表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/18

後日譚其の壱 明日への一歩

本編をお読みいただきありがとうございます。

ここからは後日譚――事件解決後の「新しい日常」を描きます。

傷ついた仲間たち、そして穆清と書文の「これから」にご注目ください。

 事件解決から数日が経過した。

 西安市内の総合病院。午後の柔らかな日差しが、消毒液の匂いが漂う病室に静かに差し込んでいる。

 ガラガラ……と引き戸が開く音がした。

「よお、調子はどうだ?」

 書文が手土産の果物籠を提げて顔を出すと、ベッドの上で上半身を起こしていた張勇が、気まずそうに視線を逸らした。

「……おう。まあ、なんとかな」

 その傍らには、パイプ椅子に座ってリンゴを剥いている李娜と、窓際で腕を組んで外を眺めている王健の姿があった。

 三人の元・暗殺者たち。

 かつては穆清の命を狙い、数日前までは共に死線を潜り抜けた奇妙な仲間たちだ。

「失礼いたします」

 凛とした声と共に、書文の後ろから穆清が姿を現した。

 その姿に、病室の空気が一瞬で張り詰めた。

 彼女が纏っているのは、書文が救出の際に持参した、あの深紅の曲裾深衣きょくきょしんい。現代の病室にはあまりに不釣り合いな、しかし圧倒的な気品を放つ漢代の正装だ。

 穆清は静かにベッドサイドまで進み出ると、長い袖を丁寧に整え、躊躇なくその場に跪いた。

 そして、清潔なリノリウムの床に両手をつき、額を深々と伏せた。

 それは、漢の礼法における最上級の謝意――『稽首けいしゅ』であった。

「――っ!?」

 その光景に、張勇が目を見開き、王健が窓際から弾かれたように振り返った。李娜の手から、剥きかけのリンゴが転がり落ちる。

「張勇殿」

 床に伏したまま、穆清が厳かに口を開いた。

 その声音は、震えてはいなかった。

「此度は、我が身をお救いいただき、誠にありがとうございました。貴方様がこれほどの深手を負われたこと、我が身を切り裂かれる思いでございます。本来ならば、千金をもって報いるべき所なれど……今の私には、何もございません。すべてを失った無力な身ゆえ、せめてこうして、心よりの感謝と謝罪を捧げたく存じます」

「な……姫、殿……!?」

 張勇は顔色を変え、慌ててベッドから這い出ようとした。

 腹部の包帯が滲み、激痛が走るはずだが、そんなことはお構いなしだ。

「お止めくだされ! 貴女様は皇族の血を引くお方、我らは……その御命を狙った大罪人でございます! 頭を下げるべきは我らの方……!」

 彼は脂汗を流しながら、必死に穆清を立たせようと手を伸ばす。

 だが、穆清は顔を上げず、静かに首を横に振った。

「いいえ。……其は過ぎたことでございます」

 彼女の声には、深く静かな覚悟が滲んでいた。

「私の身に流れるは、かつて漢室を揺るがした呂氏の血。貴方様方が『正義』と信じ、刃を向けられたのも無理からぬこと。……例えあの夜、貴方様の高潔なる信念の下、この首が刎ねられていたとしても、私に怨みはございませんでした」

「姫殿……」

 張勇の動きが止まった。

 その言葉の重みに、喉が詰まる。彼らが信じていた「正義」と、目の前の少女が背負わされた「運命」。その二つが、数千年の時を超えて今、この白い病室で交錯していた。

「ですが、貴方様は私を殺さず、命を賭して救ってくださいました」

 穆清は、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は澄み渡り、彼らを真っ直ぐに見据えていた。

「過去がどうあれ、今の私にとって貴方様は『仇』ではなく、かけがえのない『恩人』でございます。『徳を以て怨みに報ず』……それが、今私が貴方様に捧げられる、精一杯の誠意なのです」

