壱 皇女、空から降ってきた
またお逢えて嬉しいです。
本作は「現代×古代中国皇女」タイムスリップラブコメ&シリアスです。
SNS承認欲求に悩む男子高校生のもとに、空から漢の皇女が降ってきたら――?
現代と古代、価値観のギャップ、そして「注目」と「孤独」をテーマに描きます。
どうぞよろしくお願いします!
暗濁の淵に、白書文はただ一人、浮かんでいた。
そこは重力も空気もない、深海のような静寂が支配する場所だ。だが、彼にとっては重苦しい地上の空気よりも遥かに呼吸がしやすかった。ここには彼を値踏みし、点数をつける視線もなければ、存在を認めないという名の暴力的な無視もないからだ。ただ、無慈悲な意識だけが彼を勝手に再生し続ける。
脳裏で、古い映写機のようにカタカタと乾いた音を立てて、記憶のフィルムが回り出した。
『素晴らしいぞ、白くん!君のこの提案、実に画期的だ』
教師の誇らしげな声が、空虚な空間に反響する。権威ある者からの肯定だけが、彼の輪郭を形作る唯一の材料だ。
『さすが白くん。テストの点数だけじゃなくて、気配りも完璧ですね』
クラスの女子たちの黄色い声援が、甘い蜜のように脳髄を浸していく。
そして、あの人――生徒会長であり、学園のアイドルのような存在、姜衛佳が微笑む。
『白くん、いつもありがとう。あなたがいてくれて助かったわ』
ああ、もっと。もっと僕を見てくれ。
僕という存在を認めてくれ。
現実の白書文という人間は、中身のない空っぽの器だ。他者からの賞賛という水を絶えず注がれなければ、自身の形を保つことさえできずに崩れ落ちてしまう、ひび割れた器に過ぎない。
学校という劇場では「優等生」の仮面を精巧に作り上げ、教師の期待に応え、後輩の面倒を甲斐甲斐しく見る。だが、その献身のすべては「良い人だと思われたい」「必要とされたい」という、飢餓感にも似たどす黒い渇望からくる演技に過ぎない。
唐突に、視界が切り替わる。
今度はスマートフォンの冷たい液晶画面だ。ブルーライトが暗闇の中で網膜を焼くように眩しい。
SNSの通知欄。
『いいね』の数。
「0」。
「0」。
再読み込み。リロード。指先が摩擦で熱を帯びるほど、執拗に画面をスワイプする。
「0」。
『誰も君を見ていない』
『君には価値がない』
『透明人間』
『モブキャラ』
無機質な数字の羅列が、彼を嘲笑うかのように画面上で踊る。数字が増えない。フォロワーが増えない。誰からもリアクションがない。僕はここにいるのに。僕は確かに呼吸をして、生きているのに、世界は僕を黙殺する。
「う、あ……」
喉の奥から、乾いた悲鳴が漏れそうになった、その時だった。
前触れもなく、視界が黒く塗りつぶされるような衝撃が彼を襲った。
天井が落ちてきたのかと錯覚するほどの重みと、柔らかな温もりが同時に圧し掛かる。
夢の膜が、暴力的に引き裂かれた。
「――っ!?」
書文は弾かれたように覚醒した。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
腹部にのしかかる重みへ目をやり、思考が凍りつく。それは家具でも瓦礫でもない。
「……人?」
人間が、自分の上に落ちていた。
いや、ただの人間ではない。
闇に溶け込みそうなほど深く、濡れたような艶を持つ長い黒髪。月光を吸い込んで鈍く輝く、金糸の刺繍が施された豪奢な漢服。流れるような絹のひだ、博物館のガラスケース越しにしか見たことがないような精緻な髪飾り。
それはまるで、時代劇の撮影所から時空を超えて放り出されたような、圧倒的な現実味のなさを纏った少女の姿だった。
「う……」
少女が微かに呻き、糸が切れたようにぐったりと意識を手放した。
彼の上に重なるその体は驚くほど軽く、華奢だった。
これが、白書文の「非日常」の幕開けだった。そして同時に、彼が最も欲していた「注目」と、彼を破滅させかねない「災厄」が、同時に空から降ってきた瞬間でもあった。
時計の数字は午前6時を示していた。
東の空が白み始める前の、世界が最も深く、濃密な青に沈む時間帯。
静まり返った部屋の中で、時計の秒針を刻む音だけが異様に大きく、神経を逆撫でするように響く。
書文の部屋の狭いベッドには、見知らぬ少女が横たわっている。
彼は学習机の椅子に座り、爪を噛み砕きそうになるほどの力で噛みながら、彼女を観察していた。小動物のように小さく丸まったその体躯は、推定身長150センチメートルを超えてないほどだろうか。現代の平均的な高校生と比べても明らかに小柄で、その華奢さは触れれば折れてしまいそうな儚さを漂わせている。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
警察を呼ぶべきか? 救急車か?
