10、考えても答えの出ない問題
一方、仕事に復帰したセオは、レイラの申し出を断ったことを猛烈に後悔していた。
家政婦の仕事が終わっても来てあげようか、と言ったレイラ。あれは一歩進んだ関係になれないか、という意味にも取れた。
ただ、はっきりは分からない。単純に、一人だと大変だろうから手伝ってやろうかという親切心かもしれない。
しかしセオの心が揺らいだのは事実だ。
レイラの申し出の意図をはっきり読み取れなかったため、セオは反射的に断ってしまった。それに、もし一歩進んだ関係を示唆されているとしても、懸念があった。
自分の素性を明らかにしていないのだ。
もし第二師団の師団長であることが明らかになったとしたら。
レイラは萎縮して今まで通り接してくれなくなるだろうか。それとも、逆に擦り寄ってくるのか。
どちらの彼女も見たくない。
いずれにせよ、肩書きを知って今まで通りというわけにはいかないのではないか。
もし関係を進めるのであれば、自分の素性を明らかにしなければならない。
しかしセオは今の居心地の良い関係のまま、いい思い出で終わらせた方が良いのではないかと考えたのだ。
だが、実際に彼女がいなくなると、一人の家はとてつもなく寂しい。
朝起きても階下には誰もいない。買い物に行っても感想を言う相手もいない。休憩中に新聞を読んでいた姿もないし、食事も一人。
「セオ」
怪我をする前まではずっと一人だったのだ。なのに、レイラがしばらく家にいたことで、すっかり人恋しくなってしまった。
「セオ」
レイラのことを好きかどうかと言うと、まだよく分からない。
だが、もう少しレイラと一緒に過ごしたかった。こんなことならもう少し継続してもらえば良かったのだ。
それに彼女の願い事は──
「マクアイバー師団長!」
「うわっ!」
呼びかけられていたことに気付かず、セオは大声に反応してようやく我に返った。
軍の執務室の自席に座ってぼんやり考えていたら、入口から上司に声をかけられていたのだ。
「上の空だな」
「少し考え事を。何か?」
「和平交渉の会談日程を調整しろ」
メイヤー将軍は汚れ一つない真っ白な封筒を放ってよこした。
それを開くと、便箋には長々とタイプライターで打たれた文章が綴られている。ざっと読むと自分の名前も記されていた。
「隣国からだ。公式なものではなく、裏からのものだが。交渉を再開出来ないかと」
ベイラーダにおける隣国との和平交渉を進めようとしていたところで、セオは襲撃を受けた。
そのことは隣国にも知られており、手紙の中では気遣う文言もある。
「ずいぶん急いでいますね」
「君たちを襲った武装勢力、あそこが力を伸ばしてきている。隣国の方でも対応に苦慮しているようだ。早くうちと手を組んで平定したいという狙いもあるらしい」
ふうん、と適当に相槌を打ち、読み終わった便箋を封筒に戻した。
敵の敵は味方、といったところか。
いずれにせよ、さっさと和平交渉を進めてしまった方が良さそうだ。
「まずは裏ルートから接触して話を進めろ。陛下たちの都合は後調整でも構わない」
「分かりました」
メイヤー将軍は踵を返して部屋を出て行こうとしたが、何かを思いついて足を止めた。
「そうだ、君の世話をしたロレイユ軍医の娘から請求書が来たが、どれだけ拘束したんだ。かなり高額だったぞ」
「ああ、将軍を破産させるくらい請求しろと言ったんで」
「ふん、一部は第二師団に付けてやるからな」
セオが肩を竦めると、メイヤー将軍は靴を鳴らして今度こそ部屋を出て行った。
♢
復帰したばかりなのに、各所との会議や隣国との和平交渉へ向けた調整でセオは忙しくなった。
ベイラーダにおける和平交渉はおおよそ一ヶ月後に行う方向で進めている。ベイラーダに国王、近衛である第一師団の上層部、それからセオたち第二師団が集まり、隣国との会談を行う。
