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拾壱 繋がれる魂の在処

いつもありがとうございます。

いよいよ物語はクライマックスへ。

絶体絶命の危機の中、仲間たちの「魂」が試されます。

それぞれの想いが交錯する、運命の夜をお見逃しなく。

 冷たく、無機質な空気が肌を刺す。

 薬品のツンとした臭いと、空調の低い唸り声だけが支配する地下の研究施設。

 天井の蛍光灯が、二つのステンレス製の解剖台を青白く照らし出していた。

 その硬く冷たい台の上に、劉穆清と姜衛佳は仰向けに寝かされ、革製のベルトで手首と足首を固定されていた。

「うぅ……寒い……」

 穆清が身を震わせる。

 二人がまとっているのは、ここに連行された直後に強制的に着替えさせられた、薄い検査着一枚だけだ。

 下着の着用は許されず、ペラペラの布地が素肌に直接触れている。その心許ない布は、二人のスレンダーな肢体を隠すどころか、むしろ無防備さを強調していた。

 特に小柄な穆清の場合、肋骨の浮き沈みや、呼吸に合わせて上下する胸の膨らみ、そして腰の曲線が、照明の加減で露わになってしまう。

 それは決して官能的な光景などではない。

 まるで市場に並べられた肉のように、あるいは博物館のショーケースに入れられた剥製のように、ただ「観察対象」として晒されているという屈辱と恐怖の象徴だった。


 少しだけ、時間を遡る。

 何もない真っ白な小部屋に放り込まれ、無機質な音声で着替えを命じられた時。

 穆清は検査着を握りしめ、震える声で衛佳にすがった。

「姜先輩……考えて。どうやって逃げる? 今ならまだ……」

 だが、衛佳は静かに首を横に振った。

「無理よ。さっき連れてこられた通路、監視カメラだらけだった。それに扉は電子ロック。今ここで下手に暴れて、鎮静剤でも打たれたら終わりだわ」

 衛佳は努めて冷静に振る舞いながら、制服のボタンに手をかけた。

「今は従うの。相手を油断させるためにもね。……大丈夫、祈たちならきっと気づく。それまで少しの辛抱よ」

 そう言って、彼女は躊躇なく服を脱ぎ始めた。

 穆清もまた、恐怖に足を震わせながらも、衛佳の言葉を信じてその後に続いた。

 そうして身に纏ったこの薄布は、肌色は透けないものの、身体のラインを隠す機能は皆無だった。

 衛佳でさえ、布越しに伝わる冷気と、自分の全てが輪郭として浮き出る感覚に、羞恥で頬を染めずにはいられなかった。


 そして今――。

 カツ、カツ、カツ。

 硬質な靴音が響き、白衣を纏った男――魏哲ウェイ・ジェが、手術用手袋をはめながら二人の間に歩み寄ってきた

 その瞳は、まるで新しい玩具を手に入れた子供のように、あるいは世紀の発見を前にした狂信者のように、異様な輝きを放っている。

「素晴らしい……実に素晴らしい素材だ」

 魏哲は解剖台の横に立ち、まずは穆清の腹部にそっと手を置いた。

「ひっ……!」

 穆清が悲鳴を噛み殺し、身を強張らせる。

 ゴム手袋越しの感触が、布の上から生々しく伝わる。

「おや? 胃のあたりが少し膨らんでいるね」

 魏哲は慈しむように、彼女のぽっこりと膨らんだ腹部を撫でた。

 先ほどまで、書文たちと囲んだ楽しい鍋。その未消化の幸福が、皮肉にも彼女の身体に残っていたのだ。

「お腹いっぱい食べたんだねえ。よかった、検査の前にお腹が空いてちゃ可哀想だもんね」

 ねっとりとした口調。

 まるでペットのハムスターか何かに話しかけるような、人間扱いしていない響き。