いや、どう説明する。「空から漢服の美少女が忽然と現れた」なんて言えば、薬物検査を強要されるのがオチだ。それに、階下で眠る両親にバレたらただでは済まない。深夜に異性の、しかも素性不明の少女を連れ込んだと誤解されたら、長年築き上げてきた「優等生」としての立場も音を立てて崩壊する。
「……おい、君、大丈夫?」
おずおずと声をかけてみる。返事はない。
改めて観察すると、少女の顔立ちは陶器のように白く、人間離れした造形美を持っていた。長いまつ毛が白い頬に濃い影を落としている。現代のメイクアップでは到底表現できない、生まれながらの高貴さと気品が、閉じた瞼からさえ滲み出ている。
その服装は、コスプレにしてはあまりにも素材が上質すぎた。重厚な絹の光沢、見たこともない複雑な結い方をした帯。肌には細かい擦り傷があるものの、命に別状はなさそうだ。
(す……すごい)
恐怖と混乱の裏側で、書文の中にある「承认欲求の怪物」が鎌首をもたげた。
これをSNSに上げたら、どうなる?
この非日常的な光景。圧倒的な美少女。ミステリアスな状況。
『空から美少女降ってきたwww』
『なにこのクオリティ、映画の撮影?』
『白のやつ、とんでもないもんと遭遇してるぞ』
通知が鳴り止まない未来。バズる予感。「0」だった数字が、桁違いの速度で跳ね上がっていく幻覚。クラスメイトたちが自分を見る目が変わる瞬間。「白ってなんかすごい体験してるよな」という噂が廊下を駆け巡る。
指が勝手に動いていた。
スマートフォンのカメラを起動する。
「顔は……顔は映さないほうがいいよな。さすがに」
それは良心というより、後々のトラブルを避けるための卑怯な保身だった。言い訳のように呟きながら、彼は構図を決めた。
少女の顔が見えないよう、後ろ姿や、特徴的な漢服の刺繍、そして月光に照らされた非現実的なシルエットを中心にフレームに収める。
シャッター音を消して、撮影。
『エグいもん降ってきた。とりあえず保護したけど、これ何時代の服? #漢服 #謎 #拡散希望』
投稿ボタンを押した瞬間、背筋にゾクリとした快感が走った。電気回路が繋がり、電球が明滅して灯るように、彼の空虚な心に一瞬の熱が灯る。
これで、僕は「何者か」になれるかもしれない。
そんな浅はかな期待が、彼自身の首を絞めることになるとは知らずに、彼はじっと画面を見つめた。
「……ん」
微かな衣擦れの音がして、少女が身じろぎをした。
書文は弾かれたようにスマホを隠し、身構える。
少女がゆっくりと瞼を開けた。その瞳は、吸い込まれそうなほど深い黒曜石の色をしていた。底知れぬ闇と、鋭い知性を同時に宿した瞳。
彼女はぼんやりと天井を見つめ、やがてゆっくりと上半身を起こした。そして、目の前にいる書文を見て、驚愕に見開かれた瞳が一瞬にして鋭い警戒の色を帯びた。
「ーー汝、何人ぞ!?」
凜とした、しかし聞き慣れない響きの言葉が放たれた。
中国語だ。それは間違いない。だが、学校の授業やテレビドラマで聞く現代の標準語とは、イントネーションも単語の選び方もまるで違う。古風で、どこか詩的な韻律を含んでいるが、酷く訛った地方の方言のようにも聞こえる。
「え、あ、僕は……白書文といって……あの、言葉、通じますか?」
書文はしどろもどろに現代標準中国語(普通話)で答えるが、少女は理解できない様子で怪訝に眉をひそめるだけだ。
彼女は周囲を見渡し、見慣れないプラスチックの家具や点滅する家電のランプ、窓の外に広がる高層ビル群の人工的な灯りを目にして、パニックを起こしたように叫んだ。
「ここは……何処じゃ!妾は……妾は確かに、あの姦賊の手から……!」
彼女が寝台から降りようとして、慣れない柔らかなマットレスに足をもつれさせる。
「あ、危ない!」
書文が反射的に支えようと手を伸ばすと、少女は烈火のごとくその手を振り払った。パシッ、という乾いた音が静寂を切り裂いて部屋に響く。
「触れるな! 下郎が、気安く妾の玉体に触れるでない!」
言葉の細部は分からなくとも、その拒絶の意志は痛いほど伝わってきた。それは単なる敵意ではない。もっと根本的な、貴い者が卑しい者を遠ざけるような、絶対的な「身分の差」を強調する拒絶だった。彼女の瞳には、15歳ほどの少女とは思えないほどの冷厳な光が宿っている。
(だめだ、通じない……!)
