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1、逃げられた女

「レイラ、やっぱり無理だ」


 隣に立つ男のその言葉を聞いたとき、レイラは「えっ、いま?」と思った。


 ここは教会の祭壇中央、目の前には司祭。純白のドレスを着た自分の隣には、たったいま、夫になったはずの人。


 夫になったはずの人──新郎の右手には白く一筋の乱れもない羽ペンが握られており、祭壇上の婚姻書類にちょうど名前を書き終えたところだ。

 その紙にはレイラの名前も記載されている。彼の前に同じ羽ペンでサインしたのだ。

 あとはこれを司祭に渡すだけ。


 小さな呟きは司祭とレイラにしか聞こえず、しかし動かなくなった新郎がどうしたのだろうと、列席者たちは首を伸ばして前方を見る。


 すると彼は突如、羽ペンを強く持ち直し、たったいま記入した紙にぐしゃぐしゃと書き殴った。


 ぎょっとした司祭とレイラを尻目に、新郎は紙切れと化した婚姻書類をぐしゃりと握り潰し、レイラの手を払って列席者の方を振り返る。

 それから感情たっぷりに一人の女性の名を叫んだ。


 彼の言葉に反応し、レイラ側の列席者の一人が立ち上がった。

 彼女は目に涙を浮かべ、口元を手で押さえて震えている。その涙は悲壮ではなく、歓喜だ。


 新郎は彼女に駆け寄って手を取り、二人はバージンロードを逆走して教会を出て行った。



 一連の出来事が非現実的すぎて、「映画のエンドロールが流れそうだな」とレイラは頭の中で考えていた。


 これは彼らのラブストーリーなのだ。

 結婚の決まったヒーローと、彼を好きなヒロイン。ヒーローの結婚相手はヒロインの友人で、結婚式真っ最中にヒーローはヒロインを選ぶ。そして教会から二人で逃げるのだ。

 手を繋いで走る二人が涙を浮かべながら見つめ合うシーン、きっといまここがクライマックスだろう。豪勢な音楽が流れるはず。


 であれば、自分もクレジットに名前を載せてもらわねば。最高の助演女優なのだから。

 レイラは冷めた頭の中で画面に映る自分の名前を想像し、はっと我に返った。



 二人が逃げた一瞬、教会内はぽかんと静寂に包まれたものの、すぐに新郎側の親族が逃げた二人を追いかけて行った。

 新婦の唯一の親族である父は唖然としている。

 もちろん、このスキャンダラスな状況を楽しみ、ひそひそと笑い合っている人たちもいた。


 レイラがすぐ隣にいた司祭に目をやると、彼はなにかを探して祭壇を見回している。


「ちっ、羽ペン持って行かれた!」


 舌打ちした司祭の言葉を聞いて、レイラは「えっ、そこ?」と思った。



 ♢



 隣国との戦争が始まったのは二年前。だが、じきに終わるであろうことは新聞や国の発表で皆予想していた。

 現在、燻ぶっているのは北方ベイラーダ地域の国境のみで、他の地域は平定されて復興が始まっている。

 実際に戦うことはほぼなくなったものの、復興も軍部の仕事だ。いまだ睨み合いが続くベイラーダとその他の地域の戦後処理を抱え、軍部は人手不足らしく、常に求人を募集していた。


 レイラが結婚するはずだった男は、ファレルという。

 彼は郵便の仕事をしていたが、より収入を得るために軍の情報員の臨時職員に応募し、採用された。結婚式を待ち、転職するのだ。


 軍への採用が決まった後、ファレルはレイラにこう言った。


「レイラ、結婚して軍に行ったら楽に生活させてあげるからね」


 そして教会から逃避行し、親族に捕まった後の彼は、こう話した。


「軍に行ったら死んでしまうかもしれないから、本当に好きな女と添い遂げたい」


 正直なところ、レイラもその気持ちを分からないでもなかった。

 だって、死んでしまうのかもしれないのだったら、残されたわずかな時間くらい、本当に好きな人と過ごしたい。当然だ。


 ただ、ファレルが働く予定の情報員の臨時職員は、戦場には行かない。

 彼がする予定の仕事は、王都の軍部で復興地域へ補給物資の手配をすることで、王都に近いこの街からは通いで行くことが出来る。「死んでしまう」可能性は限りなく低い。


 さらに、彼がそもそも軍の臨時職員に応募したのも、別に自分のためではないことにレイラは気付いていた。

 収入がいまよりも良いことは確かだが、レイラは働いていたし、生活の高望みはしていない。

 彼は自分に箔をつけるために、軍に行ったという実績が欲しいのだ。見栄のため。


 だが、レイラは特にそれを指摘しなかった。別に危険な仕事でもなさそうだし、本人がそうしたいのであればそれでいい。自分は彼の楽天的な性格が好きなので、特に文句もなかった。