 そのあまりの独善的な優しさに、穆清の背筋に悪寒が走った。

 魏哲は満足そうに頷くと、脇のカートから極太の注射器を取り出した。

 50mlほどもあるだろうか。先端には鋭利な針が光り、容器の中は空っぽで、これから満たされるのを待っている。

 それを弄びながら、彼は穆清の細い腕に狙いを定めた。

「い、いや……来ないで……!」

 穆清が首を激しく振る。目尻から涙が溢れ、こめかみに冷や汗が流れる。

「ーー待って」

 鋭い声が、魏哲の動きを止めた。

 隣の台に拘束された衛佳が、静かに、しかし毅然とした瞳で魏哲を見据えていた。

「その子の方が恐怖心が強いわ。パニックを起こせば、血管が収縮して採血しにくくなるでしょう?」

 衛佳は自分の腕を僅かに持ち上げ、差し出すように見せた。

「先に私の方をやりなさい。そうして何も起きないと分かれば、彼女も少しは落ち着くはずよ」

 それは、年下の少女を守ろうとする、姉としての、そしてかつての神としての矜持だった。


 魏哲はピタリと動きを止め、ゆっくりと衛佳の方へ顔を向けた。

「……ハハッ」

 乾いた笑いが漏れる。

 彼の脳裏に、どす黒い記憶のフラッシュバックが走った。

『あなたのためなのよ』

『お前を愛しているからこそ、厳しくするんだ』

 幼い頃、自分を縛り付け、心を磨り潰していった両親の偽善的な笑顔。自己犠牲という名の、美しいラッピングを施した暴力。

 魏哲の表情が、醜悪に歪んだ。

「いいねえ!自己犠牲愛!美しい、実に美しいよ!」

 彼は叫ぶように吐き捨てた。

「他人のために我が身を差し出す、その高潔な精神……ヘドが出るほど美しいねえ!」

 賞賛の言葉なのに、そこには底知れない軽蔑と憎悪が煮えたぎっていた。

 彼はツカツカと衛佳に歩み寄り、その顔を覗き込む。

「五千年の時を経た『精衛』の魂……。流石だ、どこまでも模範的だね」

 彼は躊躇なく、衛佳の静脈に太い針を突き立てた。

 ブスリ。

「……っ!」

 衛佳の眉がピクリと跳ねる。

 注射には慣れているはずだが、乱暴な手技と太い針の鋭痛に、生理的な反応までは殺しきれない。

 シリンジが引き上げられ、彼女の静脈から鮮血が吸い出されていく。

「ほ、ほら……穆清ちゃん、大丈夫よ……。少しチクリとするだけ……死にはしないわ……」

 血を抜かれながらも、衛佳は清々しい顔で穆清に微笑みかけた。

 魏哲はその様子を恍惚と観察しながら、独り言のように呟く。

「ふうん。やっぱり、『元・神』とはいえ肉体は人間だ。痛みは感じるし、血管も収縮する。これも貴重なデータだね」

 一本分の採血を終えると、彼は無造作に針を抜き、止血もそこそこに次の注射器を開封した。


 そして、再び穆清の元へと戻る。

「さあ、次は君の番だ」

「ひっ……うう、嫌だ……書文様ぁ……」

 穆清が目を堅く瞑り、顔を背ける。

 冷たい指が彼女の腕を掴み、アルコール綿で消毒する。その感触だけで、彼女はビクンと跳ねた。

 ブスリ。

「んぐぅぅーーっ!!」

 穆清は歯を食いしばり、低い呻き声を漏らした。

 痛い。腕の中を異物が食い荒らすような感覚。自分の生命力が吸い出されていく恐怖。

 目からポロポロと涙がこぼれ落ち、耳元を濡らしていく。

 だが、号泣はしなかった。衛佳の手前、そして皇女としての最後の意地が、悲鳴を喉の奥で押し留めていた。

 啜り泣く彼女の頬に、魏哲の手が伸びた。

 彼は指先で、彼女の涙をそっと拭った。

「ごめんね……。私の『エリカ』」

 その言葉に、衛佳がハッと目を見開いた。

 エリカ? 誰のことだ?