どうすればいい? 親が起きる時間は刻一刻と迫っている。こんな騒ぎを聞きつけられたら終わりだ。
学校にも行かなければならない。遅刻したら内申点に響く。積み上げてきたものが崩れる。
焦燥感が胃を雑巾のように絞り上げる。スマホの時計を見る。6時15分。あと30分もすれば母が起きてくるだろう。
その時、絶望の淵にある彼の脳裏に一人の人物が浮かんだ。
部活の先輩であり、彼が密かに強烈な劣等感と憧れを抱いている完璧超人。そして、その恋人である生徒会長の姜衛佳は、確か外国からの帰国子女だったはずだ。あの二人なら、どんなトラブルも解決してしまう不思議な力がある。
「……林先輩なら!」
まだ早朝の五時過ぎだ。非常識極まりない時間だが、背に腹は代えられない。溺れる者が藁をも掴む思いで、震える指でLINEの通話ボタンを押した。
コール音は永遠のように長く感じられた。
ワンコール、ツーコール……出ないか?
いや、出てくれ。頼む。僕を助けてくれ。優等生の僕の人生を守ってくれ。
『……はい』
七コール目で、眠気を帯びた、しかし低くはっきりとした林祈の声が聞こえた。
「せ、先輩! すみません、朝早くに! 白です!」
『白……? どうしたんだ、こんな時間に。何かあったのか?』
祈の声が瞬時に覚醒し、鋭利な刃物のようなシリアスなトーンに変わる。その頼もしさに、書文は安堵で膝から崩れ落ちそうになった。
「あ、あの、信じてもらえないかもしれないんですけど……空から女の子が降ってきて、すごい訛ってるっていうか、古文みたいなの喋ってて、僕、言葉わかんなくて……! 親に見つかったらヤバいんです!」
一瞬の沈黙。
普通の人間なら「寝ぼけてるのか」と電話を切るところだろう。あるいは「警察に電話しろ」と言うはずだ。しかし、電話の向こうの林祈は違った。彼は、この街の「異常」を知る側の人間だったからだ。
『……分かった。すぐにビデオ通話に切り替えてくれ。衛佳を起こす』
「えっ、衛佳先輩も……!?」
『彼女なら言葉が分かるはずだ。落ち着け、。今すぐ繋ぐ』
数秒後、スマートフォンの画面が切り替わる。そこには寝癖のついたパジャマ姿の林祈と、目をこすりながらも真剣な眼差しを向ける姜衛佳が現れた。本来なら、憧れの生徒会長のプライベートな姿など直視できず、高校生同士の同棲という事実に激しい動揺を覚えるところだが、今の書文にはツッコミを入れる余裕など微塵もなかった。
書文は震える手でカメラを反転させ、部屋の隅で膝を抱えて警戒している少女を映し出した。
画面越しに、衛佳が息を呑む気配が伝わる。
『……これは』
衛佳が低く呟く。その瞳から眠気は完全に消え失せていた。
『古語だね。それも、かなり位の高い……前漢、それとももっと古い?』
衛佳は画面越しに、少女に向かって語りかけた。流暢だが、現代の中国語とは明らかに響きの異なる言葉だ。まるで博物館の音声ガイドから流れるような、あるいは時代劇のセリフのような、古風で重厚な響き。
優しく、諭すように。敵意がないことを示すように、彼女は言葉を紡ぐ。
少女がハッと顔を上げ、「声の主」を探すようにキョロキョロとした後、光る板――スマートフォンの中の衛佳を見つめた。最初は「絵の中の小人が喋っている」ことに驚愕し、その妖術の道具を叩き割ろうと手を振り上げたが、衛佳の穏やかなトーンを聞くうちに、その強張った身体から力が抜けていった。
黒曜石のような瞳から警戒の色が薄れ、代わりに大粒の涙が溢れ出した。堪えていた堰が切れたように、少女は嗚咽を漏らしながら何かを必死に訴えかける。衛佳がそれを深刻な顔で聞き取り、時折頷く。書文には内容はさっぱり分からないが、二人の間には確かに意志の疎通が成立していた。
やがて、衛佳が祈と書文に向き直った。表情は、いつもの生徒会長としての冷徹な仮面に戻っていた。
『……状況は把握したよ。白くん、よく聞いて』
冷静な声が、書文の混乱した思考を縫い止める。
『彼女の名前は劉穆清。……信じられない話だけど、彼女は「前漢」の時代から逃げてきた皇女様よ』
「は……皇女……?」