 張勇は唇を噛み締め、震える拳をシーツに押し付けた。

 無骨な大男の目から、一雫の涙がこぼれ落ちた。

「……勿体なきお言葉。……姫殿、我らにそのような資格など微塵もございませぬ。されど……されど!」

 張勇はベッドの上で、痛む腹を庇いながらも居住まいを正し、拱手きょうしゅの礼をとった。

「我ら三名、貴女様が天涯孤独の身となられながらも、気高く生きようとするそのお姿に……心を打たれ申した。この張勇、命尽きるその刻まで、貴女様の御身を……盾となりてお守りいたす所存!」

「張勇殿……」

 ドサッ。

 鈍い音がして、王健が膝をついた。

 それに続き、李娜もまた、その場に片膝をつき頭を垂れた。

「俺もだ……いや、それがしも!」

 王健が床に拳を突き立て、声を震わせる。

「この有罪の身、如何様に砕け散ろうとも、姫殿に忠義を誓いまする!!」

「私も……この命に代えても、姫殿をお守りいたします!」

 李娜の瞳にも、熱い光が宿っていた。


 病室は、厳粛な儀式の場と化していた。

 かつての暗殺者たちが、標的であった皇女に永遠の忠誠を誓う。

 それは歴史の教科書には載らない、しかし書文の目にはどんな歴史的瞬間よりも尊く映る光景だった。

「みんな……」

 穆清の瞳が潤み、言葉に詰まる。

 その温かな誓いの連鎖を見守っていた書文が、ふと、空気を変えるように一歩前に進み出た。

「あのう……部外者の僕が口を挟むのも野暮だって分かってるんですけど」

 書文はポリポリと頬をかきながら、苦笑いを浮かべた。

「その『姫殿』とか『某』とか、そろそろ終わりにしませんか? 皆さんが過去に何を背負っていたとしても、今はもう21世紀の西安です。ここには皇帝もいないし、身分制度もない」

 彼は三人の「騎士」たちと、一人の「皇女」を見渡した。

「過去の因縁に縛られるより、新しい関係を築いていくほうが……ずっと素敵じゃないですか?」

「……む」

 王健が顔を上げ、バツが悪そうに鼻を鳴らした。

「そうだがよ……。我々は過去を捨てられなかったからこそ、現代に来てまで皇女殿を狙っちまったんだ。この罪は、一生かけて償わなきゃならねえ。……もちろん、皇女殿のご迷惑にならねえ範囲でな」

 現代に馴染もうとする柔軟さと、古の義理堅さが同居する王健らしい葛藤だった。

 穆清は書文の言葉にハッとしたように瞬きをし、そしてふわりと表情を緩めた。

 彼女はスッと立ち上がると、膝の埃を払った。

 その瞬間、纏っていた空気が「前漢の皇女」から「現代の少女」へと軽やかに切り替わる。

「……畏まりました。では、王健殿、李娜殿、張勇殿」

 穆清は人差し指を立て、悪戯っぽく微笑んだ。

「まずは、私との会話はその堅苦しい口調をお止めください。私はもう『皇女』ではありません。それに……外見はともかく、実年齢で言えば貴方様方よりずっと年下なのですから、敬語も不要です」

「は、はあ……? ですが……」

 王健が戸惑って目を白黒させる。

「これは命令……と言いたいところですが、これは『お願い』です」

 穆清は一歩近づき、三人の顔を順に覗き込んだ。

「私はもう、ただの普通の女の子です。書文様……いいえ、書文と同じ。だから君たちにも、私を守る従者としてではなく……頼れるお兄さん、お姉さんとして接してほしいのです。過去の階級なんて、この時代にはもう存在しないのですから」

「そ、そう言われてもなぁ……」

 王健が助けを求めるように李娜を見るが、彼女も顔を赤らめて視線を泳がせている。

 2000年の身分差という壁は、そう簡単に崩せるものではない。

「ほら、練習だよ」

 書文が茶化すように言った。

「王さん、呼んであげてよ。『穆清ちゃん』って」

「ぼ、ぼ……ぼ……!」

 王健は顔を真っ赤にして、まるで愛の告白でもするかのように喉を鳴らし、ようやく絞り出した。

「……わかった。……穆清……ちゃん……」

 その言葉を聞いた瞬間。

「はいっ!」

 穆清は、病室に満ちる日差しよりも眩しい、満面の笑みで頷いた。

 花が綻ぶような、あるいは春風が吹き抜けるような、屈託のない笑顔。

 そこにはもう、悲劇の皇女の影はない。

 その破壊力抜群の笑顔を前に、男たち(と一人の女性)の思考回路は完全にショートした。

(天使だ……)

