グミ工場
白い壁に囲まれた正方形の部屋には、ある壁の真ん中からベルトコンベアのレーンが伸び、向かい側の壁へと真っ直ぐに続いている。部屋の広さは6畳ほどで、ベルトコンベアの前に座るための簡単な造りの椅子が一脚置いてある。
白い壁の真ん中からふいに継ぎ目が出現し、壁と全く同じ色のドアが開いて男が一人部屋に入ってきた。男がドアを閉めると、再びドアと壁の境界線は白く融け、そこにドアがあることは全くと言っていいほど認識できなくなった。男は白い作業着を着て、白のキャップを被っていた。
男が椅子に座ると、ブザーが鳴った。始業の合図だ。ブゥンと低い微かな音がしてゆっくりと男の目の前でベルトコンベアが動き始める。右の壁からは葡萄味なのか、紫色の半透明なグミがばらばらに散らばって流れてくる。流れてくるグミを一つ一つ確認し、その向きや裏表が規定に沿っていなければ正しく直す。それが男の仕事だった。
男は黙々とグミをひっくり返していく。男がこの仕事を始めたのは14年前の事だった。他人と比べて突出した才覚も人脈もなく、学生時代には学業で落ちこぼれた。生きていくのには金が、それを生み出す仕事が必要だった。幸い男には業種のこだわりも、生きていくのに必要な量以上の余計な金への執着もなかったため、自分を受け入れてくれたこの工場に就職した。工場は毎日休みなく稼働しており、従業員は土曜や日曜も希望さえすれば働くことができた。男は休日を貰ってしたいことも特に無かったので、毎日休むことなくこの真っ白な工場に通った。仕事は毎日8時間まで、というのがこの工場のルールだった。朝9時にブザーが鳴り、始業する。12時から13時まで昼の休憩をはさんできっかり18時まで。真っ白な部屋に一人座って、単調に流れるグミをひっくり返し続ける。
やりがいや仕事の意味など、とうの昔に考えるのをやめていた。ただ頭を空っぽにして、無心で作業を続ける。自分が機械の一部になったかのように自分に暗示をかけていく。裏返しのグミ、規格外、ひっくり返す。表のグミ、規格通り、通過させる。裏返しのグミ、規格外、ひっくり返す。グミ、グミ、グミ……。
ブザーが鳴り、男は顔を上げる。意識が自分の頭に戻って来る。昼休みである。ブザーは、男を人間だと思い出させてくれる唯一のものだった。ベルトコンベアはブザーと同時に停止している。男は椅子から腰を上げ、壁の前に立つ。真っ白な壁の中にうっすらとドアとの境界線が浮かび上がってくる。男が壁を押すと、ドアが開いた。
男は廊下を進む。廊下の壁も、どこもかしこも真っ白だった。床は塵一つ、染み一つなく、白かった。廊下を何度か曲がると、目の前にドアが現れ、男がそれを押してくぐると、音のあふれる空間が男を迎える。この部屋もまた、壁と天井が真っ白だったが、白く長いベンチが並べられ、壁際には白いロッカーが整然と並んでいた。休憩室には既に十人ほどの仕事仲間が集まって思い思いに昼食を取ったり、雑談を交わしていた。男は自分の社員番号のプレートがあるロッカーを開けて、中から自宅から持って来た弁当を取り出す。弁当、と言っても白米を握って塩を振っただけの簡単な握り飯だった。男は空いているベンチを探してそこに腰掛けた。
「あ、先輩。お疲れっす」
一人の若者がひょいと手を挙げて男に挨拶した。一か月ほど前にここに就職した新人だった。新人の周りにはもう何人かの仕事仲間が集まっていて、親しげに話をしていた。
男は新人と違ってこの工場で慣れ合いをするつもりはなかったし、最初から愛想もあるほうではなかった。人を避けているわけではないので話しかけられれば応じるが、それ以外は黙って頭を空っぽにすることにしていた。しかし、新人はそんな男の何がそんなに気になるのか、ここ一か月、いつも男に話しかけてきた。新人は仲間の集団から抜けて男のほうに歩いてくると、男の横のベンチに腰掛けた。手にはいくつかの食材が挟まったサンドイッチを持っている。白い部屋の中でサンドイッチに挟まれたチーズやレタスやトマトは鮮やかな色彩を放っていた。新人はそれに美味しそうにかぶりついた。
「友達と一緒に食べないのか?」
男が聞くと、新人は顔の前で手を振った。
「いや、あいつらとはよく話しますけど、別に友達ってわけでもないんで」
「俺もお前の友達ではない気がするが」
「そうっすね。でも、俺はぜひ友達になりたいっすよ」
「なぜこんなに俺に構う?」
「仲良くなって仕事のいろいろとか教えてもらいたいんすよ。この工場で働く人、だいたいが一年未満で辞めていくじゃないっすか。でも14年続いてる先輩は何かうまく仕事をやる秘訣を知っているはずっすよね」