『詳しい話は後でする。とにかく、彼女を外に出しちゃダメ。ご両親にも、今はまだ会わせないほうがいいよ』
祈が会話を引き継ぐ。
『白、君はいつも通り学校に行け。遅刻や欠席は逆に怪しまれる。穆清さんのことは、部屋に鍵をかけて隠しておいてくれ。水と食料だけ置いておけば、彼女も賢い人だ、静かにしているはずだ』
「で、でも……! 部屋を壊されたりとか……!」
『大丈夫だ。衛佳が「私たちが戻るまで、ここで身を潜めていなさい」と伝えた。彼女は礼儀を知っている。……頼めるな?』
祈の真っ直ぐな視線に射抜かれ、書文は反射的に背筋を伸ばした。画面越しだというのに、逆らえない威圧感がある。
「は、はい……!」
通話が切れた。プツンという電子音の後、部屋には重苦しい静寂が戻る。
書文は、部屋の隅で小さくなっている「皇女様」を見た。
改めて見ると、その小ささが際立っていた。
身長は目測で148センチメートルほどだろうか。学習机の椅子に座れば足が床につかないかもしれない。それほどまでに華奢で、儚い。豪奢で重厚な漢服の布地に埋もれるようにして座り込むその姿は、まるで精巧な着せ替え人形のようだ。
しかし、その顔立ちは確かに高貴だった。乱れた黒髪の間から覗く白い肌、意志の強さを感じさせる眉。恐怖に震えてはいるが、背筋だけは無意識にピンと伸びている。
(とんでもないことになった……)
だが同時に、彼の胸の奥で、奇妙な高揚感が燻り始めていた。
これは、僕だけの秘密だ。
僕だけが知っている、世界の裏側。
「モブキャラ」の僕に、ついにスポットライトが当たったのだ。
彼は穆清に、昨夜の残りのコンビニパンと未開封のミネラルウォーターを渡した。ジェスチャーで唇に人差し指を当て、「静かに」と伝える。彼女は不思議そうにパンの袋を見つめ、次いで書文の顔をじっと見つめ返したが、小さく頷いた。
書文は逃げるように部屋を出て、鍵をかけ、学校へと向かった。
その日の授業は、一秒たりとも頭に入ってこなかった。
教科書の文字はただのインクの染みにしか見えず、教師の声は遠い海のさざ波のように脳を素通りしていく。
書文は机の下でスマホを握りしめ、数分おきに昨夜の投稿を確認していた。
『いいね』の数は、彼の予想を遥かに超えて伸びていた。
数百、いや、千を超えようとしている。
通知欄が埋め尽くされ、赤いバッジの数字が増え続ける。
『なにこれCG? クオリティ高すぎ』
『ガチならヤバいだろ』
『場所どこ? 特定班出番だぞ』
『服の刺繍がガチすぎる、博物館級だろこれ』
『釣り乙』
承認欲求が満たされる甘美な快感と、得体の知れない不安が、マーブル模様になって彼の内面を掻き回す。心臓が早鐘を打ち、手汗でスマホが滑る。
休み時間、周囲のクラスメイトたちが「おい、今のスレ見た?」「すげーのが流れてきた」と話しているのが聞こえるたび、心臓が跳ね上がった。
それ、僕だよ。僕が撮ったんだよ。
僕が「当事者」なんだ。
言いたい。叫びたい。机の上に立ち上がって、「この写真の撮影者は僕だ!」と宣言したい。
でも言えない。言えば、あの「皇女」の存在が公になる。祈や衛佳との約束を破ることになる。
このジレンマが、彼の精神をじりじりと削っていった。「秘密を持つ優越感」と「誰にも言えない孤独」が、彼の中で激しくせめぎ合っていた。
放課後のチャイムが鳴ると同時に、彼は教室を飛び出した。
一刻も早く、あの非日常へ戻りたかった。
校門には、すでに私服姿の林祈と姜衛佳が待っていた。
制服ではない私服姿の二人は、学校という枠組みからすでに逸脱しているように見えた。
「先輩!」
「白」
祈は短く呼びかけ、余計な挨拶は省いて歩き出した。
「急ごう。君の家まで案内してくれ」
三人は足早に住宅街を進む。夕暮れ時の街は、家路を急ぐ人々で溢れていたが、彼らの周囲だけ空気が張り詰めていた。
衛佳は険しい表情でスマホを操作し、何かのデータを検索しているようだった。
「……祈。この時代の史料と照らし合わせてみたけど、劉穆清という名の皇女は、正式な記録には残っていないよ」
「消された歴史、か」
祈が低く呟く。
書文は二人の会話についていけず、ただ背中を追いかけた。