 書文は胸を押さえて天を仰いだ。

(((天女だ……)))

 王健、張勇、李娜の三人は同時に心の中で合掌し、尊さのあまり昇天しかけた。

 新たな絆が、温かな光の中で結ばれた瞬間だった。



 夕日が窓に差し込む放課後の生徒会室。

 その橙色の光は、乱雑に積まれた書類の山と、湯気を立てる紅茶のカップに長い影を落としていた。

 革張りの生徒会長席に深く座る衛佳は、手元のタブレット端末をスワイプする手をふと止め、小さく、だが重い溜息を吐いた。

「……そうか」

 彼女の声は乾いていた。

「私の生体データ、回収する前に『向こう側』へ流れてしまったのね」

「ああ……残念ながら」

 対面のソファに座る林祈が、苦渋に満ちた表情で頷いた。

「魏哲が逮捕される直前、緊急プロトコルで外部サーバーへ送信したデータだ。ダークウェブを経由して、世界中の地下研究機関や情報ブローカーの手に渡ってしまった。削除要請など無意味だ。サーバーを一つ潰したところで、拡散したデータは蜘蛛の子を散らすように増殖していく」

 画面に映し出されているのは、無機質な数値の羅列と複雑なグラフ。

 だが、そこに記されているのは紛れもなく衛佳の――かつて、精衛としての「不老不死」の秘密を暴こうとした、屈辱的な実験記録の全貌だった。

 血液成分の特異性、異常な細胞再生速度、人間とは決定的に異なるホルモン値の変動。

 名前こそ「Sample-Beta」と伏せられているものの、書かれている内容はあまりに「人間離れ」している。

「……不愉快ね」

 衛佳は端末を机に放り投げた。カツン、と乾いた音が静寂に響く。

「まるで裸にされて、全世界の見世物小屋に吊るされているような気分だわ」

 彼女は自身の肩を抱くように、二の腕をさすった。服の上からでも、ネットの向こう側から注がれる粘着質な視線の気配を感じるようだった。

 実体のないデジタル空間で、無数の貪欲な目が自分を舐め回し、解剖し、値を踏んでいるような錯覚。

「インターネットは一度飲み込んだものを決して吐き出さない。永遠のデジタル・タトゥーってやつね。私の『元・神』というラベルが貼られた肉体データは、狂った科学者どもにはさぞかし極上の餌に見えるでしょうよ。……腐肉に集る銀蝿のように」

