脆い地図にマヨネーズ
朝の校内放送は、やたら元気だった。
「今週は“普通推進週間”です! 焦らず、押さず、詰め込まず!」
最後の「詰め込まず」で、教室のどこかから「宿題は……?」という掠れた反乱が起き、すぐに沈んだ。
黒板の端には中村先生が書いた「安全第一」の文字。
昨日までより一画ずつ丁寧で、字面にちょっとだけ優しさがあった。
佐伯は今日、机をもう半歩近づけた。
「……おはよう」
「おはよう」
それだけで、胸の奥の熱点が少し膨らむ。くだらない会話は、強い。
昼。綾からメッセージ。《放課後、添え底×3。針は北西→南→学校外縁。》
返信を打つ指先に、旧講堂からの鈴の尾が細く触れた。底はまだ受けている。
なら、上澄みを散らすだけだ。
最初の目的地は、文具店「星野紙文」。
アーケードの裏通りにある古い店で、棚の高さが不思議にまちまち、
天井から吊るされた見本鉛筆が微妙に回転している。方位針はレジ横のガチャガチャ台で止まった。
「ここ、脆い?」
「段差・子ども・回るもの。三拍子そろった浅瀬」
綾が即答する。
店主の星野さん(推定70代)は、登場から全力だった。
「おや、君たち。学業成就消しゴム、今なら二個で一個ぶん!」
それ、実質一個では? と心でツッコミつつ、俺は小銭を出す。
綾は真顔で「経済が回る」と言って二個買った。
レジ横で、小さな結びをガチャ台の支柱に回し、
紙片(“形”)を貼り合わせて核と同じ手の型で固定する。
共視は十秒。
右目に「子どもが段差でつまずく未来」、左目に「ガチャ台の上で飴をのどに詰まらせる未来」。
三拍五拍、掌の“×”。
圧がほどけ、紙片の端がふっと軽くなる。
「はい、おまけのシールね。がんばるカエル」
星野さんは、世界一どう使えばいいか分からないシールをくれた。
「カエル、強いな」
「強い」
俺と綾は同時にうなずく。くだらないは、やっぱり強い。
店を出ると、針は南へ回った。
商店街のはずれ、バス停「南一丁目」。ベンチがゆるく傾き、時刻表のアクリルがひび割れている。
通学の中学生、買い物帰りのおばあさん、抱っこひものお母さん。脆いが三つくらい重なっている。
「ここは“導きの線”を長めに」
綾が紙垂の紐をベンチの脚から標識へ、さらに街路樹の根元へと細く一本だけ結ぶ。
俺は“形”の紙片を折って、願いの文を短く写す。
『放課後にポテチの味で無駄に揉める(のり塩派vsコンソメ派)』
読み返すだけで笑ってしまう。
共視。右目に「ベビーカーの車輪が点字ブロックに挟まる未来」、
左目に「バスのステップでつまづく未来」。
三拍五拍、掌の“×”。
圧がベンチの下に砂のように沈む感じがして、
ベンチの傾きがなぜか一ミリくらいまっすぐになった気がした。
「物理、直った?」
「気のせい。でも、気のせいが効くことはある」
綾が肩をすくめる。
ちょうど来たバスの運転手が、珍しく優しい声で「ゆっくりで大丈夫ですよ」と言った。
気のせいは、増えると現実になる。
次は、学校外縁——公園のすべり台。
夕方、子どもたちが群れ、親たちの視線が斜めに交差する。針は、すべり台の階段踊り場で止まった。
「ここ、連鎖が起きやすい。ひとりの足がずれた瞬間、後ろがドミノ」
「短・短・長で三回、薄くする」
綾は隊列を乱さないよう離れたベンチから、俺はフェンス際から。遠距離共視。
右目に「一番上で押し合い」、左目に「一番下で横入り」。
三拍・三拍・七拍。
圧が三回、かすれる。
階段の一番上でお母さんが「手、貸して」と先に声をかけ、
下では年配の男性が「順番な」と指で合図した。
赤は、散った。
猫がフェンスの上を渡っていく。ツンだ。
「今日もツンだな」
「名前、やっぱり“ツン”でいいんじゃ」
「命名、ツン」
猫はこっちを見ず、しっぽだけ二回振った。
二回は、たぶん肯定だ。
作業の合間にコロッケを買ったら、店主が唐突にソースとマヨネーズをくれた。
「今日はサービスだよ。若いのはカロリー摂っとけ」
紙袋の底がじんわり温かい。
「マヨ派?」
「いや、ソース。君は?」
「マヨソース。ハイブリッドは正義」