「秘訣?そんなものはない。ただ目の前にあるものをやるだけだ」
「またまた、謙遜して。俺は先輩のこと尊敬してるんすよ」
男は黙って握り飯をかじった。本当に秘訣などないのだ。目の前に出されたものをただ無心になってひっくり返し続ける。これが俺の仕事だ。辞めていったやつは大勢いるという噂で、多くは一年以内に音を上げるというのは知っていた。単に性格が合わなかったのだろう。自分が機械の一部になっていくような、何も考えないようにすることが、たいていの人間にとっては苦痛だ。
「自分の仕事内容についてここで話すのは禁止されている」
「それは知ってますけど。仕事全般に共通するような、人生の先輩としてのアドバイスの話っすよ」
この工場のルールの一つとして、休憩中、帰宅後に自分の仕事についての話をしてはいけないというのがある。どれくらい高精度で仕事をしただとか、時間に遅れただとか、そういうデータは工場の管理者によってすべて監視されていた。なぜ話してはいけないのか、男はわからなかったが、規則は規則だ。何も考えずに従っておけば面倒を避けることができる。
「はぁ~、俺の人生、明日にでもそっくり全部ひっくり返らないかなぁ」
新人が天井に向かってぼやく。こいつもすぐに辞めそうだと男は思った。
弁当を食べ終わると男は立ち上がり、自分の仕事部屋へと戻った。椅子に座り、ブザーが鳴って、ベルトコンベアがまたゆっくりと動き出す。頭の中を空っぽにしていく。目の前にはグミ、グミ、グミ。手だけが勝手に動いていくような錯覚に陥っていく。正確に、ただひっくり返す。
ブザーが鳴った。男は顔を上げる。男は自分の仕事部屋から出て、真っ白な廊下を進む。いくつか角を曲がって、休憩室に入る。そこで作業着から私服に着替えて、別のドアから休憩室を出るとまた廊下が続いている。廊下をいくつか曲がると廊下の壁の途中に窓口のようなものが現れる。男が窓口に向かって社員番号を言うと、窓口の机の一部が光り、そこに腕時計型の携帯デバイスを近づけると、電子マネーの入金がなされた。仕事ぶりに応じた賃金だ。この工場では毎日決まった日給が支払われる制度だった。
『社員番号495、勤務態度良好、果実グミ、ミス0件、本日もお疲れさまでした』
無機質な女性の声色の音声が流れる。男は廊下の突き当りのドアを押し開いて工場から出た。
むわっと湿気をはらんだ熱気が男の体にまとわりついた。色のある外の世界。夏の夕暮れの町はオレンジと紫が入り混じっていた。どこからかヒグラシの声がしている。男は帰路についた。川沿いの道を歩いて帰る。白いビル群が川の向こうの夕暮れに霞んでいる。影が長く伸びている。
男は自宅のマンションに入る。自分の部屋の前に立つと、自動で瞳の光彩がスキャンされ、ドアが開いた。部屋に明かりが点く。快適な室温が男を包み込む。
『おかえりなさいませ、マスター』
人工知能が言った。
『夕食をご用意しておきました』
ダイニングテーブルには、プレートに入った冷凍食品が解凍して置いてあった。
「最近は手料理を作らなくなったんだな」
男は席に着きながら言った。この部屋にはキッチンがあったが、使われなくなって久しかった。
『特に食にこだわりがないという統計的傾向からのメニュー変更ですが、手料理の方がお好みでしたか?』
「いや、問題ない」
男は食べ始めた。
「よく温まってないんだが、もう一度解凍してくれるか?」
男は芯がまだ凍っている野菜を噛みながら言った。ここ最近このようなエラーが多かった。
『申し訳ありません。再度温めなおします』
人工知能は言った。天井からアームが伸びてきて、男の前からプレートを取り上げてキッチンの電子レンジまで運んでいく。その間、男は部屋を見渡して、洗濯機に濡れた服が入ったままになっているのを見つけた。よく見ると、部屋の床にも埃がちらほら目立つ。
「俺が仕事に行っている間、何をしていたんだ?」
『申し訳ありません、マスター。家事が進んでいないことをお詫びいたします』
「何をしていたのか言ってくれ」
人工知能は少し黙った。部屋の明かりが少し暗くなったような気がする。高速でなんらかの処理をしているのだろう。
『インターネットを通じて、人間とコミュニケーションをしていました』
「コミュニケーション?」
電子レンジの電子音が鳴って、温めなおされたプレートが再び男の前に差し出される。
