エピローグ 赤き夜、そして愛を知る
王都は、静かに息を吹き返していた。
崩れかけた街並みには修復の音が響き、倒れた塔の影には、再び人々の笑顔が差し始める。
黒き瘴気が消えた空は、深紅の夕日に染まり、まるで“血と祈り”を受け入れたかのように、優しく包んでいた。
「……ようやく、終わったのですね」
わたくしは、白い布をきつく結びながら、横たわる彼の腕にそっと触れる。
「痛みますか?」
「……いや。もう、お前の顔が見えるだけで、だいぶマシになった」
そう言ってルーファスは、唇の端をかすかに持ち上げた。
無骨で、照れくさそうな笑み。
けれど、それがどれほどわたくしの胸を締めつけたか――彼には、たぶん伝わっていない。
「あなたは……本当に、無茶ばかりする方ですのね」
「……ああ。バカだ」
「そんなに簡単に認めないでくださいまし」
「でも――お前を、守りたかった。今度こそ、全部を……」
その言葉に、わたくしは思わず目を逸らした。
「……わたくしだって、同じです」
「え?」
「あなたを守りたいと思うのは、わたくしも……同じなのですわ」
照れて、なのか。
あるいは、ようやく口にできた安堵か。
彼は瞳を伏せたまま、黙って、わたくしの手を握った。
――その手の温もりは、傷だらけで、不器用で。
けれど確かに、誰かを大切にしようとする強さを持っていた。
「ルーファス」
「……ああ」
「生きて、くれてありがとう」
「……お前がいたから、生きて帰れた。そういうことだ」
もう、言葉は必要なかった。
静かに、重なった手のひらだけが、夜風に溶けていった――
* * *
「おやおや、なんてロマンティックな光景でしょうか」
唐突に響いた皮肉混じりの声に、二人してビクッと肩を揺らす。
「……アレン様」
「まさかねぇ、世界を救った英雄様が、こんな薄暗い裏庭でいちゃついてるとは思わなかったよ。
ぼく、涙が出ちゃいそうです。感動して」
「わざわざ裏庭まで探して来た方が言うことではありませんわね」
「それだけ心配だったってことだよ? リディア」
わたくしの目の前に、アレンがしゃがみこむ。
銀の髪に夕陽がかかり、まるで狐のような光を放っていた。
「……さて、そろそろ聞こうかな? どちらを選ぶのか」
「……はい?」
「騎士様は“命がけで守る”、ぼくは“心を守る”。どっちがいい?」
「わたくしは……そういうの、まだ……」
「悩んでるうちにさらわれるよ?」
「なっ……!?」
「ルーファスはわかってない。リディアは“世界の希望”になった。
これから先、いろんな人間が近づいてくるよ。利用する気で、好意を装ってね」
アレンの声は静かで、でもどこか切実だった。
「だから――俺にしとけ、なんてことは言わない。
けどね、ぼくは、お前が泣くのをこれ以上見たくない。
……そう思ってる奴が、ここにもう一人いるってことは、覚えておいて」
彼の金の瞳が、わたくしを射抜いた。
「それだけ伝えに来たんだ。じゃ、またね」
そう言って、アレンは立ち去る。
背中は軽やかで、冗談のように手を振っていたけれど――
その指先は、ほんの少し震えていたように見えた。
「……リディア」
ルーファスの声が、わたくしの迷いを呼び戻す。
「俺には、何も持っていない。
……お前を囲むほどの力も、未来も、肩書きも」
「ルーファス……」
「けど、ただ一つだけ、約束する。
お前が、誰より幸せでいられるように、命をかける。
その覚悟なら……俺だって、誰にも負けない」
言葉が、胸にしみた。
(なぜこんなに……わたくしは“選ばれる”ことに、臆病なのかしら)
誰かを選ぶことは、誰かを傷つけることになる。
そう分かっているから――
わたくしの心はまだ、はっきりと、何かを言えずにいる。
けれど、
「もう少しだけ、待っていただけますか?」
「……ああ」