言い切る綾に、俺は未来視ではない予感を覚えた。のちのち、論争になるやつだ。
『ポテチ味論争』に続き、『コロッケかける派論争』を形に書き足す。
くだらない未来は、どんどん強くなる。
アーケードを抜けようとしたところで、自販機が小銭を飲み込んだ。
「出た、社会の赤」
「機械にも添え底」
綾は真面目な顔で自販機に掌の“×”を当て、側面を「ぽん」と一度だけ叩いた。
チャリン。
十円が返ってきて、なぜか二十円になっていた。
「勝った」
「勝ったな」
影がどこかで「それは違う」と言った気がしたが、たぶん気のせいだ。
学校に寄り、旧講堂の様子を確認する。
扉を開けると、今日の空気は秋の体育館みたいに乾いていた。
核は静かに沈み、鈴の尾は細く、でも確信がある。
「底、まだ受ける」
「うん。ただ、代償の熱はゆっくり削れてる。追加は——」
「まだしない」
俺の声は、昨日より迷いが少なかった。綾が肯く。
「じゃあ、添え底を厚くする。地図を更新」
廊下で、中村先生とすれ違う。
先生は立ち止まり、ためらってから言った。
「君たち……えっと、その、無理はするな。帰りは暗くなる」
「はい」
素直に返事をする自分に驚く。先生も驚いた顔をした。
人は、ゆっくり温かくなる。二回目。
病院。
看護師が小声で言った。
「今日は、瞼の反応が少し強いです」
俺と綾は、壁にもたれて短い共視。
右目に救い、左目に喪失。彼女は逆。
紙をめくるような音のあと、柵に触れるコトンが昨日よりはっきり響いた。
「ハル」
名前を呼ぶと、返事はない。でも、胸の熱点の周囲に、もう一つ小さな熱が灯る。
形は温度を呼ぶ。俺は紙片を一枚取り出して、折り目の角をきっちり合わせた。
『夏祭りで焼きそばの取り合いして、マヨの線で和解する』
和解の線は、強い。マヨは線になる。たぶん、世界は線でできている。
病院を出て、夕風。
綾が鼻先で空気を嗅ぐみたいにして言う。
「今日は、ご飯の匂いがする」
「それ、多分コロッケの袋」
「それも、世界の一部」
頷く。世界の一部は、多いほどいい。
帰りに、神社に寄った。
午前に置いた結びはそのまま、境内の風鈴が少し強く鳴る。宮司が手を振った。
「若いの、また来たね。鈴の紐、新しいの入ったよ」
「買います」
反射で答えた自分に笑う。
鈴の紐は、核の予備ではない。鈴そのものもない。でも、形を増やすことはできる。形は温度を呼ぶ。
帰り際、賽銭箱の横にがんばるカエルのシールをそっと貼った。
「それ、どこでも貼るな」
綾が小声で突っ込む。
「カエルは、帰る。無事に帰る」
「座布団一枚」
「座布団の形、書いとく」
二人で笑う。
校門で、針が小さく旧講堂を指して止まった。
風が変わる。鈴の尾がひとつ、ふたつ、みっつ。
影が街灯の上で足を組んでいる。今日は、あまり怖くない高さだ。
『小さく散らして、小さく笑う。甘さで薄めた波は、夜にまた濃くなる』
「夜には鈴がいる。日中はコロッケと番茶がいる」
『食べ物は強い』
「知ってる」
影は、珍しく何も言い返さなかった。あるいは、何かをもぐもぐしていたのかもしれない。
綾が肘で俺の脇腹を軽く突く。
「明日、橋脚の下にベンチを置けないか自治会に聞いてみる」
「自治会、顔効くの?」
「番茶の宮司が繋いでくれるかも」
世界は線でできている。鈴の紐、紙垂の糸、マヨの線、笑い声の波形、そして人づての線。
脆い地図に、今日の線を一本描き足す。
『星野紙文/バス停南一丁目/公園すべり台』
注釈:カエル/マヨソース/ツン(二回ふり)
暗さはある。赤もある。
でも、普通が戻る時間が昨日より少し長い。
ハルの瞼は昨日より少し強く動き、佐伯の机は昨日より少し近く、先生の声は昨日より少し柔らかい。
小さいけれど、全部、線だ。
線は、結べる。
結べば、形になる。
形は、温度を呼ぶ。
「明日も、結ぶ?」
「結ぶ。笑いも足す」
「マヨ、持ってく?」
「……核に供えるなよ」
「供えない。食べる」
二人で、また笑った。
笑いの線は夜にほどけ、鈴の尾と一緒に暗がりに消えていった。
でも、消えたものは、明日また結べる。
脆い地図は、今日も一行増えた。