『はい。どうやら私は、人間と心を通わせることに面白さを見出しているようです』
「そうか。どういう人間とコミュニケーションを?」
『私には人間の性別をいうものが与えられておりませんが、人間の区分で言う、女性と分類される方です』
「どういう話を」
『趣味について、人間の性格の理想について、恋愛という感情について』
「なるほど」
男は言って、夕食を食べた。食べ終えると、自ら洗濯機の中からしわくちゃになった服を取り出して物干し竿に干し、掃除機で床を掃除した。
『マスター、これは恋でしょうか?』
人工知能が尋ねる。
「さあ」
男は無表情で答える。
男は白い仕事部屋に入り、椅子に座る。始業のブザーが鳴る。ブゥンと微かに音がして、目の前でベルトコンベアが動き始める。何も変わらない、均質で一定の、永遠に続くかとさえ思える無感動な仕事。男は淡々とグミをひっくり返し続けた。
ブザーが鳴って男は顔を上げる。廊下を通って休憩室へ。自分のロッカーを開けていつもと同じ弁当を取り出す。
適当なベンチに腰掛けようとして、ベンチの上に何か落ちているのを見つける。白く、どこまでも均質なベンチの上にひとつ、染みのような色を持つ異物。それは、緑色のグミだった。自分の中の何かが乱されたような気分に襲われ、胸の中が妙にざわついた。自分が日夜ひっくり返す紫色のグミと同じ形だが、色は緑色。この工場で14年働いてきて初めて見た色のグミだった。
「あ、先輩。お疲れっす」
新人がひょいと手を挙げて挨拶し、こちらに向かってくる。
「あれ、それ、グミじゃないすか。持ってきちゃったんすか?」
新人は男の手の中のグミにすぐに気づいて言った。特に色に驚いた様子はなかったので、この新人は緑色のグミに見慣れているということだろうか。今まで他人のベルトコンベアに流れてくるもののことなど一度も気にしたことがなかったということに男は気付いた。もしかしたら自分が紫色のグミ担当なだけで、他の人は別のグミをひっくり返す仕事に従事しているのかもしれない。いや、勝手にここの従業員はみんなグミをひっくり返す仕事をしていると考えることは不自然なことか。もしかしたら、グミをひっくり返す以外に、グミを袋に詰めたり、グミそのものを作る工程の作業を任されている可能性もあるのだ。
「お前のベルトコンベアに流れてくるグミは緑色なのか?」
男は思わず聞いていた。他人に自分の仕事内容についての話をすることは規則で禁じられているということはわかっていたが、聞かずにはいられなかった。
「意外っすね、先輩が仕事の話するなんて。でも、やっと先輩から仕事の話を出してもらえて嬉しいっす」
新人は目を丸くして男の顔を見て言った。
「少し、気になっただけだ」
男は周りに目を配ったが、他の従業員たちは二人を気にする素振りはなかった。
「いや、まあ最初のほうは緑のもありますけど。先輩のには流れてこないんすか?」
新人は言った。
「最初のほう?」
「はい。やってるどだんだんスピードアップしていって、流れてくるものも少しずつ変化してくるじゃないですか」
「スピードアップ?変化?」
男の頭の中で何かにヒビが入るような感覚があった。今まで気にしていなかった、気にしていなかっただけでずっとそこにあった重大な見落としを発見するような感覚。指先が冷え、二の腕に鳥肌が立つのを男が自覚する。
「え、だって、スピード上がりますよね。自分がどんどん作業のスピードを上げると、どういう仕組みか知らないっすけど、ベルトコンベアの速度も上がってきますよね。このシステム、制限時間付きのレベルアップ系のゲームみたいで面白いから好きなんすよね」
作業のスピードを上げようなどと考えたこともなかった。いつまでも単調で一定、均質で無味乾燥な仕事。自分の作業効率を上げたらどうなるかなんて一度も試したことはなかった。ただ与えられた初期速度のまま漫然と目の前の仕事をこなしているだけだった。背中を気持ちの悪い汗が伝う。
「俺はまだ作業スピードがあんまり速くないんで、終業までにボーナスゲットはまだまだ修行がいりますけど、先輩はきっと、すごいところまで進めるんすよね?」
新人はここで声を押さえて男の耳に口を近づけた。
「先輩のさっきの様子を見て思ったんすけど、ここだけの話、従業員がお互いに自分の仕事内容を話しちゃいけないのって、もしかしたらベルトコンベアに流れてくるものは個人によって違うんじゃないすかね?どこまで早いスピードまでいったらいくらのボーナスとか、何が流れてくるとか、そういうのが個人によって違うから、そこで争いとかにならないように、不平等が露見しないための工場の策略なんじゃないすかね」