 吐き捨てる言葉には、嫌悪と同時に、どこか冷めた達観が混じっていた。

 数千年の時を生きてきた彼女にとって、人間の欲望の醜悪さは見飽きた光景だ。ただ、その対象が自分自身になったという事実が、少しばかり癪に障るだけだ。


「……すまない」

 祈が拳を握りしめ、悔しさに顔を歪めた。

「僕が、もっと早く通信を遮断していれば……! 衛佳……いや、精衛をこんな目に合わせずに済んだのに」

 愛する女性が、世界中の好奇と欲望の目に晒されている。その事実は、林祈の男としての矜持を深く傷つけていた。

 もし目の前にそのデータを見た人間がいれば、殴り飛ばしているかもしれない。それほどの怒りが、彼の腹の底で渦巻いていた。

「祈、自分を責めないで」

 衛佳はふっと表情を緩め、紅茶のカップを手に取った。

「あなたが気に病むことじゃないわ。それに……私自身がもう、どうでもいいと思っているの。所詮はデータよ。私の『今』がここにあることには変わりないもの」

 彼女はカップの縁に口をつけ、祈を真っ直ぐに見つめた。

「それにね……魏哲という男の幕引きも、結局はあんな形になってしまったでしょう?」

 その言葉に、祈の表情がさらに曇った。



 数日前、逮捕された魏哲が警察側に尋問された。

 ――冷たい蛍光灯が照らす、無機質な尋問室。

 マジックミラー越しに見る魏哲の姿は、手足こそ拘束されていたが、その態度はまるで学会の壇上にいるかのように堂々としていた。

『国家資金の横領、重火器取締法違反、未成年者略取誘拐、そして違法な人体実験……魏哲、貴様の罪状は枚挙にいとまがない。極刑は免れんぞ』

 検察官の怒声に対し、魏哲は鼻で笑った。

『罪状? ナンセンスだね。君たちはガリレオを裁いた宗教裁判官と同じだ。私がやったのは“予算の有効活用”と“進化への貢献”だよ』

 彼は身を乗り出し、ギラギラと輝く瞳でさらに続けた。

『私の研究成果を見たはずだ。あの“サンプル”たちの特異な再生能力、老化の停止……あれを軍事転用すれば、どうなると思う? 無敵の兵士、あるいは不死の指導者が誕生する。……さあ、どうする? 私を殺してその技術を永遠に葬り去るか、それとも“首輪”をつけて飼いならし、果実だけを享受するか』

 結果は明白だった。

 判決は「無期懲役」。

 だがそれは表向きの話だ。実態は、国家公安部の厳重な監視下に置かれた地下施設での「研究継続」――事実上の飼い殺しであり、同時に国家公認のマッドサイエンティストとしての再雇用だった。

 そして、例の流出した実験データもまた、「国家最高機密」に指定され、一般の目からは完全に封印されることとなった。表向きの名目は「被害者保護」だが、その本質は「独占」だ。あまりにレアで危険すぎる知識を、国が管理下に置いただけに過ぎない。



「……あいつは、檻の中でまた実験を続ける。国という巨大なパトロンを得てね」

 祈が吐き捨てるように言った。

「あいつにとって、監獄も研究室も大差ないんだ」

「ええ。皮肉な話よね」

 衛佳はカップをソーサーに戻した。

「でも、だからこそ――この件に関しては、あの子たちには絶対に秘密よ」

「……書文と、穆清さんにか?」

「そうよ。あの子たちはまだ、現代社会の闇を知らなすぎる。特に穆清は、自分たちが追われる恐怖からようやく解放されたばかりなの」

 衛佳は、窓の外の校庭を見下ろした。

 そこには、部活動に励む生徒たちの喧騒と、平和な日常の風景が広がっていた。そのどこかで、書文と穆清も笑い合っているかもしれない。

「『魏哲はまだ生きている』。『自分のデータは世界中を駆け巡っている』……そんなことを知ったら、あの子はまた怯えて、夜も眠れなくなってしまうわ。ここにまだ『見えない脅威』が残っているなんて、知らせる必要はない」

