英雄?それともただの私?
村は、まるで世界の片隅に隠された宝石のようだった。
瓦礫の山に変わり果てていたはずの小さな農村が、今では活気を取り戻しつつある。
燃えた家屋には若者たちが集まり、木材を運び、修復を始めていた。
井戸から水を汲む子どもたちの笑い声。
パンを焼く香ばしい匂い。
家畜たちの落ち着いた鳴き声。
……わたくしの魔法で救った村。
そして、今も“リディア様”と慕われているこの場所で、
わたくしはしばらく“普通の暮らし”をしていた。
「“普通”って、悪くないわね……」
「……リディア、さっきもそれ言ってたよ?」
フィーネがわたくしの肩にちょこんと腰かけながら、くすくすと笑う。
「ふふっ、言ってたかしら? でも言わせて。
朝起きて、洗顔して、パン食べて、馬小屋で“こんにちは”って言われる毎日が、
ここまで尊いなんて……この平和、乙女ゲームじゃ絶対手に入らないわよ」
「まぁ、ヒロインが戦闘民族だったら別だけどね?」
「乙女ゲームなのに“戦闘民族”? どんな地獄ゲーよ……」
ふたりで笑っていた、そのときだった。
聞き慣れない足音が、村の入口から近づいてきた。
──ヒールの音。貴族階級の女性用、しかも上質な革の。
わたくしは、思わず息を飲んだ。
「……来たわね」
「だれ?」
「セリアよ」
◆
“聖女”セリア・フィオレッティ。
──乙女ゲームにおける、正真正銘の主人公。
水晶のように透き通ったブルーグレーの瞳。
ピンクベージュの髪を肩のあたりで緩く結び、
清楚で優雅なロングスカートの上から、旅用のマントを羽織っている。
それでも、彼女は“華”を持っていた。
貴族たちの集う社交界のなかでも、地味ながらも目を引く存在だった彼女は、
いま、土埃舞うこの村に現れたというのに――
まったく変わらず、そこに“光”を連れていた。
「……リディアさま」
目が合った。
彼女は、一歩、わたくしのほうへ近づき――
けれどその足が、途中で止まる。
「久しぶりね、セリア」
わたくしが口を開くと、彼女ははっとしたように目を潤ませた。
「……あのとき、わたし、なにもできなかった」
「知ってるわ」
「リディアさまが断罪されるのを、見てるだけで、
ただ黙ってることしかできなかったの」
「ええ。黙ってたわね」
「ごめんなさいっ……!」
声が震えていた。
地面に膝をつきそうなほど深く頭を下げて――
彼女は“かつての悪役令嬢”に、謝った。
その姿が、なんだか可愛くて、愛おしくて。
「ちょっとセリア、服が汚れるわよ。あなたってば、昔から“土に弱いヒロイン”なのね」
「っ……え、えっ? あ、うん!?」
「謝るのは、あとにして。まずはほら、顔を上げて。
百合百合しい再会は立ったままがルールって、乙女ゲームの暗黙じゃなかった?」
「なにそれ、知らない……!」
「ふふっ、こっちの話よ」
──この子が、本当に悪い子じゃないことくらい、わたくしは知ってる。
断罪のとき、何も言えなかったのは、
“聖女”としての立場が彼女を縛っていたから。
そして彼女自身も、わたくしが“ゲームの悪役”であるというシナリオの壁を、
越えられなかっただけ。
でも今。
自分の足でこの村まで来たということは――
彼女が、ようやく“自分の選択”でわたくしと向き合う覚悟をしたということ。
「ねえ、リディアさま。わたし、あのとき思ったの」
「なにを?」
「リディアさまが追放されたとき、“もう会えないんだ”って思ったら、
胸がぐしゃぐしゃになったの。悲しくて、悔しくて……苦しかった」
「……セリア」
「それって、ただの友達としてなのか、……わからないけど。
わたし、リディアさまのことが好きだったんだと思う。ずっと前から」
その言葉は、春の光みたいにやわらかくて、
なのにわたくしの胸に、深く刺さった。
「……わたくしも」
ぽつりと呟いた声が、意外と震えていた。
「わたくしも、あなたのこと、“友達”だと思ってた。
けれど、ゲームの主人公だったあなたに、
近づきすぎてはいけない気がして……」
「でも、わたしは――」
「……ええ。わたくしも、今なら思える。
シナリオなんて知らない人にとっては、わたくしも“ただの女の子”なのよね」
「うん。わたしにとって、リディアさまは……“大切な人”だよ」
その瞬間、
フィーネが空気を読んで、そっと後ろに下がった。
「なに、その空気読める精霊力……!」
「えへへ、今はふたりにお任せするー♪」
「わたくしの使い魔が、使い魔してくれないなんて……!」
◆
夕暮れ時。
並んで歩く道すがら、セリアとわたくしは、
あの頃のことを、たくさん話した。
好きだった紅茶の味。
社交界での失敗談。
刺繍が壊滅的に下手だったこと。
お互いに“友達になりたかったけど、なりきれなかったこと”。
全部、ぜんぶ、言葉にした。
やっと話せた。
やっと笑えた。
「……リディアさま。わたし、またあなたと一緒にいてもいい?」
「ええ。いまさら断っても、ついてくるのでしょう?」
「うん。ついてくる。なにがあっても、今度はそばにいる」
「なら、条件があるわ」
「な、なに……?」
「わたくしを“リディア”って呼ぶこと。今のあなたが、
“本当に友達になりたい”と思ったわたくしは、
もう“アルヴェイン家の令嬢”じゃないのよ?」
「……リディア」
その響きが、
わたくしの胸に、じんわりと染み込んだ。
◆
英雄と呼ばれてもいい。
悪役と言われても、かまわない。
でも、わたくしが一番欲しかったのは――
“名前で呼んでもらえる”ような関係だったのかもしれない。
フィーネが空を見上げて笑っていた。
夕焼け空が、三人の影を長く伸ばしていた。
ようやく、わたくしは手に入れたのだ。
“戦う理由”と、“笑う理由”と、
“隣にいてくれる誰か”を。
この村から始まる物語は、
まだまだ続く。