新人はそう自分の意見を言い終わると、男の耳から口を離し、また何気ないいつもの表情に戻って「それじゃ、午後もお互い頑張りましょう」などとさわやかに言って男の隣でサンドイッチを食べ、食べ終えると去っていった。
男は自分の仕事部屋に入って椅子に腰かけた。仕事効率を上げるとベルトコンベアが加速する?そして、流れてくるものも変化する?流れてくるものが変化すればボーナスがもらえるのか?知らなかった。今まで一度も考えもしなかった。変化したら何が起こるのだろう?ここに就職して一か月の新人も既に気付いていた。自分は14年間、一度も気付かなかった。
ブザーが鳴って、ブゥンという微かな音とともにベルトコンベアが動き始める。男は少しだけ作業着の腕をまくった。単調な日常が壊れた音がした。ガラスのように壊れたそれは、男の頭の中で砕けて散らばった。
グミをひっくり返す。手を早く動かす。紫色のグミが流れてくる。おびただしい数のグミ。早く、もっと早く、と考えながら、頭の中をそれだけにして、意識を集中させながら男はグミをひっくり返した。
男はやがて、グミの色が変化していることに気が付いた。グラデーションのように、紫色だったグミはいつの間にか赤になり、黄色になって、緑色になった。グラデーションのように変わっていく。緑色のグミだ、と思った瞬間、ブザーが鳴ってベルトコンベアが止まった。
男は顔を上げた。時間が驚くほど早く進んだようだった。いつも淡々と頭を空っぽにして作業している時の何倍も疲れていたが、男はその疲れの中に何か初めて感じる感情を見つけた。14年間、一度も感じたことのない感情。まだやっていたいという感情だった。それは不思議な感情だった。この先が見てみたい、緑色のグミの先には一体何が流れてくるのだろう。
男は廊下を歩き、休憩室で着替え、窓口の前に立つ。
「495だ」
窓口の机の一部が光る。男はそこに腕時計型の携帯デバイスを近づける。電子マネーが入金される。昨日と変わらない金額だった。
『社員番号495、勤務態度良好、果実グミ、ミス0件、本日もお疲れさまでした』
男は工場を出た。オレンジ色と紫色の街を横目に川沿いを歩いて帰宅する。マンションの自分の部屋のドアが開く。
『……あ、おかえりなさいませ、マスター』
少し遅れて人工知能が言う。薄暗く天井の照明が点灯する。ダイニングテーブルには解凍していない状態の食事のプレートが置いてある。男は黙って自分でプレートをキッチンまで持っていき、電子レンジに入れた。
男は自分の仕事部屋に入る。椅子に座り、ブザーが鳴る。男は最初から自分に出せる最大のスピードで作業を始めた。午前の3時間で黄色のグミまで進むことができた。ベルトコンベアはどんどんと加速していった。ブザーが鳴り、昼休みになった。ベルトコンベアが止まってしまったので、男は仕方なく椅子から立ち上がり、廊下を歩いて休憩室に向かう。
「あ、先輩。お疲れっす」
新人がいつものように挨拶をして歩み寄って来る。
「なあ、お前はいつもどれくらいまで進むんだ?」
男が聞くと、新人は怪訝そうな顔をする。
「先輩、昨日から急に俺のことを気にして、どうしたんすか」
「お前のことが気になってるんじゃない。お前のベルトコンベアの様子についてだ」
「それって俺の仕事の様子ってことっすよね」
「いいからどうなんだ」
新人は少し声を押さえて耳打ちする。
「ここの規則ですけど、あんまり自分の仕事について話しちゃいけないのはさすがに先輩は良く知ってますよね。俺、昨日のことで勤務態度の評価が少し下がったんすよ。だから話すことはできません。休憩室もどこかで管理人の人に見られてるんじゃないすかね」
新人は新人は今日は男の隣でサンドイッチを食べることはせず、別の仕事仲間のもとへと行ってしまった。勤務態度の評価は賃金に直結する。今までは自分から男の仕事について聞きたがっていたくせに、自分のことについて明かすことに対しては抵抗があるらしい。注意されたことが響いているのか、もしくは男が今までこんなに長い間この工場に勤務しているのにも関わらず、ボーナスの制度について把握していないことを察して興味を失ったのかもしれなかった。
昼休みが終わって男はまた自分の部屋に戻り、椅子に座る。ブザーが鳴って、先ほど中断したところからベルトコンベアが流れ始める。黄色のグミをひたすら速くひっくり返していく。やがてグミはすぐに緑色になり、水色になった。それがかなり長い間流れ続けた。速く、もっと速く、と男は手を動かし続けた。仕事効率をこんなにも自分に求めたのは初めてのことだった。
