第九話 天才と試薬
登校しても、昨日のような視線や噂は一切なかった。まるで何もなかったかのように、いつもの朝が始まっていた。
教室に入っても、あの女子グループの姿はなかった。
クラスの誰かが小声で言っているのが聞こえた。
「……詩織ちゃんへのいじめだけじゃなかったらしいよ。ほかのクラスでも、色々やらかしてたって」
「それで停学処分になったってこと?」
「うん、そうみたい」
俺は特に感情を挟まず、自分の席についた。
すると、すぐに詩織が走ってきて、いつもの明るい笑顔で話しかけてくる。
「おっはよー! 昨日はホントありがとねっ! でもでも聞いてよ、昨日帰ったら犬のモモがね、クッションぐちゃぐちゃにしててさ~」
話は、やっぱり一方通行。だが、それも今では心地よく思えるようになっていた。
そんな他愛もない会話をしていたとき、チャイムが鳴り、先生が教室に入ってきた。
「はい、着席ー。ではまず連絡事項です。明日、学力テストがあります」
(……学力テスト?)
すっかり忘れていた。でも、焦りはなかった。社畜時代、膨大なデータ処理や理不尽なプレゼン地獄をくぐってきた俺にとって、教科書レベルの問題など大したことではない。
ふと、教室の後方に目をやる。席が離れているせいで顔はよく見えなかったが――詩織の雰囲気からして、絶望しているのは明白だった。
翌日。
学力テストが始まった。国語、数学、英語、理科、社会――どれも拍子抜けするほど簡単だった。
時間内にすべて解き終えた俺は、前の席でうなだれている詩織の背中を見つめながら、そっとため息をついた。
テストが終わると、詩織がまるでゾンビのような顔で近寄ってきた。
「……ねえ、花月ちゃん、今回のテスト……どうだった……?」
「まあ、簡単だったよ」
あくまで事実だけを、淡々と伝えた。
詩織は目を丸くした。
「えぇ!? もしかして……夏美を超えられるんじゃない!?」
「……夏美?」
聞き返すと、詩織は少し興奮した様子で続けた。
「隣の席の人! 地味だから目立たないけど、成績めちゃくちゃ良いの! 噂ではね、東大に飛び級で行けるレベルらしいよ!」
俺は、何気なく隣の席の女子――黒髪をストレートに整え、地味なメガネをかけて黙々と勉強している少女を横目で見た。
(あいつが……?)
翌日。
テストが返却され、成績上位者の一覧が発表された。
「2位、486点。伊藤花月」
クラスがざわつく。
「すげー……」「あの転入生、超頭いいじゃん」
だが、1位の名前は別だった。
「1位、498点。遠山夏美」
静かに、立ち上がったのは、俺の隣の席の少女だった。
(……やっぱり、あの子か)
教室内に静かな驚きが広がる。
詩織が小声で話しかけてきた。
「ね? 夏美、やっぱすごいよね。でも、なんでこの高校に入ったのか、誰も知らないんだってさ。レベル的にはもっと上を狙えたはずなのに……」
俺はその言葉に引っかかった。
(……なぜ、この高校に?)
そこで、頭に浮かんだのは――“性転換試薬”。
もしも、彼女がそれを目的としてここに来たのだとしたら?
そうであれば、彼女は――俺と同じ存在。
そして、もしもその事実が彼女に知られてしまえば……
(……俺のことも、バレるかもしれない)
そうなれば、俺の「社会的立場」や「過去」が崩れてしまう可能性もある。
胸の中に、じんわりと広がる不安。
笑顔を浮かべる詩織の横で、俺はひとり、不安な心を隠すように目を伏せた。