 彼女の声には、年長者としての、そして姉のような慈愛が満ちていた。

「あの子たちの“無知という名の幸福”を守るのが、私たち『先輩』の役目でしょう?」

「……そうだね」

 祈もまた、深く頷いた。

 いつの間にか、彼の表情から険しさが消え、頼れるパートナーとしての顔つきに戻っていた。

 自分たちが汚れ役を引き受ければいい。闇の深さを知るのは、大人だけで十分だ。

「僕たちは世界的な危機だって乗り越えたんだ。ネットのデータごとき、どうとだってなるさ。……僕がフィルターをかけ続ける。魏哲の動きも、僕が監視する」

「頼りにしてるわ、私のナイト様」

 衛佳が悪戯っぽく微笑むと、祈は照れくさそうに視線を逸らした。


 二人の秘密の共有は、戦友としての絆をより深く、強く結びつけていた。

 誰にも言えない重荷を分け合う共犯者としての連帯感。

 夕陽が沈み、部屋が茜色から群青色へと染まっていく中、二人は無言で紅茶を飲み干した。

 だが、そんな深刻な会議が、大人たちの間で行われているとは露知らず。

 もう一組のペアは、初めての「平和な戦場」――デートという名のミッションに挑んでいた。



「えっと……次は、ここはどうかな?」

 白書文は、スマホの画面と睨めっこをしていた。

 場所は西安市内の人気店『ルナール・コーヒー・ラウンジ』。お洒落なジャズが流れる店内は、カップルや学生で賑わっている。

 彼はテーブルの下で必死に指を動かし、AIチャットボットに相談を打っていた。

『Q. 初デート。カフェの次はどこが正解? 相手は世間知らずの箱入り娘(超かわいい)』

『A. 定番ですが、映画館はいかがでしょう? 会話を無理に繋ぐ必要がなく、共有体験が得られます』

(なるほど、映画か!)

 書文は顔を上げ、勇気を振り絞って切り出した。

「あの……穆清。この後、映画館とか行ってみない?」

「えいが……?」

 対面に座る穆清が、ココアのカップを両手で包みながら、きょとんと小首を傾げた。

「それは、絵巻物のようなものかしら? 活動写真、という話は聞いたことがあるけれど……」

「うーん、もっとすごいよ。……とにかく、行ってみよう!」


 二人は映画館へと足を運んだ。

 チケット売り場のタッチパネル、ポップコーンの甘い香り、薄暗いロビーの雰囲気。全てが穆清には新鮮な驚きだった。

 書文が選んだのは、ハリウッドの最新SF超大作『ギャラクシー・インベージョン』。

 本当はロマンチックな恋愛映画にするつもりだったが、チケットが売り切れていたのだ。

「こちらへどうぞ」

 書文に手を引かれ、穆清はシアター内へ。

 そして、上映が始まった瞬間――。

 ドォォォォォォン!!!

 大音響と共に、スクリーンいっぱいに異形の宇宙船が映し出された。

「ひゃぅっ!?」

 穆清が飛び上がり、書文の腕にしがみついた。

「な、なな、何事ですか!? 天変地異!? 雷公らいこうの怒り!?」

「しっ、静かに! これが映画だよ。作り物だから大丈夫」

 書文が小声で宥めるが、彼女の興奮は収まらない。

 画面には、触手を持ったグロテスクな宇宙人が登場し、人類を襲うシーンが流れる。

「しょ、書文様……あれは……あれは『人』なのですか……? 本当に星の海から来たのですか……?」

「うん、まあ設定ではね」

「設定……? もしや、あれは西域に伝わる妖怪の類では……?」

「いや、エイリアンっていってね……」

「わ、私……あのような者に拐われたら、一体何をされてしまうのでしょう……食われるのですか? それとも魂を吸われるのですか……?」

 穆清は本気で怯え、涙目になって書文の袖を引っ張る。その想像力は、現代のSF設定を遥かに超え、古代の怪奇譚へと飛躍していた。

「だ、大丈夫だって! ほら、映画中は静かにしないと。質問は終わってから全部聞くから!」

 書文が人差し指を口に当てると、穆清はハッとして、慌てて自分の口を両手で覆った。

(……かっ、かわいい)

 暗闇の中で目を白黒させながら、モゴモゴと口を塞ぐその仕草に、書文は胸を撃ち抜かれていた。


 映画が終わる頃には、穆清はすっかり興奮しきっていた。

「驚きました……現代の幻術は、あれほど凄まじいものなのですね」

「気に入ってくれたならよかったよ」

 二人は映画館を出て、ショッピングモールを歩き始めた。

 人波の中、穆清の姿は一際目を引いた。

 書文がプレゼントしてくれた、あの深い紅色の曲裾深衣。

 現代の街並みの中で、彼女だけが時空を超えて迷い込んだかのような、異質にして圧倒的な美しさを放っている。

 すれ違う人々が、思わず振り返る。

 その中には、漢服を現代風に着こなしている若い女性二人組もいた。

「ねえ、あの子の服見て……」

「うわ、凄っ。あの生地の光沢、ポリエステルじゃないよね? シルク……いや、もっと重厚な……」

「刺繍のパターンも博物館級じゃない? 時代考証ガチ勢すぎる……どこのブランドだろ、特注かな? めっちゃ高そう……」

 ひそひそ話が書文の耳に届く。

(……そうか)