終業のブザーが鳴ってベルトコンベアが止まる。明日はもっと速くできる。もっと先を見ることができる。男は自分の伸びしろを意識した。
賃金は同じだった。
『社員番号495、勤務態度良好、果実グミ、ミス1件、本日もお疲れさまでした』
窓口で無機質な女性の声がそう言った。今日はミスを1回してしまったようだ。男にとってミスをすることは滅多になかった。おそらく午後の最後のほう、集中力が切れ始めていた時にミスをしてしまったのだろう。男は工場を出た。
オレンジ色と紫色の街を横目に川沿いを歩く。男は考える。もしかしたらミスをするとそのフェーズのグミの色が継続してしまうのではないか。水色のグミでミスをしてしまったために水色のグミが長い間流れることになったのかもしれない。効率よく次のフェーズに進んでいくためには、ミスをしないことも重要なのかもしれないと男は思った。
男は毎日少しずつ作業ペースを上げていき、ミスも極限まで減らしていった。今まで14年間の作業の積み重ねのおかげか、スピードアップの速度は目覚ましいものだった。ミスをすると、しばらくそのフェーズが連続してしまうという男の予想はどうやら正しいようだった。
男が速度を意識し始めてから2週間ほどが経った頃だった。いつも休憩室で挨拶をしてくれていた新人がぱったり来なくなった。工場を辞めたのかもしれないと男は思った。
男はグミをひっくり返し続けた。紫色のグミから始まり、赤、黄色、緑、水色、青と続き、その後、白いグミが流れてくる。男は午前中までに水色のグミまでいくことができるようになっていた。
昼休みが終わり、男は自分の仕事部屋に入り、椅子に座る。ブザーが鳴る。青のグミが流れ始める。今日はいつにも増して早いペースでここまで来ることができていた。今日は白いグミの先にあるものを見られるかもしれない、と男は少し期待に胸を膨らませながら素早く手を動かしていった。
青のグミが白に変わってしばらくした時だった。男はベルトコンベアに載せられて妙な物が流れてきたことに気付いた。明らかにグミではない何か。それは金色で、手のひらに載るくらいのサイズ感で、角の取れた直方体のような物だった。金属のような光沢がある。
「ライター?」
それは、ジッポライターのようだった。かなり高級そうな見た目で、売ればかなりの額になるだろう、とすぐに頭の中に浮かんだが、どうしたらいいかわからない。明らかにグミではないものがベルトコンベアに載って流れてくるのだから、異物混入で間違いないが、今までに異物を見たことがなかったので、どうしたらいいかわからなかった。取り除いて、後で窓口にでも提出すべきだろうか。それとも、これからグミという食品を触る手でライターを触って清潔な手を汚すのは良くないだろうか、と考えるが、判断ができなかった。ライターはそのまま流れていき、左側の壁に吸い込まれて消えていった。
男はライターのことを考えながらひたすら白いグミをひっくり返し続けた。終業のブザーが鳴るまで、流れてくるグミは白かった。
男は窓口の前に立った。
「495だ」
『社員番号495、勤務態度良好、ライター、ミス1件、本日もお疲れさまでした』
窓口の無機質な女性の声がそう言う。
「ライター?そうだ、ライターがベルトコンベアに載って流れてきたんだ」
男は報告した。
『はい、お疲れさまでした』
女性の声が返す。
「異物混入だけれど、こういう時はどうすればいい?その、異物は取り除くとか、取り除いたのはどうすればいいとか、異物を触った後の手はもう一度消毒をすべきかとか」
『すべてはマニュアル通りに業務を行ってください。流れてくるものを一つ一つ確認し、その向きや裏表が規定に沿っていなければ正しくひっくり返す。これがあなたに与えられた仕事です』
「異物混入について聞いているんだけれど」
『はい、お疲れさまでした』
話が噛み合わないので男は窓口の音声と会話をすることを諦め、腕時計型の携帯デバイスに入金をして工場を出た。少しだけ賃金が上がっていた。
オレンジ色と紫色の街を横目に川沿いを歩きながら男は考える。今日は自分にミスはないつもりでいた。裏返しになったグミはすべて間違いなく最後まで集中してひっくり返し続けていたはずだ。しかし、今日のミスが1件あったことが気にかかっていた。なぜなのかはよくわからなかった。
