4、牽制したら逆襲
強引に退院し、レイラには一人でも大丈夫だと大見栄を切ったセオだが、実際には身体が動かなかった。
怪我の具合を甘く見ていたことに自分でも気付く。身体が強い方だと思っていたが、怪我には勝てなかった。
それでもセオは見世物小屋状態だった軍病院を出て自宅に帰り、とても安堵していた。
頻繁に入れ替わり立ち替わり誰かが覗きに来ることもないし、自宅にいればとりあえず仕事のことは忘れられる。
軍病院よりははるかに良い。
それに、非常に癪ではあるが、レイラが世話をしてくれることは助かる。
レイラは朝早くから自転車で来て、三食世話をし、夕食後に帰っていく。セオはいまだ動けないため寝室で食事をしているが、レイラは階下の食堂で一人で食べているようだ。
確認したわけではないが、時間ができた時には他の部屋の掃除も進めてくれているようだった。
助かる。大変助かるのだ。
だが、レイラは掴みどころのない女だった。
セオが強制退院して五日、レイラが髭を剃ろうと言い出した。
「邪魔そうだし、不衛生だものね」
「右手が動かないんだが……」
「私がやるから」
他人に剃刀を当てられることを恐ろしく思い、セオは剃刀を持つレイラの手を押さえた。
「嫌だ」
「動いたら切れるわよ」
「嫌だと……!」
拒否したのに、レイラはお構いなしに顔にクリームを塗りたくってくる。突然のひんやりした感触にセオは肩を強張らせた。
「動かないでちょうだいね」
「切るなよ」
この数日、ずっと看病されているものの、顔に手を添えられてセオはどきりとした。
髭を剃るためとはいえ、すぐ近くにレイラの顔がある。その瞳が自分と同じ琥珀色であることにセオは初めて気付いた。
なんだかいたたまれなくなり、ぎゅっと目を閉じる。
しばらくの間、吐息がかかりそうなほど近くにいるレイラの空気感と、しょりしょりという音を聞きながら、セオは身を固くしていた。
「痛っ」
ぴりっとした痛みが頬に走り、切れてしまったことが分かった。薄目を開けてレイラを睨むと、目の前の傷害犯は苦笑している。
「ごめんね、後で軟膏を塗っておくから」
それからまたじっとしていたが、「終わったわよ」という言葉に一気に脱力し、息を吸った。無意識のうちに息を止めていたらしい。
渡されたタオルで顔を拭うと、随分とさっぱりした。怪我を負って入院してからずっとそのままだったのだ。
「まったく、切ったな」
「人の髭を剃るのって難しいのねえ」
全く悪びれず、飄々とセオに軟膏を塗ったレイラは、すっきりしたセオの顔を見てぱっと顔を綻ばせた。
「あら、髭がないとずいぶん若く見えるわね!」
「念のため言っておくが、余計な気持ちは抱くなよ」
牽制するとレイラは露骨に呆れた顔をしたので、セオも眉を寄せた。
だって、本当だ。はっきり言って、軍病院では大人気だった。無精髭が生えていたって、ナースや入院患者が代わる代わる色目を使ってきたのだ。昔から女といえばすり寄ってくるばかり。
「セオ、ずいぶんと自意識過剰ね。いけすかない」
「君に正しい忠告をしただけだ」
「だいたいね、態度が良くないわ」
「はあ?」
反論されて腹が立ったセオは、レイラをじろりと睨みつける。こっちは荒くれ者の軍人を束ねている立場の人間なんだぞ、と力で怖がらせてやろうか。
だが、レイラは怯まずセオに指を突きつけた。
「セオ、よく考えて。私の雇用主はあなたの上司なのよ。そうすると、あなたと私の関係は? 考えてちょうだい」
「は……?」
まただ。レイラが来た日も、男女の違いについて哲学的な問いを投げかけられた。
知らん、と無視してやろうと思ったが、目の前のレイラが強い目で見つめてくる。仕方なく頭の中で関係図を広げる。
レイラの雇用主、つまりレイラの上司と自分の上司が同じ。
それが誰なのかは聞いていないが、直属の上司ならメイヤー将軍だろう。ロベルトがメイヤー将軍に自宅療養を報告して、家政婦をロレイユ軍医に依頼した可能性は考えられる。早期復帰のために。
同じ上司の部下ということ。つまり。
「──まさか、同僚だと……?」
「そうよ! 同じ上司の部下同士なんだから、私とセオは同僚でしょう」
「はあ??」
「あなた、同僚にもそんな態度なの? 同僚なんだからそれなりの敬意を持って接してほしいわね」
同僚、と言われて考えたセオだが、同僚に対してもレイラに対しても、接し方はほぼ同じだと思った。
なぜならレイラが始めから不遜な態度だったからだ。軍病院のナースに対しての方が、まだ丁寧に接していたように思う。
「……いや、同僚に対しても、レイラに対しても、同じだ」
「ええ?」
レイラはそれが気に入らなかったようだが、ふと、表情が緩くなる。
「……まあ、いいわ。初めて名前で呼ばれたから。これからは、おい、とか、君、とかで呼びかけるのはやめてちょうだい」
セオはいま自分が無意識にレイラを名前で呼んだことに気付いた。
そのまま剃刀の入った桶を持って部屋を出て行こうとしたので、思わず呼び止める。
