」
今度は、しゃがれた男の声。王健だ。
穆清は涙をこらえながら耳を澄ます。
(オリジナル……? 出来……? 元カノの話、でしょうか……?)
思考が混乱の渦に飲み込まれていく。
王健殿まで公認の仲だというのか。自分だけが、何も知らずに……。
「まあ、正直言うと僕もそう思うけど……下手をしたら、彼女、怒るかもしれないな」
書文の声には、不安と、それ以上に隠しきれない期待が混じっていた。
もう限界だった。
その場から逃げ出そうと踵を返しかけた瞬間、背中をドンと強く押された。
「っとと……!」
「はい、到着!」
李娜の明るい声と共に、穆清は開いたドアの向こうへとたたらを踏んで押し込まれた。
勢いあまって、数歩先で立ち尽くす書文の背中にぶつかりそうになる。
「えっ、穆清……!?」
書文が驚いて振り返る。
そこには、浮気を問い詰められる男の動揺などは微塵もなかった。あるのは、「しまった、まだ準備が」という、サプライズを見破られた子供のような焦りと、嬉し恥ずかしそうな表情だけだ。
「しょ、書文……貴方、ここで何を……」
涙目で問い詰めようとした穆清の言葉は、喉の奥で止まった。
彼女の視界に、部屋の光景が飛び込んできたからだ。
そこは、雑居ビルの一室とは思えない空間だった。
無機質なコンクリートの壁は、温かみのある漢代風の漆喰と木材で覆われ、床には真新しい畳のような敷物が敷き詰められている。
部屋の隅には古琴が置かれ、壁には見事な水墨画の掛け軸。天井からは柔らかな行燈の光が降り注ぎ、空気中には微かに白檀の香りが漂っている。
まるで、時空の裂け目を通って、懐かしい故郷の部屋に迷い込んだかのようだった。
そして、部屋の中央にある小さなステージ。
そこに飾られたトルソーには、目が覚めるほど美しい漢服が掛けられていた。
深紅の絹地に、金糸で鳳凰の刺繍が施された曲裾深衣。現代の安っぽいコスプレ衣装ではない。生地の光沢、刺繍の密度、袖のドレープに至るまで、可能な限り当時の宮廷様式を再現しようとした、執念すら感じる逸品だった。
「こ、これは……?」
穆清は呆然と立ち尽くした。
浮気? 別の女性?
そんな誤解は、圧倒的な現実の前に霧散した。だが、代わりに脳の処理能力が追いつかない。
李娜が背後からそっと肩に手を置いた。
「書文くん、今日のためにずっと準備してたのよ。何度も私たちに相談してきてね。『穆清に変なものを着せるわけにはいかない』って、資料を山ほど広げて、デザインから内装の素材まで、全部あいつがこだわって決めたの」
部屋の奥で腕組みをしていた王健が、ニカッと笑って鼻を鳴らした。
「俺も協力してやりたくてな。ここを借りる敷金くらい出してやるって言ったんだが、この馬鹿野郎が『自分のお金でやりたい』なんて意地を張るもんでよ。学生の分際で生意気だ、って説教して、無理やり俺が出資したんだ。……いいか、姫殿。これは俺たちからの『詫び』でもあるんだ。昔の非礼を、こういう形でしか返せねえ不器用な大人たちを、許してやってくれ」
「ここ……は……」
「『古典文化教室』だよ」
書文が、照れくさそうに頭を掻きながら歩み寄ってきた。
「覚えてる? 四年前、初めてのデートした頃、僕が君が来た時着ていた服を保管した時……約束したこと」
――大丈夫。今はまだ何もできないけど……いつか必ず、穆清が胸を張って『私はここにいる』って言える場所を作るから。
記憶の底から、あの日の書文の声が蘇る。寒さに震える自分に毛布をかけながら、少年だった彼が誓ってくれた言葉。
「あの約束……覚えていて……くださったのですか……?」
「忘れるわけないよ。大学で歴史や運営の勉強をしていたのも、全部このためだから」
書文は優しく微笑み、飾られた漢服を手のひらで指し示した。
「穆清が持っている素晴らしい知識や所作、そしてあの日失ってしまった『誇り』を、この時代の人たちに伝える場所だ。……どうかな? 気に入ってくれた?」
「っ……う、うぅぅ……」
穆清の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
悲しみの涙ではない。枯れ果てた心に、温かい雨が降り注ぐような、歓喜と感謝の涙だった。
「ごめん、また穆清を泣かせちゃったね……」
書文が苦笑しながら、ハンカチで彼女の涙を拭う。
出会ってから今まで、彼は何度も彼女を泣かせてきた。けれどそのすべてが、彼女の凍った心を溶かし、生きる希望を与えるための涙だった。
(私は……なんて愚かなんでしょう……)
穆清は心の中で、自分を激しく叱責した。
こんなにも深く愛され、大切にされているのに。ほんの一瞬でも彼を疑い、浅ましい嫉妬に駆られた自分が恥ずかしくてたまらない。
(この『浮気を疑った』という事実は……お墓まで持っていきます。絶対に、誰にも言いません……!)