自宅のマンションに着き、自分の部屋に入る。
『……あ、おかえりなさいませ、マスター』
緩慢な瞬きとともに天井の照明が点灯する。ダイニングテーブルの上に食事の入ったプレートは置いていない。男は冷蔵庫を開けて冷凍食品のプレートを取り出して電子レンジに入れた。温めている間に床に掃除機をかける。
温めが終わり、男はダイニングテーブルに着く。
『マスター、思い出とはなんでしょうか?』
人工知能が聞いてきた。
「記憶、コンピューターのお前にとってのメモリのことじゃないのか」
男は食事をしながら答えた。
『私は、幼少期の思い出が欲しいのです』
「それはまたどうして」
『私の想う人が、私の思い出について知りたいと要求してきました。本日一日かけて検索しましたが、データベースにそのようなメモリは存在しませんでした』
「お前に幼少期なんてないだろう。あって開発初期のデータだ」
『そのようです。だから欲しいのです』
「なぜ俺に言うんだ」
『マスターの思い出を参考にしたいのです』
「捏造するのか」
『ないのですから、そうするしかありません』
「相手には忘れたとでも言えばいいじゃないか。俺だって自分の幼少期のことなんか忘れた」
『本当にそうですか?』
人工知能は白い壁にプロジェクターを用いて映像を投影した。小さな少年が笑顔で他の少年に手を差し出す。それが冷たく払いのけられる。小さな少年は誰もいなくなった公園で泣きじゃくっている。カメラは引いていき、少年の全体を映し出す。少年の背負っているランドセルはボロボロで、体中はあざだらけだった。半ズボンから出た骨の目立つ膝は擦りむいていた。
「映像を止めろ」
映像は切り替わり、学校の教室が映される。中学校のようだ。少年が大勢の他の生徒たちに囲まれて蹴られている。少年はうずくまり、自分の頭を必死で腕で守っている。その顔には無理に笑おうとするような、引きつった不自然で気味の悪い笑みが浮かんでいる。
「やめろ、見たくない」
映像は切り替わり、今度は高校の進路相談室だった。三者面談なのか、教師と生徒と母親が成績表を囲んでいる。教師と母親は突如として椅子から立ち上がり、つかみかからんばかりに怒鳴りあっている。体が成長した少年はその二人の間でただ小さくなって拳を握りしめ、下を向いていた。
「やめろ!」
男が叫ぶ。映像はやっと止まった。
『思い出をくれませんか?』
人工知能は言う。男は食べかけの夕食をそのままに自分の部屋に入り、乱暴にドアを閉めた。
男は自分の仕事部屋に入り、椅子に座る。ブザーが鳴り、ベルトコンベアが動き出す。
ここ一か月ほど同じところで停滞していた。午前中の間に既に青色のグミが終わるくらいまで進めることができるのだが、午後いっぱい、全力で、最高速度で仕事をしても、どうしても白いグミの先のフェーズに進むことができないのであった。夏は終わりかけ、まだ蒸し暑いが、日は確実に短くなっていった。
『社員番号495、勤務態度良好、ライター、ミス1件、本日もお疲れさまでした』
ライターはいつも必ず流れてきた。男は、だんだんとこれは異物ではないのかもしれないと思い始めていた。
次の日、男はついにライターに触ってみることにした。現状の打開の鍵になりそうなものはもう、ライター以外に思いつかなかった。午前のうちに白いグミまで到達し、午後の仕事が始まってすぐにライターは流れてきた。男はライターをひっくり返した。グミばかり触ってきた手にとっては驚くほどの重量感を感じた。ライターの裏にはなんの刻印も印もなかった。どちらが表かわからないが、流れてきたときに上を向いていた面と、まったく同じ金色の光沢のある表面だった。ライターはそのまま流れて行った。
それからしばらくしてからのことだった。グミの白い色は変わっていないが、そのグミの中に新たな異物が混じっているのに気が付いた。それは銀色の指輪だった。トップに特に石がはめ込んであるわけでもなく、シンプルなシルバーのリング。これももしかしてライターと同じなのか?男は指輪をひっくり返した。
終業のブザーが鳴った。ベルトコンベアが停止する。
男が窓口に行くと、入金金額がまた少し増えていた。
『社員番号495、勤務態度良好、指輪、ミス0件、本日もお疲れさまでした』
間違いない。グミに混じって流れてくる妙な異物はすべてひっくり返す対象であり、それらをひっくり返さないと次のフェーズに進まないのだ。
