2、逃げた男
「師団長、お加減いかが?」
良くない。
「セオ様、検温しますね」
つい三十分前にしたが。
「具合どうですか、師団長。報告書ここに置いておきます」
読めるわけないだろ、いちいち来るな。
「まあ、汗をかいているわ、拭きますね」
汗などかいていない。
「セオ、具合はどうだ」
「あー! もう無理だ!!」
ずっと我慢して黙っていたが、最後の慣れ親しんだ声に、セオは大声を上げた。
「無理だ! もう無理! こんなところにいたら治るものも治らない。どいつもこいつも寄ってきて。お前も!」
吠えるセオに、ベッドの側に立つ男はくっくっと笑う。
「僕は、マクアイバー師団長の具合がどうかなと思って見舞いを」
「嘘だ、面白がって見に来たんだろう。それか、早く復帰しろという催促だ」
「後半は当たりだ。上層部が早くセオを復帰させろと言っている」
うんざりしたセオは枕に頭を押し付けた。
目の前にいる男は第一師団長のロベルトといい、セオの同期だ。
「セオが抜けたから僕の方にまで仕事が降って来るし、それに人を回してくれと言われるし」
「今まで王都でぬくぬくと過ごしていたんだから少しは動け」
セオが机の上の水に包帯の巻かれた手を伸ばそうとすると、それに気付いたロベルトが手伝う。礼を言って口の中に水を含むと、まだ血の味がした。
軍は第一師団から第六師団まであり、ロベルトは第一師団、セオは第二師団の団長を務めている。第一師団は王都で王族たちの警護に当たる、いわば近衛隊だ。
セオの率いる第二師団は戦場で戦う、精鋭揃いのエリート軍である。人数も多く、腕っぷしが強くて気性の荒い者ばかり。とはいってもいま第二師団が駐屯しているのは北方ベイラーダのみ。
「治るのにどのくらいかかるの?」
「軍医は二ヶ月はかかるだろうと」
「そんなに」
はあ、とロベルトが嘆息する。
仕方がないだろう、とセオは自分の体を見下ろした。右腕、右足は折れ、腹には弾がかすった傷。少しずれていたら危ないところだった。生きていただけ運が良かった。
「別に俺がいなくたって和平交渉はやれるだろう」
「交渉はね。でも交渉するにあたって、セオがいないとお偉方が不安なようで」
「ちっ、腰抜けが」
おおよそ、会談に出席する必要のある国王やその周辺が言っているのだろう。権力者は目立つところに出るのは好きだが、そこが危険であることを極度に嫌う。
直属の上官であるメイヤー将軍が調整してくれればいいのに、あの人は事なかれ主義だ。
しかしそうは言っても、ベイラーダにおいて隣国との和平交渉が始まろうかという直前にセオらが襲撃されたので、情勢が変わる可能性はあった。現時点では膠着状態が続いていると部下から聞いている。
「どうでもいいが、俺はもう退院して家に帰る。手伝え」
「何言ってるの、無理に決まっているよ。おとなしく寝て」
呻きながらセオが身体を起こすと、ロベルトが慌てた様子でそれを止めようとした。
すると個室の扉が開き、白衣を着た軍医が入ってきた。
「おっと、師団長、どうされたんですか?」
「帰る」
「無理ですよ!」
ロベルトと軍医の二人で取り押さえられて、セオはベッドに戻った。わずかに動いただけで息が上がってしまっている。
「……分かった、帰らないから、女をこの部屋に入れるな」
「とは言っても看護がありますからねえ、それは。師団長は凛々しいですから彼女たちが構いたくなるのも気持ちは分かります」
へらりと笑う軍医をじろりと睨みつけると、軍医はそっぽを向いた。
セオは女性から人気があることを自分でも分かっていた。身体は鍛えているし、見目だって昔から褒められることが多い。
だけど、動けないときくらい放っておいてほしい。
「……じゃあ、家では大人しくしているから、ロレイユ軍医が診に来てくれ」
「私が?」
指名された白衣の軍医はきょとんと目を丸くした。それを見たセオは頷く。
「家が近いだろう、確か。じゃなきゃ、夜中にここから逃げ出して勝手に帰る」
「ええー……」
逡巡したロレイユ軍医だが、セオの眼光に射抜かれて渋々納得した。くれぐれも家では動かないように、と注意して。
それからセオは枕元に置いていた部下の報告書の白紙部分を適当にびりびりと破ると、そこに自宅の地図を書き込む。
「ロレイユ軍医はあの街の診療所から来たんだろう。俺の家はここだ」
ぐしゃぐしゃの地図を渡すと、ロレイユ軍医はそれをそのまま白衣のポケットに突っ込んだ。
「今日は無理ですよ、さすがに。明日……も無理だな、明後日にしましょう」
「僕が車で送ってあげるよ」
「軍用車は嫌だ」
贅沢言うな、と笑ったロベルトに肩を叩かれ、身体に走った痛みにセオは呻いた。
♢
セオが率いる第二師団がベイラーダに駐屯し始めたのは約一年半前だ。