 魏哲は慈愛に満ちた、しかしどこか焦点の合わない瞳で穆清を見つめていた。

「私が下手だから、痛かったよね? でも我慢してくれて偉いね。……君さえいれば、もう一度やり直せるんだ」

 完全に、目の前の少女を見ていない。

 彼が見ているのは、自身の妄想の中に生きる誰かの幻影だった。

 その底知れない狂気と孤独の深さに、五千年を生きた衛佳でさえ、背筋が凍りつくのを感じた。

 この男は、単なるマッドサイエンティストではない。

 もっと根深く、壊れてしまった「何か」だ。



 場面は変わり、雑居ビルの薄暗い一室。

 王健たちの拠点となった廃墟の一角では、重苦しい沈黙が漂っていた。

 埃っぽい空気の中、パイプ椅子に座る林祈、その横で焦燥に足を揺らす白書文。

 そして対面に、暗殺者チームの王健、李娜、張勇がそれぞれ壁にもたれたり、木箱に腰掛けたりしている。

「……報告する」

 祈が、スマホの画面を見せながら口を開いた。

 その姿は、先ほどまでの「頼れる先輩」から、戦場の指揮官へと完全に切り替わっていた。

「まず、あのビルにある『表向きの』研究所についてだ。……結果から言うと、シロだ」

「白……?」

 書文が顔を上げる。

「ああ。公的資金が入っている真っ当な施設だ。少なくとも、あんな場所で堂々と人体実験や監禁を行える環境じゃない。あそこにあるのは受付と会議室、あとは当たり障りのないデータサーバーだけだ」

 祈の冷静な分析に、タバコを吹かしていた王健が「ふん」と鼻を鳴らした。

「やっぱりな。俺たちの獲物は、そんな表舞台に立つようなタマじゃねえってことか」

 王健はニヤリと、冷ややかな笑みを浮かべる。

「奴は本体をどこか別の場所……もっと地下深くの、ドブネズミしか知らないような場所に隠していやがるんだ。あのビルはただの目くらまし、あるいは時間稼ぎのおとりってとこだな」

「時間稼ぎ……?」

 書文の顔から血の気が引いた。

「じゃあ、本当の場所が分からないってことですか!? そんなことしてる間に、穆清たちが……ひどい目に遭ってたら……!」

 書文の脳裏に、先ほどの男たちの粗暴な振る舞いが蘇る。

 もし、手遅れになったら。

 もし、二人が傷つけられていたら。

「急がないと! 今すぐにでも探し出さないと!」

 パニックになりかけた書文の肩を、祈が強く掴んだ。

「落ち着いてくれ、白くん」

「でもっ……!」

「大丈夫だ」

 祈の声には、不思議な強制力があった。静かだが、鋼のように揺らがない確信。

「僕は既に手を打ってある」

 祈はスマホを操作し、地図アプリを開く。

「まず、衛佳の父さん――姜先生に連絡を入れた。先生は医療界に強大なコネクションを持っている。市内のどの施設で、どんな特殊な医療機器や薬品が、誰によって発注されたか……闇ルートも含めて、今まさに網をかけてもらっているところだ」

「そ、そんなことまで……」

「それだけじゃない。警察の上層部にも話を通した。表向きは『誘拐事件』として、全市の防犯カメラ――Nシステムから街頭の監視カメラまで、あのワゴンの足取りを徹底的に洗ってもらっている」

 祈の瞳が、鋭く光った。

「奴らが地下に潜ろうと、空へ逃げようと、必ず尻尾を掴む。……僕の情報網ネットワークを甘く見るな」


 その周到さと手際の良さに、書文は呆気に取られた。

 ただの高校生とは思えない。

 いや、この人は最初から「ただの高校生」ではなかったのだ。

 王健たち暗殺部隊の面々も、僅かに目を見張った。

「へぇ……。やるじゃないか、坊主」

 李娜が感心したように口笛を吹く。

「単なる筋肉馬鹿かと思ってたけど、頭も回るのね。……少し見直したわ」

「敵を知り、己を知れば百戦危うからず、だ」

 祈は短く答えると、全員を見回した。

「場所が割れるまで、あと数十分。それまでに準備を整えるぞ。……今夜が山場だ」

 頼もしい言葉に、書文の胸に小さな希望の灯がともる。

(そうだ、諦めちゃだめだ。みんながついている)