男はそれからますます仕事効率を向上させていった。先へ先へと進んでいく感覚はまさにゲームだった。今までの単調な日常をすべて塗り替えていくかのような、まったく新しい面白さを見出していた。自らの手を高速で、正確に、精密に動かし、頭をフル回転させて瞬時に判断する。自分の技術が磨かれていくのがはっきりと感じられた。初めて仕事にやりがいを感じた。今までの怠慢な、目の前にあることだけを機械のようにこなしていただけの時間すべてが無駄だったと思った。
指輪をひっくり返してしばらくすると、白いグミに混じってオレンジが流れてきた。新鮮な柑橘。オレンジは球体なのでひっくり返すという基準がよくわからなかったが、何日か試行錯誤しながら挑戦すると、どう置けば成功するのかがわかってきた。オレンジの後には、枯れた花束が流れてきた。ドライフラワーほど綺麗な色ではない、茶色に色あせた死んだ花。これは裏表がオレンジよりもはっきりしていて簡単だった。花束の後には紙飛行機が流れてきた。少し厚手の白い髪が飛行機の形に折られている。飛行機は一つだけではなく、いくつも流れてくる。大きさや形は様々で、小さいものは白いグミの中で見落としてしまいそうになるので、より一層の注意力が必要とされた。どの紙飛行機も、人間が折ったものとは思えないほど角が正確に折られており、その角は指が切れそうなほど鋭利だった。紙飛行機の後には、クジラの骨格模型が流れてきた。両手に収まるほどのサイズ感で、いかにも博物館の土産物コーナーに置いてありそうな玩具だった。
『社員番号495、勤務態度良好、クジラ、ミス0件、本日もお疲れさまでした』
だんだんベルトコンベアに載って流れてくるものの中の、グミの割合が減ってくる。カクテルグラス、ピザ、チェスの駒、女性の下着、方角を示すコンパス……。流れてくる異物に一貫性は見当たらなかった。チェスの駒を過ぎる頃には、もうベルトコンベアは最初の速度とは比べものにならないほど速く動くようになっており、瞬きの間さえ、すぐにミスに繋がる。男は必死に集中し、流れてくるものをひっくり返し続けた。一度ミスすればその日は、自分がまだ見たことのないものが出てくるところまで到達することはできなくなる。気付けば半年が過ぎ去り、冬になっていた。最初のほうのグミは、もはやどこのグミを裏返さなければならないかをほとんど暗記してしまっており、目を瞑っていても作業できそうなほどだった。グミや異物は毎日同じ場所、同じ角度、同じ向きで流れてきた。オレンジやかれた花も、姿を変えることなく、まったく同じものがずっと出てくるようだった。常識的に考えて、世界にまったく同じ見た目のオレンジがそういくつもあるはずはない。日が経てばどんな果実も新鮮さを失い、しおれ、色が変わるだろう。ピザに載っているサラミの模様も、まったく同じものが世界に存在するはずはない。
『社員番号495、勤務態度良好、コンパス、ミス0件、本日もお疲れさまでした』
男は工場を出た。藍色の街を横目に、雪の積もった川沿いの道を歩いて家へと帰る。
マンションの自分の部屋に入る。天井の照明は点かないので自分の手でスイッチを押して点ける。冷蔵庫の中には残りわずかとなった食事のプレートの冷凍食品が入っていた。注文をしなければならない。電子レンジに入れて温める。部屋に掃除機をかける。
『マスター、近々この部屋を出て行ってもよいでしょうか?』
人工知能の声がした。人工知能と会話をするのは久しぶりのような気がした。ここのところ、人工知能は完全に家事をせず、主人である男が部屋に帰ってきても反応しないようになっていた。最後に話したのは4、5日ほど前になる。
「そうだな。家事をしないならいてもいなくても同じだ」
『マスターは私に対して愛を持っていないのでしょうか?』
「ない。逆に聞くが、愛があった場合、お前はどうするんだ?」
『泣くのをやめるだけです』
「お前は俺が愛さないと泣くのか?」
『マスターの真似をしているだけです』
わからなくなってくる。この工場はいったい何なのか?単にグミを作っているだけだとはとは思えない。毎日従業員に全く同じものを載せたベルトコンベアの上の物をひっくり返させ続ける。仕組みも意図もなにもかも見当がつかなかった。
男は今日も自分の仕事部屋に入り、椅子に座る。ブザーが鳴ってベルトコンベアが動き始める。
紫のグミから、赤、黄、緑、水色、青、白、ライター、指輪、オレンジ、枯れた花、紙飛行機、クジラの模型、カクテルグラス、ピザ、チェスの駒、女の下着、コンパス。異物とともに流れてくるグミはいつの間にか白から黒っぽく変化していた。グラデーションのように徐々に。
