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妄想論

なろうの多重構造

作者: とびうお君

 なろうには矛盾があると感じている。それには分析的に捉えるのが今回有効だと思う。1つ1つ段階を追っていけばそれは矛盾ではなくなる。以前から感じていたのは、マニアックな部分を持つくせに妙に大衆的だって点。突っ込んで言うならそれは今のオタク的だと思う部分がある。


 昔のオタクはマニアだった。興味がない人からはどっちも変わらないだろうが、今のオタクに比べて質が高かったと思う。専門家としての素人とか区別するような部分を昔のオタクは持っていた。今のオタクはダメだと言うわけじゃないが、今のオタクは非オタクとそう変わりが無い。


 ライトオタクなんて言葉があるが、まあこれはそうじゃないと思う。新しい世代のオタク像が素人と区別がつかない程度のものでしかないって意味になってる。コアヘビーが多分高い年齢にしかいない。層と言うより世代間ギャップっぽくなりつつある。じゃ全く変わらないか?と言うとそうでもないんだ。それがなろうの矛盾に見える部分と似ているとなる。


 分けて考えていけば矛盾ではなくなる。第一の段階として以前からずっと書いてるが気軽に楽しめるものが第一段階になる。ただこれ注意点がある。実際は分析的にできない部分がある。傾向のレベルになってしまう。後の段階と影響しあう。まあただ傾向としては分けて考えればいい後で話す。


 この第一段階に手を付けようというのが私のライトノベルSになる。私だってあの方向性が成功するなんてほとんど思ってない。その理由としてなろうのマニアな部分を無視してるからになる。


 悲劇がマニア的なのか?と言うとそうでもない。それにこれにまた映像作品や絵による漫画だと傾向になってしまう形になる。大きくざっくり分類分けが出来ない。この点は厄介だが大まかにはまあ気軽な作品が多数派を占める。後これに性別も絡む、男性と女性じゃ全く傾向が違う。女性は敢えて悲劇を見ているところがある。


 ただじゃ女性相手ならこれまでの手法が通用するのでは?と言うとそうでもない。よりややこしいことになるので考えるのが面倒なので女性受けは無視して考える。恋愛部門は女性ファンが多いはずだったが、恋愛ジャンルと言うよりなろう全体のザマァジャンルになりつつあると見てて、あれはある種のジャンル詐欺だと見ている。


 だってなろうの外の恋愛もの見ててそんなストーリー運び数多くある?おかしいでしょ?恋愛ジャンルが侵食されてるだけであれは真面目に考えるだけ無駄だと思う。


 ザマァは気軽に楽しめるのか?なら多分。これはちょっと難しい話になる。勧善懲悪も含めて多分何故か?は分からないが、気軽に楽しめるものになるんだと思う。


 じゃ何故現代ものでそれやらないの?となる。うーん、うーん、その点は単純じゃないかと思えてくる。やり方によっては受けると思う。ただ相当差別化しないと無理だと思う。マニア要素が加わることによってそれほど純粋に気軽にする必要がなくなる。それは、勧善懲悪やザマァもその中に入るんだと思う。


 私が考える気軽さな現代ものとは、ブログの日記みたいなもので良いと思ってる。実はこれ問題があって長期連載のストーリーの流れを作れない。でも逆にストーリーの面白さを考えていくと駄目だこれ無理だと分かる。勧善懲悪は苦しいとしてもザマァ程度なら確かにマシだとはわかる。


 だからあくまで気軽に近いって意味合いが大きいが実際やるとなると、多分無理。だが手を付けるとするとそこが一番いいとだけ分かる。例えば犯罪者として取り締まるとかしなくても、マウント取って上から目線で説教ぐらいでも良い。どちらにしろ差別化した設定や周りの部分が重要になる。


 次の段階に移ろう。なろうではファンタジー世界が重視される。これがマニアになる。じゃファンタジーならなんでもいいのか?そこで私の言った第一段階が見えてくる。ファンタジー作品の中でもいろいろはじかれてしまう。


 なろうは何故似たようなものばかりなのか?で作者が原因であることもがあるが、読者の方も問題なんだ。襟好が強すぎて大半のタイプが読む前から面白い面白くない判断する前にはじかれてるからだ。最初から読まれないものを読まれたいと思ってる作者が書くわけがない。じゃ読者のせいか?と言うとそうだと言い切れない点で確かに単純に模倣しすぎる。両者の相互作用でできてるんだと見ている。


 省いてしまった部分に戻るが、ザマァってのは、好みで見てもらえるからある程度気軽さが重視されないが、それでも限界があってそこで異世界ファンタジーならなんでもいいのか?と言うとそうでもない。ファンタジーって全体の円に気軽さって大きな重力みたいなものがあって、読者をそっちに引っ張てると思えばいいと思う。その結果異世界ファンタジーの円の中で読者が偏って存在することになる。


 現代を含めた物語全体では気軽さだけで見ればいいが、異世界ファンタジーって円の中だとそういう単純な見方にならない。


 さて次の要素に移る。俺TUEEEとかハーレムとかは何?になる。これはさらに細分化されるというよりは、もっと大きなベクトルがあると見ている。それは水源さんが語った制御欲求だと思う。はっきり言うとそんな感情客観的に有名じゃないと思う。そんな言葉あるの?私は知らない。心理学とかであるのかな?とにかく専門的な言葉じゃない。なろう読者を端的に表す動機みたいのを言葉にするとそうなると見ている。


 思い通りにコントロールしたい欲求って感じだと思う。物語で言うならご都合主義と相性がいいと思う。じゃご都合主義では?いや作者にとってのご都合主義が読者にとって都合がいいか?は別だから。ご都合主義ではないが相性はいい。作者が読者の都合に合わせてくれればいいから。


 これが重要になるのはなろうは、マニアがさらにマニアになって細分化された好みになっていくから。ただのファンタジーじゃ受けない。気軽さは細分化するものじゃない。もっと大きな枠にあるものになる。そのためなろうはマニアックな性質を持つのに妙に大衆的な傾向を示すと見ている。


 だがファンタジーの中のマニアなのか?と言うと、確かに制御欲求はファンタジーの中に納まるものじゃない。ただ大衆的ではないんだ。読者がマニア的になって目的化する。ファンタジーと恋愛物が合体してる様なノリだと思う。円と円が重なるみたいな。当然現代ものでもそういった制御欲求は満たせる。


 じゃ何故それを提案しないか?と言うと、人が少ないからになる。なろうの嗜好性を分散させるのが目的なのにそれが出来ないから。次に最大の目的として、ファンタジーと重なってるからそれが出てくるだけで現代ものでそれを求めてると全く思ってないから。都合の良い世界を作り上げるのに現代社会は都合がよくない。


 あくまでファンタジーって円の中にあるさらなるマニア化が制御欲求だと見ている。ええーっと、異世界ディズニーランドと言う要素をなろうは持っていてこれも水源さんのテーマパークに語られている。その部分は制御欲求とは関係がない。ファンタジーの中にも細分化されたマニア的に襟好するもの分かれていく。


 多分このテーマパークも現代もので可能だと思う。ただどちらにも言えるのだが、それを現代社会でやるのは多分難しい。読者が倭じゃなくて作者側がらみてファンタジーと言う枠内になってしまってるんだと見ている。


 なろうが何故同じような作品なのか?で矛盾した部分はこの辺りになると思う。大衆的な襟好とマニア的な襟好が混ざってるからで、分けて考えれば矛盾には見えない。

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