この二人、ただの先輩カップルじゃない。纏っている空気が違う。まるで、こういう「異常事態」に慣れているような……百戦錬磨の雰囲気がある。僕が知っている「優秀な生徒会長と副会長」という枠を遥かに超えている。
(先輩たちは、一体何者なんだ?)
白家の玄関に到着すると、運悪く(あるいは必然か)、スーパーの袋を下げて帰ってきた書文の母親と鉢合わせた。
「あら、書文? お友達?」
「あ、母さん、えっと、その……」
しどろもどろになる書文を制し、衛佳が前に出た。
その瞬間、彼女の表情が一変した。険しい戦士のような顔から、花が咲くような愛想の良い笑顔へ。女優も裸足で逃げ出すほどの切り替えだった。
「初めまして、お母様。書文くんの学校の先輩の、姜衛佳と申します。こちらは林祈です」
「あらいやだ、そんな丁寧な。まさかあの生徒会長さん? どうぞ上がって!」
「実は、書文くんにお願いしていた留学生のホームステイの件で、少し資料を持ってきたんです。部屋で少しお話ししても?」
「留学生? まあ、書文ったら何も言わないんだから。ええ、どうぞどうぞ! お菓子持っていくわね」
鮮やかすぎる虚言と交渉術。母親はすっかり上機嫌になり、疑う余地もなく彼らを招き入れた。
書文は呆気にとられながら、二人を自分の部屋へと導いた。
「……衛佳先輩、すごいですね」
「場数は踏んでるからね。嘘も方便よ」
ふふっ、と悪戯っぽくウィンクする衛佳に、祈が苦笑する。
部屋に入り、二重にロックをかける。
静まり返った部屋の隅、カーテンの陰に、穆清はいた。
朝よりも幾分落ち着いた様子だが、その瞳には依然として強い警戒の色が宿っている。
床には、手つかずのパンが置かれたままだ。ペットボトルのキャップは未開封のままで、彼女がその開け方を知らなかったことを物語っていた。喉が渇いていただろうに、じっと我慢していたのだ。
衛佳が歩み寄り、膝をついて彼女と同じ高さの目線になる。
そして、流れるような古語で語りかけた。
「穆清様。お待たせいたしました。我々は味方です。決してあなたを害するものではありません」
穆清は衛佳を見つめ、次いで祈と書文を見た。
その瞳が揺れ、ついにその重い口を開いた。
「……余は、逃げたのだ」
鈴を転がすような、しかし深い悲しみを帯びた声だった。衛佳が同時通訳のように、書文たちに内容を伝える。
「お祖母様……と叔父様たちは、狂ってしまわれた。父上を死に追いやって、弟たちを次々と皇帝にして。そして……彼らは言ったのだ。『天命は劉氏ではなく呂氏にある』と」
「呂氏……じゃあ、恵帝の時代の……!」
書文が息を呑む。世界史の授業で習った「諸呂の乱」前夜のことだろうか。だとすれば、彼女は歴史書に記載されていない恵帝の娘ということになる。検証されれば歴史的大発見だ。またしても、「承認欲求」という名の怪物が彼の腹の底で蠢く。
「余は知らぬ人たちに襲われた。その人たちの叫び声で、どうやら、余の行列を弟君のだと思われたようだ。……それでも、余もあの人に殺されるでしょう。彼らの目的は呂氏の血脈を断絶させることだからな……」
穆清の身体が小刻みに震え始める。
「家臣たちの護衛で、行列を捨て、逃げる途中……何か目の前に急に『穴』ができて……目覚めたらここにいた」
穆清は震える手で、自分の豪奢な衣の袖を握りしめた。関節が白くなるほど強く。
「あの人たちはきっと、弟たちも諦めずに殺しに行ったでしょう。……もう嫌だ。血を見るのは、もう嫌じゃ……」
祈と衛佳が顔を見合わせる。
その視線には、書文には理解できない、しかし明確な「合意」があった。
(やっぱり、あの時か……)
祈の目が、刑事のような鋭さを帯びている。
(あの頃のあいつらの仕業か。皇女を「紛れ込ませた」な。どちらにせよ、「力」を捨てた今の僕たちでは、何の助けにもなれないかもしれない)
「白」
祈が静かに言った。
「君は、大変なことに巻き込まれたかもしれない。でも、安心してくれ。僕たちが必ず何とかする」
その言葉は頼もしかったが、同時に「お前は蚊帳の外だ」と宣告されているようでもあった。
書文は唇を噛んだ。
僕は、ただの一般人なのか?
