3、思考の海に溺れろ
朦朧としていたセオを横たえて布団をかけてやり、レイラは一息ついた。
苦しそうに浅い呼吸をしていたが、痛み止めが効いてきたのか、いまは落ち着いている。
窓は開けたが埃は相変わらずひどい。だが、掃除は明日以降でもいいだろう。
数時間前、レイラは父に渡された地図の家を時間通りに訪ねた。その際、ドアベルを鳴らさずとも中に入れた。玄関の扉が開いていたからだ。
薄く開いた扉には旅行鞄の取っ手が挟まっており、玄関先はたくさんの荷物で占領されていた。
こぢんまりした家の中は埃っぽく、長いこと使われていないことが明白だ。
つまりこの家主は久々に帰ってきて、とりあえず玄関に荷物だけ置いたのであろうことが分かった。
「どこに行ったのかしら」
酷い怪我をしていると聞いている。どこかに行くのは難しいはずだ。
レイラが一階をきょろきょろと見回していると、二階へ続く階段の手すり部分だけ埃が削ぎ落とされているのが分かった。ここを登って行ったようだ。
二階は暗く、熱気も溜まり空気が淀んでいる。
レイラは目的の部屋をすぐに見つけた。ここも扉が開いたままだった。
そして扉の先で、ベッドに倒れた怪我人を発見した。
死んでしまっているかと思ったが、小さく呻いたのでほっとする。
おそらく彼が家主のセオなのだろう。近寄って、うつ伏せの肩を優しく叩いた。
「もしもし、大丈夫?」
すると彼はうーん、と呻いた。しかし大丈夫ではなさそうだ。
レイラは階下で見つけていた電話へと走り、軍病院に電話をかけた。この時間なら父はまだ病院にいるはず。
予想通り、父につながり、すぐに来るというのでレイラは電話を切った。
それから父が来るまで窓を開けたり、呻くセオの服を緩めてやったりして待った。こういったとき、資格がないため治療が出来ないのがもどかしい。簡単な世話しか許されないのだ。
到着した父はセオを見て一言、「やっぱりなあ」と呟いた。
二人でセオを介抱し、治療の手伝いをしていると、セオはうっすらと目を開けた。父を見て呻く。
「……軍医?」
「ええ。腹の傷が開きかけているから、熱が出そうですよ。一人手伝いを置いていきますから、休んでくださいね。レイラ、頼むね」
レイラは頷いたが、セオは分かったのか分かっていないのか、ぼんやりとまた目を閉じた。
明日来ると言って父は近くの自宅に帰った。その晩、レイラは寝室にある長椅子で仮眠をとり、看病してやることにした。やはり熱が出てきてしまい、セオは時折うなされていた。
次の日の昼頃になってようやく、セオは目覚めた。
まだ頭ははっきりしていないだろうに、警戒心丸出しの視線で自分を睨み付ける男に、さすが軍人、体力がある、とレイラは感心した。
セオの様子から、彼が目の前にいる自分を敵か味方か判断しようとしているのであろうことが分かった。
怪我をした野生動物を保護したような気分だ。野生動物相手なら、よしよし、どうどう、怖くないよと宥めるべきなのだろうが、目の前にいるのは成人男性。
自分は別に、敵でも味方でも野生動物保護職員でもないので、鋭い視線を躱す。
体を横たえるセオに水を飲ませると、レイラのその手をセオは強くつかんだ。
「……君は何者だ」
「家政婦よ」
「家政婦を雇った覚えはないが」
「あら、そう」
つかまれた手を優しくほどき、水を足しに行こうと部屋を出るレイラの背中に「おい!」と声がかかる。
「水を足しに行くだけよ、すぐに戻りますから」
水を汲んで部屋に戻ると、セオはまだギラギラとした目で睨んできた。その瞳の色が自分と同じ琥珀色であることにレイラは気付いた。
怪我人だというのに元気なことだ。アッシュの髪は目にかかるほど長くぼさぼさ。無精髭も生えて恐ろしい雰囲気を醸し出している。
「具合の悪いところは?」
「全部」
「大丈夫そうね」
グルルルと唸りそうな顔で唇を噛むセオに、濡れたタオルを差し出してやる。彼は動く方の手でそれを受け取って乱暴に顔を拭いた。
「君が何者か知らないが、もう来なくていい。一人で大丈夫だ」
「死にかけていたのに?」
