9、人生を選択するには
セオの家での臨時家政婦の仕事を終え、レイラは診療所での仕事に復帰していた。
レイラ自身、特に問題なく終えられたと思う。最後の二日間、波風立てず普通に接することが出来た。気まずくなるようなことはなかったし、別れ際も元気でね、と挨拶出来た。
だが、いざ終わってみると実に寂しい。朝、セオの家とは逆方向の診療所に向かう度、彼は元気だろうかと思い出すのだ。
「ねえレイラ、お世話に行っていた軍人ってどんな人だったの? 他の同僚とか紹介してくれないかしら」
「あー、そういえば第二師団のようだったわよ。でも少ししたらベイラーダに行くって言っていたからどうかしら。それよりローズ、ここが分からないんだけど」
どれどれ、とレイラの手元の本をローズが覗き込む。
レイラは臨時家政婦の仕事を終え、ナースの資格を取ることにした。資格を取ることを考えるようになったきっかけは、セオの世話に行っていたことだ。
やはり資格があるのとないのとでは違う。セオの世話だって、手を出せる可能な治療は限られていて、歯がゆく感じていたのだ。
そのため、週に数回の診療所での仕事をしながら夜間学校に通って勉強し、資格試験を受けることにした。
幸い、ぶんどった慰謝料や臨時家政婦の仕事といった、学校に通うための元手は十分ある。
「レイラ、試験に受かったらどうするの? ここを辞めてロレイユ先生と同じ軍病院へ?」
軍病院と聞いてどきりとした。軍病院なら、もしかしたらセオと会う機会があるかもしれない。
だが、心とは裏腹にレイラは首を横に振った。
「ううん、父も戦争が終われば診療所に帰ってくるだろうし、このままでいいかなって。といっても、試験に受からないと」
「レイラなら大丈夫よ」
仕事のある日は週に数日で、その日に授業が重なった時には夕方まで診療所で働き、そのまま自転車で少し離れた夜間学校へ行く。
夜間学校はレイラのように日中働いている大人がほとんどで、大多数が女性だが、一部男性もいる。
その日、レイラが仕事を終えて学校へ行くと、すでに学生が多く集まっていた。
講義室の座席は決まっていない。レイラがどこに座ろうかと見回していると、一番端の席に座る若い男女から手を振られた。レイラも手を振り返してそちらに向かう。
「レイラ、今日は少し遅かったのね。残業?」
「ううん、ゆっくり来ただけ」
「自転車だと寒かっただろう。日が暮れるのが早くなってきたな」
年代はまちまちだが、同じ目的を持った者同士、クラスの仲は良かった。
夜間学校での授業は本来は一年間で、最後の数ヶ月は実務実習がある。ただ、レイラのように病院での勤務経験があれば一部免除されることもあり、レイラは早期の卒業を目指し、半年に一度行われる資格試験を少し早めに受けることを考えている。
皆、目標とする試験は同じだが、そのためのルートはばらばらだ。限られた時間だからこそ、親交を深めるのは早かった。
そしてレイラにとって、この新しい環境での新しい友人たちはとてもありがたい存在だった。
ファレルとの破談の際に、友人は減った。それはレイラが腫れ物扱いされるようになったためでもあるし、ファレルと逃げたのはレイラの友人だったためでもある。
自分の過去を知らない新しい友人。それでいい。
学校を終え、家に帰ると既に父が帰っていた。レイラが帰ってくる時間が分かっていたようで、料理を机に並べ始めている。
最近は父も早めに帰ってくる。むしろ、以前に比べると学校がある分、レイラの方が帰りが遅いことが多いのだ。
「レイラ、無理していないか」
「え?」
これから食事を、というときに神妙な顔で父が尋ねてきたので、レイラは手を止めた。
「臨時家政婦の仕事を終えて、急に資格を取るなんて言い出したから。昼間仕事をして夜に学校に行くなんて大変だろう」
「まあ大変だけど、苦ではないわ」
「無理しなくていい。蓄えはあるから」
なんなのだ、突然。
暗い雰囲気の父の顔を、訝しげに見つめる。
「なんなの、お父さん。死ぬの?」
「し、死なない」
「言っておくけど、蓄えなら私の方があるかもしれないわよ。慰謝料があるんだから。なにかあったの?」
問い詰めるように言うと、父ははあ、と大きなため息をついた。
「今日診た年配の軍人がさー、戦争が終わって退役したら何しようって先を悲観しててなー……」
「は?」
「退役するなんて良いことだと思うだろう? ただその人、婚期を逃して独り身なんだと。だから何もなくなったらどうしようって。それ見たらレイラのことが心配になって。ほら、お前は結婚に失敗しているから」
「は、はあーー!?」
急激に腹が立ち、匙をガチャンと皿に戻す。
酷い侮辱だ。結婚に失敗したのはこちらのせいではないし、きちんと将来を考えているというのに。
「あのね! 確かに資格を取ろうと思ったのは将来のためだけど、でも私は先を悲観していないから! 結婚してもしなくても幸せになれるから! だいたいお父さんの方が、私がいなくなったらしょぼくれたおじいさんになっちゃうんじゃないの!?」
「はああ、どこかに嫁にもらってくれる人いないかね」
「聞いてる!?」
父が全然こちらの話を聞いていないので、むしゃくしゃしてスープをかっこむ。
「そういえばセオさんは、」
「ごほっ、ごほ」
「おい、大丈夫か」
急にセオの名前が出て、動揺して咽込んだレイラは、手元の水を一気に飲み干した。
「大丈夫。なに」
「セオさんはどうだったんだ」
「ど、どうと言われても。別に。家政婦として仕事しただけ。そもそもあの人、女性嫌いでしょう」
「そのようだったけど、レイラとは親しくなっていたようだったから」
「ふーん」
出来るだけ平静を装ったつもりだが、思いの外、喜色の滲んだ声を出してしまった。
気持ちがバレたかと思って父をちらりと見たが、食事に集中している。気付いてはいない。
父から見て、軍病院での彼と、自分の前での彼は違うということだ。自分の前での方が親しげだったということに嬉しくなってしまう。
「ねえ、セオは元気にしている?」
「いや、会わないなあ」
「そう」
セオの家に行かなくなってしばらく経つ。彼の近況を知りたかったが、残念だ。
そういえば以前、女性にもてるようなことを豪語されたこともある。彼は凛々しいし、見た目も良かったので女性に人気だというのは嘘ではないだろう。
他の女性にどのように接しているのか見たことはなかったが、ああいう悪いタイプの男は女嫌いなどと言いながら、たくさんの女性の中から気に入った娘を選ぶのだ。
きっといま、口うるさい家政婦から解放されて楽しんでいるだろう。
そう考えるともっとむしゃくしゃしてきて、レイラは頭をぶんぶんと振り、思考からセオのことを追いやった。