 つまるところ、彼は浮気相手と盛り上がって逃げ出し、それらしい言い訳を並べているだけだった。

 せめてもっと早く言ってくれれば良かったものを。


 レイラは恋愛結婚しようとした結果がこのようなことになりがっかりしたものの、慰謝料をたんまりもらって、彼をリリースすることにした。

 あとはもう知らない。好きにしてくれればいい。



 レイラは週に数回、街の診療所でナース見習い兼、事務員の仕事をしていた。

 医師であるレイラの父はもともとこの診療所で働いていたが、腕が良いと評判になり軍部に呼ばれ、王都の軍の病院に軍医として勤めている。

 レイラは結婚して仕事を辞めるつもりだったが、そのまま診療所の仕事を続けていた。


「ねえ、レイラ。ファレルたちを今朝も見たわよ。よくこの近くを歩けるわよね」


 レイラが備品を数えていると、ナース仲間のローズが憤慨した様子で隣の棚を開けた。

 ナースには資格が必要で、それにより出来る治療が異なる。レイラは資格を持っていないが、ローズは有資格者だ。

 姉御肌の彼女はレイラの境遇に深く同情し、裏切り者を酷く軽蔑していた。


「彼は軍部で働いているし。遠くに行くのは難しいわ。それに気まずいのは向こうの方よ」

「そうだけど」


 恋愛映画のようなあの出来事から数ヶ月。

 ファレルたちは結婚して隣町で暮らしていると人づてに聞いていた。

 レイラは当初予想していたほど怒りがわいてこなかった。周りの人たちが代わりに怒ってくれたからだ。


 人それぞれではある。ファレルたちに共感し、真実の愛を貫く彼らを見守る人。結婚式中に花婿に逃げられた花嫁に同情する人。

 レイラは前者の方が多いのではないかと思っていたが、そうでもなかった。特に、レイラの周りにいる同年代の女性はファレルたちを強く嫌悪したのだ。


 ある意味、レイラはそれに救われた。堂々としていればいいと言ってくれる彼女たちのおかげで、腫れ物に触るような視線も気にならない。


「そうだ、北方からマクアイバー師団長の一行が帰ったみたいなのよ。軍人がたくさん王都に戻ってきているだろうから、出会う機会が欲しいなあ」

「そうね。軍人なら浮気しないかな、真面目だと思う?」


 レイラが自虐的に茶化すと、ローズは笑って肩を竦めた。

 最近になって異性と交流するような誘いを受けることも増えた。だが、さすがにレイラはまだ行く気になれない。恋愛は当分いい。


「レイラ、ちょっといい?」

「っ、はい」


 ため息を漏らそうとしたレイラはそれを飲み込み、医師に呼ばれて部屋を出た。



 ♢



 その日、いつもより遅く帰ってきた父は疲れた様子だった。

 レイラは母を早くに亡くし、診療所近くの住宅街で父と二人暮らしをしている。二人暮らしには少し広い食卓で、父はレイラの出した紅茶を一気に飲み干した。


「どうしたの、お父さん。忙しかったの?」

「……そうだなあ。レイラの方は仕事はどうだ」

「変わりないけど」


 ファレルに逃げられた時にはずいぶんと父を落ち込ませてしまったが、数ヶ月が経ち、落ち着いてきたように見える。ただ、改めて仕事のことを確認されたのは初めてだ。


 父は食堂の入口隅に放置していた鞄からくしゃくしゃの紙を取り出した。ふいに、ファレルが握り潰した婚姻書類を思い出す。


 だがそれは婚姻書類ではなく、汚い手書きの地図だった。


「悪いけどレイラ、しばらくの間、別の仕事を頼まれてくれないか」


 レイラは地図を覗き込んだ。自宅から診療所方向ではなく、反対側にまっすぐ行った場所に家が描かれている。その家には矢印が示されていた。


「別の仕事って?」

「期間限定の家政婦」

「家政婦?」


 父は頷いて、地図を指差した。


「一人、怪我を負った軍人がいるんだけど、病院が嫌だと騒いでここに帰ろうとしている。結構な怪我で。ただまあ止めても聞かないからとりあえず退院させようかと思ってね」

「世話をしろってことね?」


 父はまた頷いた。


「治療には私が通うから、お前には身の回りの世話を頼みたくてね。雇用主はその怪我人の上司で、給料も出すと言っている」

「まあ」


 提示された金額は確かに高額だった。診療所の仕事よりも割が良い。ただ、レイラは考え込むフリをした。


「うーん、悪くはないけどもう一声」

「分かったよ、もう少し出してもらうように伝えておく」


 レイラは心の中で舌を出した。

 もらえるものはもらっておいた方が良い。金は裏切らないのだから。


「診療所には明日伝えて、明後日から頼む。まあ一ヶ月もすれば動けるようになるだろ」

「なんて人?」


 その軍人の名前を問うと、父は首を振った。


「機密性の高い仕事をしているもんだから、教えられないんだ。ただ、セオ、と呼ばれているからそう呼べばいいよ」


 了承したレイラはしわになっている地図を手で伸ばして、綺麗に畳み直した。


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