 書文は拳を握りしめ、深く頷いた。

「はい!」



 郊外の工業団地、その一角に佇む古びた倉庫。

 錆びついたシャッターと剥がれかけた塗装は、一見すればただの廃墟にしか見えない。

 だが、重厚な鉄扉の向こう側に広がっていたのは、無機質で冷徹な狂気が支配する、完全なる異界だった。

 プシュー、というごく僅かな排気音と共に、空調が冷たい空気を循環させている。

 鼻を突くのは、古びた鉄錆の匂いと、鼻腔の奥にへばりつくような薬品の悪臭。そしてそれらが混じり合った、独特の生臭さ。

 広大なフロアは純白のパネルで覆われ、壁一面には巨大なガラス棚が整然と並んでいる。

 そこには、大小様々なサンプル容器が、まるで博物館のコレクションのように陳列されていた。

 だが、その中身は宝石でも美術品でもない。

 ホルマリンの溶液に揺蕩たゆたう臓器のようなものもあれば、乾燥剤と共に密閉された組織片もある。

 試験管の中で揺れる鮮血。

 シャーレに培養された皮膚組織。

 小さな瓶に収められた、数本の爪。

 すべての容器には名前ではなく、『Sample-001-A(血液)』、『Sample-002-C(表皮)』といった無機質な検体番号のラベルが貼られ、バーコードで管理されている。

 ここにあるのは人間ではない。「材料」だ。


「……ふむ」

 ステンレスの作業台の前で、魏哲はピンセットを使い、先ほど穆清から採取したばかりの「素材」を試験管へと慎重に移していた。

「うん……素晴らしい。実に素晴らしい品質だ」

 部屋の中央、広大な作業デスクの上で、魏哲はピンセットを使い、採取したばかりの『黒い毛髪』を一本一本、慈しむようにガラス管へと移していた。

「元の神ほどの神聖さはないが……この古代皇女の毛髪、実に興味深い」

 彼は拡大鏡ルーペを覗き込みながら、独り言のように呟く。彼は試験管を蛍光灯にかざし、恍惚とした表情で中身を見つめた。

 そこに入っているのは、黒く、つややかな一房の毛髪。

 だがそれは、頭髪ではない。

 よりプライベートな、本来ならば他人の目に触れることさえ許されない部位から無造作に刈り取られた、縮れた体毛だった。

「五千年の時を超えてきたとは思えないほどの生命力とつや。……そして何より、毛根部分に残存する僅かなエネルギー反応。頭髪だけでなく、他の部位の体毛に至るまで、生命力に満ち溢れているとはね。体毛に至るまで、全身の細胞が均一に『時間』の影響を受けている証左だ」

