第142話
私達は海面を見下ろしながら進んでいた。前も後ろも水しか見えない。
もっと綺麗な光景だろうと思っていたんだけどね。
いや、綺麗な光景であることには違いないけど、雪が降っては海水の中に消えていく様は、
綺麗さよりも自然の過酷さを私達に見せつけているみたいだった。
何かの間違いが起こって落ちたら死んじゃうかも。
漁村に辿り着く時も寒いだなんだ言ってたけど、あの時の自分がどれほど甘かったか、
今更になって思い知ってる。
マイカちゃんですら、私の腰をぎゅっと抱いて寒さに耐えていた。
吹き荒ぶ風は決して優しくない。
雪と磯の香りを孕んだそれは容赦なく私の顔面に吹き付けて、なんていうかもう寒いっていうか痛い。
「さすがの私も、これはちょっと辛いわ」
「だよねぇ……」
幸いなのはクーが元気なことだ。
ノームさんに寒冷地に強い子と言って紹介してもらった子なんだから、当然といえば
当然かもしれないけど、想像していたよりもずっと平気そうな顔をしている。
時折、背中でじっと凍えている私達を心配そうな声をあげる余裕も見せている。
「この先にある大陸で人が暮らしてるって、にわかには信じられないね」
「そこはほら、赤い柱の影響なんでしょ。ランが言ってたじゃない」
「それにしてもだよ。大陸の中央に位置してるんでしょ? 辿り着く前に死んじゃいそう」
「私達は真っ直ぐ進めてるからまだいいけど、流された人達はあの海を移動してるしね」
「そうそう、それ」
オオノは家が嫌になって海に出たらしいけど、よっぽど嫌だったんだろうな。
この寒さの中、海を越えて見知らぬ土地を目指すなんて。
生半可な覚悟じゃ飛び出せないと思う。
文字通り命を懸けてルーズランドを後にしたオオノの気持ちを考えると、ちょっと悲しくなった。
私みたいに自分が生まれ育った街の為に旅をする人もいれば、オオノみたいに
故郷を捨てる為に旅に出るという選択肢を選ばざるを得ない人もいる。
みんな、なんかいい感じで幸せになれたらいいのにね。
なんかいい感じってなんだよって感じだけど。
「ラン、あれ見て」
「え?」
私の後ろからひょこっと顔を出したマイカちゃんが何かを指差している。
目を凝らすと、陸地のようなものが見えなくもない。
「ルーズランド……?」
「だといいわね。何かの手違いで漁村に戻ってきただけなら……」
「やめて。あんなこと言って離れた村に「もう一日泊めて下さい」なんて言いたくないよ」
なんてコメディだ。
絶対やだ。
クーは少しスピードを上げる。体力も問題ないようだ。
体力を付ける木の実をおやつで与えてきたおかげか、クーは高度を下げることなく、
前へと進み続けてくれた。
目の前に見える光景が幻である可能性も考慮して、私はあまり期待しないようにして
手綱を握っていた。
あんまり期待するとね、気のせいでしたってなった時に、脱力して海に落ちちゃいそうだったから。
というか、ルーズランドに辿り着いてもまだゴールではないんだ。
地上という名のスタート地点に立つだけ。だってずっと寒いままだもん。
疲れたら休めばいい。だけど、寒いのはね……休んでも止まらないからね……。
「本当に陸地っぽいわね」
「陸に着いたら、とりあえずクーを休ませてあげよっか」
それからほどなくして、私達は海面の上ではなく、雪原の上に影を落としていた。
周囲に人気がないことを確認してから、クーに「降りていいよ」と伝える。
まずはマイカちゃんが地上に立ち、私も後に続く。
着地したところの雪が深くて、足首くらいまですっぽりと埋もれてしまった。
目測を見誤ったものの、転倒は免れたので良しとしよう。
いや全然良くないけど。
「さっっっっっっっっっっっっむ」
「とんでもないところに来ちゃったわね……」
鞄からマントを取り出すと、腕に抱えて小さくなっているクーを呼んだ。
私の腕の中に隠れるように収まったクーをマントで包んでやる。
気休めかもしれないけど、ここまで私質を連れてきてくれたクーを出来る限り労ったつもりだ。
「クーを休ませることには賛成だけど、まさか集落まで歩くつもり?」
「しょうがないよ。珍しいものは狙われるって言われたじゃん。
クーが危険に晒されるなんて、私は嫌だよ」
「……物だけじゃなくて生き物も狙われる可能性があるのね」
「うぅん、分かんないけど。用心するに越したことはないよ」
マイカちゃんはそうねと呟いて、雪原の向こうを見つめていた。
吹雪の中、彼女の視線を辿ると、今の私達でも歩いていけそうなところに黒い何かが見える。
洞穴のようだ。
私達はそこを目指して歩いた。
あれだけ離れた位置から穴が視認できるということは、私達が入って休むくらいの
スペースはあるだろうと思ったから。
「……奥行きはそんなにないけど、風はしのげそうだね」
「寒さって、体力を奪われるのね。もう一歩も歩きたくないわ」
「とりあえず吹雪が止むまではここにいよっか」
私達は腰を下ろして、携帯燃料を鞄から出す。
ユーグリアで買ったもので、本来は調理に使用するみたいだけど、
暖を取るアイテムとして、長時間燃焼する大きなものをいくつか仕入れてきてあったのだ。
設置した燃料にクーが小さいまま火を吹いて着火すると、ぶわっと辺りが明るくなった。
暖かいけど、熱源がこれだけしかないと思うと少々心許ない。
もちろん、贅沢は言えないけど。
「ねぇ、私達。死ぬ?」
「やめて! それ結構リアルだから!」
私は慌ててマイカちゃんの残酷すぎる素朴な疑問を打ち消すと、交代で睡眠を取ることにした。
辿り着いたばかりのルーズランド、私達はまだ吹雪と雪原しか見ていない。