その間、王都が空っぽにならないよう調整も必要だった。
その日、関係者の会議を終えたセオは、第一師団長のロベルトに呼び止められ、一緒に昼休憩を取ることになった。
軍部には大きな食堂があり、セオたちのような師団長も新兵も同じところで食事をする。
セオとロベルトは同期なので、昔から一緒に過ごしていた。今でも食堂で顔を合わせることは多い。
さすがに、メイヤー将軍はその立場になってからは食堂にはやってこない。
セオとロベルトが食事の乗ったトレーを持って席に着くと、近くにいた若手軍人たちは会釈をしただけで、特に驚いたりはしなかった。いつもの光景だからだ。
セオの向かいに座ったロベルトは、問題なく食器を使うセオの右手を見て小さく頷いた。
「復帰おめでとう、セオ。もう身体大丈夫なの?」
「ああ、問題ない。退院時は世話になったな」
「いやいや」
それからロベルトは卓上のピッチャーに手を伸ばし、コップに水を注ぐ。ついでにセオのコップにも水が注がれた。
「あの家政婦の子はもう来なくなっちゃったわけ?」
「ああ。もう一人でも大丈夫だから」
「なあんだ、可愛かったのに」
水を飲むロベルトがあっさりと放った言葉に、セオは固まった。
書類を持ってきたとき、レイラとは一瞬しか顔を合わせていなかったはずだが、と思い出す。
「あれはだめだぞ。ロレイユ軍医の娘だ」
「知ってるよ。後から聞いた。でも独身でしょう?」
「独身だが……、お前はそういうのではないだろう」
ロベルトは王族に仕える近衛隊だけあってとにかく見た目は良いのだ。しかし、その見た目を最大限利用して好き放題していることは有名だった。
基本的には夫と別れた女性や、時には既婚者のこともあるが、後腐れないような相手を選んで遊んでいる。
将来を考えるような若い未婚女性を相手にするようなことはほとんどない。
「そうだけど、でも僕もそろそろ身を固めないとと思うことも──」
「だめだ」
思いの外、低い声が出た。だが、レイラを相手にするのは、だめだ。
セオに睨みつけられたロベルトは、彼の急な変化にきょとんと目を丸くしている。
「レイラはだめだ。あの子はお前が遊び半分で手を出していい相手じゃない。他にいるだろ」
「彼女と付き合っているの? セオ」
ロベルトの言葉にセオはぐ、と言葉に詰まった。
会話を漏れ聞いていた周りの部下たちが驚きの様子でこちらを見てきたので、じろりと睨みつける。
「付き合っていない」
「へえー、でも他の男を寄らせたくないくらいには気に入っているんだ」
「違う。お前だからだ」
「僕じゃなかったら、じゃあ彼は?」
隣に座っていた若い新兵を適当に示したロベルトはにこにことしている。
一方、指差された新兵はぎょっと目を剥いた。
「知らん、とにかく、お前はだめだ」
「セオ」
ロベルトは急に顔を近付けてきた。
その顔は楽しそうで、周りの部下たちに聞こえないように声を落とす。
「他のやつに渡したくないと思う異性。セオ、それは、好きということだよ」
「……違う」
「違わないね。どうするの? もう会うことなくなっちゃったんでしょう?」
「……俺は北に行かなければならないし、構わない」
言葉に反して、きつく眉を寄せ苦い顔をするセオを、ロベルトは呆れたように見つめる。
「北から帰ってきて、彼女が別の男のものになってたらどうするのさ。後悔しない?」
「……しない。もうこの話は終わりだ」
つまらないと言いたげなロベルトは、ふうん、と呟いて食事を再開した。
セオは正直なところ、レイラが他の男のものになったとして、自分がどう思うかを正確に想像できなかった。
嫌だと思うだろうか、それとも祝福できるだろうか。
次の男は本当に彼女を大切にするだろうか、と少し心配にもなる。でもそれは辛い過去のある彼女に対する同情かもしれない。
いずれにせよ、もう接点もないので会うことはないのだ。