「名前で呼んでしまったが、勘違いするなよ!」
するとレイラは心底呆れた顔をして、「はいはい」とだけ言って出て行った。
なんなのだ。こちらの方がパワーバランスが上でありたいのに、レイラが相手だとどうもうまくいかない。
セオは大きく息をついて目を閉じた。
♢
「疲れが出たんですかね」
髭を剃ってから数日して、セオは熱を出した。様子を見に来たロレイユ軍医は胸の音を聞き終わると、聴診器を鞄にしまう。
怪我による発熱ではない。風邪を引いたか、それとも溜まった疲れが出たのだろうと言った。
「レイラ、頼むね」
「分かったわ」
ロレイユ軍医が帰宅した後、レイラが準備した夕食は消化の良いリゾットだった。最近は普通の食事もとれるようになっていたのに、また病人食に逆戻りだ。セオは食欲がない中、早く回復しようとなんとか食べ切った。
その後、レイラは寝室の長椅子に薄手の毛布を持ち込んでいた。始めに来た日は泊まり込んだようだが、普段、レイラは夕食が済んだら自転車で帰宅しているのだ。ひょっとして、今夜泊まり込む気なのだろうか。
「レイラ、泊まり込みで看病してもらうほどのことはない。帰れ、もう遅い」
「今夜は一応泊まるわ。具合悪そうだから」
「しかし……」
断りかけたところで急に頭がぐらついて、吐き気がきた。身体を丸めて口元を押さえるセオに気付いたレイラは、水を張っていた桶を差し出す。同時に背中を優しくさすられた。
「……大丈夫だ、気にするな」
「吐いてしまった方が楽になれるわよ」
「しかし、そこまで世話になるわけには」
「大丈夫。お給料をもらっているんだから。今夜の残業代もきちんと請求するし。お金が発生しているんだから気にしないでいいのよ」
そう言われて、セオは急に気が楽になった。
レイラは仕事の上で世話をしてくれているのだから、見返りを求められることはないのだ。世話をしてもらうことに罪悪感を覚える必要はない。
少し気分が落ち着いて、セオはレイラの手を借りてベッドに横になった。冷たいタオルで額を拭われて気持ちが良い。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「……残業代も、夜間手当もきちんと雇用主に請求しろ。掃除とかもしてくれているんだろう。俺の上司を破産させるくらい請求してやれ」
レイラは笑って、「そうするわ」と言った。
その日の夜、熱のためかセオは昔の夢を見た。まだ実家にいた時の夢だ。
夢の中の子どものセオも熱を出して寝込んでいた。
昔は熱を出しても、そばには誰もいなかった。両親ともに軍で働いており、なかなか家にいなかったのだ。セオには妹がいるが、たった一人で辛い身体に耐えることも何度もあった。
夢の中では珍しく母が看病してくれていた。だが、仕事のことを気にしているのは明らかだった。忙しいのに、自分が体調を崩したので休みを取ってくれたのだろう。
早く、治さなければならない。
早く、熱を下げて、大丈夫だよと言って、母を仕事に送り出さなければ。
早く──
次の朝、目が覚めるとベッドからずいぶん離れた寝室の壁際で、レイラが長椅子に丸まって寝ていた。
熱は下がったようで、頭も軽い。ベッド脇の水差しに手を伸ばすと、その物音でレイラが目を覚ました。
「調子はどう?」
「大丈夫だ」
「良かったわね」
それから朝食の用意をしてきたレイラは、セオの前に皿を置き、同じものが載った皿を自分の膝に載せてベッドの横の椅子に座った。
「……一緒に食べるのか?」
「だって、お腹空いちゃったし」
そう言うとさっさと食べ始める。普段は自分が食べるのを世話した後に階下で食べているようだが、今朝は待てなかったということだろう。
セオも胃が驚かないようにゆっくり食べ始める。幸い、昨夜の吐き気も収まっていた。
「……レイラは何故、この仕事を? 他の仕事をしていたんじゃないのか?」
気になっていたことを尋ねると、レイラは目を丸くして果物をごくんと飲み込んだ。
「診療所でナース見習いをしているけど、父経由で依頼を受けたのよ。前に言わなかった?」
「しかし、その仕事を休んでまでやるようなことじゃないだろう、なにか理由が?」
「ま、近いし、それから給料が良いから」
「は? 他には?」
セオは気になるのだ。こんな、素性を知らされていない男の看病に来るなんて、なにか思惑が、または本当は素性を知っていて下心があるのではないかと思ってしまう。本当に、給料が良いからだけなんだろうかと。
しつこく問うと、レイラはうざったそうに鼻にしわを寄せた。
「なんなの、しつこいわね。三歳児の『なぜなに期』なの? セオちゃん」
明らかに馬鹿にしたその態度に、セオは少しほっとする。レイラから、裏の思惑は読み取れない。
セオが反発してくると思ったのだろう。予想外に満足そうなその様子に、まだ熱が出てきたのではないかと、レイラはセオの額に手を乗せた。