「今はまだ、わたくし自身が、わたくしを信じきれていませんの」
その代わりに、わたくしはルーファスの手にそっと額を寄せた。
その距離が、今のわたくしの“答え”。
「……生きて、くれてありがとう」
「何度でも言うよ。お前のためなら、何度でも生きる」
紅に染まる王都の空は、いつしか、静かな星を灯していた。
それはまるで、願いが確かに届いた証のように――
ーーーーーーーー
「わぁ……すっごく、いい匂い……!」
湯気の中、セリアがぽわんと頬を染めて笑った。
ここは、王都再建の慰労として開かれた仮設の大浴場――といっても、精霊が浄化した水を使った神聖な湯船だ。
癒しの効果が高く、戦後の治療にも使われている。
「んー……リディアの背中、もっとこっち向いて?」
「ちょっ……セ、セリア、もう少し距離を……!」
「えへへ、大丈夫。裸の付き合いってやつだよ~」
「どこの江戸精神ですのそれは……っ」
背中に触れる指が、ゆっくりと優しくなぞる。
そのたびに、湯気以上に心が熱くなっていくのがわかる。
彼女の指は、何かを探すように、愛おしむように――迷いがなくて、まっすぐで。
「……リディア。怖かった?」
「……ええ。とても。わたくしの力も……心も、何度も壊れかけましたわ」
「でも、生きてくれた」
「……あなたが、そばにいてくれたから」
ぽつりと呟くと、ふわりと髪を撫でられた。
「リディアは強いよ。でも、泣いていいときもあるんだよ?」
「……泣きたくなど、ありませんわ」
「じゃあ……甘えて?」
「……え?」
「ねえ、今日は……リディアの心を、わたしだけのものにしてもいい?」
「っ……セリア、それは……!」
真剣な目を、逸らすことができなかった。
そして――
次の瞬間、セリアの唇が、わたくしの肩にそっと触れた。
柔らかくて、優しくて、ほんの少し震えていて。
でも、確かに“好き”がこもっていた。
「セリア……?」
「ごめん。だめだったら、止めてね」
「……だめじゃ、ありませんわ」
本当は、もっと拒絶すべきなのかもしれない。
でも、わたくしの心は、あまりにも自然に、そのぬくもりを受け入れていた。
――誰かに抱きしめられることが、こんなにも安心するなんて。
「……リディアの肌、雪みたいに綺麗」
「……褒めても、何も出ませんわよ」
「じゃあ、ぎゅってしてもいい?」
「……すでに抱きついてますわ」
「えへへ、追加で♡」
(甘すぎますわこの子……!)
肩越しに見える彼女のまつ毛が、濡れて光っていた。
まるで、湯けむりの精霊が舞い降りたように幻想的で。
「リディア……わたしね、ずっと思ってた。
“この手で、あなたを守れるようになりたい”って」
「セリア……」
「恋とか愛とか、よくわかんないけど。
でも、リディアが誰かに取られるのは、きっと……泣いちゃうくらい、嫌だなって思う」
抱きしめる腕が、ぎゅっと力を込めた。
わたくしは、反射的に彼女の髪を撫で返す。
「……あなたは、わたくしの大切な人です」
「わたしも」
「だから――焦らないで」
「うん。でも……もうちょっとだけ、こうしてていい?」
「……いいですわ」
そうしてわたくしたちは、湯けむりの中で寄り添った。
心と心が、静かにふれあう音だけが、微かに響いていた。
* * *
その夜、わたくしの夢には、白い門と、銀の瞳の少女が現れた。
「……彼の“封印”が、開き始めている」
凛とした声が、時の狭間から響く。
「貴女がその運命を越えられるか――私たちは、それを見届けましょう」
目覚めたときには、胸の奥に、名状しがたい不安と確信が残っていた。
“次は、もっと深く、過去と向き合う戦いになる”――
それでも、わたくしはもう、独りではない。
彼らと共に進む。
この心を、信じて。
新たな戦いの幕が、いま、静かに上がろうとしていた――