 魏哲はもう一本の試験管を眺めて、呟く。

 魏哲の手元には、先ほど穆清と衛佳から採取されたばかりの、あらゆる部位の体毛や皮膚片が、部位ごとに几帳面に分類されていた。

 彼はそれを、まるで最高級のシルクでも扱うかのような手つきで撫で、あるいは光に透かして確認する。

 そこには一切の劣情はなく、あるのは純粋な学術的探究心と、対象をモノとしてしか見ない絶対的な傲慢さだけだった。

 彼はサラサラとペンを走らせ、ラベルにデータを書き込む。

 その淡々とした作業音が、静まり返った研究室に不気味に響いていた。

 そこには一片の羞恥心も、背徳感もない。

 あるのは昆虫学者が珍しい蝶の羽を標本にする時のような、純粋で残酷な探究心だけだ。

 彼にとって、彼女たちの尊厳や羞恥など、実験データの余白に書き込む価値すらないノイズに過ぎないのだ。


「……う、ぅ……」

 部屋の隅、パイプ椅子に座らされた穆清は、抜け殻のようになっていた。

 両手足の拘束は解かれていたが、彼女は逃げ出そうともせず、ただ膝を抱えて小さく震えている。

 瞳の焦点は合わず、虚空を彷徨っている。

 先ほど行われた、あまりにも屈辱的な「サンプリング」。

 裸同然の姿で台に乗せられ、男たちの手によって全身のあらゆる場所から「サンプル」を剥ぎ取られた記憶。

 それは、高貴な皇女として育てられた彼女の尊厳を、根底から粉砕するに十分すぎる暴力だった。

 痛みよりも、羞恥よりも深く刻まれたのは、「自分は人間として扱われていない」という絶望的な事実。

「しょ、ぶん……さま……」

 カサカサに乾いた唇から、漏れるのはその名前だけ。

 助けて。怖い。

 心が音を立てて砕け散りそうな、限界の淵。

「……大丈夫よ」

 震える穆清の肩を、温かい手がそっと包み込んだ。

 隣に座る衛佳だ。

 彼女もまた、同じように身体中の組織を採取され、検査着一枚の頼りない姿だった。

 かつてあまたの民に崇められた神としてのプライドも、屈辱的な扱いに心身ともに疲弊しているはずだ。

 それでも、彼女の瞳から光は失われていなかった。

「穆清ちゃん、こっちを見て。……私がいるわ」

 衛佳は、震える穆清の肩を抱き寄せ、自分の体温を分け与えるように強く抱きしめた。

 その瞳には、五千年という悠久の時を生き抜いてきた「精衛」としての強靭な意思が宿っていた。

「あいつらの言うことを聞いちゃだめ。自分の価値を、あいつらの物差しで測っちゃだめよ。あなたは『サンプル』なんかじゃない。誇り高き漢の皇女、劉穆清でしょう?」

「か、姜……先輩……」

「泣いてもいい。怯えてもいい。でも、魂までは明け渡さないで。……必ず、迎えが来るから。あなたの心は、あなただけのものよ。誰にも汚せないわ」

 衛佳はそう言い聞かせながら、穆清の頭を胸に抱き寄せた。

 その心臓の鼓動は力強く、規則正しく打っている。

 その音が、防波堤となって穆清の崩壊を瀬戸際で食い止めていた。

 その声は、嵐の中の灯台のように、崩壊しかけていた穆清の意識を現実に繋ぎ止めた。

 穆清はすがるように衛佳の検査着の裾を握りしめ、その胸に顔を埋めた。

 だが、二人の間に流れる微かな体温の交流だけが、この冷たい無機質な部屋で唯一の「人間らしさ」だった。


「おや、美しい姉妹愛だね」

 魏哲がふと顔を上げ、二人を見て薄く笑った。

 だがその瞳は、やはり人間を見ている目ではなかった。

 実験動物同士が身を寄せ合う習性を、興味深げに観察しているだけの、冷酷な硝子の瞳だった。

 作業台の向こうで、魏哲がカチャカチャとガラス器具を鳴らす不快な音が続く。



 郊外へと向かう幹線道路は、真夜中の闇に沈んでいた。

 街灯のオレンジ色の光が、猛スピードで疾走するバンのフロントガラスを一定のリズムで流れていく。

 王健がタクシーを運転している。その車内は、張り詰めたような沈黙に支配されていた。

 ハンドルを握るのは王健。助手席には書文。後部座席には林祈と、暗殺者チームの李娜、張勇が押し黙っている。

「……ヒットした」

 静寂を破ったのは、スマホの画面叩く乾いた音と共に響いた、祈の声だった。

 スマホの画面が、青白く彼の顔を照らしている。

「見つけたぞ。奴の『本拠地』だ」

「でかした、坊主。場所は?」

 王健が前を向いたまま短く問う。

「北区の第三工業団地。廃工場群の奥にある、『第4倉庫』だ。……表向きは数年前に倒産した物流会社の倉庫だが、地下電力の使用量が異常だ。市内の総合病院一つ分に匹敵する」