 書文はハッとした。

 自分にとっては「穆清が着ていた服」という認識しかなかったが、現代の視点で見れば、それは国宝級のアンティークか、あるいは超高級なオーダーメイド品に見えるのだ。

 穆清自身が放つ気品も相まって、彼女は「漢服コスプレイヤー」ではなく、「本物の貴人」として周囲を威圧してしまっている。

 それに、もしどこかに引っ掛けて破れたり、ジュースをこぼして汚したりしたら……。

「穆清」

 書文は彼女の足が止まった。

「……服、買いに行こうか」

「え? 服ですか?」

「うん。その服、とっても似合ってるけど……普段着にするにはもったいないよ。一緒に選ぼう、現代の服」

 書文は彼女を連れて、手頃な価格だがデザインの良い若者向けのチェーン店に入った。

 店員の親切な案内で、穆清はシンプルなニットとロングスカートに着替えた。

 試着室から出てきた彼女は、漢服の威厳とはまた違う、年相応の清楚な少女の姿だった。

「どう……でしょうか?」

 恥ずかしそうにスカートの裾を摘む姿に、書文は大きく頷いた。

「うん、すっごく似合う! 可愛いよ、穆清」

「……そうですか? なんだか、足元がスースーして落ち着きませんが……」

 会計を済ませ、店員に頼んで漢服を丁寧に畳んでもらい、大きな紙袋に入れてもらった。


 店を出て、夕暮れの街を歩く。

 書文は紙袋を大事そうに抱え直した。

「ねえ、書文」

 穆清が不思議そうに尋ねた。

「どうして急に、服を買ってくださったのですか? 私、何か粗相を……」

「違うよ。逆だ」

 書文は優しく首を振った。

「だってあれは……穆清がここに来て、唯一残っている『元の時代』の物でしょう? 君が生きてきた証だし、故郷との繋がりだ。もし汚れたり破れたりしたら、代わりなんてどこにもない」

「大切な思い出の品かもしれないから……普段使いで消耗させたくなかったんだ。これから先、君がふと故郷を思った時、あの服が手元にあるだけで救われることもあると思うから」

 書文の言葉に、穆清は足を止めた。

 彼女は少し困ったように、寂しげに微笑んだ。

「……書文。お気遣い、ありがとうございます。でも……」

 彼女は視線を落とした。

「大丈夫なのです。あれは、父上――先帝陛下から下賜されたもの。確かに貴重な品ですが……良い思い出など、殆どありません」

「えっ……?」

「あの服を着て、私は『地獄』を見てきましたから。母が殺され、一族が粛清され……そして、お祖母様の恐ろしい政での不安だらけの日々。あの服には、血と涙と屈辱の記憶ばかりが染み付いているのです」

 彼女の声は震えていた。

 漢服は誇りであると同時に、彼女を縛り付ける呪いの象徴でもあったのだ。

「……そっか」

 書文は穆清に向き直り、その肩に手を置いた。

「それでも……大事にしてほしい」

「何故……ですか?」

「君のお父さん――恵帝は、歴史書を読む限り、決して君に悪意を持ってその服を贈ったわけじゃないと思うから」

 書文は、かつて図書館で調べた知識を必死に紡いだ。

「現代の僕たちが知っている恵帝は、とても心優しい君主だったと伝えられているよ。彼は……君の祖母である呂后の残酷な振る舞いに心を痛め、あえて政治から距離を置いたとも言われている。君が見た『地獄』は、お祖母さんのしたことの結果であって、お父さんの意思じゃない」

 書文は、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。

「お父さんはきっと、騒乱の世の中で、せめて娘の君にだけは美しくあってほしい、幸せであってほしいと願って……最高の一着を贈ったんじゃないかな。だから、その服は『地獄の記憶』じゃなくて、『父からの愛の記憶』として持っていてほしいんだ」