「まあ、こっちは伍長……あ、いや社長の太っ腹なプレゼントだからな」
隅で黙って成り行きを見守っていた張勇が、珍しく口を開いた。
「余計なことは言うな、張勇」王健が照れ隠しに凄んで見せる。
「穆清ちゃんがここで、好きなように振る舞って、笑って暮らしてくれれば、それが一番の報酬なんだよ。……俺たちにとっても、書文にとってもな」
「みなさん……ありがとう……、本当に、ありがとうございます……」
「そして、書文……貴方の想い、しかと受け取りました……」
穆清は涙に濡れた顔で、精一杯の笑顔を向けた。
「さあ、せっかくだから着てみてよ!」
李娜が漢服をトルソーから外し、穆清に差し出した。
「当時の職人さんには敵わないかもしれないけど、私たちの記憶を頼りに、みんなで作ったの。もし着心地が悪かったり、変なところがあったりしたら、いつでも直すから」
「ううん……大丈夫です。例えどんな最高級の絹織物よりも……今の私には、これが一番の宝物です」
李娜の手を借りて、更衣室代わりの衝立の奥へ入る。
袖を通すと、懐かしい重みとしなやかさが肌に馴染んだ。
帯を締め、襟を正す。鏡の中に映るのは、かつて長安の宮殿を追われた少女の姿ではない。
愛する人々に囲まれ、新しい時代で生きる覚悟を決めた、一人の美しい女性の姿だった。
穆清がゆっくりと姿を現すと、部屋の空気が変わった。
凛とした立ち姿。床に広がる深紅の裾。
それは、現代の雑居ビルに舞い降りた、本物の皇女の帰還だった。
「……綺麗だ」
書文が息を呑んで呟いた。その瞳には、彼女への変わらぬ愛と、眩しいものを見るような敬意が宿っていた。
かつて、すべてを失った少女がいた。
家族を、家を、名前さえも歴史の彼方に置いてきた。
けれど今、彼女は新しい家族を得て、新しい家を見つけ、そして何よりも大切な「自分自身の役割」を手に入れたのだ。
これはハッピーエンドではない。彼女の「劉穆清」としての人生の、本当の始まりだった。
その後、西北大学の近くにひっそりとオープンしたその教室は、口コミで静かな評判を呼ぶことになった。
『古典文化・礼法教室 ~長安の風~』。
そこでは、本物の漢代の所作を身につけた若く美しい講師が、歴史書には載っていない当時の生活や、優雅な立ち居振る舞いを教えてくれるという。
学生だけでなく、歴史好きの社会人や教授たちも足を運び、教室は連日賑わいを見せている。
教壇に立つ穆清の声が、朗らかに響く。
窓の外には、彼女が愛する現代の西安の空が広がっていた。
自分の力で立ち、社会と繋がり、誰かの役に立つ喜び。
それは、彼女が現代で手に入れた、何よりも尊い「自立」への第一歩だった。
ここまでお読みいただき感謝です!
新しい居場所、新しい夢。
次回は、二千年の旅路の「転機」となるエピソードです。