「ビンゴってわけね」

 後部座席でナイフを弄んでいた李娜が、冷ややかな笑みを浮かべた。

「地下に巨大な設備を隠してる証拠だわ」

「よし、目的地変更だ。……飛ばすぞ、舌を噛むなよ」

 王健がギアを一段落とし、アクセルを踏み込む。

 エンジンが咆哮を上げ、車体が加速Gで沈み込んだ。


 流れる景色を見つめながら、書文は硬い表情を崩さなかった。

 握りしめた拳には力が入りすぎて、関節が白くなっている。

(待っててくれ、穆清、衛佳先輩……今行くから)

 焦燥感が胸を焼く。だが、それ以上に得体の知れない恐怖があった。

「……なぁ、林先輩」

 書文は視線を闇に向けたまま、震える声で尋ねた。

「その『魏哲』って奴……一体、何者なんですか?」

 先ほど、研究所で見たあの狂気。ただのマッドサイエンティストという言葉では片付けられない、何か根本的な「歪み」を感じたのだ。

 祈はスマホをスライドする手を止め、深くため息をついた。

「……魏哲。『天才』と謳われた男だよ」

「天才?」

「ああ。10歳で大学の物理工学に入学し、20歳で生物工学の博士号を取得した神童だ。専門は『再生医療』と『遺伝子操作』。彼の論文は、現代医学を50年進めるとまで言われた」

 後部座席の闇の中から、祈の静かな声が響く。それは怪談を語るような重苦しさを含んでいた。

「そして、国家の資金を得て、『西安先進技術研究所』を立ち上がって……少なくとも名目上、先端技術の研究と開発を行う施設だが」

「名目上の……先端技術か」

「そう。量子のエントロピーを逆転させて、タイムスリップの検証とか。……癌細胞で不老不死の実験とか、そして噂では生きた人間を使った遺伝子改変実験したとか」

 車内に戦慄が走る。

「彼には『共感性』が欠如しているんだ」

 祈は淡々と、しかし忌避感を込めて続けた。

「彼にとって、人間は『魂を持った存在』じゃない。単なる『炭素有機化合物の集合体』であり、分解可能な『機械』に過ぎない。だから、壊すことも、作り変えることも、彼にとっては積み木崩しと同じ遊びなんだ」

「……イカれてやがる」

 ハンドルを握る王健が、苦々しく吐き捨てた。

「俺たちも大概汚い世界で生きてるが、殺しには理由がある。金だの怨恨だのな。だが、そいつは……理由もなく人を切り刻むのか」

「ええ。正確には『知りたい』という理由だけですね」

 祈はスマホの画面を消した。

「奴は今、究極の『不老不死』、あるいは『種の進化』に取り憑かれているという噂がある。そこに現れたのが、五千年の時を超えて若さを保つ『精衛』の魂を持つ衛佳と、時空を超越した穆清だ」