「女に世話してもらうほど弱っていない」
「ええ? 弱っているかどうかはともかく、なぜ私が女だと?」
意味が分からなかったようで、セオは一瞬ぽかんとした。
「……は?」
「なぜ私が女だと思うの? 私はあなたの体を見たから、男性なのかなと思ったけれど。あなたは私の体を見ていないでしょう」
セオが理解出来ていないのが分かったので、レイラはそのまま続けた。
「女の服を着ているから? でも服の中身は分からないわ。それに中身を見たって、体の作りの違いだけで男か女か分けられるの? それはなぜ?」
「…………は??」
謎かけされたセオは何もない空中を見つめ、眉を寄せている。今の問いに頭を働かせているのがレイラにも分かった。
──そうだ、考えろ、考えろ。怪我しているんだから、余計なことで興奮するんじゃない。
セオが思考の海で性について考察し始めたので、その隙に宙に浮いた手からタオルを回収する。それからまた部屋を出てタオルを洗い直して戻った。
セオはレイラが外している間に答えを出したようだ。
「俺は外見で性別を判断する。まず第一に、君は女服だ。それから俺は力が強いから、君の性別を力ずくで確認することも出来るぞ」
「そんなこと出来るかしら?」
にやりと笑ったレイラが包帯の巻かれた右腕を優しくぺちりと叩くと、セオは「きゃあ」と悲鳴を上げた。
見た目から想像も出来ない悲鳴に、思わず笑ってしまう。
「まあ! 女の子みたいな声が出せるのね!」
一気に疲れたような表情になったセオは、肩を落としてベッドに背をもたれ込んだ。諦めたように大きくため息をつく。
「……君は一体どうやってここへ?」
「え? 自転車だけど」
「……いや、そうではなくて……」
げんなりといった様子のセオに、通勤手段ではなく雇用について問われていることに気付いた。
「ああ。あなたが軍人で、セオと呼ばれていることだけ知っているの。よく分からないけど、機密性の高い仕事をしているのでしょう? あとは何も知らないわ」
「……誰に言われてここに?」
「父だけど、雇用主はあなたの上司だと。だから私を解雇することはあなたには無理よ。上司に言って」
その言葉にセオはしばらくぶつぶつと考えていたが、あ、と何かに気付いた。
「ロレイユ軍医の娘ということか?」
「ええ。レイラといいます。あなたが一人で動けるようになるまでの家政婦の予定で、父は一ヶ月くらいと」
「なるほど」
一応セオは納得したようで、うんうんと頷く。先ほどまでの粗暴さは薄れ、理性的な軍人の顔になった。
「女は嫌いだが、確かに俺は動けないので誰かに世話になるしかない。条件を出す」
「は?」
「余計な客は通すな。それから家政婦としての仕事に留めろ。余計なことをするな」
上から目線の態度とよく分からないその条件に、レイラはカチンときた。
軍人は真面目で浮気しないだろうかなどとローズと話をしたが、それ以前の問題だ。いけすかない。
「セオ、要望は一応聞いたけど。判断するのは私よ。あなたは私の雇用主じゃない。怪我人なんだから私の言うことを聞いてちょうだい」
反論されると思っていなかったようで、セオは不満気に片眉を上げた。気に食わなかったようだが、お互い様だろう。
ムッとしたセオが口を開こうとしたところで、開いている扉が遠慮がちにノックされた。
振り向くと、軍病院帰りの父だった。
「失礼、具合はどうかな?」
「ロレイユ軍医、失礼ですがお嬢さんはちょっと問題がある」
「セオの方が問題があると思うわ。そんなので重要な仕事が出来ているのかしら?」
「なんだと!?」
口論になりそうな二人を「まあまあ」と抑え、間に入って鞄を下ろした父はセオを診察し始める。
「約束ですからね、しばらくは大人しくしていてください、しだ……セオさん」
何か言いかけたのは彼の本名だろうか。レイラは聞こえなかったフリをした。
「分かっている。さっさと治さなければならないからな。軍医、引き続きよろしく頼む」
「ちょっと、私は?」
セオが無視したので、レイラは腹が立って鼻をふんと鳴らした。