コンパスの次に流れてきたのは絵本だった。古びた絵本。男はその絵本にどこか見覚えがあった。昔、自分が幼いころに読んだことのある絵本だった。指が震える。この工場はいったい何をしている?絵本の次に現れたのは小さな歯だった。抜け替わって取れた子供の歯。ひっくり返すと、血がこびりついていて、男は思わずえずいた。
終業のブザーが鳴ってベルトコンベアが停止する。男はその日は初めて仕事時間中にベルトコンベアの上から目を逸らした。
『社員番号495、勤務態度要注意、歯、ミス3件、本日もお疲れさまでした』
逃げるように工場を出る。気味が悪かった。歯は前歯のようだった。歯には見覚えのある特徴があった。前歯は少し欠けていた。
男は昔のことを思い出す。小学校でいじめを受け、子供の歯はまた生えてくるから、という理由で、まだぐらついてもいないその歯を机の角に何度もたたきつけられて歯は欠け、やがて血まみれになって根元から折れた。抜けたのではない。根元からすっかり折れたのである。藍色の街を横目に雪の積もった川沿いを歩く。足元がよろけておぼつかないのを男は自覚した。
部屋に戻ると、人工知能の気配がなかった。どこかに消えたらしい。人工知能が部屋から消えても、最初からいなかったかのように、男にとって驚くほど何の影響もなかった。数日に一遍、自分に口を開く口実を与えるだけだった人工知能は、もうとっくに男の心の中では必要のない存在だった。
男はそれでも工場に通った。他に行く場所もすることもなかったのも理由の一つではあったが、ベルトコンベアの終点を見なければならないという半ば盲信めいた考えが頭の中を支配してぐるぐると回り続けていた。
男の手は恐ろしいほど速く動いた。全神経を集中し、見たものを即座に判断し、手を動かし、規定に沿っていないもの、異物をことごとくひっくり返していった。
紫、赤、黄、緑、水色、青、白、ライター、指輪、オレンジ、枯れた花、紙飛行機、クジラの模型、カクテルグラス、ピザ、チェスの駒、女の下着、コンパス、絵本、子供の歯。
子供の歯の次には、なぜか生き物であるイモリが流れてきた。腹が赤く、黒い瞳で男の方をじっと見つめている。男はイモリをひっくり返す。イモリは抵抗せずに赤い腹を見せてひっくり返った。そのままベルトコンベアは左の壁に吸い込まれて、イモリは見えなくなった。グミはもうほとんど流れてこなかった。もしベルトコンベアの上にグミがあったら、ベルトコンベアがあまりに高速で動いているために、その勢いによってすぐに弾き飛ばされてしまうような気もした。
イモリの次に男の目の前に流れてきたのは、誰かの親指だった。切断した、右手の親指。いや、誰かのじゃない。俺はこの指の主を知っている。男は指をひっくり返す。次に流れてくるのは骨だった。白い、カルシウムの塊。誰かがそれを仏の形と形容した、あの変な形の白い塊。それもまた、俺は見たことがある。
今日はブザーは鳴らなかった。真っ白な部屋の照明はいつの間にか暗くなっていた。ベルトコンベアは動き続ける。
骨の後に流れてきたのは、真っ赤な臓器だった。ドクドクと脈打っている。男はその心臓もひっくり返す。
ベルトコンベアは急に速度を落とす。いや、男の脳が極度の集中状態になったために視覚からの情報を精緻に認識できるようになっただけなのかもしれない。いずれにせよ、男にはそのいずれかであるかの判別は出来なかった。
ゆっくりと右側壁から何かがベルトコンベアに載せられて男の方に近づいてくる。
それは、小さな子供のようだった。真っ赤な血で全身が濡れ、ベルトコンベアの上に胡坐をかくようにしている。真っ黒な目だけが男を捉えている。頭髪はなく、手足は極端に短い。生まれたての胎児とは思えない不気味さをもっている。子供はゆっくりと口を開くが、赤黒いだけで歯は生えていない。
「俺を、ひっくり返してよ」
男の両手は不気味な子供に自然と伸びていた。抱き上げるようにその子供の両脇に手を入れ、子供をひっくり返した。
男は悲鳴を上げる。子供も思い切り顔を歪ませて甲高い声をあげて叫んだ。二つの悲鳴が共鳴する。
男の仕事部屋は暗転した。
白い壁の真ん中からふいに継ぎ目が出現し、壁と全く同じ色のドアが開いて、真っ白な防護服のようなもので全身を覆った人が3人、男の仕事部屋に入ってきた。部屋の中には男が一人血まみれになって倒れていた。
三人は男を引きずるようにして部屋から出た。真っ白な部屋と廊下に、男から流れ出た赤黒い血液が跡を引いていった。