 穆清は目を見開いた。

 彼女の記憶にある父は、いつも酒に溺れ、虚ろな目をしていた。

 だが、その奥底にあったかもしれない「愛」に、2000年の時を超えて、異国の少年が光を当ててくれた。

「父上の……愛……」

 彼女の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。

「……そう、ですね。そうかも、しれません」

 彼女は涙を拭い、書文の手にある紙袋を、愛おしそうに撫でた。

「わかりました。書文の言う通り……大切にします。これは、私を愛してくれた父上と……私を大切に想ってくれる貴方が守ってくれた、宝物ですから」

「でも、穆清。君の漢服姿は、本当に綺麗でかわいかったから……あれがもう見られなくなるのは、正直ちょっと残念だな」

 書文は、大事そうに抱えた紙袋に視線を落とし、少しだけ眉を下げて苦笑した。

「だからさ。いつか、僕がもっと頑張って働いてお金を稼いで、君に新しい漢服を何着でも買ってあげるよ。現代の技術で作られた、丈夫で着やすいやつをさ。そうすれば、汚れても気にせず着られるだろう?」

「書文……」

 穆清は立ち止まり、書文の顔をじっと見つめた。

 その申し出は嬉しかった。けれど、彼女の中に小さな、しかし確かな灯が灯った。

「ううん、ダメです」

 彼女は小さく首を横に振った。

「えっ?」

「私、書文から貰ってばかりなのは嫌です。着るものも、住む場所も、そして命さえも……これ以上、貴方の優しさに甘え続けるだけの『お荷物』にはなりたくありません」

 彼女の瞳には、凛とした光が宿っていた。

「私も働きます。そのお洋服を買うためのお金……私も一緒に稼ぎたいのです」

「でも、どうやって?」

 書文は困ったように頬を掻いた。

「気持ちはすごく嬉しいけど、現実は厳しいよ。穆清は現代の身分証を持っていないし、学校の卒業資格もない。この社会でまともな職に就くには、あまりにハードルが高すぎるんだ」

 現代社会は、全てがデータと証明書で管理されている。どんなに彼女が賢くても、IDカード一枚ない人間が正規の雇用を得ることは、ほぼ不可能に近い。

「むぅ……」

 穆清は言葉に詰まり、唇を尖らせた。

「で、でも……何か私にもできることがあるはずです。書文の負担になりたくないし、二人の未来のために、私も何か力を……」

 彼女は悔しそうに俯いた。その健気な姿に、書文の胸が締め付けられる。

 何か、彼女の誇りを守りつつ、この現代社会で輝ける場所はないだろうか。


 書文の視線が、ふと腕の中の紙袋――本物の漢代の衣服が入った袋に落ちた。

 そして顔を上げると、通りの向こうで、漢服風のファッションに身を包んで楽しそうに自撮りをしている若い女性たちの姿が目に入った。

 この時代の若者たちが、失われた伝統に憧れ、それをファッションとして楽しんでいる光景。

 そして目の前には、その伝統の「本物」を知る、唯一無二の皇女がいる。

(……待てよ?)

 書文の脳裏に、閃光のようなアイデアが走った。

「そうだ……! それだ!」

「しょ、書文? どうしたのですか、急に大声を出して」

「穆清、あるよ! 君にしかできない、最高の仕事が!」

 書文は興奮気味に身を乗り出した。

「『古典文化教室』だよ!」

「こてんぶんか……きょうしつ?」

 穆清はきょとんと首をかしげた。聞き慣れないその単語を、口の中で転がしてみる。

「そう!古代の礼儀作法や、言葉遣い、そして伝統的な衣装の着こなし……今の中国では、そういう『古き良き文化』を学びたい人がたくさんいるんだ。でも、本を知っている人はいても、『本物』を体現できる人はいない」