空から降ってきた美少女の第一発見者なのに、結局はお客さん扱いなのか? 認められたい。役に立ちたい。この物語の主人公になりたい。
その焦りと劣等感が、彼に「昨夜の投稿」のことを言い出せなくさせた。
(もし投稿のことを言ったら、怒られるんじゃないか? 軽率だと軽蔑されるんじゃないか?)
そう考えて口をつぐんだことが、致命的な判断ミスとなる。
一方その頃。
インターネットという広大な情報の海を、一匹の「鮫」が泳いでいた。
薄暗い部屋には、電子機器の冷却ファンの音だけが低いハミングのように響いている。
壁一面に設置された無数のモニターの明かりだけが、その男の顔を蒼白く照らしていた。
男は白衣の襟を直し、その指先はキーボードの上で目にも止まらぬ速さで舞っていた。プログラマーというよりは、ピアノのヴィルトゥオーゾのような指運びだ。
「……ふん」
男が鼻を鳴らす。
モニターの一つに、一枚の画像が表示されていた。
ベランダの瓦礫の上に横たわる、美しい刺繍の漢服を着た少女の後ろ姿。
『#漢服 #謎 #拡散希望』
「馬鹿なガキだ。承認欲求に踊らされて、自分の居場所を世界中に叫んでやがる」
男――「先端技術民間研究所」の主任研究員、魏哲は嘲笑うように呟いた。
彼はキーボードを叩き、画像のメタデータを解析する。
位置情報(Exif)は削除されていた。一般人ならそこまでだが、彼のようなプロフェッショナルにとっては、それは「隠したつもり」の児戯に過ぎない。
魏哲の目は、もっとアナログな情報を捉えていた。
背景に映り込んだわずかな建物の特徴――隣のマンションの外壁タイルの特定のパターン、遠くに見える送電鉄塔の形状。
投稿時間と太陽の角度による影の長さから算出される緯度経度。
そしてアカウントの過去の投稿履歴――見切れた通学路の看板、近所の公園での自撮り、学校指定の鞄のロゴ――から特定された生活圏。
デジタルタトゥーのごとく刻まれた痕跡を繋ぎ合わせ、全てのピースがカチリと音を立てて組み合う。
地図ソフトの上で、一点が赤く点滅し始めた。
「……ようこそ現代へ、姫様」
魏哲はゆっくりと立ち上がった。
その背後には、黒ずくめのタクティカルギアを装備した数人の影が控えている。
彼らが放つ気配は、人間的な感情が欠落した、無機質な暴力の匂いだった。
科学という迷信、科学という宗教、科学というカルト。
「真理」のためならば、倫理も道徳も、他者の人生さえも容易く踏みにじる狂信者たち。
「ターゲット確認。座標特定。……これより、『希少検体』の採取に向かう」
魏哲の呟きは、電子の海を越え、白書文たちの平穏な日常へと伸びる死神の鎌となって振り下ろされようとしていた。
何も知らない白書文のスマホは、今もノンキな通知音を鳴らし続けている。
『いいね』の数字が増えるたび、死の足音もまた、確実に彼らの部屋へと近づいていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
第1話は主人公・白書文の孤独と、皇女・穆清の突然の登場までを描きました。
次回から、二人の奇妙な同居生活が始まります。
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