その当時は他の地域も戦場となっていたため、第二師団の一部の隊は他の地域にも派遣されていたが、大部分は最も重要なベイラーダにいた。
ベイラーダは要塞都市で、攻め込まれる危険性は少ない。しかし寒さが厳しく、冬が長いために、その生活は大変だった。
隣国も、要塞からかすかに見える場所に拠点を構えており、そこに軍事力を集めているという情報は入っていた。ベイラーダが落とされてしまえば、王都までに障壁はない。ベイラーダは国の重要地点なのだ。
にらみ合いは続き、小競り合いは頻繁に起きたものの、大規模な戦闘になったことはない。
そのうち、他の地域では隣国との交渉が進み戦火が収まってきて、ベイラーダでも軍部同士の和平交渉を始めようかと模索し始めた。
セオが軍本部と王族へ説明と打ち合わせに行くため、ベイラーダを離れようとしたときのことだ。
要塞から出てきた車を張っていたのか、セオの乗った軍用車は襲撃に遭った。
隣国の手のものかと騒ぎになりかけたものの、捕まった犯人は近郊の武装勢力だった。自国にも隣国にも属そうとはしない、周辺地域のならず者。
だが、結果としてセオを含む数名が怪我を負い、王都の軍病院に入院したのだ。幸い死者は出なかった。
俺としたことが、と臍を噛みイラつくセオは、入院生活にさらにイラついた。
ナースたちがべたべたと寄ってきて、入れ替わり立ち替わり体に触っていく。血圧を測るだの、検温だのと、頻繁に。
国の重要人物が入院するとなって騒ぎになるのを避けるため個室に配置されたものの、病院関係者の配慮は意味がなかった。
休んで寝る暇もない。同時に部下たちも報告やら相談やらで部屋に来るものだから、セオは落ち着くことが出来なかった。
挙句、上官からはいつ治るんだと急かされる。散々だ。
とにかくもう帰りたい。
一応、ロレイユ軍医との約束通り、二日間は大人しくしていたセオは、夕方になって手伝いに来たロベルトに身体を支えてもらいながら軍病院の個室を出た。
「ちょっとセオ様! 逃げるおつもり!?」
通りかかったナースが慌てふためき、他のナースも呼ぶ。
見つかったことにセオは舌打ちした。ナースたちにバレないようにいなくなろうと、退院することは秘密にしてもらっていたのだ。
「逃げるのではない。退院するんだ。ここでは治るものも治らない」
「逃げるつもりじゃないの!」
ナースだけでなく、入院している一般患者もきゃあきゃあと集まってきてしまったので、セオとロベルトは急いで正面玄関に止めた軍用車に乗り込んだ。
「軍用車は嫌だと!」
「わがまま言うなって」
ロベルトの運転する軍用車で自宅前に着き、荷物だけ玄関で下ろしてもらった。
「ありがとう、ロベルト。あとは大丈夫だから」
「本当? 僕は会議だから行かなきゃいけないけど……、何かあったら電話してくれ」
大きな軍用車が住宅街に止まったので、通行人が驚いた顔でこちらを見やる。だから軍用車は嫌だったのだ。目立つから。
セオはベイラーダに行く前にこの家を買った。
家を探してくれた軍の関係者に、出来るだけ目立たず、地味で普通の家を、と注文をつけた上でだ。
いらぬ恨みは買わないようにしているが、軍人だとなにがきっかけで敵視されるか分からない。
実際、セオはこの家にほとんどいなかったので、第二師団長の自宅だとは知られていないだろう。
軍用車を見送り、杖をつきながらよろよろと扉を開いて中に入る。とりあえず玄関に荷物を置いておき、寝室を目指した。
一年半ぶりにほとんど住んだことのない家に入ると、空気がもわりとこもっていた。換気したいが、その元気はない。
誰も住んでいなかったのに、至るところに埃がしっかりと積もっており、歩くたびにふわふわと舞う。
足元のおぼつかないセオは、軍用車に乗っていた頃から腹の傷が気になっていた。じくじくと痛むのだ。
急いで出てきたので傷が開いてしまっただろうか。
痛みを堪えてゆっくりと階段を上がり、寝室を開ける。セオはもうなにも考えず、広いベッドに倒れ込んだ。
その拍子に大量の埃が舞い、気管に入って強く咽せ込む。
「うっ、ったー……」
咽せ込むと腹の傷がずきりと疼き、出来るだけ咳き込まないように身体を丸くした。
明日にはロレイユ軍医が来てくれるはず。それまでとりあえずは身体を休めればいい。
そう考えるセオだが、痛みによって額には脂汗が浮かび、身体を休めるどころではない。
腹が痛い。
でも、もう身体も動かせない──
そのとき、寝室の扉が開く音が聞こえた。
心配したロベルトが戻ってきてくれたのだろうかと、遠のきかけたセオの意識が浮上する。
しかし、予想とは違う声が部屋に響いた。
「あら、死んでる!!」
まだ死んでないと言いたかったが、弱い呻き声しか出せなかった。