 書文は熱っぽく語った。

「君なら教えられる。だって君は、誰よりも正しく、美しく、その文化を生きてきたんだから。教科書には載っていない『生きた歴史』を教える先生……それが穆清なんだ!」

「私が……先生?」

 穆清の目が大きく見開かれた。

 想像もしなかった未来。

 過去の遺物として隠れ住むのではなく、その過去を武器にして、未来を切り開く道。

「できるでしょうか……私ごときに」

「できるよ。君のあの所作、言葉遣い……さっき病院で王さんたちを圧倒したあの気品、現代人には真似できない魔法みたいなものだ。君になら、きっと人が集まる」

 書文は、夢見心地で未来図を描き始めた。

「もちろん、すぐには無理だ。まずは僕がバイトを増やしてお金を貯めて、場所を借りて、開業の手続きをして……。少し時間はかかるけど、絶対に実現させよう」

 書文の瞳に映る、希望に満ちた光。

 それを見て、穆清の胸の中の不安が、みるみるうちに期待へと変わっていった。

「……はい」

 彼女は力強く頷いた。

「やりましょう、書文。その目標のために……私も精一杯、勉強します。この時代のことも、教え方も!」

 彼女はギュッと書文の手を握りしめた。

「二人でなら、きっと叶えられます!」

 夕陽に照らされた彼女の笑顔は、どんな宝石よりも眩しく、愛おしさが爆発しそうだった。

 未来を信じて輝く瞳。

 自分を信頼し、共に歩もうとしてくれるパートナーの存在。

「……っ!」

 書文の理性が、限界を迎えた。

 彼は衝動のままに、彼女の手をグイと引き寄せた。

「わっ……?」

 驚いて顔を上げた穆清の視界が、書文の顔でいっぱいになる。

 周囲には、家路を急ぐ人々がいる。車の走る音も聞こえる、普通の街角だ。

 だが、今の書文には彼女しか見えていなかった。

 彼は吸い寄せられるように顔を近づけ、その唇を求めた。

「んっ……!」

 穆清の肩がビクンと跳ねる。

 公衆の面前での接吻。古代の姫君としての羞恥心が、警鐘を鳴らす。

(こんな人通りのある場所で……はしたない……!)

 けれど。

 目の前の書文の瞳にあるのは、ただひたすらに純粋な好意と、溢れんばかりの愛おしさだけ。

 拒みたくない。彼を悲しませたくない。

 そして何より、自分も今、心臓が破裂しそうなほど、彼を愛しく思っている。

 葛藤は一瞬だった。

 穆清は、長い睫毛をそっと伏せた。

 チュッ。

 触れただけの、小鳥がついばむようなキス。

 ほんの一瞬の出来事。

 それでも、二人にとっては、世界が停止し、花火が上がったかのような衝撃と甘美さが体を駆け抜けた。

 パッ、と二人の顔が離れる。

「あ……ご、ごめん! つい……!」

 書文が慌てて口元を押さえ、耳まで真っ赤にして後ずさる。

「い、いえ……」

 穆清もまた、林檎のように頬を染め、恥ずかしそうに俯いて、自分の唇にそっと指を触れた。

 気まずいような、でもどうしようもなく幸せな沈黙が流れる。

「か、帰ろうか……あの、手を」

「は、はい……」

 書文がおずおずと差し出した手を、穆清がそっと握り返す。

 先ほどまでの「戦友」のような握手ではない。指を絡ませる、恋人同士の繋ぎ方。

 二人はどちらからともなく歩き出し、家路へと踏み出した。



 夕陽が、二人の影を長く、長く伸ばしていく。

 見るもの聞くもの全てが新鮮で、時に厳しく、時に優しい現代の世界。

 その中で、傷つきながらも一歩ずつ前へ進もうとする、古代から来た少女。

 そして、彼女の手を引き、支え、共に生きようとする少年。

 ぎこちなく、けれど力強く繋がれた手。

 その掌の温もりだけが、不確かな未来の中で、今の二人にとっての唯一にして絶対の「真実」だった。

「……行こうか、穆清」

「はい、書文」


 二人は寄り添い、茜色に染まる街を歩いていく。

 それは、穏やかで優しい、恋人たちの日常の、ほんのささやかな始まりだった。

最後までお付き合いくださり感謝です!

新しい一歩を踏み出した彼らの日常は、まだ始まったばかり。

次回は、未来への想いを描きます。ご感想お待ちしています!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