「……あいつ、二人を……解剖する気か……?」

 書文の声が掠れる。

「最悪の場合はね」

 祈の言葉に、書文は唇を噛み締め、膝を強く叩いた。

「クソッ……!」


 重苦しい沈黙が再び車内を満たす。

 タイヤがアスファルトを噛む音だけが、不気味なほど大きく響く。

 このままでは、恐怖に飲み込まれてしまいそうだ。

 書文は、震える息を吸い込んだ。

 自分を鼓舞するように。あるいは、どこかで怯えているかもしれない二人へ届くように。

 彼は小さく、メロディを口ずさみ始めた。

「♪ Una mattina mi sono alzato...(ある朝、目覚めると)」

 哀愁を帯びた、しかし力強いリズム。

「♪ O bella ciao, bella ciao, bella ciao, ciao, ciao...(さらば恋人よ、さらば…)」

「あ?」

 王健が訝しげに眉をひそめた。

「なんだその歌は? 葬式に向かうような陰気な歌うたうんじゃねえよ」

 だが、書文は止めなかった。前を見据えたまま、声を少しだけ強くする。

「♪ Una mattina mi sono alzato... e ho trovato l'invasor...(ある朝、目覚めると…侵略者がいた)」

「……『Bella Ciao(さらば恋人よ)』」

 書文は歌うのを止め、静かに答えた。

「侵略された日常と自由を、取り戻すための歌です」

 彼は王健の横顔を真っ直ぐに見た。

「……だから、これは僕たちの歌です」

 ただの高校生が、裏社会の殺し屋に対して放った言葉。

 だが、その瞳には決して折れない光が宿っていた。

 後部座席で、祈がふっと口元を緩めた。

「……詩的だね、白くん」

 祈は、書文の歌の続きを、低い声で詠唱するように呟いた。

「『パルチザンよ、私を連れて行ってくれ』」

 祈は李娜たちを見回した。

「『死んでしまいそうなんだ』……。まさに今の僕たちの心境だ。……ねえ、殺し屋稼業の皆さん。今夜ばかりは、僕たちも抵抗者レジスタンスだ」

 その言葉に、李娜が鼻で笑った。

「ハッ、青臭いこと。……でも、悪くない響きね」

 彼女はナイフを鞘に収め、カチンと小気味良い音を鳴らした。

「侵略者を追い払うのは、古今東西、正義の味方の仕事って相場が決まってるわ」

「ケッ。俺は金のために動くだけだ」

 王健はそっぽを向いたが、その口元には微かにニヒルな笑みが浮かんでいた。

「だがまあ……ガキの歌にしちゃ、気骨があるじゃねえか」


 車内の空気が、変わった。

 ただの「利害の一致」による呉越同舟ではない。

 彼らの心の中に、奇妙な連帯感が生まれていた。

 それは、「理不尽な侵略者」である魏哲に対する怒りであり、そして小さな命を守ろうとする、人間としての原初的な「大義」だった。

 殺し屋の「大義」が、少年たちの「正義」と交じり合い、新たな「レジスタンス」として共鳴し始める。

「しっかり掴まってろよ、パルチザン共!」

 王健が叫び、ハンドルを切った。

 車は闇を切り裂き、決戦の地へと突き進んでいく。



 一方その頃。

 郊外の倉庫地下、研究室の一角にある監禁エリア。

 そこは、先ほどの拷問のようなサンプル採取が行われた場所とは別の、白い独房のような部屋だった。

 だが、意外なことに……そこには、美味しそうな匂いが充満していた。


「……んぐ、ん……」

 パイプ椅子ではなく、それなりに清潔なベッドの上で、穆清はスプーンを口に運んでいた。

 プラスチックのトレイに乗っているのは、ほかほかの五穀粥ごこくがゆ、温野菜の蒸し物、そして白身魚のスープ。

 質素だが、栄養バランスが完璧に計算された、温かい食事だった。

「……美味しい……」

 穆清がポツリと漏らす。

 胃の中に温かいものが落ちると、凍りついていた身体の芯が少しずつ解けていくのが分かった。

 恐怖でガタガタと震えていた指先も、ようやく落ち着きを取り戻しつつある。

「いっぱいお食べ。体力つけないと、ここから出るときに走れないからね」

 隣のベッドで、衛佳が自分の分のスープを穆清のトレイに移してやりながら、優しく微笑んだ。

 衛佳自身も食事を摂っていたが、その視線は常に穆清の様子を注視していた。

(……とりあえず、毒は入っていないわね)

 衛佳は冷静に分析していた。

 連行された直後の屈辱的な検査。裸同然にされ、あらゆる部位の「素材」を採取された恐怖。

 だが、それが終わるや否や、魏哲は二人に服(スウェットのような簡素な部屋着だが)を与え、こうして温かい食事まで提供してきた。

 暴力はない。性的な陵辱もない。

 ただ徹底して、「検体の健康管理」を行っているだけなのだ。

「魏哲……」

 衛佳はスプーンを握りしめた。

(あいつにとって、私たちは人間じゃない。壊れたら困る、ただの高級な実験器具なんだわ)


 穆清は、衛佳の庇護の下、少しずつ精神の安定を取り戻していた。

「姜先輩……貴女は、食べないのか?」

「私は大丈夫。それより、あなたが元気にならないと、書文くんが心配するわよ」

「書文様……」

 その名を聞いただけで、穆清の瞳が揺れる。

 だが、その揺らぎは先ほどの絶望とは違う。「会いたい」という、生きるための希望の光だった。

 この、たった数か月の現代生活。そこで得た書文との絆が、そして今隣にいる衛佳の存在が、かろうじて彼女の心をこの世に繋ぎ止めていた。

 衛佳はそっと穆清の背中を撫でる。

(私が守らなきゃ。……私は五千年も生きてきた神だもの。こんな屈辱、どうってことない。でも、この子は違う)

 ただの、時代に翻弄された少女なのだ。彼女が壊れてしまうのだけは、何としても防がなければならない。


『ピンポン』

 不意に、部屋のスピーカーから電子音が鳴り響いた。

 無機質な音が、束の間の安息を切り裂く。

『やあ。どうだい、姫君たち? 食事のお味は?』

 スピーカー越しに聞こえてきたのは、魏哲の声だった。

 先ほどと同じ、粘着質な優しさを含んだ、虫唾が走るような声。

 穆清の肩がビクリと跳ね、スプーンがカチャンと音を立てて落ちた。

 彼女は反射的に衛佳の背中に隠れる。

 衛佳は穆清を背中で庇いながら、天井の監視カメラを睨みつけた。

「……食事中に話しかけるなんて、随分とお行儀が悪いのね」

 凛とした声。恐怖を微塵も感じさせない、女王のような響き。

「まあ、さっきまで私たちがされたことに比べれば、可愛いものだけど」

『ハハッ!』

 スピーカーの向こうで、魏哲が歓喜したように笑った。

『いいねえ、その威勢! さすがは五千年の時を生きた神、炎帝の娘・精衛だ!』

 称賛の言葉。だがそこには、尊敬の念など欠片もない。

 あるのは、珍しい猛獣が吠えるのを見て喜ぶような、歪んだ観察者の視点だけ。

『力を失い、ただの小娘になり下がっても、その魂の骨格までは風化していないようだ。……好きだよ、そういう強がり』

 魏哲の声が、ふっと低くなる。

『だが、忘れないでくれたまえ。今の君に神の力はない。君の価値は、その不老の肉体……特異な遺伝子配列の中にしかないんだ』

『だから、安心していい。……じっくりと、たっぷりと、骨の髄まで調べさせてもらうからね』

 ブツッ。

 一方的に通信が切れた。


 静寂が戻った部屋に、空調の音だけが響く。

 衛佳は唇を噛み締め、拳を握りしめた。

 今まで、数え切れないほどの敵と対峙してきた。

 皇帝の位を狙う者、神の力を欲する者、私利私欲のために命を奪おうとする者。

 彼らの欲望は、醜いが故に「理解」できた。権力、金、恐怖、快楽。

 だが……魏哲は違う。

 魏哲は、命を奪おうとしない。痛みも、必要最低限サンプリング以外は与えてこない。

 食事を与え、健康を気遣い、まるで愛でるように監禁する。

(……何なの、あいつは)

 純粋すぎる好奇心。

 子供が蝶の羽根をむしる時のような、無邪気で、だからこそ底知れない残酷さ。

 五千年の時を生きた衛佳ですら、初めて背筋に冷たいものが走るのを感じた。

(これは……今までとは違う。未知の恐怖だわ)

 彼女は振り返り、震える穆清を強く抱きしめた。

 その温もりだけが、この冷たい狂気の世界で唯一の確かなものだったからだ。

最後までお読みいただき感謝です!

魂の繋がり、そして決戦の幕開け。

次回、ついに全ての因縁に決着がつきます。ご感想・ご意見、ぜひお寄せください!

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